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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
6/68

5. 復活した幻

「おう、おはようお二人さん!」

「……何やってんの、サード」

 朝のトレーニングを終えた澪と遥が、ジャージ姿のままダイニングに入ると、なぜか当たり前のように篤史がそこにいた。執事の櫻井が用意した洋風の朝食を、お世辞にも上品とはいえない食べ方で頬張っている。

「何って見りゃわかるだろう。あ、櫻井さんコーヒーおかわりね」

「かしこまりました」

 橘家の人間でもない篤史に対して、背後に控えていた櫻井は恭しく一礼する。その様子を目の当たりにした澪は、少しムッとし、テーブルに両手をついて前のめりに身を乗り出した。

「櫻井さん、こんなやつ放っておけばいいんだからね。お客様でも何でもないんだから」

「いえ、お嬢様。篤史様も家族同様の扱いでお世話をするよう、剛三様より仰せつかっておりますので」

「そういうこと」

 篤史は澄ました顔で目玉焼きを口に滑り込ませる。

 澪はその勝ち誇ったような態度が癪に障った。両手を腰に当てて背筋を伸ばし、よりいっそう冷たい目になると、怒りのこもった低い声で切り出す。

「サード」

「コードネームは作戦遂行中のみだろ」

 篤史にもっともな指摘をされ、澪はムッとしながらも言い直す。

「じゃあ、篤史」

「呼び捨てかよ……まあいいけど……」

 失礼は承知の上である。篤史が自分より年上であることはわかっていたが、拭えない反発心のせいか、キャラクターのせいか、どうしても敬称をつけて呼ぶ気にはなれなかった。

「どうしてウチで朝食してるのか教えてくれる?」

「ああ、きのう夜遅くまでじいさんと悠人さんにこき使われて、アパートに帰るのも面倒だったから泊まらせてもらったんだよ。じいさんはいっそここに住めって言うし、俺もその方が楽だし、厚意に甘えてそうしようかと思ってるところ」

「はあぁ?!」

 あまりにも急転直下な展開に、澪は全力で素っ頓狂な声を上げた。

「得体の知れない男を一つ屋根の下に住まわせるなんて、おじいさまってばどうかしてるわ! 若い娘がいるのよ? 襲われるかもしれないって考えなかったのかしら!」

「いや、それ無理。逆に殺されるだろ」

 篤史は顔色一つ変えずに言い返す。その冷静さに、澪の腹立たしさはいや増した。

「そんなのわからないわよ。篤史はハッカーなんでしょう? 隠しカメラで恥ずかしい映像を撮るとか、それをネタに体を要求するとか、いくらでも姑息な手段があるじゃない」

「……おまえ、変なドラマの見過ぎだろう」

 篤史は呆れ顔でテーブルに肘をつくと、フォークの先を澪に向ける。

「だいたいおまえは自意識過剰なんだよ。みんながみんな、おまえに興味あるわけじゃないんだぞ。まあ、客観的に見て、顔もスタイルもかなりいいってのはのは認めるけど」

「あ……ありがと……」

 不意打ちのように褒められ、澪は当惑しつつも礼を述べた。

「でも、俺としては色気と知性がないと食指が動かないんだよなぁ」

 篤史はフォークを指でくるりと回してニッと笑う。

 心なしか馬鹿にされているような気がして、澪は眉を寄せた。しかし、色気のなさについては自覚しており、悔しいが否定することはできない。唇をとがらせて強がるのが精一杯である。

「別に、篤史に気に入られなくたっていいし……ていうか、その篤史の好みに合う人って難しくない? 知性と色気を兼ね備えた人なんて、そうそういるもんじゃないと思うけど。たとえば誰?」

「おまえにわかる人間でいうなら、橘美咲だな」

「お母さま? でも色気なんて全然ないような……」

 挙げられたのは予想外の名前だった。確かに知性には文句のつけようもないが、色気となると大いに疑問である。体は華奢で胸が大きいわけでもなく、顔も美人系というよりは可愛い系なのだ。

 しかし、篤史はニヤリと笑みを浮かべて言う。

「お子様にはわからないんだろうなぁ、あの滲み出る色気が」

「…………」

 澪は言葉を失った。やがて険しい面持ちになり口を開く。

「やっぱりウチに住まわせるのは危険ね。お母さまに色気を感じてるみたいだし、何もしないなんて言っても、そのうち欲望に負けちゃうかもしれないもの」

「おまえな……」

 篤史は小さく溜息を落として、無造作にフォークを置いた。

「何でもかんでも勝手に先走って決めつけるなって」

「危機管理のために推測してるだけだもん」

 遥には「おかしな心配ばかりしてる」とよく言われるが、澪としては、起こりうる危険について真面目に考えているだけである。

「別に篤史のことが嫌いだからじゃなくて、知り合ったばかりだし、いろいろ疑っちゃうのも仕方ないじゃない? 本当はそんな人じゃないのかもしれないけど、そういうことはもっと長く一緒にいないとわからないし……」

 篤史とは浅沼邸のときに初めて顔を合わせ、その後、次の仕事のために何度か打ち合わせをしたくらいである。それもあくまでチームとしてであり、個人的には言葉を交わしておらず、互いの人となりがわかるほどの付き合いはしていない。

 しかし、何を勘違いしたのか、篤史は頬杖をついて辟易とした顔で言う。

「おまえ、そんなに俺と一緒にいたいのかよ」

「なんでそうなるわけ?! そっちこそ、知性も色気もないとか私のことバカにしてるけど、何だかんだいって本当は構ってほしいんじゃないの? だからわざとそんなこと言ってるんじゃない?」

 あくまで強気に応酬する澪に、篤史は片手をひらひらと振って見せる。

「冗談。おまえみたいにギャンギャンうるさい女の相手する趣味はねぇの。マジで付き合いたくないタイプだし。こう言っちゃなんだが、男とわかってても遥の方がよっぽどマシだぜ」

「なっ……」

 澪は絶句した。顔を赤らめながら、体の横でこぶしを震わせる。

「篤史までそんなこと言うんだっ!!」

 ありったけの声でそう叫んで感情を爆発させると、踵を返し、肩をいからせズンズンと扉に向かっていく。足を踏み出すたびに、腰近くまである黒髪が大きく左右に揺れた。

「おーい、朝食しに来たんじゃねぇの?」

「先にシャワー浴びて頭を冷やしてくる!」

 篤史の呑気な呼びかけに振り返ることなく、澪はドアノブに手を掛けながら答えた。後ろ髪を引かれつつ、朝食の匂いの立ちこめるダイニングをあとにする。根性の足りないおなかが、ぐぅ、と小さく音を立てた。


「他のヤツからも言われたのか?」

 澪の足音が遠ざかって聞こえなくなると、篤史は二杯目のコーヒーに手を伸ばしながら、終始無言で立っていた遥にそう尋ねた。澪が口にした「篤史“まで”」という言葉に対する疑問なのだろう。遥は、彼の正面に腰を下ろして答える。

「学校で男子に言われてる」

「なるほどな」

 ニヤニヤしながら頷く篤史に、遥はじとりとした視線を向ける。

「あんまり澪を苛めないでくれる?」

「なるべく努力はするけどな」

 篤史は微塵も努力しなさそうな軽薄な笑顔で答えた。しかし、ふと何かを思い出したように真面目な顔になると、近くの折り畳まれた新聞に手を伸ばし、それをバサリと広げて遥の前に差し出す。

