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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
58/68

57. 証人

「こんなものかなぁ」

 澪は時折考え込みながら慎重にボールペンを走らせていたが、一段落すると深く息をついてそうひとりごちた。あらためてその紙に目を落とすと、不安と緊張とくすぐったさが綯い交ぜになり、現実味が遠のいていくように感じる。誠一と自分の名前が、婚姻届の夫と妻の欄に書かれているだなんて——。


 今日から学校だが、始業式とホームルームだけなので午前中で終わりだった。

 そのあと、どこかへ寄っていこうという綾乃たちの誘いを断り、婚姻届の用紙をもらうために一人で役所へ行ってきた。制服のままだったので何か言われるのではないかと不安だったが、少し怪訝な目を向けられただけで、特に詮索されることなく事務的に二枚の用紙を出してくれた。一枚は予備ということらしい。

 そのときに書き方の説明もしてくれた。遥の言ったとおり、やはり未成年者の婚姻には親の同意がいるそうだ。父親か母親のどちらかで構わないということだが、澪の場合は、母親は死亡しているので父親から同意を得るしかない。あと、証人として二人の成年者に署名してもらう必要があるという。これは成年者であれば家族でも友人でも誰でもいいらしい。未成年の遥には頼めないが、いざとなれば誠一の同僚などいくらでも頼める人はいるだろう。

 帰宅すると、はやる気持ちのまま着替えもせず学習机に向かい、もらってきた婚姻届に記入していった。現時点で書けるところはすべて書いたつもりである。誠一側には名前と生年月日しか入っていないが、あとで彼に承諾をもらったときに、署名捺印とともに記入してもらえばいいだろう。

 複雑なこころもちで手元の婚姻届を眺める。

 しかしながら、いつまでも物思いに耽っているわけにはいかない。まだまだすべきことは山のようにあるのだ。その婚姻届を透明なクリアファイルに挟み、注意深く胸に抱えると、少しの緊張を覚えながら意を決して立ち上がった。


「何だ、おまえかよ」

 いつ以来かわからないくらい久々に篤史の部屋を訪ねた澪は、仏頂面で扉を開いた彼を目にして、胸元に手を当ててほっと大きく安堵の息をついた。怪盗ファントムが完全に幕引きを終えた今となっては、彼がここに留まる理由はなく、もう出て行ってしまったのではないかと心配していたのだ。

「よかった、まだいたんだね」

「出てけって言われてないからな」

 彼はぶっきらぼうにそう答えると、大きな欠伸を隠しもせず部屋の中へと戻っていった。扉は中途半端に開かれたままである。澪は部屋に入ることを許されたのだと解釈し、おじゃましますと声をひそめて言いながら、クリアファイルを後ろ手にそろりとついていった。


「で、何の用だ?」

 篤史はどっかりと身を投げ出すように肘掛け椅子に腰を下ろし、くるりと体ごと振り向いた。見るからに煩わしげなしかめ面をしているが、澪はそれでも怯むことなく冷静に尋ねかける。

「お父さまがドイツに行ったこと知ってる?」

「ああ、でも住所や電話番号は知らねぇぞ」

「えっ?」

 訊こうとしていたことを先に答えられてしまい、唖然とする。

 篤史は呆れたようにわざとらしく溜息を落とした。

「おまえ、じいさんと賭けをしたんだってな」

「え、どうしてそんなことまで知ってるの?」

「遥から聞いた」

 どうも最近の遥はいささか口が軽いような気がする。もちろんそのほとんどは澪を心配してのことだが、少なくともこれに関しては違うのではないかと思う。無関係の篤史に話す必要はなかったはずだ。もっとも口止めはしていなかったので、彼を責めるわけにもいかないのだが。

