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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
62/68

61. 手荒い祝福

「はぁっ? パンツ男と結婚しただぁ?!」

「ちょっ、声大きい!」

 澪は血相を変え、顔をしかめながら口の前で人差し指を立てた。

 声を上げた綾乃だけでなく、真子も、富田も、澪を見つめて呆然としている。落ち着いているのは事情を知っている遥だけだ。校門を出てすぐのところだったので、他にも何人か下校中と思われる生徒たちが近くを通っていたが、みんな怪訝な目を向けるくらいで立ち止まりはしなかった。澪はほっと胸を撫で下ろす。


 事の発端は、左手薬指にはめた指輪である。

 三年生になり、澪は理系に変更したため綾乃たちと別のクラスになったが、今までどおり都合がつけばみんなで帰っていた。今日も特に予定がなかったので一緒に下校していると、綾乃が目ざとくも左手薬指の指輪に気付き、あれやこれやとからかうように詮索してきたのだ。

 別に隠しておくつもりはない。

 ただ、学校にはまだこのことを報告していないので、先に言うのはどうなのかと少し悩んでいた。正式な報告の前に噂になっては困る。しかし、友達なら信用して話すべきかもしれないと考え、内緒にしてねと前置きしてから簡単に事実を告げた。ずっと付き合っていた誠一と結婚した、と——。


「結婚なの? 婚約じゃなくて?」

「今朝、婚姻届を出してきたよ」

 半信半疑で尋ねてきた真子に、澪はにっこりと微笑みながら決定的な答えを返す。婚約だと思われたのはこの指輪のせいかもしれない。結婚指輪ではなく婚約指輪なのだ。誠一はあとで結婚指輪も用意すると言っていたが、一般的に婚約指輪よりシンプルで、日常生活でもさほど目立たず邪魔にならないものらしい。

 綾乃はじとりとした目を向けながら、腰に手を当てる。

「それさ、家族は知ってるわけ?」

「おじいさまも許してくれてるよ」

「……そう……だったらいいけど」

 それでも彼女のまなざしは疑わしげなままだった。疑っているというより腑に落ちないという感じだろうか。実際、婚姻届を提出したことはまだ報告していないので、彼女の勘はあながち間違っているともいえない。しかし、家族の問題であることを察したのか、彼女にしてはめずらしく踏み込んでこなかった。

 一方、真子は安堵したように表情をやわらげていた。

「じゃあ、何も問題ないんだね」

「駆け落ちとかじゃないよ」

 あんな誤解をされるのはもう二度と御免である。武蔵と駆け落ちしたのではないかと世間に騒がれていたときは、学校でも好奇の目に晒され、遠慮のない物言いであれやこれやと尋ねられて大変だった。実はいまだに信じている人も多い。噂が一度でも広まってしまえば、事実無根であっても完全に消し去るすべはなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだと思い知った。それでも、身近な人たちがわかってくれていただけ、澪の場合はまだ良かったのかもしれない。

「結婚式や披露宴の予定はないけど、高校卒業したら結婚パーティでもしようかって話をしてるところ。堅苦しくないガーデンパーティみたいな感じでやりたいなって。みんなも招待するから来てね」

「うん、楽しみにしてるね」

 真子はほんわりとした笑顔で答えた。しかし、綾乃は溜息を落として横目を流す。

「そんなに浮かれてて受験は大丈夫なわけ?」

「ん、そこはちゃんと真面目に頑張るから」

 さすがに浮かれていないと言えば嘘になるが、勉強を疎かにする余裕がないことくらいはわかっている。今になって理系に変更したのだから当然だ。自らの意志で研究者の道に進もうと決めた以上、これしきのことで泣き言を言うつもりはない。

「おーい、富田ぁ、息してる?」

 綾乃の声につられて顔を向けると、富田がだらしなく口を開いて呆然と立ち尽くしていた。綾乃がその眼前で手を振ってもまったくの無反応である。何もそこまで驚かなくていいのにと思いつつ、それでも多少の申し訳なさは感じていた。