「これ見たか?」

 彼が何について言ったのかは、一目でわかった。

「予告状?」

「らしいな」

 先日、剛三が予告状の重要性について熱く語っていたことがあり、予想はしていたが、いきなりここまで大仰なことをやるとは思わなかった。あらためて紙面に目を落として黙読する。


 本日、夜9時

 高杉近代美術館の「湖畔」を戴きに参上します

 ——怪盗ファントム


 その文章が、全国紙である毎朝新聞の中一面に大きく掲載されていた。どうやってこれを掲載したのかはわからない。まさか普通に広告掲載依頼を出したりはしないだろう。しかし、悠人が手配したのであれば抜かりはないはずだ。

 ただ、別の意味で少し心配になった。

「慣れないうちから、こんなに派手にやって大丈夫かな」

「ま、準備は万全に整えてあるから大丈夫だろう」

 篤史は背もたれに身を預けながら、涼しい顔でコーヒーを口に運んだ。

 それでも遥の表情は曇ったままである。事前準備について疑っているわけではない。ただ、重要な役割を担うのが不慣れな澪である以上、想定外の事象に対処するのは難しく、そのことを考えるとやはり不安は拭いきれなかった。


「せっかくのお休みなのに、こんなにいいお天気なのに……なんでこんなところで打ち合わせなんかやらなきゃいけないのよ……しかも、犯罪のためだなんてありえない……」

 安っぽい会議机に両手を投げ出して突っ伏したまま、澪は恨み言を口にした。薄いレースのカーテンの向こう側には、澄みわたった秋晴れが広がっている。外はさぞかし爽やかで気持ちいいことだろう。

「遊びに行きたいよぅ」

「グチグチうっせーぞ」

 隣に座る篤史が、資料に目を落としながら冷ややかに言った。

 澪は口をとがらせる。

 今日は澪と誠一の休日が重なる貴重な日である。本来であれば、ずっと誠一と一緒にいられるはずだった。久しぶりにどこかへ遊びに行きたいと思っていた。なのに、嫌々やらされている怪盗ファントムのために、その楽しみを潰されてしまっては、多少の文句をこぼしたくなるのも当然だろう。

 もっとも、兄の遥以外、そんな事情を知るよしもないのだが——。


「待たせたな」

 しばらくして、剛三がにこやかに右手を上げて書斎にやってきた。いつものように悠人を従えている。すでに集合時間を10分ほど過ぎていた。時間厳守を命じた張本人が遅れてきたことに、澪はムッとして眉を寄せたが、言っても無駄だろうとあえて抗議はしなかった。

「いよいよ今日が二代目ファントムのデビュー戦だ」

 剛三は机の上で両手を組み合わせて言う。

 厳密にいえば前回の浅沼邸がデビュー戦となるが、剛三としては、やはりあれは実地研修という位置づけのようだ。浅沼も後ろめたさからか警察には届けなかったようで、世間的には事件は認知されておらず、そういう意味でも今回がデビュー戦といって間違いではないだろう。

「皆、準備はできておるな?」

「一応、特訓はしてきました」

 澪は三日間の山ごもりについて控えめに答えた。しかし、指導役の悠人からすでに報告を受けていたのか、剛三は結果を尋ねることなく、ニコニコと満足げに頷きながら言う。

「やはり私の見込みに間違いはなかったようだ。澪、おまえならすぐに習得できると思っておったぞ。幸いにも、今日はちょうどよい天候らしいからな。さっそく成果を披露してもらうとしよう」

「あの、本当にやるんですか?」

 何かの間違いであってほしいと願いつつ、澪はおずおずと尋ねる。

「おまえ、今さら何を言っておるのだ」

「でも、やっぱり目立ちすぎかなって……」

「目立たなければ怪盗の意味がないだろう」

 剛三のこだわりについては承知しているものの、どうしても釈然とはせず、溜息とも相槌ともつかない曖昧な吐息を落とした。しかし、彼は少しも意に介することなく、今度は隣の遥へと視線を移して言う。

「遥には本当にすまないと思っておる。せっかくのデビュー戦にもかかわらず、おまえの見せ場を作ってやれなくて。いずれ、どんと派手なのを用意してやるから待っていてほしい」

「いや、むしろ要らないから」

 剛三の独りよがりな心遣いを、遥は冷ややかに一蹴した。

「そう言うでない。みな楽しみにしておるのだからな」

「意味がわからないんだけど」

 うざったそうに仏頂面で突き放しても、剛三たちは揃って笑顔を浮かべている。特に、篤史は思わせぶりにニヤニヤとしていた。遥の活躍を見たいというよりも、単に女装させたいだけなのかもしれない。澪は肩をすくめて苦笑し、そして少し同情した。


「それでは今回の標的について復習しておこう」

 剛三がそう切り出すと、悠人はA3のクリアファイルを開いて机の中央に置いた。

「我々が狙うのはこの『湖畔』だ。有名な作品で教科書にも載っておるから、おまえたちもどこかで目にしたことがあるだろう。色彩の魔術師と呼ばれた故・天野俊郎の代表作でな。その大胆な色彩と細やかな筆致は、まるで音楽が聞こえてくるかのようだと云われておる」

 その話を聞きながら、澪はクリアファイルに挟まれたカラープリントに目を落とす。ただのプリントなので本来の色や迫力までは再現できていないだろうが、剛三の言うことはわかるような気がした。

「『湖畔』は娘である花さんの所有だったが、事業に失敗した彼女の息子が勝手に売り払ってしまったのだ。そのせいというわけでもないだろうが、花さんには認知症の症状が現れ始めているという。なのに、厄介者扱いされるばかりで、まともに病院へも連れていってもらえない有り様だ」

 この話を聞くのは今日が初めてではない。作戦内容と合わせて事前に説明を受けていた。だからといって慣れることはなく、何度聞いても気分の悪さは変わらない。澪は無言のまま僅かに眉を寄せた。

 その瞬間、剛三はしたり顔で口の端を上げる。

「せめて、彼女の心の支えであった絵を、我々の手で取り戻してやろうではないか」

「そうよ、そうだわ……ええ、花さんのために頑張りましょう!!」

 先ほどまであまり意欲のなかった澪が、いつのまにかやる気を漲らせ、両のこぶしを握りしめて気炎を上げる。前回この話を聞いたとまったく同じ流れである。おそらく剛三の目論見どおりなのだろう。そのあまりの単純さに、遥は呆れ顔で溜息をつき、篤史は声なく苦笑を浮かべた。


「もし『湖畔』が盗まれるようなことがあれば、『其の瞳に映るもの』は引き揚げさせてもらおうと思っておる」

 洗練された品のよい応接室の中で、ひときわ存在感を放つ革張りのソファに、剛三はゆったりと腰掛けてそう言った。落ち着いた穏やかな口調ではあるものの、どこかしら相手を威圧する雰囲気を漂わせている。隣には、いつものように秘書の悠人が付き添っていた。

 二人がいるのは、高杉近代美術館である。

 明日からここで天野俊郎展が開催されることになっているが、その天野俊郎の流れを汲む作品として、相沢修平の『其の瞳に映るもの』も展示されることになっていた。少女時代の美咲を描いたあの絵である。売買の話にはいっさい応じてこなかったものの、貸与は惜しまず、これまでにも何度か全国の美術館に展示されてきたのだ。

