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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
番外編
66/68

保護者の仮面の下で

「澪に、ハンググライダーを使えるようになってもらおうと思う」

 悠人が書斎を訪れると、執務机で待ち構えていた剛三にいきなりそう告げられた。澪と遥に怪盗ファントムをさせるという話になったときから、いずれ必要になるだろうと思っていたので驚きはしない。ただ、遥と一緒ではなく澪だけというのは少し意外に感じた。

「例の山小屋を手配すればよろしいですか?」

「ああ。ただしコーチは雇わない。おまえが教えるのだ」

「承知しました」

 例の山小屋とは橘が所有しているコテージのひとつで、悠人と大地が中高生のころ、趣味でハンググライダーの練習をするために使っていたところだ。当時はその度ごとにコーチを雇っていたが、今回は怪盗ファントムのために習得するのだから、部外者に協力を仰ぐのはできるだけ控えるべきだろう。

「期限は三日間。意味はわかっておるだろうな?」

「はい、どうにか三日で仕上げてみせます」

「そっちは言うまでもないが、もうひとつあるだろう」

 そう言われても悠人には思い当たることがない。少し難しい顔になって考えを巡らせていると、剛三が執務机でゆったりと両手を組み合わせ、意味ありげな微笑を浮かべながら言葉を継いだ。

「三日間、澪と二人きりだ。昼も夜もな」

 予想もしなかった発言に、悠人はその場に立ちつくしたまま無表情で硬直する。額にはうっすらと汗が滲んできた。剛三が何を思ってこんなことを口にしたのか判然とせず、しかしそれを尋ねる勇気もなく、喉が渇いて張りつくのを感じながらただ呆然とする。

「私はおまえを後継者にしたいと考えておる」

「……それは……その、だからといって」

「澪を好いておるのだから何も問題あるまい」

 事も無げに言われて絶句した。澪に好意を寄せているなど誰にも言ったことはない。そういう素振りも見せないようにしてきたつもりだ。なのに、なぜ——。

「気付いていないとでも思っておったか」

「…………」

「澪もおまえを好いておるのだろう?」

「……だといいのですが」

 もはやごまかしはきかないと思い、否定を諦める。

 澪には彼女が小学生のときに告白されたことがあり、そのときは断ったものの、今でも好かれていることは間違いないと思う。ただ、自分が彼女に向ける好意とは少し違っているはずだ。彼女の方はまだ恋愛感情にまで至っていないような気がする。

「このお膳立てをどう使うかはおまえに任せる。私としては、多少強引な手を使っても良いと思うがな」

 悠人はわずかに眉を寄せる。澪の結婚相手として認められたことはありがたいが、彼女の気持ちを蔑ろにしたお節介にはとても喜べない。

「ご自分の孫をもっと大事にしてください」

「おまえなら澪を不幸にはせんだろう」

 当然のようにそう言うと、悠人を見つめて意味ありげにニヤリと口もとを上げる。

「今度は遠慮する理由はなかろう?」

 今度は、というのはいったいどういう意味なのだろう。何を知っているというのだろう。美咲のことか、あるいは大地のことか——どちらにしても誰にも言ったことはないはずなのに。どくどくと心臓が暴れているのを感じる。しかし、下手に尋ねれば藪蛇になるのは目に見えているので、その部分についてだけは聞き流すことに決めた。

「……年齢が、若すぎます」

「もう結婚できる年齢だ」

 どうにか平静を取り繕って言い返したものの、呆気なく論破された。実際に十六で結婚した美咲が身近にいるので、剛三の言い分には無駄に説得力がある。返す言葉を見つけられずグッと奥歯を噛みしめる。

「……楽しんでいませんか?」

「楽しいに決まっているだろう」

 剛三は意味ありげな笑みを浮かべながら、悪びれもせずにそう答えた。


「わぁー! 空気が澄んでて気持ちいーっ!!」

 澪は見晴らしのいい高台で思いきり両手を挙げて伸び上がり、感嘆の声を上げた。そのまま大きく息を吸い込み目を閉じる。早朝の冷えた新鮮な空気を存分に味わっているのだろう。悠人は後ろから見守りながらふっと頬を緩ませる。

「遊びに来たんじゃないからね」

「ハンググライダー、頑張ります」

 彼女は長いポニーテールをぴょこんと弾ませて振り返り、右手で敬礼のポーズをとりながらそう言うと、ニコッと屈託のない笑みを浮かべた。


 悠人は剛三に命じられてすぐに諸々の準備を整え、予定どおり澪をこの山に連れてきた。

 もちろん彼女にハンググライダーを習得させることが目的である。ただまっすぐ飛べればいいというわけではなく、怪盗ファントムの仕事で使う以上、必然的に基本から外れる飛び方もしなければならない。それを三日で習得するというのだから、あまりのんびりしている余裕はないのだ。