「何か、ごめんね?」

 とりあえず小首を傾げて謝罪する。が、邪魔するように遥が割り込み、富田の上腕を掴んだ。

「富田、借りてくから」

 無表情でそう言うと、掴んだ腕を引きながら家とは反対方向に歩いていく。富田はどうにかよろよろと足を進めている状態だ。まるで魂が抜けてしまったかのように虚ろである。

 そんな二人を、綾乃はニヤニヤしながら見送っていた。

「遥ぁー! ちゃんと慰めてやれよ!」

「慰めるって……どういうこと??」

「まあまあ」

 尋ねた澪を煙に巻くように、彼女は白い歯を見せながら豪快に肩を抱いてきた。その勢いで少し前屈みになったまま、無遠慮にいたずらっぽく笑顔を寄せてくる。

「こっちは女子だけでお祝いしよ。あんまりめでたくもないけど」

「めでたいってば!」

 澪はすかさず言い返すが、もちろんいつもの辛辣な軽口であることはわかっている。これしきのことでいちいち腹を立てるようであれば、今まで彼女と友達でいられなかっただろう。隣の真子も肩をすくめて笑っていた。


「さぁて、何から聞こうかな」

 綾乃は頬杖をつき、獲物を狙う狩人のようなまなざしで澪を見つめ、逃さないとばかりにニッと口の端を上げた。その隣では真子がニコニコと柔らかく微笑んでいる。二人の表情はまったく違うが、澪から話を聞き出したいという目的は一致しているのだろう。

 向かいの澪は、膝に手を置いたまま体をこわばらせた。

 澪たち三人の前にはそれぞれケーキと紅茶が置かれている。お祝いということで、澪の注文分は綾乃と真子がおごってくれることになった。もちろん気持ちは嬉しいが、それ以上の代償を求められることになりそうで少し怖い。

 綾乃はうっすらと湯気の立つ紅茶を口に運び、一息ついてから尋ねる。

「相手、本当にあのパンツ男?」

「うん……そうだけど……」

 すっかりパンツ男という呼称が定着してしまったようで、澪としては微妙な心境だ。

「ねえ、パンツとか言うのもうやめようよ」

「よりによってなんでパンツ男かねぇ」

 澪の話を聞いているのかいないのか、綾乃は見るからに不満げな面持ちで溜息まじりに独りごちる。パンツ男という呼称をあらためる気はまるでないようだ。紙ナプキンの上に置かれた小さめのフォークを手に取り、ケーキに突き刺しながら言う。

「どこぞの御曹司でもないんでしょ?」

「あっ、全然そういうのじゃないよ」

「刑事だっけ?」

「……うん、まあ」

 今はもう刑事ではないが、警察には勤めているので似たようなものだろうと言葉を濁す。そもそも仕事内容を把握していないので説明のしようがない。今現在は楠長官の補佐的な仕事をしているが、そのうち現場に出る可能性もないわけではないと聞いている。

 綾乃は口に放り込んだケーキを咀嚼しながら、フォークの先端を澪に向ける。

「刑事なんかとどこで知り合ったわけ?」

「そうそう、私もそれ気になってたの」

 ティーカップを持った真子も目を輝かせて話に乗ってきた。反発心を抱いている綾乃とは違い、何かドラマチックな馴れ初め話を期待しているのだろう。澪は曖昧に微苦笑を浮かべる。

「中学生のときに刃物を振り回してる男を取り押さえた、って話はしたことあるよね?」

「ああ、卒業間際のころだっけ? 確かあれで感謝状もらったとか何とか……」

 綾乃がおぼろげな記憶をたどりつつそう言うと、隣の真子もそんなことあったねと相槌を打つ。二年以上前のことだが、二人とも何となくは覚えていてくれたようだ。澪は頷いて話を進める。

「あの事件の担当刑事が、誠一だったの」

「へぇ、それでパンツ男に言い寄られた?」

「違うよ、私の方が先に好きになったの」

 そう答えると、向かいの綾乃は盛大に息を吐きながら、テーブルに肘をついてうなだれる。

「あんたの趣味が本気でわからんわ……」

「綾乃ちゃん、顔だけじゃないんだよ」

 真子がにこやかにフォローする。しかし、その内容は誠一に対して微妙に失礼なもので、澪は何とも言えない気持ちになりながら苦笑した。確かに顔で好きになったわけではないのだが、顔もそれほど悪くないはずだ。あくまでごく普通だと思っている。

「それで、澪ちゃんから告白したの?」

 彼女は前のめりになって尋ねてきた。口調こそ穏やかだが、過剰な期待はまるで隠せていない。

「ん……でも最初は断られちゃった。年齢的にまずいとか言われて」

「はぁっ?!」

 素っ頓狂な声を上げたのは、尋ねた真子ではなく隣の綾乃だった。

「澪の告白を断るなんてパンツ男のくせに生意気っ!!」

 ダンッ、と勢いよくテーブルに両手をついて身を乗り出す。澪はびくりとして上体を引いた。ソーサにのせたティーカップはガチャリと音を立て、中の紅茶がこぼれんばかりに大きく波打っている。まわりの客や店員たちは、何事かと心配するようにこちらに目を向けていた。

