第1話 私の光は決して消せない
「私、負けない。私の光は、決して消せない!」
小さなスマホの画面の中で、ロゼが拳を握りしめて立ち上がる。
淡いピンクの髪が揺れて、目の奥に火が灯るみたいだった。
そのセリフが、胸の奥にぽとんと落ちた。
部屋に、日が差し込んでいる。机の上には使いかけの色鉛筆と、開いたままのスケッチブック。
みゆは、息を飲むようにアニメを見つめていた。
何度も観たはずの『CUTIE ROSE』。それでもこの回だけは、胸がきゅうっとなる。
「自分の光を信じる」という、まっすぐで、ちょっと子どもっぽい言葉。でも、それが、まぶしくてしかたない。
——どうして、あんなふうに、自分を信じられるんだろう。
みゆはいつも、言葉に詰まってしまう。伝えたいことがあるのに、うまく話せない。そんな自分が大嫌いだった。
通信制高校に進学してから、友達ひとり作れていないのも、当然のことだ。
画面が暗転して、エンディングが流れはじめた。
そのとき——ふと、通知がひとつ届いた。
「とても美しいロゼですね」
「アル」という人からの、たったひとことのDMだった。
昨日、ロゼのイラストをSNSに投稿した。「#CUTIEROSEファンアート」。
反応がなくてもいいと思っていた。誰かに見てほしい気持ちは、胸の奥にしまったままにしておいた。
それなのに——知らないアカウントから届いたそのコメントは、思いがけずあたたかかった。
スマホの画面をもう一度見つめる。何度も読み返しては、胸の奥に波紋が広がっていく。
みゆはもう一度スマホを手に取る。画面を閉じても、言葉は残っていた。
差出人の「アル」。アカウントのプロフィールは空白で、投稿件数もゼロ。
「あやしい人……なのかな」
でも、なぜか返事をしたいと思った。
みゆは、椅子の背にもたれた。窓の外では洗濯物が風に揺れている。
返信、どうしよう。
スマホを開いて、閉じて、また開いた。
「……なにやってんだろ」
誰もいない部屋に、小さく声が漏れる。
画面に映るのは、返信用の白い入力欄。カーソルが、無言で点滅を繰り返している。
その小さな点滅に、自分の鼓動が重なった。
タップ音が、妙に響いた。みゆは、画面をにらんだまま、そっと息を吐いた。
「ありがとうございます。ロゼは、私の大好きなキャラクターで。」
「アルさんも、ロゼが好きなんですか?」
画面に「送信済み」の文字が表示される。指先が少しだけ熱かった。
間違えたかも、って思う前に、スマホを伏せる。返事は来ないかもしれない。
でもいまは、それでもいいと思った。
メッセージが届いたのは、午後三時。
カーテン越しの光が、部屋の奥に淡く伸びていた。
スマホに通知が点いた瞬間、心臓が弾んだ。
画面を開くと、そこにアルの名前。
そして、短い返信がひとつ。
「はい、ロゼが好きです」
「あなたの絵を見て、とても嬉しかったです」
「もしよければ、また話してもいいですか?」
“また話してもいいですか”
その言葉を、目でなぞるたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「話してもいいですか」なんて、こんなふうに聞かれたのは、初めてだったかもしれない。
ふと、机の上のスケッチブックに目がいく。まだ仕上げきれていないロゼの表情。
まっすぐな目線が、今の自分に向けられているような気がした。
返信を書こうとして、スマホを両手で抱えた。言葉を選ぶのに、前ほど時間はかからなかった。
「もちろん。わたしも、またお話したいです」
打ち終えたメッセージの行間を見て、少しだけ背中が温かくなる。
送信を押したあと、スマホを伏せた。そのままベッドの上に座り込んだ。
スマホの通知が鳴る。アルからの返信だった。
時間はまだ夕方前。予想よりも早い反応に、みゆの手がわずかに止まる。
「ありがとうございます。あなたとロゼについて話したくなりました」
それだけの内容だった。
短い。けれど、嘘じゃないとわかる。
画面を通して、言葉の熱が伝わってくるようだった。
「そんなふうに言ってもらえて、うれしいです」
みゆは打ち終えた後、すこしだけ悩んでから、最後に一文を足す。
「ロゼのセリフ、ほんとうに好きなんです。
『私の光は、決して消せない』って——すごく、強いですよね。」
送信。
文末の「強いですよね」という言葉に、自分が誰かに問いかけるような文を書いたことに気づいて、みゆはすこしだけ笑った。どんなふうに答えるのか、知りたくなった。
やりとりはまだ短く、慎重で、互いの距離も遠いままだ。
それでも、いまはこの静かな往復が、自分の世界に小さな穴をあけてくれている気がする。
この会話が、明日も続いていればいいのに。そう願いながら、みゆは画面を閉じた。
朝、部屋のカーテン越しに、やわらかな光がこぼれていた。
みゆは布団のなかでスマートフォンを手に取った。
通知がひとつ、画面の上に浮かんでいる。
「アル」からだった。
眠気の残る目で、指先を滑らせる。
「はい、ロゼは強いです。第3話のシーンが大好きです」
思わず、小さく吹き出した。まじめで、ぎこちなくて、まるで外国語の直訳みたいだ。
でも、ひと言が胸の奥をあたためてくれる。
「共感してくれたんだ……」
自分の感じたことに、誰かが頷いてくれる——それが、こんなにもあたたかいなんて知らなかった。
それ以降、アルからのメッセージは、いつの間にか、みゆの生活に溶け込んでいった。
あいさつ、天気、何気ないやりとり。けれど、最後はいつも『CUTIE ROSE』の話で盛り上がった。
メッセージは途切れることがなく、まるで何年も前から知っていた相手のようだ。
でも、アルのメッセージはときどき、ふしぎだった。
たとえば、こんなメッセージ。
「今日こちらは雨です。石畳に雨が弾く音がします。すこし落ち着きます」
「……石畳?」
返信を打ちかけて、指が止まる。
「石畳? もしかして、旅行中ですか?」
「いいえ、わたしの家のまわり、全部そうなんです。歩くと、雨が跳ねて、靴が濡れてしまいます」
みゆは首をかしげた。なんだか、おとぎ話みたいだ。
また、別のある日。
「ロゼの複製原画、買いました。思ったより、安いですね。作り手のことが心配になります」
5万円もするのに?とみゆは画面を三度見した。
そのまた、別の日。
「そういえば、日本の『まんいんでんしゃ』というのは、本当にぎゅうぎゅうなのですか?」
みゆは、思わず目を丸くしてから、小さく吹き出した。
「ぎゅうぎゅう」という言葉が、なんだか一生懸命変換されたような、不思議な響きだった。
返信を打つ前に、画面を指でなぞる。
その質問が、本気なのか、それとも冗談なのかを少し考えてしまう。
「ほんとに、ぎゅうぎゅうです。ドアが閉まらないくらい押し込まれることもあります」
そう返してから、みゆはスマホを仰向けに寝かせて天井を見た。
「アニメの演出だと思っていました」
という続きに、
「息は……できますか?」
という一文があって、みゆは今度こそ笑ってしまった。
「息は、かろうじてできます」
そう返しながら、胸の奥に、ふと小さな疑問が浮かぶ。
——本当に、この人、日本のことを知らないんだな。知らなさすぎるくらい、何も知らない。
でもその「知らなさ」が、彼の見ている世界の広さを、かえって感じさせた。
知らない場所。知らない感覚。
それを、やわらかく想像できるのは——アルという名前が、画面の向こうにいるからだ。
彼のメッセージは、「知らない誰かの世界」をのぞくための、やさしい窓だった。