 篤史は椅子にもたれて背筋を伸ばし、頭の後ろで両手を組む。

「おまえ本当にどうしようもないバカだよな。あのじいさんが罠も仕掛けず、おまえに有利な条件を提示するわけねぇだろ。会って一年足らずの俺でもわかることだぜ」

「……どうせバカだもん」

 澪はふてくされぎみにぼそりとつぶやいた。しかし、そのことはすでに十分すぎるほど後悔しているので、今さら揶揄されたくらいで気持ちが揺らいだりはしない。

「だから頭のいい篤史に助けを求めてるの」

「知らねぇって言ってんだろ」

「うん、だからハッキングして調べてよ」

 真っ先に彼を訪ねたのはそういう目論見があったからだ。橘のコンピュータのどこかには大地の連絡先が書かれているはずで、天才ハッカーならそれを調べることくらい造作もないだろう。澪がにっこり微笑むと、篤史は思いきり眉をひそめてじとりと睨み返した。

「断る」

「タダでとは言わないよ? 少しは貯金もあるから」

「あのなぁ」

 彼は苛ついたようにそう言うと、前髪を掻き上げながら投げやりに溜息を落とした。

「はした金をもらったところで全然わりに合わねぇよ。じいさんと悠人さんを敵に回したら俺の人生詰む。おまえに手を貸すだけならまだしも、橘にハッキングなんて重大な背信行為だからな」

「それ、は……」

 深く考えていなかったが、言われてみればそういうことになるのかもしれない。だとすれば、いくら粘ったところで引き受けてはくれないだろう。恨めしげに口をとがらせて思案をめぐらせたあと、じゃあ、と彼の前にクリアファイルを掲げて見せる。中の紙切れが婚姻届であることも、澪と誠一の名が書いてあることも、この距離なら一目で認識できるはずだ。

「せめて証人になって?」

「それも断る」

 澪はクリアファイルを掲げたままムッとして眉をひそめた。先ほど「手を貸すならまだしも」と言っていたはずなのに、証人になることすら断るなんて納得がいかない。その疑問に答えるように、篤史は椅子の背もたれに身を預けたまま淡々と言葉を継ぐ。

「俺はおまえより悠人さんの味方なんだよ。こんなバカのどこがいいのかわからねぇけど、悠人さんは傍目にわかるくらいベタ惚れだもんな。じいさんの下で長年苦労してきたみたいだし、このくらいの役得がなきゃ可哀想だろ」

「……でも、他の人を好きなまま仕方なくだなんて、かえって可哀想じゃない?」

 論理的に反論したつもりだったが、彼は鼻先でせせら笑った。

「おまえ適応力だけは異様に高いみたいだし、そうなったらなったで楽しくやっていくだろ。見ず知らずの誘拐犯と一ヶ月もしないうちに仲良くなってヤっちまうくらいだからな」

 容赦のない物言いに、澪はカァッと顔を火照らせて狼狽する。

「それは、その……誰でもってわけじゃ……」

「武蔵さんは良くて、悠人さんはダメだっていうのかよ」

「別に、師匠がダメとかそういうことじゃなくて……」

 家族同然だからそういう気持ちになれない、と言いかけたが、墓穴を掘ることになりそうで口をつぐむ。知らなかったとはいえ武蔵は実の父親だったのだ。常識的に考えればこっちの方がよほど問題である。そのあたりを蒸し返されると非常に面倒くさい。

「もういいよ。証人なんて探せばいくらでもいるし」

「そいつはちょっと考えが甘いんじゃないか?」

「えっ?」

 きょとんとして聞き返した澪に、篤史は冷ややかな視線を送る。

「未成年が保護者抜きでそんなことを頼みにくるなんて、普通に考えて怪しすぎるだろ。しかも、おまえは橘財閥会長の孫娘だ。下手すれば橘財閥会長を敵に回す事態になりかねない。誰だって二の足を踏む」

「敵に回すだなんて、いくら何でも大袈裟すぎるよ」

「少なくとも世間ではそういうイメージってことだ」

「それは、そうかもしれないけど……」

「実際、橘財閥の後継に関わる問題なんだろ?」

 今さらながら事態の大きさを認識し、うっすらと血の気が引いていくのを感じる。

 しかし、現実を突きつけた彼の方はといえば、話は終わったとばかりに椅子ごと背を向け、ノートパソコンを開いてキーボードを叩き始めた。その若干丸まった背中からは無言の拒絶を感じる。