 それでも、真子は笑顔を崩さなかった。

「常識のある人なら、そうするんじゃないかな」

 刺激を与えない控えめな物言いに、綾乃は納得できないながらも冷静さは取り戻したようだ。その場で長ソファにどさりと腰を下ろしてもたれかかり、腕を組んで口をとがらせる。

「でも、結局付き合ったんでしょう?」

「半年くらいあとでね」

 そう答えて、澪は懐かしさに目を細める。

「16歳になっても気持ちが変わらなかったら考えるよって言われたから、それまで半年くらい警視庁に通いつめて、16歳の誕生日にもう一度あらためて告白してようやく、って感じ」

 あのころは若かったな、と二年ほど前のことなのに遠い出来事のように感じてしまう。馬鹿みたいに無邪気で、無鉄砲で、まっすぐで、相手のことも考えずに飛び込んでいく。一歩間違えればストーカーである。しかし、あのときの自分があったからこそ、こうやって好きな人と結婚できたのだ。反省はしても後悔はしたくない。

 だが、綾乃は忌々しげに顔をしかめていた。

「あのパンツ男いったい何様のつもり? 澪のためを思ってきっぱり断るならまだしもさぁ、16歳になったら考えるとか偉そうに……ま、こんな美少女を逃すのは惜しいと思ったんだろうね。あの冴えない男にはありえないくらいの奇跡だし。最初は年齢的にまずいし一応かっこつけて断ってみたけど、欲望には勝てませんでしたってところか……くそっ、エロパンツ男め」

「そんなんじゃないよ」

 澪は上目遣いでむうっと口をとがらせる。反論したいがうまく言葉が出てこない。見つめかえす綾乃のまなざしは冷ややかだった。

「男なんてだいたいエロいことしか考えてないんだよ」

「でも、誠一は付き合って半年は何もしなかったもん」

「半年で手を出したんじゃん。16歳に」

「あっ……でも、それは私の方が……」

 そう言いかけて我にかえり、あたふたと目を泳がせながらうつむいていく。あやうく余計なことまで言うところだった。しかし上手くごまかせたとはとても思えず、そろりと前を窺うと、綾乃も真子もぽかんとして顔を見合わせている。そして——。

「もしかして澪の方から誘ったわけ?」

「っ……」

 綾乃にズバリ言い当てられてしまった。恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも正直に頷くと、彼女は爛々と目を輝かせ、テーブルに両腕を置いてぐいっと前のめりになる。

「澪がそんなにエロい子だったなんてね」

「エロいって……」

「澪に迫られたらそりゃ我慢もできんわ」

「迫るってほどのことはやってないよ」

「誘っただけで十分だって、初めてなのに」

「…………」

 綾乃は完全に面白がっている。澪は恨めしげに上目遣いで睨んで口をとがらせるが、それでも彼女の暴走が止まることはなかった。今度は頬杖をつき、意味ありげにニヤニヤしながら問いかけてくる。

「それで、そっちの方はどうなの?」

「そっちって……えっ……?!」

「あいつ経験少なくて下手そうだよね」

「……別に、下手じゃないよ」

「比べる相手もいないのにわかるの?」

「…………」

 比べる相手がいないわけではない。が、そんなことは口が裂けても言えないし、そもそも絶対に比べるべきではない。無意識に比較しそうになる思考を振り払うかのように、乱れる髪も構うことなくぶんぶんと頭を振る。いつのまにか顔はひどく熱を帯びていた。

「もう、綾乃ちゃんやめようよ、せっかくのお祝いなのに」

「だって、聞けば聞くほど心配になってくるんだもん」

 ようやく真子が窘めてくれたが、綾乃はしれっと言い返すばかりで反省の色は見えない。

「澪ならいい男を捕まえ放題なのにねぇ」

「私にとっては誠一がいちばんだもん」

「何でこんな欲のない子に育ったんだろう」

 いや、欲があるからわがままを言って誠一と結婚させてもらったんだけど。そう思うものの、綾乃には理解してもらえない気がして反論をあきらめた。しかし——。

「私は素敵だと思うな」

 真子は柔らかい声でそう言い、ふわっと笑う。

「澪ちゃんはちゃんと自分に合う人を見つけたんだよね。結婚を認めてもらうの大変だったんじゃない? 澪ちゃんのところは大きな財閥だし、年齢のこともあるし……でも、相手の人が澪ちゃんのことを本当に好きだから、逃げずに認めてもらおうと頑張ったんだよね。お互いに心から想い合っているんだろうなって、何となくわかるよ」