「……仕方ありません」

 館長の中川はうつむいて言葉を落とした。

「そのときは、この企画展自体を見直すことになるでしょうし」

 今回の天野俊郎展は、高杉近代美術館が『湖畔』を購入したことで企画されたものであり、対外的にも名画『湖畔』が最大の呼び物となっている。それを盗まれたとなれば、この企画展の意義が失われるといっても過言ではない。

「しかし、そうはさせませんよ。我々は万全の警備体制を敷いております。怪盗ファントムかその名を騙るものかは知りませんが、必ずや『湖畔』を守ってご覧に入れましょう」

 静かに闘志を燃やす中川を見て、剛三は唇に薄く笑みをのせた。

「それは頼もしいな」

「恐れ入ります」

 中川は慇懃に頭を下げて応える。彼は一介の美術館館長であり、財閥会長の剛三と簡単に相まみえる立場にはない。それでも、必要以上にへりくだった態度を見せることなく、常に自己を保ちながら思慮深い振る舞いをしていた。

「一つ頼みがあるのだが、聞いてもらえるかな」

「何でしょうか」

 端然と聞き返す中川に、剛三も目を逸らすことなく答える。

「犯行予告の時間に、我々も展示室に立ち会わせてはもらえんだろうか。君たちを信用していないわけではないが、そこには我々の絵も展示されているのでな。それに、怪盗ファントムを名乗る者には私も興味があってな。このような機会は滅多にあるものでもないし、現場から見てみたい気持ちもあるのだよ」

「承知しました」

 本来ならば、このような身勝手は許されるものではなく、不愉快に思ったとしても当然のことだろう。しかしながら相手が橘財閥会長となれば断るのは難しい。それがわかったうえで、あえて剛三はこの話を持ちかけたのである。今夜の計画の一部として——。

「怪盗ファントムの名を騙るものか、あるいはその名を継ぐものか……いずれにしても楽しみだな」

 剛三はふっと鼻から息を漏らしてそう言うと、節くれだった手を腹の上で組み合わせ、弾力性のある背もたれにゆったりと身を沈めていく。茶色の滑らかな革が、小さく濁った摩擦音を立てた。


 夜の帷が降り、濃紺色の空には星がささやかに煌めいている。

 澪は高杉近代美術館から少し離れたビルの屋上で待機していた。秋も深まってきたこの時季、夜ともなれば、だいぶ冷え込みが厳しくなってくる。怪盗ファントムの衣装だけでは肌寒い。しかし、それも行動を開始するまでの辛抱だろう。

 双眼鏡を取り出し、美術館まわりの状況を窺う。

 大勢の野次馬で人垣が出来ている——ということはなかった。それでも、予告時間を待っていると思しき人たちは、多くはないがちらほらと点在している。カメラを抱えた報道関係者も、何人かは来ているようだ。

『セカンド、準備できてる?』

「問題なし、いつでもいけるよ」

 今回、司令塔として指示を出すのは遥である。剛三も悠人も篤史もついておらず、すべて彼ひとりで判断することになる。これだけ重要な役割を彼に一任しているのは、その能力が信頼されているからに他ならない。

『サード、そっちの状況は?』

『潜入成功。警備員は事前情報どおり30人、それに加えて制服警官3人を視認した。おそらく近くの交番連中だろう。刑事は来てないみたいだな』

 篤史の役割は、警備員に紛れて美術館内に潜入し、内部からさまざまな工作を行うことだった。警備体制などの情報は事前にハッキングして得ており、それを見た彼が、この計画で行けると最終決定を下したのである。

 潜入のための制服や身分証はあらかじめ用意し、また、警備会社のデータベース情報も書き換えておくなど、事前の準備は万端である。しかし、実際に警備員になりすましての潜入など、ただのハッカーである彼に出来るのだろうか——澪はそのことに懐疑的だったが、偶然か実力か、今のところは上手くいっているようだ。

『鍵は?』

 遥は続けて篤史に質問する。

『もう外してある。だが、警備員がかなり頻繁に巡回してるし、いつ気付かれないとも限らない。ただのかけ忘れと思ってくれれば、まだいいんだけどな』

「鍵をかけられちゃったら、裏側の窓を割って入るのね?」

 澪は事前に聞いた計画を再確認する。正面側の窓はどれも頑丈で簡単には割れないそうだが、裏側の事務室や応接室の窓は一般的なガラス窓であり、もしものときはそこを蹴破って侵入することになっていた。

『そう。そのときには、こちらから詳細な指示を出すよ』

『あんまり使いたくない手だけどな。スマートじゃないし』

 冷静に答える遥に、篤史は溜息まじりに言い添える。

 澪としてもできるなら使いたくない手段である。生身でガラスを蹴破るなど、破片で負傷しかねない危険なことだ。しかし、いくら剛三に猛抗議しても「避けろ」の一言で却下されてしまう。さすがに腹立たしさを感じずにはいられなかった。

「おじいさま……じゃなくて、司令と副司令は上手くやってる?」

『予定どおり展示室に入り込んでるよ。今のところ問題なし』

 コードネームが「司令」と「副司令」である二人だが、今回は実行部隊である。標的の中心地に堂々と乗り込んでの活動となるため、イヤホンマイクはつけていない。その代わり、悠人が小型で高性能の盗聴器をつけており、彼らの周辺の音は、実際の司令塔である遥に伝わるようになっているのだ。

「了解」

 澪としてはもう少し詳しい状況を聞きたかったが、師匠ならば心配の必要もないだろうと思い、とりあえずは自分の役割に集中することにした。


「展示室の出入口は三箇所で、窓は元よりありません。他、換気口や通風口など人間の出入り可能な穴は、すべて完全に塞いであります。三箇所の出入口さえ固めておけば、絶対に盗まれることはありません」

 穏やかながらも自信を窺わせる口調で、中川館長は断言した。

 三箇所の出入口には、それぞれ内と外に二人ずつ、計12人を配置している。しかも、頑強な扉には鍵が掛けてあり、その鍵は、複製も含めてすべて展示室内にいる中川館長が持っているのだ。

「なるほど。ダイナマイトで吹っ飛ばしでもしない限り、展示室に侵入することは出来そうもないな」

「はは……、恐ろしい冗談をおっしゃらないでくださいよ」

 展示室を見回す剛三を眺めながら、中川館長はハンカチで冷や汗を拭う。出入口を固める屈強な警備員たちも、それぞれ引きつった苦笑を浮かべていた。

「まもなく予告時間だな」

 剛三は腕時計に目を落として言う。その口角は、僅かに吊り上がっていた。


『セカンド、そろそろ予告時間だから』

「うん、いつでも行けるよ」

『40秒前になったら合図するから飛んで』

「了解」

 澪はやや緊張ぎみの硬い声で返事をすると、白い仮面を被り、白いハンググライダーを持って柵の上に立った。少し冷たい風が、夜空よりも深い漆黒の髪をさらさらと揺らす。

『60、59、58——』

 カウントダウンが始まった。

 澪はハンググライダーをバサリと広げ、その手すりを掴む手に力をこめる。

『42、41、40 飛んで』

 その合図と同時に、澪は柵を蹴って夜空に飛び出した。ハンググライダーで向かい風を切りながら、高層ビルを避け、緩やかな弧を描くようにすうっと美術館へ降りていく。

 米粒大だった野次馬の人影が、次第に大きくなる。

 澪はハンググライダーでその頭上を越え、警備員のいる正門を越え、美術館の真正面に滑り込むように降り立った。驚きと興奮の歓声が控えめに上がる。どこからか乾いたシャッター音も聞こえた。

