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第10話 悔しかった

 日差しが、地面に濃い影を落とす。アスファルトには、電柱の影がはっきりと焼きついていた。

 遠くで蝉の声が重なって、耳の奥にじわじわとしみていく。


 もう、すっかり夏だ。


 みゆは、トートバッグを肩にかけて歩いていた。


 通信制高校に通う彼女には、決まった制服も登校時間もない。 だから今日この道を歩いているのは、自分の意志だった。


 今日はスクーリングでもテストでもない。 ただ、自分で決めた日。図書館へ行こうと朝、目が覚めてそう思った。


 もう、手紙を待つだけじゃない。自分の足で、どこかへ向かっていいのかもしれない。


 図書館の自動ドアが開くと、クーラーの冷気と ひんやりとした静けさがみゆを包みこんだ。

 本の匂いと、誰かが静かにページをめくる音。


 みゆは、静かに歩き出した。


 図書館の閲覧席にいると、ふと気配に気づいた。



「みゆちゃん、だよね?」

 声をかけてきたのは、はるなだった。


 「うん」

 みゆの顔はぱっと明るくなった。


 あの日、偶然図書館で再会したことがきっかけで、それから少しずつ、会話を交わすようになっていた。


 はるなと話せるようになったこと。そのことは、みゆにとって大きな一歩だった。


 「カフェ、行かない?」

 「……いいね、それ」


 ふたりが移動したのは、図書館の近くにある小さなカフェ。


 はるなは「最近あっついよねー!」と手をパタパタさせて、みゆは「ほんとにね」と笑った。


 カフェオレを飲みながら、はるなは尋ねた。

 「みゆちゃんって、何するのが好きなの?」


 みゆは一瞬だけ迷って、それから、正直に答えた。


「……絵を描くのが好き」


「ええ!どんな絵、描くの?」


「……アニメっぽい絵かな」


 ——アニメの話を誰かにするのも、絵を描いていることを話すのも、たぶん、はじめてだった。

 少しの沈黙のあと、はるなが言った。


「ねえ、みゆちゃんの絵……見せてもらってもいい?」


 みゆは少しためらったが、バッグの中から小さなスケッチブックを取り出す。

 ページをめくって、ロゼのラフ画を一枚、そっと差し出すと——


「……なにこれ、めっちゃうまい!!!」


 はるなが、声を少しだけ上擦らせて言った。


「え、これほんとに描いたの? すごい……! え、なにこの線、きれい……」


「……う、うん……」


 みゆは、目を伏せて、手元のカップをじっと見つめた。


 褒められることに慣れていない自分が、

 変なふうに浮いてしまわないように。


 でも、胸の奥がふわっとあたたかくなるのを感じていた。


「みゆちゃん、絶対その道いけるよ。っていうか、行ってほしい!」


 スケッチブックを覗き込みながら、はるなが目を輝かせて言った。その無邪気な言葉に、みゆは一瞬だけ、息を呑んだ。


「……えっ、ほんとに?」


「うん。これ、好きってだけのレベルじゃないよ。プロの絵じゃん」


 照れくささに頬が熱くなるのを感じながら、みゆは、はるなの顔をそっと見た。あたたかなまなざしがそこにあった。


(仕事にする……わたしが?)


 そのとき、ふいに思い出したのは、アルの声だった。


 ——とても、美しいロゼですね。


 スマートフォン越しに届いた、やさしい文字。あのとき、はじめて「誰かに認めてもらえた」気がして、胸がじんとした。


(アルも……もし、見てくれたら、喜んでくれるかな)


 想像してみる。自分が描いたキャラクターが、画面の中で生き生きと動いて、それを、アルが見て「あなたが描いたんですか」と目を細める姿を。


「……アニメーターとか……なれたら、いいかも」


 ぽつりと漏れた言葉に、はるながすぐに反応する。


「えっ、いいじゃん!向いてるよ絶対! 応援する!」


 言いながら、はるなは笑って親指を立てた。まだ自信なんて全然ないけれど、みゆは胸の奥に小さな光が灯るのを感じていた。





 その夜、部屋はいつもより静かだった。テレビをつけたのは、暑くて眠れなかったからだった。


 リモコンのボタンを押して、なんとなく流していたニュース番組。そして、画面の左上に浮かんだ文字が、みゆの心臓を凍らせた。


 《エルヴェーニュ公国 王室批判デモ激化》

 一瞬、息を止めた。


 目の前の画面が現実感を失い、ぼんやりと音だけが聞こえてくる。


「……王室の過度な支出に対し、抗議活動が続いており……失業率の上昇や、生活困窮者の増加が拍車をかけ——」


 ニュース映像の中で、プラカードが揺れていた。

 怒声、押し合う群衆、警備隊の列。


 その奥に映るのは、どこか遠い国——エルヴェーニュ公国。


 重厚な王宮の門の向こうに、アルがいる。そう思うだけで、胸がぎゅっと痛んだ。


「現在も混乱は続いており——」

 テレビから流れる翻訳されたナレーション。


 しかし、その背後で響いていた、現地の人々の叫びは、みゆにとってはただの音でしかなかった。


 ——わたしは、彼の国の言葉すら知らない。


 それが、どうしようもなく悔しかった。


(こんなに、会いたいと思ってるのに)


 SNSも使えない。この情勢では、手紙でさえ、ちゃんと届けられるか分からない。


 それでも——会いたい。話したい。ちゃんと、言葉で向き合いたい。


 だからみゆは、決めた。


「……エルヴェーニュ語、勉強しなきゃ」


 その決意は、ほとんど呟きのような声だった。でも、胸の奥に灯った光ははっきりとした輪郭を持っていた。


 翌日、図書館へ足を運び、資料をかき集め、ページをめくり、ノートを開く。


 初めて目にする文字。

 発音しにくい母音。

 意味がとれない文の構造。


「『lar』は『あなたと』……『riell』は『いつも』……」


 でも、何度でも繰り返した。


(アルに、会いたい)

(ちゃんと、わたしの言葉で話したい)


 それだけが原動力だった。


 眠る前、ひとつでも多くの単語を覚えようと、真っ暗な部屋でノートのページを指でなぞった。


 遠くから祈るだけの日々は、もう終わりにしたかった。


 そうしてみゆは、ひとつひとつ言葉を積み重ねていく。


 そのすべては、いつか、彼に届く「たったひとこと」のために。

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