 コテージに荷物を置き、さっそくハンググライダーの特訓に取りかかる。構造や仕組み、組立方法、操作方法など、基本的なことは来る前に教え込んでおいたので、ごく簡単にそれらの復習をしてから実習を始める。

 もともと運動神経は良く、必要な筋力も体力もついていたので問題はないと思っていた。しかし、その上達ぶりは予想をはるかに上回るものだった。この一日でほぼ自在に操ることができるようになっている。アクロバティックな操縦も教えてすぐにこなし、強い突風にも冷静に対応し、下手に墜落するようなことは一度もなかった。

 あとの二日で夜でも安定して飛べるよう訓練しよう。

 茜色に染まった空をゆっくりと旋回する白いハンググライダーを見ながら、悠人は脳内で計画を練り直した。


 今日は早朝からほぼずっと訓練をしていたのでさすがに疲れただろうと思い、日が落ちる前にコテージに引き上げた。夜の飛行訓練はあした行う予定である。今のところ順調すぎるくらい順調なので、明日の朝までのんびりと心置きなく休めそうだ。

「お風呂に入ってさっぱりしておいで。その間にごはんを作るから」

「はいっ」

 澪は素直に返事をすると、部屋に荷物を置いて足取り軽く浴室に向かっていく。あれほど長時間の訓練をしていながら、いたって普段どおりであまり疲れた様子はない。若さゆえか、と最近疲れやすくなった自覚のある悠人は少し羨ましく思った。


 今日の夕食はカレーライスとサラダの予定だ。

 料理は得意というわけではないが、学生のころからときどき自分で作っているので、今でも凝ったものでなければ普通に作れる。ただ、まわりに何の店もないところで失敗するわけにはいかないので、あえて無難すぎるくらい無難なメニューを選んだのである。

 野菜と肉を切り、炒め、煮込んでいく。

 やがて食欲をそそるスパイシーな匂いが立ちのぼってきたころ、浴室の方から悠人を呼ぶ声が聞こえてきた。ちょうど外したところだったエプロンを椅子の背もたれに掛け、扉の方へ足を進めながら聞き返す。

「呼んだ? どうかしたの?」

「バスタオルがないんですけど」

「棚の中に入ってない?」

「棚って……どれですか?」

 コテージの準備は人任せにしていたので、バスタオルがどこにあるかまでは確認していなかった。悠人も探してみないとわからない。コンコンとノックして「入るよ」と声を掛ける。中から「あっ、はい」と少し戸惑ったような声が返ってきた。

「…………?!」

 少し待ってから扉を開けると、澪が湯を滴らせながら全裸でバスマットの上に立っていた。どこも隠すことなく、まったくの無防備で。てっきり磨りガラスの向こうの浴室内に避難しているか、最低でも着ていた服を前にあてがうなどしているかと思った。なのに——あまりのことに動揺して頭が真っ白になったが、それでもどうにか短時間で気持ちを立て直し、当たり前のような顔をして中に入りバスタオルを探す。

 手当たり次第に扉を開けて確認していくと、上の戸棚に積んであるのを見つけた。澪が背伸びをして届くかどうかのところだ。そのバスタオルの一枚を取って澪に手渡す。

「ありがとうございます」

「ちゃんと確認しておくべきだったね。ごめんね」

「入る前に確認しなかった私もいけなかったです」

 澪はエヘッと笑い、そのふかふかのバスタオルをぱふっと口もとに押し当てた。


 悠人は表情を消したままひとりダイニングに戻ってくると、崩れるように椅子に座り込み、盛大に息をつきながら木製のテーブルに両手を投げ出して突っ伏した。

 脳裏には、先ほど目にした澪の裸体が焼き付いている。

 高校に上がるまでは、朝練後などに遥も含めて三人で風呂に入ることは少なくなかった。ほんの一年半ほど前までの話だ。それゆえ澪の裸など今さらといえば今さらであり、おそらく彼女の方にもそういう気持ちがあったので、隠すことなく立っていたのだろう。

 だが、悠人としてはもう何年も前から耐えていた。澪を一人の女性として意識するようになり、それでも「師匠」「保護者」として接しなければならず、鉄壁の理性を身につけざるを得なかった。先ほどは油断していたせいか、不意打ちで本能を直撃されてしまった感じだ。どうにか衝動を抑えた自分自身を褒めてやりたい。

 突っ伏したまま、脳裏に焼き付いた彼女の姿に思いを馳せる。

 澪の肌は相変わらず白くなめらかでとてもきれいだった。湯船につかっていたせいか、体はところどころほんのりと桜色に染まり、頬は上気して薔薇色になっていた。胸は最後に見たときより幾分か成長している。先日、服を作るためにサイズを測ったのでわかってはいたが、生で見てそれを実感した。大きいとはいえないが張りがあって形もよく、その先端は瑞々しく色づいており、いかにも美味しそうでむしゃぶりつきたくなる。下の毛はいまだに生えていないようだが、逆にそれが卑猥に見えた。