 背後から、正面から、警備員がこちらを目掛けて走り出す。

 澪はハンググライダーをそこに捨て置き、正面の警備員たちに突撃するかのように駆け出した。彼らの足が怯んで止まる。そのタイミングを見計らって強く地面を蹴り、低く前傾姿勢をとりながら二人の間を突っ切った。そして、先端に錘のついた縄を二階のベランダに投げて巻き付け、それを手繰り寄せつつ柱を駆け上がり、手すりを蹴って軽やかにそのベランダに着地する。

 すぐに大きな両開きのガラス窓を引く。そこは篤史が鍵を外しておいたところで、何の問題もなく、澪を迎え入れるかのように開いていった。

「二階だ、急げ!!」

 置き去りにしてきたハンググライダーの隣で、警備員の一人が大声で指示を飛ばした。呆然と見入っていた彼らは、一斉に我にかえって走り出す。館内からも、階段を上がってくる複数の足音が聞こえた。

 澪は開いた窓から中に飛び込むと、彼らを引きつけるため、若干速度を落として回廊を駆けていく。幾度となく飛びかかられたりしたが、澪の身のこなしに敵うはずもなく、当然のようにすべて空振りに終わった。

「挟み打ちだ!」

 前方の角から3人の警備員が姿を現した。しかし、澪はむしろ速度を上げて突進していく。同じ手を喰うかとばかりに、警備員たちは横一列に並んで姿勢を低くした。しかし、澪とて同じ手を使うつもりはない。床を蹴って跳び上がると、膝を抱えるように宙返りし、軽々と彼らを跳び越えて着地した。

「何をやっている、おまえたち!」

 後ろから澪を追っていた警備員が怒声を上げる。しかし、彼らも捕まえられなかったのだから、似たり寄ったりである。挟み打ちにするつもりだったようだが、今はひとかたまりとなって後ろから追いかけてきていた。

 よし、今だ——。

 澪はポケットに手を入れて目的のものを掴むと、振り返りざまにそれを噴射した。

「うわあっ!!」

 高い天井にいくつもの悲鳴が反響した。そして、すぐにそれは呻き声に変わる。警備員たちは目を押さえながら次々とその場に崩れ落ちた。立っている者はひとりもいない。

 澪の噴射したそれは、催涙スプレーだった。

 人に向けて噴射したのはこれが初めてである。どうなるかは教えてもらっていたが、その効果は想像以上に絶大だった。あの様子では、しばらくまともに目を開けられないだろう。

 ごめんなさい——!

 澪は心の中で思いきり両手を合わせた。そして、その罪悪感を振り切るように身を翻すと、全力で目的地へ向かって駆け出していった。


『セカンド、振り切った?』

「うん……」

 澪は展示室近くに身を潜めながら、歯切れの悪い答えを返す。

『どうしたの? 気がかりなことでもあった?』

「ん……催涙スプレー、痛そうだなと思って」

『まあそうだね、痛くなければ意味がないよ』

 遥の言葉は身も蓋もない淡泊なものだった。しかし、その口調からは澪への気遣いと優しさが感じられる。本来ならば、そんなことを気にしている場合ではないと怒られても仕方がないのに——。

『おまえ、そんなこと気にしてる場合かよ』

「言われなくてもわかってるよ!」

 呆れたように口を挟んできた篤史に、澪は気色ばみ、小声ながらも強気な口調で言い返した。遥に言われたのなら素直に謝っただろうが、篤史ではどうしても腹立たしさが先に来てしまうのだ。

 しかし、遥はあくまでも粛々と作戦を進める。

『セカンド、サード、もう準備はいい?』

『オーケー』

「大丈夫よ」

 先ほどとは打って変わり、二人とも真剣な声になって返事をした。今がどんな状況であるかは理解しており、それを無視して口論を続けるほど愚かではない。この作戦を成功させたい気持ちは一致しているのだ。気を引き締めて待機する。

 次にすべきことは頭に入っていた。

 澪にしても、篤史にしても、それぞれの役割はさほど難しくない。失敗が許されないという重圧に負けさえしなければ、難なくやり遂げることができるだろう。それよりも、懸念すべきことは他にある。

『サード、落として』

 遥の指示とほぼ同時に、館内の灯りがすべて落ちた。

 もちろん、展示室内も例外ではなく——。


「うろたえるな! 各自持ち場を死守しろ!!」

 何も見えない真っ暗闇の展示室に、剛三の威厳に満ちた声が響き渡った。この美術館の主は中川館長であるが、我が物顔で指示を出す剛三に、警備員たちは誰ひとりとして疑問を挟まなかった。

「扉から離れるでないぞ」

「は、はいっ!!」

 彼らはなかなか職務に忠実なようである。若干怯えている様子は窺えるものの、逃げようとする輩もパニックを起こす輩もいない。ここまでは計画通り——剛三は闇に紛れてほくそ笑んだ。

「非常用電源はまだか?!」

 中川館長が誰にともなく苛ついた声を上げた。腰につけたトランシーバを手探りで掴み取ると、普段の紳士的な振る舞いは見る影もなく、すっかり余裕をなくした様子で命令を送る。

「Aチーム、電源を見てこい!」

 しかし返事はない。ザーッという耳障りなノイズが聞こえるだけである。

「Aチーム! 応答しろ!!」

『……もっ、申し訳ありません……怪盗ファントムらしき人物に、何かのスプレーを掛けられてしまい……目が痛くて……今しばらくは動けそうもありません……!』

「なんだとっ?! Bチーム、応答しろ!」

『彼らも、我々Aチームと同じ状況です』

「Cチーム!!」

『は、はいっ!』

「地下に降りて配電盤を見てこい!」

 別系統の非常用も含めて、電源はすべて篤史によって落とされていた。配電盤を見たところでわかるものではないだろう。そちらの方は彼の得意分野であり、取り立てて心配はしていない。むしろこの作戦の鍵となるのは——。

 悠人、おまえならやれると信じておるぞ。

 余裕をなくした無線の応答がひっきりなしに響く中、剛三は後ろで手を組むと、不自然でない程度に足音を立てながら、暗闇の展示室をゆったりと行ったり来たりした。


 灯りが消えてから3分が過ぎた。

 コンコンコンコンコン——。

 イヤホンから聞こえたノックのような五連音に、待機中の遥はハッと息を呑む。それは悠人からの合図だった。持っている盗聴器を爪で五回叩くことによって、作業の終了を知らせる取り決めになっていたのだ。

「サード、灯りをつけて」

 遥は少し早口で指示を出す。

 オーケー、と篤史が声をひそめて答えた瞬間、敷地内の照明がいっせいに元に戻った。一度闇に沈んだ建物は、まるでスポットライトを浴びたかのように、停電前よりもいっそう眩く輝いて見えた。


 展示室に暖色のやわらかい光がともる。

 中川館長はすぐさま三つの扉に視線を移した。どの扉にも元のまま警備員が張り付いており、鍵もかかったままで、開けられた様子はなさそうである。鍵束がずっと自分の懐にあったことも確認していた。

 ようやく彼は安堵の息をついた。

 そして、一難去った『湖畔』へと目を向けた——つもりだった。

「なっ……?!!」

 しかし、そこにあったのは額縁だけで、中の『湖畔』は忽然と消えていた。額縁に囲まれた壁の中央には、黒いメッセージカードが貼り付けられていた。中川館長は手にしていたトランシーバを滑り落とすと、全力で駆けていきメッセージカードを覗き込む。