「……邪魔してごめん」

 澪はそれだけ言い置き、なるべく足音を立てないように部屋をあとにした。ドアノブに手を掛けて静かに扉を閉めると、そのまま奥歯を噛みしめてうなだれる。しかし、この場で少しばかり考えてみたところで、答えなど簡単に見つかるはずもなかった。


「何だ、悲愴な顔をしおって。降参か?」

 その日の夜、澪は剛三の帰宅を待って彼の書斎を訪ねた。そろそろ来ると予想していたのだろう。待ち構えていた彼の顔はいかにも意味ありげにニヤついており、挑発したその声はたいそう愉しげに浮かれていた。しかし、澪には降参するつもりなど微塵もない。

「いえ……その、お父さまの住所を教えていただけますか?」

「残念ながら、こちらも負けるわけにはいかんのでな」

 剛三はニッと口の端を上げる。

 澪としても教えてもらえるなどとは思っていなかった。これが彼の仕掛けた罠であればなおさらである。食い下がるより他の方法を探した方が賢明だろう。そう判断すると、クリアファイルから婚姻届を取り出して彼の前に置き、無駄だと思いつつもうひとつの懸案事項について頼んでみる。

「では、証人の署名だけでもいただけますか?」

「おまえは聡いのか馬鹿なのか測りかねるな」

 剛三はどこか呆れたような口調でそう言いながら、執務机に置かれた婚姻届に目を落とした。無記入の証人欄だけでなく、記入を終えた他の項目も一通りざっと確認して眉を寄せる。

「南野君にはまだ話しておらんのか」

「お父さまの同意をいただいたら話します」

 澪としてはもう決めたことだった。大地の同意だけは自分ひとりで取り付けてこようと。

 しかし、剛三はどういうわけか渋い顔でじっと考え込んでいた。

「まあ良かろう」

 やがてふっきったようにそう言うと、口の端を上げる。

「証人くらいにはなってやる」

「えっ?! 本当ですか……?」

 あまりの急転直下に警戒心が湧き上がる。もしかするとこれも何かの罠かもしれない、と考えてしまうのは、今までの経緯を考えれば当然だろう。そもそも彼の目的は澪と悠人を結婚させることなのだ。その実現を阻むようなことを彼自らするはずがない。そう思ったのだが——。

「勝負を面白くしたいのでな」

「はぁ……」

 語られた理由は完全に理解を超えたものだった。それが本音かどうかはわからないが、剛三らしいと心のどこかで納得もしていた。彼は何かにつけて真剣勝負を楽しむ傾向があるのだ。それも、拮抗した勝負であればあるほど燃えるらしい。

 ぼんやり考えているうちに、剛三は証人欄に必要事項を書いて捺印まで済ませていた。それをすっと澪に差し出す。

「あ……ありがとうございますっ!」

「無駄になるかもしれんがな」

 そのとき彼が見せた含み笑いにゾクリとし、澪は婚姻届を受け取るやいなや食い入るように確認する。氏名、生年月日、住所、本籍、捺印——どれもすべて正しいように見える。考えてみれば、彼は意図的に間違うなどという卑小なまねをする人間ではない。ひとり頷いてクリアファイルごと婚姻届を胸に抱えると、あらためて一礼した。


「そろそろ澪のところへ行こうと思ってたんだよ」

 剛三の書斎を退いたその足で、澪はすぐ近くにある悠人の部屋を訪ねていった。彼と顔を合わせることに少なからぬ緊張を感じていたが、いつもと変わらない笑顔で出迎えてくれてほっとする。部屋に足を踏み入れて後ろ手で扉を閉めると、胸にクリアファイルを抱えたままペコリと頭を下げた。

