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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
57/68

56. もう少しだけ

「おかえり、澪」

「……ただいま」

 誠一に玄関口で出迎えられ、澪は気恥ずかしさを誤魔化すように肩をすくめる。小笠原へ出かける前まではここに居候していたのだから、ただいまと言ってもおかしくないだろうが、橘の家へ戻る予定になっているので少し躊躇いを感じていた。誠一にはまだその予定を話していない。

「勝手に行っちゃって本当にごめんね」

「大体のいきさつは武蔵から聞いたよ」

「え、そうなんだ」

 船からかけた電話では、遥と一緒に小笠原へ行くということしか言わなかった。もっとも、いきさつといってもたいしたものではなく、遥が単身で小笠原へ向かったと聞いて慌てて追いかけた、というだけの話だ。知られて困るようなことは何もない。ただ、互いに反発しているはずの二人が連絡を取っていたことに驚いた。

「誠一から電話したの?」

「ん、まあな……上がって」

「うん。あ、これお土産」

 靴を脱ごうとしたとき、持ってきていた手提げの紙袋を思い出して誠一に差し出す。中身は悠人に渡したものと同じだ。彼は驚いたようにまじまじと見つめながら受け取った。

「お土産がもらえるとは思わなかった」

「感激するほどのものじゃないけど」

「澪に買ってきてもらえただけで感激だよ」

 本当に嬉しそうに言うので、澪としてはかえって申し訳ない気持ちになってきた。ここ数ヶ月で言い尽くせないほどの心配と迷惑を掛けたのに、これっぽっちでは何のお返しにもならない。せめてもう少し良いものを買ってくればよかった。軽く後悔したが、それを顔に出さないようにしながら部屋に上がった。


「コーヒーでいいか?」

「うん」

 居間に入ると、誠一はそう尋ねて台所へ向かった。

 澪はいつものようにクッションに座ろうとしたが、ふと寝室の扉が半開きになっていることに気付き、ふらりと吸い寄せられるように中を覗いてみる。そこは澪がいたときのままになっていた。ショッピングバッグなどが隅にまとめられ、衣服のいくつかはハンガーに吊されている。荷物は多いが、タクシーを使えばどうにか一人で持って帰れるだろう。

 居間に戻ると、いつのまにか丸テーブルの上にケーキが二つ用意されていた。一つはフレジェというイチゴたっぷりのケーキで、もう一つはオペラというチョコレートケーキだ。夕食からさほど時間のたっていない今でもぺろりと平らげられそうなサイズで、四角くカットされた断面からも、上部の繊細な飾り付けからも、コンビニなどではなくきちんとしたケーキ店のものであることが窺える。

「ケーキ、食べるだろう?」

 台所でコーヒーを淹れる誠一が、クッションに座った澪に気付いて声を投げてきた。うん、とやわらかい笑みを浮かべて控えめに答えると、彼は手を止めずに微笑み返し、まもなく両手にマグカップを持って戻ってきた。湯気とともに立ちのぼるコーヒーの香ばしさが鼻をくすぐる。

「澪はどっち?」

「チョコの方」

 迷いなく告げると、澪の前にオペラが差し出された。誠一の前にはフレジェが置いてある。好みは把握されているので、もともとそのつもりで買ってきたのだろう。互いに顔を見合わせてくすっと笑ったあと、いただきます、とそろって声を弾ませフォークを手に取った。


「ごめんね、荷物ずっと置きっぱなしで」

「橘の家に帰るつもりなのか?」

「うん……だから荷物を取りに来たの」

 ケーキを食べながら、澪は何気ない素振りで話を切り出したが、誠一には察しがついていたのだろう。彼の方から言いたいことを尋ねてくれた。肯定の返事にも特に驚いた様子はなかったが、コーヒーを口に運びつつ何か考え込んでいる。

「……ずっといてもいいんだぞ?」

「でも、学校が始まっちゃうから」

 ここからでも通えないことはないのだが、おそらく通学時間が倍以上になるだろうし、定期券用の通学証明書をもらうのも難しい。それに、悠人にも帰ってくるよう言いつけられている。家を出なければならない問題が解消した以上、いつまでも甘えているわけにはいかないのだ。

「あのね、お父さまは長期の海外勤務でドイツに行ったの」

「ああ、その話なら楠さんから聞いてるよ」

 えっ、と澪は大きく目を見開いた。

「澪たちが小笠原へ向かった日の夜に、楠さんがうちに来たんだよ。橘美咲さんの死亡を公表することや、怪盗ファントムを引退させることや、橘大地さんが海外勤務になることを教えてくれた」

