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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
59/68

58. 最後の役割

 この扉の向こうに、お父さまがいる——。

 緊張で全身が汗ばむのを感じつつ、澪は飾り気のない重そうな扉の前に立ち尽くしていた。右手は胸元で軽く握られている。呼び鈴を押さなければ何も始まらないとわかっていながら、なかなかそこに手を伸ばせずに時間だけが過ぎていった。


 澪はドイツに住んでいる大地に会うべく、一人で彼の自宅前まで来ていた。

 ターミナル駅から最寄り駅までは電車で十数分、そこからは徒歩五分ほどで、綿密に下調べをしてきたおかげもあり、ドイツ語のわからない澪でも無事に着くことができた。文句を言いつつも事前準備に付き合ってくれた遥には、いくら感謝してもしたりない。

 彼の住まいは街中にあるアパートの一室である。外観からするとそう新しくはなさそうだが、大きく重厚な作りで、まわりの建物と比べて存在感が際立っていた。あたりにはそこそこの人通りも車通りもあるが、決してうるさくはなく、のんびりと落ち着いているように感じられる。ヨーロッパの伝統的な街並みという印象だ。

 訪問予定のおおまかな日時はあらかじめ電話で伝えてあり、自宅にいてもらうことになっている。エントランス外側に設置されているプレートを覗き込み、彼の名札が貼られた呼び鈴を押すと、返事はなかったがビーッと音がしてエントランスの鍵が開いた。彼が遠隔操作で開けてくれたということだろう。

 駆け足でエントランスに入り、見たこともないレトロなエレベータに乗り込んで六階で降りる。

 彼の部屋は突き当たりにあった。

 澪がさきほどから立ち尽くしているのはここである。心の準備は十二分にしてきたつもりだったが、いざ対面となると怖じ気づき、情けなくも扉の前で凍りついてしまったのだ。しかし、このままでは不審者として通報されかねない。ボストンバッグのショルダーベルトをつかむ手に力を込め、グッと奥歯を噛みしめると、震えるもう片方の手でそろりと呼び鈴を押した。


「よく来てくれたね」

 拍子抜けするくらい普段と変わらない態度で、まるで何事もなかったかのように、大地は愛想よくにこやかに出迎えてくれた。澪は少なからぬ当惑と混乱を感じながらも、どうにか小さく会釈をし、彼に促されるまま中に足を進めていく。

 アパートといっても、一人で住むには贅沢なくらいの間取りだった。

 澪が通されたのは書斎のようだ。剛三のそれと比べれば半分にも満たない広さであるが、執務机のほかに応接用のソファとローテーブルも置かれており、仕事関係の客人くらいならもてなせるようになっていた。ただ、天井も壁も床も全面まぶしいくらい真っ白なため、書斎としてはいささか落ち着きが足りないように感じる。

「座って」

「いえ、ここでいいです」

 大地に奥の応接用ソファを勧められたが、入ってすぐに足を止め、若干こわばった面持ちで首を横に振った。その様子を見て何かを悟ったのだろう。彼はしつこく勧めることなく執務机へ足を進めた。そして大きな革張りの椅子にゆったりと腰を下ろすと、執務机に組み合わせた手を置き、意味ありげな薄い微笑を浮かべて澪を見つめる。

「澪……久しぶりだね」

「お久しぶりです」

「来てくれて嬉しいよ」

 彼の声は優しかったが、その中にどことなく甘さのようなものを感じて身構えた。頭の中にはさまざまな護身術の訓練がよみがえる。あれだけ悠人に教えてもらったのだから大丈夫と言い聞かせて、気持ちを落ち着かせる。今日はデニムのパンツを穿いているので、普段の短いスカートよりも防御力が高い。それに、扉付近にいればすぐに逃げられるはずだ。

「緊張しているの?」

「……少し」

 澪はいまだにボストンバッグを肩に掛けたまま突っ立っていた。あからさまな警戒の様子に気分を害しただろうか。せめて荷物くらいは下ろした方がいいかもしれない。そう思って、ショルダーベルトを持つ手に力を込めたとき——。