 『湖畔』は確かに戴きました

 ——怪盗ファントム


「まさか……どうやって……」

 半ば放心状態で空の額縁を見つめながら、うわごとのように言葉をこぼした。壁についた左手の指先は、力を入れすぎて血の気が失せている。額からは一筋の汗がポタリと床に落ちた。


「ファントムだ!! 絵を抱えてるぞ!!!」

 展示室のすぐ外の廊下で、篤史は大声を張り上げた。そして、近くで待機する澪に親指を立てて見せると、音を立てないようにそっと素早く走り去っていく。同時に、反対側からはいくつもの慌てふためいた足音が近づいてきた。

 師匠が頑張ったんだから、今度は私が頑張らなきゃ——。

 澪は気持ちを引き締めて、すっと背筋を伸ばした。黒い布に包まれたキャンバスを持つ手に力をこめる。正確にはキャンバスではない。コンパクトに折り畳めるステンレスの枠に薄布が張ってあるだけのものだ。『湖畔』に見立てるために懐に忍ばせていたのである。黒い布が外れてしまえば、それが『湖畔』でないことも、キャンバスでさえないことも、一目で見抜かれてしまうだろう。それゆえ失敗は許されないのだ。

「いたぞ! 『湖畔』を取り戻すことが最優先だ!」

 角を曲がってきた警備員が、怪盗ファントムを目にするなり大声を上げた。そのあとから続くのは、催涙スプレーを浴びせられた警備員たちである。まだ目も鼻も赤い。痛さのためか、恨みのためか、皆一様に険しい顔をしている。

 澪は黒い布に包まれたキャンバス——に見立てたもの——を脇に抱え、彼らに背を向けて走り出した。ガラス張りの回廊を駆け抜け、奥の扉を開け放つと、裏側のベランダへ飛び出していく。そして、片手にそれを抱えたまま、手すりやひさしに次々と飛び移りながら、あっというまに屋上へ駆け上がっていった。

 そのタイミングを見計らって、待機していたヘリコプターが、縄ばしごを垂らして降下してきた。澪は助走をつけて跳び上がると、片手で縄ばしごを掴んで足を掛ける。長い黒髪がうねるように舞い上がった。

「ま、待てっ!!」

 ようやく屋上へよじ登った警備員の一人が、息を切らしながらも、腹の底から大きく声を張り上げる。だからといって待つわけにはいかない。彼らをそこに残したまま、ヘリコプターはみるみるうちに空高く上昇していった。


「そうか、逃げられたか……」

 報告を受けた中川館長は、大きく溜息をついて肩を落とした。随分と落ち着きは取り戻していたものの、憔悴していることは傍目にも明らかだった。しかし、剛三は同情する素振りも見せずに切り出す。

「中川館長、約束どおり『其の瞳に映るもの』は引き揚げさせてもらって構わんかな」

「どうぞ、お約束ですから」

 中川館長は、力なく愛想笑いを浮かべて答えた。

「どうか悪く思わんでくれ。これは我々にとってかけがえのない大切な絵なのだ。また機会があれば声を掛けてほしい。中川館長とは、今後も末永く付き合いを続けたいと考えておる」

 それは剛三の本音だった。彼についてはなかなかの好人物と評価している。絵画や美術についての造詣が深く、愛情もあり、これほど美術館館長に相応しい男はいない。今回のことは、本来なら彼には関わりのないことであり、いずれ何らかの形で埋め合わせをするつもりでいた。

「ありがとうございます」

 中川館長は丁寧に礼を述べ、頭を下げた。

 剛三は貫禄のある顔で頷くと、悠人に向き直って言う。

「悠人、行くぞ」

 彼はちょうど『其の瞳に映るもの』を黒い布に包み終えたところだった。それを抱えて立ち上がったのを確認すると、彼とともに、展示室の正面入口からゆったりとした足どりで出ていく。

 展示室の外には、スーツに着替えて白手袋をはめた篤史が待ち構えていた。礼儀正しく深々と一礼して剛三を出迎える。彼らしからぬ態度だが、これは会長付きの運転手という設定を演じているにすぎない。剛三は目配せして彼を従えると、悠人とともに、三人で堂々と美術館をあとにした。


「本当に来たのか、怪盗ファントム……」

 高杉近代美術館の前に到着した誠一は、残されたハンググライダーや遠ざかるヘリコプター、そして引き揚げる野次馬たちを眺めながら、誰にともなくそんな呟きを落とした。

 今朝の朝刊を見て、誠一は飲みかけのコーヒーを噴き出しそうになった。

 怪盗ファントムを名乗る人物からの大胆な犯行予告——もちろん、そのようなものを信じたわけではない。おおかた人騒がせな宣伝か何かだろうと思った。それでも、予告時間が近づくにつれ居ても立ってもいられなくなり、ついにはアパートを飛び出してここまでやって来たのだ。仕事中ならば忘れられたのかもしれないが、非番だったため、なおさらそのことばかり考えてしまったのだろう。

 だが、少し遅かったようで、到着したのはすべてが終わったあとだった。

「やっぱ美術館のプロモーションじゃない?」

「まさか、ここまで大掛かりなことやるかよ」

 隣を通り過ぎていく若い男女が、醒めた口調でそんな話をしている。怪盗ファントムをリアルタイムで知らない世代なら、この馬鹿らしいくらいの大胆な犯行を、にわかに信じられないのも無理はないだろう。

 一方、正門前にいた年配の男性は、すっかり興奮しきっているようだ。

「怪盗ファントムの復活だ!」

 固く握ったこぶしを振り上げて叫んでいる。

 近くにいた大学生くらいの男女五人組は、胡散臭そうな眼差しでその光景を一瞥した。男から少し距離をとりつつ、そそくさと小さく寄り集まると、若干声をひそめて議論を始める。

「でも、怪盗ファントムって男でしょう? さっきの女の子じゃん」

「そうそう、それもかなり若そうだったよな。20代前半くらい?」

「モデル並みにスタイル良かったよなぁ…脚きれいだったよなぁ……」

「まあ、怪盗ファントムの真似をしたニセモノってところだろうな」

「もしかすると後継者かもよ。ほら、弟子とか娘とかさ」


 別人か——。

 彼らの話に耳をそばだてていた誠一は、胸の内で小さく息をついた。

 安堵なのか、落胆なのか、それは自分でもよくわからない。

 まだ小さな子供だった頃、誠一は『怪盗』の意味もわからないまま、夜を駆け巡る怪盗ファントムに憧れていた。特撮ヒーローでも見るかのような気持ちで——いや、実際に区別がついていなかったのだろう——テレビにその姿が映るたびに釘付けになって目を輝かせていた。

 大人になり刑事になった今なら、パフォーマンスに目を惹くものがあっても、結局のところはただの犯罪者であり、憧れる対象でないことは理解している。ただ、幼い頃に抱いていた純粋な感情を、完全に消し去るのは難しい。

「すみません」

 誠一は若い制服警官を見つけると、警察手帳を見せて呼び止めた。その彼に事件の顛末を尋ねる。

 やはり『湖畔』は怪盗ファントムを名乗る者に盗まれていた。警備に当たっていたのは、民間の警備員と所轄の警官だけで、警視庁の人間はいなかったらしい。しかし、すでに連絡は済ませてあるので、間もなく来るだろうとのことである。

 警視庁も信じてはいなかったのだろう。

 本当に怪盗ファントムが復活したのかはわからない。しかし、鮮やかな手口で絵画を盗む輩が現れたのは事実である。これから世間が騒がしくなるだろう。あの頃のように——誠一はそんな予感がしていた。


「篤史、車をまわしてこい」

 その貫禄のある声に反応して、誠一は美術館の方に振り向いた。

 そこには、声に違わぬ佇まいを見せる初老の男性がいた。スーツを身につけた男性二人を従えて、美術館から出てきたところらしい。篤史と呼ばれた運転手らしき男性は、黒革の鞄を携えて足早に正門を出ていく。もう一方の、誠一よりやや年上と思われる男性は、黒い布で包まれた大きくて平たい何かを、大事そうにしっかりと抱えていた。

 ——絵画……か?