「…………」

 悠人は唇を引き結んで椅子から立ち上がり、お手洗いに向かった。


 澪が戻ってくると、二人で夕食のカレーライスとサラダを食べた。彼女がおいしいと言って食べてくれるので少し安堵する。お世辞なのか本心なのかはわからないが、自分でもそれなりにおいしいと思うので、彼女も無理をしているわけではないだろう。

 食事の後片付けを終え、悠人も風呂に入り、あとは寝るだけとなった。普段であれば寝るにはまだ早い時間だが、疲れもあるし、今日は早めに休んだ方がいいだろう。そう澪に言ったら——。

「師匠、一緒に寝ません?」

 彼女は満面の笑みでとんでもないことを提案してきた。

 小学生のころは一緒に寝ることも度々あったが、今はもう高校生である。いったい君はどれだけ僕の理性を試すつもりなんだ、と内心で嘆きながらも、冷静な態度を崩すことなく言い含めようとする。

「澪、もう子供じゃないんだから……」

「せっかく二人きりなんですし、山ごもりの間くらいはいいじゃないですか。最近、ちょっとさみしく思ってたんですよ? 昔ほど師匠と一緒にいる時間がなくなったな、って……だから、今日は一緒に来られてすごく嬉しかったんです。遥が一緒じゃないのは残念だけど、でも師匠のことを独り占めできるなぁ、って少しだけ思っちゃった」

 澪ははエヘッといたずらっぽく笑う。

 勘違いしそうになるが、彼女に他意がないことは十分すぎるほどわかっている。だからこそつらい。

「やっぱり、ダメですか?」

「……ここにいる間だけだよ」

 漆黒の瞳でじっと見つめながら小首を傾げられ、断り切ることが出来なかった。結局のところ彼女には甘い。魅力的な誘いに心が揺れたというのもあるかもしれない。素知らぬ顔で耐えることがどれだけ大変かわかっていても——。


 豆電球のみを灯した部屋で、悠人は澪と並んでベッドに横になる。

 一人で寝るには広すぎるくらいだが、二人だとそうでもなく、ほとんど距離をとることはできない。ときどき腕が触れ合うくらいの近さだ。彼女の体温をほんのりと感じていると、先ほどの裸体が思い浮かび不埒なことを妄想しそうになるが、意味もなく天井を凝視して必死にその思考を振り払う。一人のときならともかく、この状況では非常にまずい。

「昔を思い出しますね」

「ああ……」

「嬉しいです」

 こちらに顔を向けてニコッと笑うのを横目で見ながら、悠人も薄く微笑んでみせた。

 しんと静まりかえってからしばらくのち、すぅ、と規則正しい安らかな寝息が聞こえてきた。再び横目を流すと、そこには子供のようなあどけない寝顔があった。寝付きがいいのは昔から変わっていないようだ。

 悠人は体を起こし、そっと手をついて真上から彼女の顔を覗き込んだ。それでもまったく目を覚ます気配はない。引き寄せられるようにゆっくりと顔を近づけていく。ほのかにあたたかい寝息が悠人の唇をかすめた。少し逡巡して——彼女の柔らかな頬に触れるだけの口づけを落とした。


「以上です」

 三日間の山ごもりを終えて戻ると、悠人は一息つく間もなく剛三に報告を求められた。当初の予定以上に自在に操れるようになったので、怪盗ファントムの仕事で使用しても問題ないだろう。それが悠人の最終的な結論である。剛三も報告を聞いて満足げに頷いていた。

「ご苦労だった」

「いえ」

「もうひとつの方はどうだ?」

 剛三はそう言って口もとに笑みをのせる。当然、澪との関係を訊いているのだろう。

「進展はあったのか?」

「……いえ、何も」

「ほう」

 剛三の瞳に好奇の光が宿った。答えるのを少しためらった悠人を見て、あらぬ誤解をしているのかもしれない。本当に何もなかったのに。強いて言えば、ますます澪を女性として意識するようになったくらいだ。しかし——。

「澪は私のことを微塵も男性と意識していません。まずはそこからかと」

「やる気にはなったのだな。まあ頑張れ」

 剛三は執務机の上で両手を組み合わせ、ニヤニヤしながら言う。

 もしかすると、悠人に火をつけるのも彼の思惑のひとつだったのかもしれない。いいように操られているようで悔しくは思うが、危機感を煽られて悠長に構えていられなくなった。もともと高校卒業まではただの保護者でいようと思っていたが、あまりにも男性として意識されていない現実を目の当たりにし、今のうちに意識してもらうよう仕向けた方がいいかもしれない、と考えをあらためざるを得ない。

 だからといって、いきなり直球で迫っても怖がらせてしまうだけだろう。彼女は精神的には実年齢よりもずっと幼いように感じる。彼女の成長に合わせて気持ちを育てていかなければならない。そして、いつしか二人の気持ちが重なったときには——。

 剛三の前だということも忘れ、悠人は妄想に耽ったまま薄く笑みを浮かべた。


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