「じゃあ、とりあえず寝室へ行こうか。ベッドで緊張をほぐしてあげるよ」

 そんなことを言って淫靡な笑みを浮かべる大地を見て、澪はゾクリと背筋を震わせた。

「なっ……なに考えてるんですか!」

「澪だって先日のことが忘れられないんじゃない?」

「はぁっ? バカなこと言わないでくださいっ!!」

 あまりの身勝手な言いようにカッと頭に血がのぼり、思わず語気が荒くなる。とても父親に対する物言いではない。しかし、彼は少しも動じることなく静かに笑みを深くした。

「でもさ、随分と気持ちよさそうにしてたよね」

「……お父さまの勝手な思い込みです」

「へぇ、本当に少しも気持ちよくなかった? あんなにひっきりなしに甘く淫らな声を上げて、ぐちょぐちょに濡らしてひくつかせて、僕の背中に爪を立てるほど強くしがみついて、しまいには震えながら気をやっていたっていうのに?」

 具体的な指摘に、澪はゆでだこのように顔を火照らせて狼狽した。甘く淫らなという部分は否定したいが、それ以外についてはくやしいが身に覚えがある。言い返すことができず微妙な面持ちで眉を寄せていると、彼はにこやかに追い込みをかけてきた。

「僕には感じているようにしか見えなかったけどね」

「……でも、私はそんなこと望んでいなかった」

 それが澪にできる精一杯の反論である。潤んだ目で恨みがましく睨むが、彼はとぼけるように小首を傾げた。

「そうだっけ?」

「顔をぶって好き放題したんじゃないですか」

「ああ、そのことを怒っていたわけか」

 ようやく納得したとばかりに頷きながら答えると、再びにっこりと微笑む。

「顔を叩いたことは申し訳ないと思っているよ。ごめんね。澪がなかなか素直になってくれないから、少しばかり焦ってしまったんだ。あのときはちょっと精神的に余裕がなくてね。数日間ベッドで過ごして体力も落ちていたし」

 あまり反省していない様子だった、と悠人は言っていたが、あまりどころか全く反省していない。むしろ合意の上だとでも思っていそうな感じである。澪の半分を美咲と認識しているからだろうか。そんなことは美咲も望んでいないはずなのに。

「……お母さまがあの世で悲しんでると思います」

「へぇ、澪は死後の世界なんて信じてるんだ?」

「えっ、あ……その、信じてるとかじゃなくて……」

 思わぬ切り返しにしどろもどろになる。死後の世界について論じたかったわけではないし、そもそも存在するかどうかなど深く考えたこともない。ただ、やはり漠然と信じたい気持ちはあったのかもしれない。今もどこかで美咲が自分たちを見守ってくれていると。しかし——。

「死んだらすべて終わりだよ。無に帰すだけさ」

 大地は醒めた声で言う。

「死後の世界も、魂も、生まれ変わりも、弱い人間の心がつくりだした都合のいい現実逃避にすぎない。僕に残されたのは美咲がいないという現実だけなんだ。それでも僕は生きている。美咲のいない世界で生きていかなければならない」

 ゆらりと顔が上がり、仄暗い荒んだ目が澪を捉える。

「いっそ僕も後を追えばよかった?」

「そんなこと思っていません! 私はただ……お母さまの……」

 言いたいことはあるのにうまく言葉が出てこない。頭の中がとっちらかってまとまらない。焦れば焦るほど思考が真っ白になっていく。言いよどんだまま何も反応できずにうつむいていると、彼はあきれたように溜息を落とした。

「澪、君は用事があって来たんだろう?」

「あっ、そうです。えーっと……」

 危うく本来の目的を忘れるところだった。今はそちらの方が大事だ。

 いまだ肩に掛けたままだったボストンバッグを床に下ろし、ファスナーを開いてクリアファイルを探すと、挟んであった婚姻届を慎重な手つきで取り出した。彼のいる執務机の前まで足を進めてそれを差し出し、もとの位置に戻る。もちろん手をつかまれたりしないよう細心の注意を払っていた。

