第12話 きっと、届く
ポストを開けた瞬間、風が少しだけ強くなった気がした。
白い封筒。海外の消印。
見慣れた筆跡。
みゆは封筒を胸に抱えたまま部屋に戻ると、 机の前に座り、ゆっくりと封を切った。
中から出てきた便箋には、いつもよりも少しだけ崩れた、アルの文字が並んでいた。
「みゆさんへ。お元気ですか。わたしはだいじょうぶです」
みゆの心はざわついた。
その「だいじょうぶ」が、 どこか不自然に見えたのは気のせいではなかった。
「この国では、いま少し、さわがしいことがあります」
「でも、わたしは、あの時のあなたの言葉を思い出して過ごしています」
「そして、手紙と一緒にいれてくれた、絵を見ました」
みゆの指先がわずかに揺れた。
送ったあの絵。震える手で、封を閉じたあの夜のことを思い出す。
ちゃんと、届いていたんだ──その安堵が、遅れて胸に広がった。
「描かれていたのは、私の国でしたね。あなたはまだ、この国に来たことがないのに、本物のように美しく描きました」
「この絵を見て、私は思いました。この国を守りたい、と」
「あなたにもらった光を、わたしは忘れていません」
最後の一行を読んだ瞬間、みゆの胸がどくんと高鳴った。
そしてまた──会いたい。
その四文字が、何の前触れもなく浮かんでくる。
これまでに何度も胸に響いた言葉なのに、今日の「会いたい」は、どこか少し違っていた。
今、手紙だけじゃ足りない気がした。
*
次の手紙が届いたのは、雨の降る朝だった。薄い封筒は、ポストの中でしっとりと湿っていた。
部屋に戻って、みゆはタオルで封筒をそっと拭いてから、静かに開いた。
「みゆさん、元気ですか。わたしはすこし、つかれています」
冒頭のその一文に、心が波立った。
「この国には問題が、たくさんあります。 国の未来について、よく考えています」
「あなたがあなたであることは、何よりの光です」
「あなたの光を思い出すたび、 わたしも、間違わないようにしたいと思います」
手紙の内容は、決して暗くはなかった。しかし、どこか「迷い」がにじんでいた。
——大丈夫。 そう言い切れない何かが、
アルの言葉の隙間にあった。
みゆは、手紙を読み終えると、しばらくじっとしていた。
「……助けたい、なんて……思っちゃだめなのかな」
小さな声で、つぶやいた。
でも、なにか伝えたい。 ただ元気でいて、というだけじゃなく。
——あなたのそばに、心はあります。
そんな言葉を、どう綴ればいいのだろう。
みゆはノートを開き、ペンをとった。
まだ言葉にはなっていなかったけれど、 伝えたい気持ちはそこにあった。みゆは机に向かい、ひとつ深呼吸する。
机の上には、ノート、辞書、そして真っ白な便箋。手元には、まだおぼつかない文字で書き留めたエルヴェーニュ語のメモが並んでいる。
(正しく書けてるかな……)
何度も辞書を引きながら、みゆはペンを持ち直した。
《Solévien à vous ——》
あなたへ。
ゆっくりと、でもためらわずに、最初の一行を綴る。
筆跡がやや震えていても、それは自分の手で書いた、初めての「彼の言葉」だった。
——本当に伝えたいことを、彼の言葉で届けたい。
その想いだけが、みゆを動かしていた。
文章の組み立てには時間がかかった。単語の順序も、時制も、不安だらけだった。それでも、手を止める気にはなれなかった。
「……これで、伝わるかな」
そう呟きながら、彼女は一行、また一行と書き進めた。
《Nozèlien lar tave suel》
——わたしは、いまもあなたを思っています。
《Calethian mor adarève…》
——言葉はつたなくても、どうか、届きますように。
ページの終わり近くになって、みゆは、ふっと息を吐いた。
そして、最後に一文。
《Nolivianne lar riell…》
「いつもあなたと、ともにあります」
その一行に、自然と力がこもった。
インクが、便箋にじんわりとにじんでいく。その染みさえも、彼女の真っすぐな気持ちのように見えた。
書き終えたとき、みゆの胸は、どこかすっきりしていた。会えるかどうかもわからない。返事が来るかも、わからない。それでも、この言葉は、いまの自分にしか書けなかった。
(きっと、届く。あなたに、あなたの心に)
みゆは便箋を折り、封筒にそっと入れた。それは祈りであり、約束であり、彼女自身の歩みの証だった。
——また、きっと。
そのひとことが、静かに胸の奥で響いていた。