 誠一は無性にそれが気にかかった。職務中でなかったため少し迷ったが、意を決して、正門をくぐり彼らの方に向かっていく。相手がこちらに気付くと、軽く一礼し、ポケットから警察手帳を取り出して掲げた。

「警視庁捜査一課の南野と申しますが」

「一課? 担当が違うのではないか?」

 初老の男性は胡散臭そうに誠一の全身を見まわす。ジーンズにブルゾンという、刑事らしからぬ格好も訝しんでいるのだろう。一瞬、誠一は言葉に詰まったが、それでも引き下がりはしなかった。

「捜査権はあります。お手数をおかけしますが、中を確認させていただけませんか」

 黒い布に包まれた物体を左手で示しながら、誠一は丁寧な口調で要請した。

 しかし、男性は鋭い眼光で睨めつけて抵抗する。

「我々を疑っておるのか?」

「念のための確認です、ご協力を」

 誠一は顔色ひとつ変えずに答えた。このくらいで怖じ気づいていては刑事など務まらない。高圧的な視線から逃げることなく、しかし挑発的になることなく、あくまで平静と中立を保ったまま見つめ返す。

 張り詰めた沈黙が続いた。

 それを打ち破ったのは、青ざめながら美術館から飛び出してきた中年の男性だった。

「君っ! 警察か?!」

「はい、あなたは……」

 誠一は警察手帳を見せながら尋ねた。彼は少し息を整えてから答える。

「館長の中川だ。いいか、この方たちを疑うのはまったくのお門違いだ。その中身は先刻まで当方が借り受けていた絵画で、盗まれた『湖畔』ではない。私も包むところを見ている。第一、そのとき『湖畔』はすでに怪盗ファントムに持ち去られていたのだからな」

「念のための確認です、ご協力を」

 融通のきかない堅物のように、誠一は先ほどと同じ言葉を繰り返した。自分の目で確認するまで納得してはならない。それが、先輩刑事の岩松から教わったことのひとつだ。

 中川館長の顔は、ますます渋いものになった。

「君……この方は、橘財閥の会長なのだぞ」

 それまで動じることのなかった誠一が、途端にハッとして大きく目を見開いた。肩書きに驚いたわけではない。さすがにこれほどの大物とは思わなかったが、名のある人物だということは察しがついていた。けれど。

 この人が、澪の祖父——。

 よりによって、このような状況で対面を果たすことになるとは思わなかった。そもそも会うこと自体が想像もつかなかった。彼女の祖父が橘財閥会長であることは知っていたが、だからといって容易に実感など持てるものではない。しかし、今は刑事としてここにいるので、澪のことは無関係だと自分に言い聞かせる。

「ご協力をお願いいたします」

「悠人、見せてやれ」

 剛三はちらりと背後に目をやって言う。

 悠人と呼ばれた男性は、口元に穏やかな微笑を浮かべたまま、黒い布を上部から丁寧にめくっていく。そこから姿を現したのは、立派な額縁に入った絵画だった。ただし、盗まれた『湖畔』ではなく——。

「『其の瞳に映るもの』、所有者は我が娘の橘美咲だ」

「……失礼いたしました」

 誠一は深々と頭を下げた。その絵を見たのはこれが初めてだが、話は澪から聞いたことがあった。母方の祖父は有名な画家だったらしく、少女時代の母親を描いた絵が家に飾られているのだと。中川館長の話とも矛盾はない。『湖畔』が見つからなかったことは残念だが、それよりも安堵する気持ちの方が大きかった。

「行かせてもらうぞ」

 剛三は威厳のある声でそう言うと、後ろで手を組み、正門に向かって悠々と歩き出した。そのあとを、絵画を包み直した悠人がついて歩く。誠一は深々と腰を折り、去りゆく二人の後ろ姿を見送った。

「このことは、警視庁に抗議させてもらうからな」

 残った中川館長が、苦々しげに顔をしかめて言い捨てる。

 誠一は口をつぐんだまま再び大きく頭を下げた。間違ったことをしたつもりはないが、この場を収めるには何も言わない方がいいだろう。それでも、おそらく抗議については避けられない。その覚悟はしていた。


 中川館長が美術館に戻ったのを見届けると、誠一はブルゾンのポケットに手を差し入れた。ふうと大きく息をつき、頭上に広がる濃紺色の空を仰ぎ見る。頬を掠める冷たい風が心地良く感じた。

 澪とは会えないのに、その祖父に会ってしまうとはな——。

 ふと、そんなことを考えて苦笑する。

 今日は久しぶりに澪と休日が重なったにもかかわらず、彼女の方に用事があって会えなかったのだ。さっそく「家の事情」と言葉を濁していたので、詳しくは聞いていないが、家族とどこかに出かけるようなことを言っていた。

「…………」

 誠一は目を細め、胸ポケットの携帯電話に手を伸ばした。


「あっ」

 澪は短く声を上げて、内ポケットから震える携帯電話を取り出した。背面のディスプレイを確認すると、顔をパッと輝かせ、折り畳まれた本体を手早く開いて耳に当てる。

「もしもし、誠一?」

「ちょっと、澪!」

 隣の遥がハッとして振り向き、咎めるように名前を呼んだ。眉を寄せて非難の眼差しを向ける。そのことに澪も気づきはしたが、もう電話に出てしまっていたため、とりあえず誠一との会話を優先することにした。

『澪? 何かすごい音がしてるけど……』

「ごめん、いまちょっと移動中なの」

 澪たちがいるのはヘリコプターの中である。エンジンやプロペラの回る音がうるさく、それが誠一の方にも届いているのだろう。澪も片耳を押さえないと誠一の声が聞き取れないくらいだ。

「遥も一緒にいるよ。替わろうか?」

『いや、それはいいよ……』

 電話の向こうで誠一は苦笑していた。つられて澪も笑う。

「それで、どうしたの?」

『ああ……別に用はないんだけど、澪の声が聞きたくなってな』

「え、そういうの初めてじゃない? 私も誠一の声が聞けて嬉しいけど」

 澪の顔は自然とほころんでいた。誠一と会えなくて気が滅入っていたが、声を聞けただけで、そんな寂しさもどこかに吹き飛んでしまう。そして、何より、彼も同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。

『今日はもう切るよ』

「うん、それじゃあね」

『ああ、またな』

 澪はくすっと笑って携帯電話を切ると、それを折り畳んで内ポケットに戻した。このまましばらく余韻に浸っていたい気分だったが、隣の遥がじとりと睨みつけ、現実に引き戻すように重々しく切り出した。

「澪、ケータイ持ってきてたの?」

「作戦遂行中は電源切ってたよ」

「そういう問題じゃない」

 彼はいつになく厳しい声でピシャリと言う。

「まず、現場に落としたらシャレにならないってのはわかるよね? それに、ケータイは持ってるだけで居場所の特定ができるから、それで正体がバレる危険性も少なからずあるんだよ。家を出てから帰るまでが作戦遂行中だから気を抜かないで。こんなところで電話に出るなんてもってのほか」