 彼も部外者ではないのだから話すことに不思議はない。ただ、その話だけなら電話で済ませても良かったはずだ。わざわざ家を訪れたのは他に理由があったからでは、と考えてしまうのは深読みのしすぎだろうか。思いを馳せるような彼の表情も気に掛かる。澪はフォークを置き、眉をひそめて横からずいっと覗き込んだ。

「他に何か話した?」

「……ん?」

「私のこととか」

「どうだったかな」

 誠一の視線は逃げていた。とぼけているとしか思えないその態度に、いっそう追及を厳しくする。

「ねえ、何を話したの?」

「たいしたことじゃないよ」

「気になるんだけど」

 拗ねるように口をとがらせてそう言い募ると、彼は苦笑を浮かべた。

「んー……ひとつは澪が受験生になるって話」

「あ、うん。今から理系に変更するから大変かも」

 不意に現実を思い出し、自分の決めたことではあるが少し気が重くなる。しかし、受験くらいで弱音を吐いてはいられない。本当の目標はそのもっとずっと先にあるのだから。澪はあらためて気持ちを引き締めて、少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。甘いチョコレートの味をかき消すように苦みが広がる。

「理系に変更って、急にどうしたんだ?」

「ん、お母さまの後を継ごうと思って」

「えっ……あの研究所で……?」

 大きく目を見開いてそう言った誠一に、澪はこくりと頷いて答える。

「小笠原に行っていたときに決心したの。おじいさまには向いてないって言われたし、自分でもそうかなって気がするけど、それでもわたし頑張ってみたい。無関係じゃいられないんだもん」

「…………」

 彼は表情を凍りつかせて絶句していた。いくら何でもそこまで驚かなくていいのに、と澪は溜息をつき、両手で持っていたマグカップをことりとテーブルに戻す。

「誠一も向いてないって思ってるよね」

「あっ、いや、そうじゃないんだ」

 誠一はあたふたと大慌てで否定したあと、眉を寄せて言葉を継ぐ。

「あんまり危ないことに首を突っ込んでほしくないんだよ」

「別に危なくないよ。お母さまたちみたいな非人道的な実験とかしないから。ちゃんと真っ当な方法で研究を進めていくの。石川さんも他のみんなもわかってくれているはずだし。あやまちなんて絶対に犯さないし犯させない」

 澪は強気に言い切ったが、彼の表情は晴れなかった。

「でもなぁ、あの研究所は公安の監視下に置かれるし……」

「じゃあ、お仕事でも誠一と繋がっていられるね」

 ニコッと笑いかけると、誠一は呆れたような照れたような顔になって額を押さえる。

「そんなのんきな話じゃないだろう」

「あれ? 誠一は刑事に戻るんだっけ?」

 すべての片がついたら警視庁に戻れるかもしれない、刑事に復活できるかもしれない——以前そんな話をしていたことを思い出す。仕事上での繋がりがなくなったとしても、その望みが叶うのであれば一向に構わない。しかし、彼の顔に浮かんでいたのは力のない苦笑だった。

「その話はなくなった」

「えっ……なんか、本当にごめん……」

「澪のせいじゃないから気にするな」

「うん……」

 自責の念にさいなまれている姿を見せれば、誠一にかえってつらい思いをさせてしまう。そのことがわかっているので素直に話をおさめるが、さすがに気にするなと言われても無理である。澪と関わったがゆえの結果であることは明白なのだ。それでも、せめて彼の前では前向きに振る舞おうと心に決める。

「そういえば、公安はこれからどうするの? 変なこと考えていない?」

「橘会長から牽制されてるから下手なことはできないよ。メルローズも正式に橘家の養女になるみたいだから、手を出すわけにはいかなくなる」

 公安の一員として口外できないことはあると思うが、少なくとも話してくれたことに嘘はないだろう。良かった、と安堵の息をついてコーヒーを口にする。彼もつられるように小さな笑みを浮かべたが、すぐにその表情を硬くする。

「ただ、小笠原周辺の警戒は今後も継続するらしい。武蔵はああ言ってるけど、攻めてくる可能性もゼロじゃないからな。もちろんこちらから攻撃することはないはずだよ。相手の力量もわからないのに喧嘩を売るなんて、危険すぎるだろう?」

「うん……じゃあ、事後処理はもう終わったの?」

「俺の仕事としてはだいたい終わったかな。上層部の方はまだいろいろとあるみたいだけど、直接的な事後処理というより、今後の対策とかを話し合っているんだと思う。まあ、俺は呼ばれてないからよくわからないけど」