 大地は無表情で頬杖をつきながら、その婚姻届に目を落とす。

「へぇ、結婚するの?」

「はい、だからお父さまに署名捺印をいただくためにここまで来ました。未成年だと親の同意がいるそうです。その他の欄に『この婚姻に同意します』と書いて、住所、氏名、生年月日、捺印をいただきたいのですが、お願いできますか?」

 澪が丁寧に頼んでいる間も、彼は仏頂面でじっと婚姻届を見つめていた。そして、おもむろに人差し指でトンと示して言う。

「夫の名前が気に入らないね。これが楠悠人なら喜んでサインするんだけど」

 まただ——澪はゆっくりと奥歯を噛みしめる。橘財閥の将来を考えている剛三は仕方ないかもしれないが、篤史も、大地も、みんなして悠人と結婚させたがることにうんざりだった。悠人本人は誠一との結婚を応援してくれているというのに。

「いまさら父親ぶらないでください」

「悠人の親友としての発言さ」

 大地は軽い調子で答え、婚姻届を机の脇に寄せながら話を続ける。

「長年、恋心を隠しながら誠実に澪の面倒を見ていたのに、その間にへなちょこ刑事にかっさらわれたんだぞ。あまりにも不憫だろう。真面目な悠人を差し置いて、高校生と淫行するようなヤツが幸せになるのは許せないね」

 正論のように聞こえるが、少なくとも澪と淫行した大地に言う資格はないと思う。彼の場合は合意もなかったのだからなお悪い。だが、そのことを論じればさきほどの二の舞になってしまう。じとりと冷たく睨みながら、挑発の言葉に踊らされないよう用心して言い返す。

「お父さまの意見は聞いていません」

「でも、同意の署名がほしいんでしょ?」

「署名捺印だけしてくれればいいんです」

 これまで見せたことのない反抗的な態度に、大地は少し驚いているようだった。しかし、頬杖を外してゆったり両手を組み合わせると、わずかに顎を引いてニッと口の端を上げる。

「随分と勝手なことを言うね」

「お父さまは父親じゃないですから」

「でも戸籍上は実の父親だからね」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「まあ、主に僕かな」

 微塵も責任を感じていないかのように、軽く笑いながら答える。

 それでも澪にはひたすら訴え続けるしかなかった。

「わかってるんだったら責任を果たしてください。戸籍上の父親として署名捺印してくれてもいいでしょう? もうこれ以上は父親としての役割を求めませんから、最後に、最後だけでも私の幸せのために手を貸してください」

 その声に切実な思いがにじむ。

 大地は身じろぎもせず真正面から澪の双眸を見つめてきた。さきほどまでとは別人のような真剣な顔をしている。息が詰まりそうな沈黙の中、澪は固唾をのみ、彼がこれから出すであろう結論を待った。

「……いいだろう」

「本当ですか?!」

「ただし一つ条件がある」

 そのひとことで喜びは警戒心に変わった。顎を引いて正面の彼を見据える。

「……何でしょう?」

「一回だけ悠人とセックスしてやってくれ」

 そういう下劣な類のことだろうと覚悟はしていたつもりだが、実際に面と向かって言われるとやはり衝撃を受けてしまう。暫しの沈黙のあと、やっとのことでごくりと唾を飲み込んで口を開く。

「そんなの、師匠は望んでいないと思います」

「君は案外悠人のことをわかってないんだな」

 大地の声は心底楽しそうに弾んでいた。

「君には物わかりのいい保護者の顔しか見せてないかもしれないけど、あいつの心の中はドロドロだよ。それはもうヘドロみたいにね。何十年も溜め込んできた黒いものが奥底に鬱積しているのさ。澪に格好つけようと証人を引き受けたんだろうけど、据え膳まで我慢できるとは思えない」

「…………」

 彼の言うことをすべて鵜呑みにしたわけではないが、実際にその片鱗らしき部分は何度か目撃したことがある。無理やりキスしてきたときも様子がおかしかった。そして、今回の大地と同じような取引を持ちかけてきたこともあった。もし、そういう気持ちがまだ少しでもあるのだとしたら——。