「先日は失礼な態度を取ってすみませんでした」

「仕方ないよ。あんなことがあったんだから」

 あんなこと、というのは剛三から突如提示された悠人との結婚話の一件だ。

 もちろんそれを現実のものにするつもりは微塵もない。だが、篤史に言われたことを我知らず意識しているのだろう。ベッドを目にするやいなや、ここで押し倒されかけたことを思い出し、さらにうっかり続きまで少し想像してしまい、慌ててその思考を振り払おうとぶるぶると首を振る。顔はどうしようもないほど熱を帯びているのがわかった。

 そんな澪を見て、悠人はくすっと笑う。

「何もしないから座って」

「あっ……はい……」

 思考を見透かされてしまったようできまりが悪い。澪はますます赤面しつつ、示されたベッドにちょこんと腰掛けて、気持ちを落ち着けるようにふぅと息を吐いた。その正面で悠人も椅子をこちらに向けて座る。二人の膝は触れ合いそうなくらい近かった。

「それ、婚姻届?」

「あ、はい」

 澪はクリアファイルごと悠人に手渡した。彼はそれに目を落とすと、ふいと訝るように顔を曇らせる。

「剛三さん、証人になったの?」

「勝負を面白くしたいみたいです」

「なるほどね」

 二十年以上前から剛三に仕えてきたため、彼の性格は澪よりもわかっているのだろう。それだけで得心したのか呆れたように溜息を落とした。しかし、唐突に小さな笑みを浮かべて顔を上げると、片手でクリアファイルを掲げて口を開く。

「僕も証人になろうか?」

「ええっ?!」

 驚きのあまり声が裏返った。彼は剛三が勝利することを望んでいるはずなのに、どうして澪の味方をしてくれるのだろう。怪訝に思いながら上目遣いでじっと見つめ、言葉を継ぐ。

「……いいんですか?」

「僕からの応援の気持ちだ」

 彼の返答を聞いても釈然としなかった。眉を寄せ、思考をめぐらせながら小首を傾げる。

「もしかして、私と結婚するのが嫌になりました?」

「まさか。出来るものなら今すぐにでもしたいよ」

 悠人は優しい声音でそう返したあと、ふっと遠い目をした。

「諦めていたつもりだったんだけどね。剛三さんが思いもしない賭けを持ち出したとき、困惑しながらも、心の奥底がどこか激しく沸き立つのを感じた。まだ諦めきれていないんだと思い知らされたよ。それでも僕は澪の気持ちを尊重したい。そういう考えになったのは、南野さんなら澪を大事にしてくれると確信したからだ」

「うん……」

 自分たちの仲を認めてくれたこともそうだが、誠一を認めてくれたことが何よりも嬉しい。

「まあ、僕も負けてないと思ってるけどね」

 冗談めかした口調で付け加えられたその言葉は、おそらく彼の本心だろう。両親よりも、誠一よりも、長い間そばにいて慈しんでくれたのだから、彼がそう自負するのも当然のことといえる。そして実際に負けてはいないと思う。澪は笑みを浮かべ、黒髪をさらりと揺らしながら大きく頷いてみせた。


「確認してね」

「はい」

 もうひとつの証人欄に記入した婚姻届を手渡され、澪は言われるまま目を落として確認する。本籍地は知らないので合っているかわからないが、他の項目はすべて正しく記入されているようだ。捺印も問題ない。確認を終えて慎重な手つきでクリアファイルに挟むと、その重みを噛みしめながら、折り曲がらないよう柔らかく胸に抱えてお辞儀をする。

「ありがとうございました。大切な二人に証人になってもらえてすごく嬉しいです」

 剛三はまだ完全に認めてくれたわけではないが、それなりに誠一のことを気に入っているのだろう。そうでなければ彼と結婚するかもしれない賭けを提案するはずはないし、ましてや勝負を面白くするためとはいえ自ら証人になるなどありえない。少なくとも澪はそう解釈していた。

「それで、あと二つほどお願いがあるんですけど……」

「これだよね」

 いつのまに用意していたのか、悠人はパスポートと四つ折りにした紙を差し出した。

 澪はドキリとし、緊張が高まるのを感じながらおずおずと受け取る。パスポートは思ったとおり澪のものだった。紙の方には外国の地図と住所が印刷されている。それが何かはすぐに察しがついた。澪としてはありがたいが、さすがに剛三を裏切る行為ではないかと心配になる。