「うん……」

 その説明はわかりやすく説得力があり、澪は素直に反省するしかなかった。

 遥は窓枠に頬杖をついて外に目を向ける。

「じいさんには内緒にしとく」

「……ありがと、遥」

 澪は身をすくませて小さく微笑むと、甘えるように遥の肩に寄りかかった。長い黒髪がさらりと揺れる。彼が振り向くことはなかったが、嫌がることもなく、そのままの姿勢で澪を受け止めていた。

 ヘリコプターは夜空を切りながら、まっすぐに目的地へ向かって飛んでいった。


「上手くいったんですよね?」

「少しヒヤリとしたけどね」

 打ち合わせスペースで澪が身を乗り出して尋ねると、悠人は黒い布に包まれた絵画を机に置きながら、いつものように穏やかに笑って答えた。手を止めることなく丁寧に黒い布を外す。そこには、立派な額縁に入った美咲の肖像画があった。見たところ、大きな傷や汚れはついていないようだ。

「無事で良かった」

 澪はほっと胸を撫で下ろした。この計画を聞いたとき、最も心配したのは肖像画のことだった。万が一、損傷するようなことがあれば、母親に申し訳が立たない。考え直すよう祖父にも進言したが、当然のように聞き入れられることはなかった。

 悠人は額縁をひっくり返して裏板を外す。その中には、肖像画より一回り小さいもう一つの絵画が入っていた。布で保護されたそれを取り出し、机の上に立てると、丁寧な手つきで包みをめくっていく。

 現れたのは『湖畔』だった。

 篤史が美術館の灯りを落とした間に、展示室内にいた悠人が、この額縁の中へ『湖畔』を移したのだ。その後、何食わぬ顔で、肖像画ごとそれを持ち出したのである。

「きれいな絵……」

 澪は率直な感想を呟いた。本物の『湖畔』を見るのはこれが初めてであり、印刷や写真ではわからなかった力強さ、繊細さ、質感、そして色の鮮やかさに、思わず目を奪われてしまう。

 そんな澪の様子を見て、剛三は満足げに頷いた。

「天野俊郎の風景画は青が特徴的でな。この透き通るような、それでいて深みのある青は、彼にしか出せんと云われておる。彼の作品はどれも人気が高いが、特にこの『湖畔』は、その題材や見た目の美しさから、絵画に詳しくない者にも受けが良く、病院や公共施設によくレプリカが飾られておるのだよ」

「おじいさま、今回はどうやって返しに行くんですか?」

 今度は自分が行かされるかもしれないので、澪は気になって尋ねた。

 しかし、返ってきたのは思いもよらない答えだった。

「今回は返さん」

「えっ……?」

「これは報酬として私がもらい受ける」

「そんな! 話が違います!」

 澪はバンと叩きつけるように両手をついて立ち上がり、剛三に強く抗議する。

「花さんのために取り返したはずですよね?!」

「そう目くじらを立てるな。悪いようにはせん」

 剛三は真剣に取り合おうともせず、ただ愉快そうに笑いながら澪を宥める。しかし、そんな矛盾した言葉を信じられるはずがない。悪いようにしないというのは、彼自身にとってという意味でしかないように思えた。

 それまで黙っていた遥が、小さく溜息をついて口を挟む。

「何か考えがあるのなら説明してくれない?」

「悠人、澪たちに説明してやってくれ」

 剛三は含みのある笑顔でそう促すと、悠人は頷いてファイルを開く。

「澪、とりあえず座って」

 穏やかだが有無を言わさぬ口調。

 澪はひとまず指示どおり腰を下ろした。そして、疑いの拭いきれない眼差しを向けつつも、机の上で手を重ね、口を引き結んだまま悠人の説明に耳を傾けた。


「良かったですね、花さん。ここは優しい人ばかりよ」

 白を基調とした清潔感のある小綺麗な部屋。その南側の大きく開いた窓からは、柔らかな日射しが降りそそいでいる。少しひんやりした風が滑り込むと、レースのカーテンがふわりと丸みを帯びるように揺れた。

 澪は、窓際の椅子に腰掛ける花に微笑みかける。

 彼女は戸惑いがちに小さく微笑み返し、秋らしく色づいた外の風景に目を向けた。


 ここは高齢者用の医療介護施設である。

 それも、空気がきれいな落ち着ける環境のもと、明るく家庭的な雰囲気で、質の良い介護が受けられるという施設だ。当然ながら相応に高額であり、誰でも気軽に入所できるわけではない。

 花は、剛三の援助でここに入所することになった。

 画家・天野俊郎の支持者として、その娘の治療を援助させてほしい——身分を隠したまま彼女の息子にそう申し入れると、そちらで全面的に面倒を見るなら好きにしてくれ、という突き放した返答があった。

 厄介払いができて清々しているのだろう。

 そのことを思うと腹立たしかったが、息子のことを考えても仕方がない。花が心安らかに過ごせることが第一である。彼女にとってはこれが最善なのだと、澪は自分にそう言い聞かせて納得しようとした。


「お願いしてあった絵の件ですが」

 澪たちから離れたところに立っていた悠人は、隣のふくよかな介護士の女性にそう切り出した。彼女は人の良さそうな柔らかな笑みを浮かべ、わかりやすく頷きながら答える。

「ええ、この部屋に飾れるよう手配いたしますわ」

「それでは、よろしくお願いいたします」

 悠人は黒い布を丁寧に外し、額縁に入った『湖畔』を彼女に手渡した。

「あら、この絵……盗まれたって話題になっていたあの絵じゃ……」

 彼女はまじまじと見つめながら呟く。

 澪はドキリとして顔をこわばらせたが、悠人は少しも動じず、にっこりと完璧な微笑を浮かべて答える。

「レプリカですよ」

「ですよねぇ」

 ほほほと笑いながら彼女は応じる。たとえ本物だと言ったところで信じはしないだろう。世間的には盗まれて行方不明のままであり、こんなところにあるなど常識では考えられないのだ。

「花さんにとって思い出の絵だと聞いて用意しました。彼女の心の支えになればと思いまして。さすがに本物というわけにはいきませんでしたが、忠実に再現したものですので……」

「お心遣い感謝いたします。花さんもきっとお喜びになると思いますよ」

 今の彼女にとって重要なのは、誰の所有かではなく、自分の手元にあるかどうかである。だから、彼女が生きている間は、この絵を彼女に預けることにする——剛三はそう約束してくれた。確かに、絵を返しただけでは彼女の救いにならない。おそらくまた息子に売り払われてしまうだけだろう。

「花さん、これからはずっとこの絵も一緒よ」

 澪は、窓の外を眺める花に優しく声を掛けながら、絵を持った介護士を手招きして呼び寄せる。彼女は小走りで前に進み出ると、少し身を屈め、花が見やすいように絵を持ち直した。

 花はぼんやりと振り向いた。

 焦点の定まらない視線が彷徨う。しかし『湖畔』を目にした途端、彼女の瞳に強い光が宿った。みるみるうちに涙が溢れ、目尻からこぼれ落ちて頬を伝う。

「ああ……もう二度と会えないと思っていたのに……」

 声を詰まらせてそう言いながら、おずおずと震える手を伸ばす。介護士が『湖畔』を差し出すと、花は目を細めてそれを受け取り、幸せそうに顔をほころばせて抱きしめた。

 介護士は後ろへ下がってくすっと笑い、声をひそめて悠人に言う。

「本物と思っているようですね」

「そう思わせてあげてください」

「ええ、もちろんですわ」

 しかし、それは決して思い違いなどではない。彼女には本物であることがわかったのだろう。子供の頃から、長い時間をともに過ごしてきた絵なのだから。そして、これからも彼女の命ある限りずっと——。