「悠人が僕のお膳立てを断ると思うなら、条件を飲んだらどうだ?」

「えっ?」

「いまここで澪がその条件を飲むと約束してくれれば、僕は婚姻届に同意のサインをする。その後、悠人が断ってきたとしてもサインは撤回しない。君は悠人に抱かれることなく、あのさえないへなちょこ刑事と結婚できるってわけだ」

 澪はこぼれそうなほど大きく目を見開いて息を詰めた。ゆっくりとうつむき、ほんのすこし眉を寄せたままじっと思案をめぐらせる。正直にいえば心が揺れた。それでも——決意を固めると、迷いなくはっきりと首を横に振ってみせる。

「へぇ、悠人を信じてないんだな」

「そうじゃなくて……」

 大地の挑発にも落ち着きを失うことはなかった。小さく息をついて言葉を継ぐ。

「この条件を飲むこと自体が裏切りになると思うから」

「そんなの馬鹿正直に言わなければわからないだろう」

「わかるわからないの問題じゃありません」

 誠一をもう二度と裏切らないと決めた。誠一に対して誠実でいようと決めた。だから、そこは決して曲げてはならないところなのだ。この条件はまぎれもなく誠一への裏切りである。そして何より悠人が断るという確証がない以上、どうあっても絶対に受け入れるわけにはいかない。

「そう、じゃあ彼への誠意を貫き通して、悠人と結婚すればいい」

「えっ……それ、どうして……」

 一ヶ月以内に誠一と結婚できなければ、悠人と結婚する——剛三とそういう賭けをしたことは一言も話していない。しかし、彼の言い草からすると知っているとしか思えない。困惑していると、大地は口もとを斜めにしてニヤリとする。

「誰に教えてもらったんだったかな? 遥だったか、志賀君だったか、悠人だったか」

 若干芝居がかった口調で、とぼけたように知人の名前を言い連ねていく。記憶力のいい彼がそのくらい覚えていないはずはない。おそらく澪を追いつめるために言っているのだ。そして目論見どおり澪の心がさざめいたところに、さらなる追い打ちをかける。

「君の味方はいない。みんな南野君ではなく悠人との結婚を望んでいる」

 澪はキュッと唇を噛んだ。

 そのこと自体が賭けに影響を及ぼすわけではないと理解はしている。ただ無性に寂しかった。自分の大切な人たちに、まわりのみんなに、心から祝福されて好きな人と結婚したかった。漠然とそういう幸せな未来を思い描いていた。なのに——。

「これはもういらないね」

 その声と同時にビリビリと裂けるような音が聞こえ、ハッと視線を上げると、大地は半分に折り畳まれた紙を手で破いていた。まさか、それって——あまりのことに声もなく青ざめているうちに、彼は破いたそれを軽くひねって自分の足元に落とす。ことん、と金属製のゴミ箱に落ちたような音がした。

「なっ……何するのっ?!!」

「だって僕のサインがなければただの紙切れだよ。必要ないでしょ? 僕は条件を飲まなければサインしないからね。それとも、大切な彼を裏切ってでも条件を飲むつもりだった?」

 大地は眉ひとつ動かさず飄々と言う。

 澪は手のひらに爪が食い込むほど強くこぶしを握りながら、奥歯を食いしばった。頭に血がのぼりすぎてどうすればいいのか何も考えられない。堪えきれずにうっと小さな呻きをもらし、目を熱く潤ませる。

 どんな思いで、ここまで——。

 濡れた目元を無造作にぬぐって大地を睨めつけると、黒髪をなびかせながら駆けていき、その足元に置かれていたゴミ箱をあさろうとする。が、触れる寸前に手首をつかまれて押しのけられた。澪もむきになって押し返そうとするものの、彼の力には敵わず、両手首をつかまれたまま一歩二歩と後退してしまう。

「ひゃっ……!」

 ふいに足元が混乱してバランスを崩し、後ろに倒れていく。

 身体が落ちるすんでのところで大地に抱き止められたが、そのまま冷たい床に横たえられてしまう。うろたえる澪をまたいで膝立ちになった彼は、真上から覆いかぶさるように、顔の両側に手をついてじっと覗き込んできた。