「真子……」

 澪は感極まり、口を両手で覆いながら目を潤ませた。これほど純粋に認めてもらえたのは初めてかもしれない。話してないのにここまで察してくれたのも驚きだった。今まで反対ばかりされてきたのでなおさら心に染みる。微笑む真子を見つめ、うっすらと涙を浮かべたまま屈託のない笑顔で頷いた。

 綾乃は疲れたように吐息を落としながら、前髪をかく。

「ま、澪が幸せならいいんだけどさ」

「私、すごく幸せだよ」

「そりゃ、今はそうでしょうよ」

 確かに、好きなひとと望んで結婚したのであれば、その日が幸せなのは当然のことである。大事なのはこれからだ。澪はあらためて綾乃に真剣なまなざしを向け、背筋を伸ばす。

「十年後も、二十年後も……ずっとずっと幸せでいる」

「本当そうなってよ? 不幸な澪なんて見たくないんだから」

「綾乃にもうらやましがってもらえるような夫婦になるよ」

 臆することなくそう言うと、むすっとしていた綾乃の表情が少しだけゆるんだ。もしかすると、攻撃的な物言いで根掘り葉掘り尋ねてきたのは、澪を案じるがゆえだったのかもしれない。昔からそうだ。容赦のない言動の根底にはいつも彼女なりの友情があった。

 私、絶対に幸せになるから——。

 今すぐに認めてもらうのは難しいだろうが、これから年月をかけて証明していけばいい。そして、いつかは彼と結婚して良かったねと言ってもらいたい。

「ケーキ食べようよ。紅茶も冷めちゃうし」

 真子がそう言うと、澪も綾乃も我にかえったように笑顔を見せて賛成した。もう互いに言いたいことは言い合ったはずだ。ここからは美味しいケーキと普通のおしゃべりを楽しもう——澪は少しぬるくなった紅茶を口に運び、ほっと一息ついて顔をほころばせた。


「今朝、婚姻届を提出してきました」

 その日の夜遅く、剛三と悠人が仕事から帰ってくると、澪は書斎に足を運んでそう報告した。

 剛三はぴくりとも表情を動かさなかった。執務机の上で筋張った両手を組み合わせたまま、威圧的とも思えるまなざしで、ただじっと射抜くように澪を見つめている。何を考えているのかわからなくて怖い。

「随分、早かったな」

「頑張りましたから」

 そう返すと、彼の表情がふっとやわらいだ。

「おまえの勝ちだ」

「……ありがとうございます」

 勝ち、とあっさり認めてもらえるとは思わず、一瞬きょとんとして反応が遅れてしまった。礼を言いながらもまだ半信半疑である。しかし、剛三のそばに控えている悠人が優しく微笑んでいるのを見て、ようやく本当の決着がついたのだと実感することができた。

「南野君には話したが、結婚についての条件は聞いたか?」

「はい、高校卒業まではこの家に住めって話ですよね?」

 これが澪を思っての措置だということは理解していた。誠一のアパートからでは通学に時間がかかりすぎる。新居を探すにしても、どうせなら大学生になってからの方がいいはずだ。あと、高校生のうちは三者面談などで保護者が必要になるため、悠人と同居していた方が都合がいいというのもあるだろう。

 うむ、と剛三は首肯して話を継ぐ。

「休日前であれば南野君のところに泊まりにいっても良いが、連絡は入れるように。南野君に泊まりに来てもらっても構わない。ただ、勉学とは別のことに励みすぎぬよう気をつけるのだぞ」

「わ、わかってますよ……」

 真顔で注意され、澪は居たたまれなさに身を小さくしてうつむいた。いつのまにか耳まで真っ赤になっていたが、変に意識しているようでなおさら恥ずかしくなる。

「学校には悠人から連絡を入れておく」

「よろしくお願いします」

 淡々と付言され、まだ冷めない熱を感じながらもぺこりと頭を下げる。澪から学校に報告しても、結局は保護者が呼び出されることになると思うので、あらかじめそうしてもらえるとありがたい。

 剛三は椅子の背もたれに身を預け、大きく息を吐いた。

「これで橘財閥は終わりかもしれんな」

「えっ?」

「後継者問題を解決する目処が立たんのだ。このままでは、関連会社を含めて何十万という従業員と家族が路頭に迷うことになる。澪が協力してくれることに最後の望みをかけていたのだが、仕方あるまい。賭けに負けたのだから腹を括るしかないだろう」