「あの、いいんですか?」

「構わないよ。別に止められてはいないからね。もしこれで追放するというならすればいいさ。まあ、いま僕が辞めたら困るのは剛三さんの方だけど」

 いつも従順な彼がこんな強気な発言をするとは思いもしなかった。もし、この裏切りが原因で二人の関係が壊れてしまったらいたたまれない。不安になりつつも、ありがとうございますと礼を述べてクリアファイルに挟み、肩から黒髪が流れ落ちるのを感じながら頭を下げた。

「一人で行くつもり?」

「……はい」

 澪が顔を上げると、悠人は怖いくらいの真顔でじっと目を見つめてきた。その迫力にたじろいで思わず身を仰け反らせるが、それでも彼の表情がやわらぐことはなかった。

「なら僕も一緒に行かせてもらう」

「えっ、いえ、一人で大丈夫です」

 肩をすくめて左手をふるふると横に振る。心配してくれる気持ちはありがたいのだが、さすがにそこまで甘えるわけにはいかない。しかし、彼の方も引き下がる気はまったくないらしく、眉を寄せていっそう表情をけわしくした。

「澪、大地に何をされたか忘れたわけじゃないよね」

「あのときは、普通の状態じゃなかったから……」

 澪の声は消え入るように小さくなった。

 あの出来事が脳裏によみがえると、身体はカッと燃えるように熱くなり、心はズンと鉛のように重くなる。悲しくてつらくて泣きたくなる。それでもどうにか気合いを入れ直して前を向くと、しっかりと言葉を継ぐ。

「でも、お父さまがどういうつもりでも、今度は絶対に何も起こさせません」

「体術は大地の方がはるかに上だ。澪が万全の状態でも組み敷くことはできる」

 その残酷な反論に、澪はベッドに腰掛けたままゾクリと背筋を震わせる。指先も徐々に冷たくなっていくのを感じた。クリアファイルを抱えた手をぎゅっと握りしめ、合わせた膝に力を込め、唇を真一文字に引きむすんでうつむていく。

「あいつは行動も思考も予測不能だ。反省している様子はあまりなかったし、澪を一人で行かせて何か起こったら、いくら後悔してもしきれない。君を二度とあんな目に遭わせるわけにはいかないし、僕も二度とあんな無力感を味わいたくないんだよ。南野さんにも今度こそ顔向けできなくなる」

 悠人は淡々とした口調で言い連ねると、一呼吸おいて続ける。

「もし僕を頼ることに抵抗があるのなら、せめて南野さんと協力してくれないか。彼もそれを望むはずだ。そもそも彼の将来にも関わることなんだから、彼に内緒で事を進めるべきではないだろう」

「そう、ですね……」

 澪はぎこちなく相槌を打った。彼の提案はとても理性的であり、論理的であり、正論だといえる。誠一に話したら面倒なことになりそうだと思ったが、協力してもらうのなら上手くいくかもしれない。それでもやはり意志を曲げる気にはなれなかった。

「師匠の言うことはもっともだと思います。でも、これだけはどうしても一人でやり遂げたいの。師匠にも誠一にも申し訳ないとは思いますが、正しいかどうかじゃなくて私の我が儘なんです。いつまでも守られるだけの自分でいたくない。結果がどうであれ、師匠や誠一に手助けされたら一生後悔すると思います」

 結局、自分の本心はこれだったのだ。

 言葉にすることでようやくはっきりと自覚した澪が、迷いのない視線を送ると、悠人は苦渋に満ちた面持ちでゆっくりと腕を組んだ。考えているということは少しは脈があるのだろう。澪はここぞとばかりに前のめりになって畳みかける。