「もう君に勝ち目はないんだよ」

 まるで最後通告だ。

 すぐ近くに迫っていた大地の顔が大きくぼやける。そんな澪を目にして彼はふっと鼻から息を抜き、長い黒髪を片手でもてあそびながら、あらわになった首筋に顔をうずめてきた。熱く濡れた吐息がかかる。

「子供のころの美咲の匂いがする。懐かしいな……悠人にやるのは惜しくなってきた」

 静かながら興奮を隠しきれていないその口調に、澪はゾクリと背筋を震わせた。首にかかる吐息はますます熱を増し、濡れた唇で耳を食まれ、ついには指先が身体をなぞり始める。白い天井を見つめていた目から、必死に堪えていた涙がつうっと流れ落ちた。

「うっ……こ……こんなことになるなら……私も、お母さまと一緒に死んじゃえばよかった……っ!」

 堰を切ったように嗚咽しながら、激情を吐露する。

 その瞬間、大地が首筋に顔をうずめたまま固まった。しばらく時が止まったように沈黙したあと、ゆっくりと上体を起こして真顔で澪を見下ろし、再び身を屈めて目尻にたまっていた涙を舐めとった。澪は驚きのあまりビクリと身体をすくませたが、彼はそれ以上触れることなく立ち上がり、腰に両手を当てながら大きく溜息をついて言う。

「サインするよ」

「…………?」

 澪は身体を投げ出したまま虚ろなまなざしを彼に向ける。しかし、その表情を目にすることはかなわなかった。彼は素早く身を翻して執務机へ向かい、書類の山から一枚の紙を手に取りこちらに掲げて見せる。

 それは、破られたはずの婚姻届だった。

「えっ……それ……?!」

「さっき破ったのは別の紙だ」

 目を見開いてはじかれたように起き上がった澪に、大地は静かにそう答えた。執務机についてさらさらとボールペンを走らせ、丁寧に捺印すると、床に座り込んだまま唖然とする澪のもとに戻ってきた。

「これでいいか?」

「あ……ありがとうございます……」

 困惑しつつも、差し出された婚姻届を両手を伸ばして受け取る。それは確かに澪が持ってきたもので間違いなく、頼んだとおりに同意の署名捺印もされていた。ありがたいとは思うが、急に態度を翻した理由がわからず素直に喜べない。感情の読めない顔つきで腕組みする彼を、上目遣いでうかがう。

「二度とあんなことを言うな」

「えっ?」

 一瞬、何のことだかわからなかった。彼はゆるりと見下ろして言葉を継ぐ。

「君の半分は美咲なんだ」

「……勝手なことを言いますね」

「美咲がいなくなったからな」

 ちぐはぐなやりとりだが、彼の言いたいことは何となくわかったような気がした。しかしながら何を考えているのかは釈然としない。いまだに澪の半分を美咲と見ているのに、澪を美咲の代わりとして見ているのに、どうして署名捺印してくれたのだろう。まさか、これで澪を懐柔して好き勝手するつもりなのでは——。

「私、お父さまのものにはなりません」

「だろうね。それでも生きていてほしいんだよ」

 その言葉をどう受け取ればいいのか判断がつかず、微妙に顔を曇らせる。いっそ本人に尋ねてみようかと思ったが、彼は腕を組んだまま小さく吐息を落とすと、何かを振り切るようにくるりと背を向けた。

「お幸せに」

 言葉とは裏腹の突き放した口調。まるで早く帰れと言われているように聞こえる。いや、おそらく実際にそう思っているのだろう。悠人の長年の親友としても、美咲に執着する男としても、この結婚を歓迎してはいないのだから。

「……ありがとうございました」

 澪は立ち上がると、婚姻届をやわらかく胸に抱いて深々と一礼する。そして振り返る気配のない広い背中をじっと見つめ、もういちど小さく頭を下げてから、ボストンバッグを引っつかんで足早に部屋をあとにした。その目に熱い涙をにじませながら——。


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