 うそ——。

 澪の顔からすうっと血の気が引いた。悠人と結婚させようとしたのは後継者問題のためだと聞いていたが、それを拒否すればどういう結果になるかなど考えもしなかった。ただ自分が幸せになることしか頭になかった。まさかここまで深刻な事態になるだなんて——縋るように悠人を見るが、彼はこちらには目も向けず硬い表情でうつむいている。

「しゃんとせい!」

 剛三に一喝され、澪はビクリと体を竦ませる。

「我々の懇願をつっぱねてまで自らの意志を貫いたのだ。ふらふらせず最後まで貫き通せ。たとえ誰からも祝福されない茨の道だとしてもな」

「そのつもりでした……でも……」

 何十万もの人たちの生活を犠牲にしてまで幸せになることが、正しい選択とは思えない。だからといってようやく掴んだこの幸せを手放したくない。いや、たとえ結婚を続けたとしても幸せでいられるだろうか。でも——いくら考えをめぐらせても結論にたどり着かない。

 剛三は表情を険しくし、口を開く。

「おまえにひとつ忠告しておく。選択には常に覚悟と責任が求められる。決断はあらゆる可能性を吟味して慎重に下し、結果はいかなるものでも冷静に受け止めろ。そうでなければ対処を考えることもままならん。澪、おまえはいつも逆だろう。思うがまま考えなしに突っ走り、結果におろおろする……まるで小さな子供だ。それでは科学者としてやっていくのは難しいぞ?」

 痛いところを突かれた。

 今回のことも、考えが足りなかったと言われればそのとおりだ。覚悟もなかったと思う。息もできないくらい胸が苦しくなり、じわりと涙が滲んできた。冷静に受け止めろと忠告されたばかりなのに——。

「まあ、このくらいにしてやるか」

「…………?」

 顔を上げ、濡れた睫毛で目を瞬かせる。剛三はフンと鼻から息を抜いた。

「後継者問題などたいしたことではないわ。おまえと悠人が結婚してくれれば話は早かったが、そうでなくても対処方法はいくらでも考えられる。これしきのことで橘財閥が潰れるわけなかろう」

「なっ……!!」

 一瞬カッとしたものの、どうにか激情を抑えてじとりと剛三を睨む。

「どうして騙したんです?」

「半分は意趣返し、半分は忠告だよ」

「……ご忠告、心に留めておきます」

 意趣返しなどあまりに大人げなさすぎるが、忠告は澪を思ってのことだろう。それがわからないほど愚かではない。言いようのない腹立たしさに眉を寄せながらも、努めて冷静に答え、そしてひとり密やかに考えをめぐらせる。もし本当に橘財閥が危機に陥っていたとしたら、自分はどうしただろうか、どうすればよかったのだろうか、と——。


 ふと、剛三が後ろに控えていた悠人に目配せした。彼はかすかに頷いてその場にしゃがむと、がさごそと派手な音を立てて何かを始めたが、執務机に阻まれて澪からはよく見えない。やがて立ち上がった彼の腕にあったのは、抱えきれないほどの大きな花束だった。

「え……」

「剛三さんと僕から」

 悠人はにっこり微笑むと、大きな花束を抱えたまま澪の前まで足を進めた。その花束を丁寧に手渡され、澪は両腕いっぱいに受け取る。予想もしなかった重さにあわてて力を込めた。

 花束がこんなに重いなんて、知らなかった——。

 顔半分ほど埋もれながら目の前のそれを眺める。ピンク系のバラやカーネーションなどを基調として、いくつかの白いガーベラがアクセントになっている、とても華やかで可愛らしい印象のものだ。ほんのりと甘やかな生っぽい匂いが鼻をくすぐる。

 こんなにも立派な花束をいつのまに用意していたのだろう。結婚の事実をあらかじめ知っていなければできない芸当だ。いや、そもそも結婚祝いだなんてひとことも言っていないけど——おずおずと視線を上げて正面の悠人を見やる。そこにあったのは、澪の大好きな優しくて穏やかな笑顔だった。

「結婚おめでとう、澪」

 柔らかい声が、じわりと心にしみた。

 開いたままの目からあたたかい涙があふれ、頬を伝い、淡いピンク色の花弁に雫となって落ちる。声にならない感謝の気持ちを、喜びを、幸せを、あふれそうなくらい顔いっぱいに広げると、花束に埋もれながらはずむように大きく頷いてみせた。


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