「良かったね、花さん」

 帰りの車中、助手席の澪はニコニコしながら声を弾ませた。ペットボトルのミネラルウォーターに手を伸ばし、ひとくち流し込むと、運転席の悠人に振り向いて上機嫌で話を続ける。

「私ね、怪盗ファントムやって良かったって、ちょっと思っちゃった」

「怪盗なんてただの犯罪者だって、さんざん文句を言ってなかった?」

「うん、だからちょっとだけね」

 澪はシートベルトを伸ばして身を乗り出し、親指と人差し指をほとんどくっつける仕草を見せた。悠人はちらりと横目を向けると、ハンドルを握ったまま、何か含みのありそうな笑みを浮かべる。

「えっ? なんですか?」

「澪は本当に流されやすいなって」

「そんなことないと思うけど……」

 澪は小首を傾げる。素直だと言われることはよくあるが、流されやすいというのはまた別だろう。

「その自覚のなさが余計に危険なんだよね。流されやすいというより、絆されやすいっていうのかな。ちょっと情に訴えてお願いすれば、何でも言うことを聞いてくれそうな感じだし」

「私、そこまで馬鹿じゃありません」

「そうだね。でも、キスくらいなら」

 ゴトン——澪は動揺してペットボトルを滑り落とした。足元で転がって止まる。

 彼の口からそんな言葉が出るとは思いもしなかった。もちろん、からかっているだけだということはすぐにわかる。その意味ありげな微笑にムッとして眉を寄せると、ペットボトルを拾い上げ、負けるもんかとばかりに挑戦的に切り返す。

「だったら、試してみてください」

「澪、寂しいからキスしていい?」

 もはや馬鹿にされているとしか思えなかった。いくらなんでも、それで心を動かされる人間はいないだろう。ましてや、今さら澪にこんなことを言うなど、神経を逆なでするだけである。なぜなら——。

「……私をふったこと覚えてます?」

 澪の初恋の相手は悠人だった。今となっては他に好きな人がいるので、彼に恋愛感情など持っていない。だが、当時は真剣に好きだったし、告白して断られたときは傷ついていたのだ。

 しかし、悠人は無神経にもくすくすと笑い出す。

「さすがに8歳の子とは付き合えないからね」

「あ……」

 言われてみれば、確かにあのときは8歳だった。自分が子供だという自覚もあまりなく、恋愛対象として見てもらえないことに深く落ち込んだが、今になって考えるなら至極当然といえるだろう。そう思うと、急に笑いがこみ上げてきた。

「そういえばそうですよね」

「ようやくわかってくれた?」

 彼と恋愛に関する話をしたことは、これまでほとんどなかった。告白したあのときくらいである。しかし、今のこの雰囲気なら訊けるような気がして、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみる。

「師匠には彼女とかいないんですか?」

「学生の頃はいたけど、それ以降はいないよ」

 不躾な質問にも動じることなく、悠人はハンドルを握ったまま淡々と答える。

「どうしてですか?」

「そんな暇、あると思う?」

 悠人は橘家に住み込んでおり、公私の別なく剛三に仕えてきた。そのうえ、親同然に澪たちの面倒を見て、武術の稽古まで引き受けている。彼自身のプライベートな時間は、ほとんど皆無といってもいいだろう。剛三がそこまで彼を拘束していることに、自分もその一端を担っていることに、澪はこのときあらためて気付かされた。ペットボトルを両手で握りしめてうつむく。

「剛三さんは、僕と澪を結婚させたいみたいだけどね」

「……えっ?!」

 澪は大きく目をパチクリさせて、運転席の悠人に振り向いた。しかし、その横顔からは思考も感情も読み取れない。いつものように薄い微笑を湛えたまま、優しく落ち着いた声で言葉を繋いでいく。

「澪の気持ちを無視してまで強引に結婚させる、ってことはないだろうから安心して。いくら剛三さんでもそこまではしない。孫娘を不幸にしようだなんて思っていないはずだからね。嫌だったら断ればいいだけのことだよ」

「そんな勝手な話、師匠だって困りますよね」

 澪は当惑しつつも、笑い飛ばすように極力明るくそう言った。

 しかし、悠人はそれに同調しようともせず、前方を見つめたまま真剣な顔になると、誰もいない道路を走らせながら静かに答える。

「僕は、澪となら結婚してもいいと思ってるけどね」

「…………」

 澪はとっさに何の反応もできなかった。ただただ唖然とするだけである。別に結婚すると決まったわけではないが、悠人がそう思っているというだけで、澪にとっては十分すぎるほど衝撃だった。

 そんな様子を横目で見ながら、悠人は軽く冗談めかして言う。

「澪に断られたら、僕は一生独身かな」

「そ……そんなの……なん、で……」

 澪の混乱した気持ちは言葉にならなかった。腹立たしいような、悔しいような、困惑したような、それでいて胸を締めつけられるような思いが、胸の中で大きくうねりながら渦巻いている。

「寂しいっていうのは本当だよ」

 赤信号で車が止まる。

 悠人はハンドルから手を離して振り向いた。無言で澪と視線を絡ませる。そして、おもむろに腕を上げると、助手席の背もたれに手を掛け、ゆっくりと澪に顔を近づけてきた。

 頭の中は真っ白だった。

 手からミネラルウォーターのペットボトルが滑り落ちる。現実から逃れるように、体をこわばらせて震える瞼をぎゅっと閉じる。それでも、すぐ近くまで悠人の顔が近づいてきたのがわかった。微かな吐息が鼻に掛かる。そして——。

「イタっ!」

 額に軽い痛みが走った。反射的に額を押さえて目を開く。

「わかった? 自分が流されやすいってこと」

 いつのまにか、悠人はハンドルを握ってくすくすと笑っていた。

 どうやら指で額を弾かれたらしい。今の今までずっとからかわれていたのだと、澪はそのときようやく気がついた。カッと頭に血を上らせたものの、強気に言い返すこともできず、横目で睨みながら口をとがらせる。

 信号が青になり、車はゆっくりと滑り出す。

 澪はパワーウィンドウを下げて頬杖をついた。稲が刈り取られたあとの田圃をぼんやりと眺める。少しひんやりとした秋風が、長い黒髪をさらさらと吹き流し、火照った頬からは熱を奪っていった。

 単調な走行音を聞くうちに、次第に落ち着きを取り戻す。

 この車中での話がすべて嘘だとは思っていない。途中までは普通に会話をしていたはずだ。とりあえず、澪の質問にすぐに答えてくれたことから、彼女がいないというのは信じていいだろう。だけど。

 剛三が結婚させたがっている話は?

 澪と結婚してもいいと言ったのは?

 寂しいという気持ちは?

 いくら考えてみたところで、どこまでが本当なのかはわかりようがない。だが、たとえすべて本当だとしても、まわりにどう言われようとも、今さら悠人に気持ちが移ることなどありえない。あってはならないのだ。

 もう流されないんだから、絶対——。

 澪はキュッと唇を引き結ぶと、急に存在感の増した過去の恋心を、強い決意で片隅に追いやった。


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