「お父さまには警戒して距離を置きます」

「だけど、澪はすぐに騙されるからな」

「私にだって学習能力くらいあります」

「そのセリフは何回か聞いたけどね」

「うっ……迂闊な行動もとりません!」

 クリアファイルを抱きしめて力説する澪を、悠人は腕を組んだまま疑わしげなまなざしで見つめる。だが、澪も負けじと強いまなざしで見つめ返した。互いの視線がまっすぐにぶつかり合う。しばらく意地を張り合うようにそうしていたが、ふと悠人が椅子から立ち上がった。

「師匠?」

 澪がきょとんと見上げて不思議そうに瞬きをすると、彼はじっと見下ろしながら身を屈め、澪の交差していた両手首を掴み上げつつ押し倒していく。抱えていたクリアファイルが足元に滑り落ちると同時に、背中からふわりと布団に沈められ、くせのない黒髪がさらりと白いシーツに広がった。間髪入れず、彼がギシリとベッドを軋ませながら覆い被さってくる。

 確か、前にも同じようなことが——。

 まさかあのときのように襲おうとしているのだろうか。どうして? 誠一との結婚を応援してくれているはずなのに。何がなんだかわからず混乱している間にも、彼は動きを止めることなく上体を倒してきた。我にかえり、大慌てで掴まれた手首を引くがビクともしない。

 いつのまにかすぐ近くまで顔が迫ってきていた。とっさに頭を振って彼の額に打ちつけようとするが、身を引いて避けられてしまう。そのとき手首を押さえつけていた力が緩むのを感じ、素早く引き抜くと、今度は彼の上体を全力で横薙ぎにしようとする。だが、それもあっけなく避けられて空振りに終わった。

 それでも反撃は無駄ではなかった。

 彼の上体が離れた隙にベッドから転がり降り、その勢いで一回転して立ち上がると、彼の出方を警戒しながら表情を硬くして身構える。体の自由を奪われていた危機的状況からは脱することができた——が、婚姻届の入ったクリアファイルは彼の足元に転がっている。

 悠人は無表情のままそれを拾い上げると、澪に視線を流した。

「反応が遅いな。僕が本気だったら逃げられなかったよ」

「師匠のことは警戒してませんでしたから……そうじゃなければ……」

 澪はそのときようやく自分が試されていたことに気が付いた。そして、彼を説得するだけの結果が出せなかったことを思い知った。しかし、警戒さえしていれば初めから近づけさせはしなかったのだ。漆黒の瞳に強い気持ちをこめて訴えかけると、彼はまたしても難しい顔になって考え込んだ。暫しの沈黙のあと、溜息をつきながら諦めたような声を落とす。

「まあいいだろう」

「じゃあ……!」

 パッと顔を明るくした澪に、悠人は婚姻届の入ったクリアファイルを差し出しながら言い添える。

「ただし、護身術の特訓だけはつけさせてくれ。これは僕の我が儘だ」

「はい、よろしくお願いします!」

 澪は満面の笑みでそう答えると、弾むように駆けていきクリアファイルを受け取ろうとする。が、手を伸ばした瞬間にひょいと軽くかわされ、片腕で体ごと抱き寄せられてしまう。彼の胸元に顔を埋めたままぱちくりと瞬きをし、そろりと見上げて小首を傾げた。

「簡単すぎて本当に心配になるな……」

「師匠だから警戒してないだけです」

 澪は口をとがらせて言い返すが、悠人は呆れたように大きく眉をしかめて溜息を落とす。それでも、すぐに澪を解放してクリアファイルを手渡してくれた。中を確認すると、婚姻届もパスポートも住所を書いた紙もきちんと入っている。ほっと安堵の息をついて大切に胸に抱きかかえた。

「ありがとうございます」

「いつ行くの?」

「できれば今週末にでも行こうかなって」

「じゃあ、それまでは毎日特訓するから」

「はいっ!」

 威勢のいい返事とともに一礼し、黒髪をさらりと舞わせながら悠人の部屋をあとにする。

 これで残るはドイツにいる大地の署名だけだ。一時は絶望的な気分を味わったりもしたが、思ったより順調に事が進み、心は羽根がついたように浮き立っていた。もちろん、喜ぶにはまだ早いということも頭では理解していた——つもりだった。


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