 そう言うと、マグカップに手を伸ばしてコーヒーを飲んだ。

「澪の方はもう終わった?」

「ん……あと少し、かな?」

 澪は動揺しつつも、それを悟られないよう努めて冷静に答える。

 剛三との勝負については問題が片付くまで秘密にしておこうと決めている。どうすべきかはかなり悩んだ。彼も当事者なのだから本来なら話すべきだとは思うが、こんなことを知ってしまえば黙っていないだろうし、話がこじれてややこしい事態になる可能性が高い。それに、自分の家の都合で起こったことなのだから、自分できちんと解決するのが筋だろうとも思う。

「二、三週間で終わらせるから」

「……終わらせる?」

 自分自身に言い聞かせるように口にした言葉を聞き咎め、誠一は怪訝な顔をした。事情を知らない彼の前では少々まずい発言だったかもしれない。しかし、澪はあえて何も答えず甘えるように抱きついた。

「どうした、澪?」

 誠一は少し驚いていたが、すぐに優しく気遣うような声音で尋ねてきた。背中に置かれた手のあたたかさが沁み入ってくる。澪は目を細め、ぎゅっと腕に力をこめながら囁くように声を落とす。

「今日はここに泊めて」

「俺はいいけど、楠さんには……」

「言わなくていいよ」

 彼が口にした名前に苛立ちを覚え、ふて腐れぎみにそう言い返すと、頭上でくすっと笑う気配がした。

「遅めの反抗期?」

「そんなんじゃないもん」

 とはいうものの、この態度では子供じみた反抗にしか見えないかもしれない。それならいっそそう思ってくれても構わないが、せめてこのくらいのわがままは許してほしい——しかし、彼は充電していた携帯電話を手に取り、澪を抱き留めたまま片手で電話をかけ始めた。

「南野です」

 相手は悠人だろう。誠一の背中にまわした手に力がこもる。

「はい、今こちらに来ています。それで、澪さんが帰りたくないと言っているので、今晩はこちらで預かりたいのですが…………えっ、何を? ……はぁ…………わかりました。あしたには必ず帰らせます……えっ? ……はい、代わります」

 トントン、と澪を抱いていた手がそのまま背中を叩く。

「楠さんが代わってって」

「…………」

 少し腹立たしかったが無視することもできない。澪はしぶしぶ体を起こして携帯電話を受け取った。それを耳に当てながら、すがるように胸元の小さなピンクダイヤを握り込む。

「澪です」

『怒ってる?』

「……いえ」

 悠人に対して怒っているわけではないが、今はまだ冷静に話せる心境ではない。声にも自然と不機嫌さがにじんでしまう。電話の向こうからは苦笑まじりの吐息が聞こえてきた。

『今日はそっちに泊まっていいから、あしたは帰っておいで』

「そのつもりです」

 口をついたのは可愛げのない言葉。暫しの沈黙のあと、悠人が真面目な硬い声で切り出した。

『澪、これだけは言わせてほしい。あれは決して僕が仕組んだことじゃない。剛三さんからは事前に何も聞いていなかったし、あんなことを言い出すなんて思いもしなかった。正直いって僕も戸惑っている』

「わかっています」

 剛三の独断であることは何となく感じ取っていた。悠人が悪いわけではない。軽率に勝負を受けてしまった自分が悪いのだ。もっとも、断ったとしてもそれで逃れられたとは限らない。剛三が本気になれば自分に勝ち目などないのだから。うっかりそんな悲観的なことを考えてしまい、少し涙がにじんだ。

『込み入った話は帰ってからしよう』

「はい……それじゃあ、切りますね」

『ああ、おやすみ』

「おやすみなさい」

 澪は通話を切ると、下を向いたままぶっきらぼうに携帯電話を返した。涙はこぼれていないものの、目が潤んでいるので顔を上げられない。長い黒髪に隠されているので誠一からは見えないはずだが、さすがに様子がおかしいことには気付かれたようだ。

「楠さんと何かあったのか?」

「そういうわけじゃないけど」

 その曖昧な答えに納得せず、誠一はそろりと身を屈めて覗き込もうとする。

 澪はあわてた。顔を見られまいとあせって彼の胸に飛び込んだが、勢いあまって押し倒してしまう。のしかかったままどうしようか必死に思案していると、不意にぐるりと体が反転し、気付けば真上からじっと彼に見下ろされていた。顔の両側に手をつかれ、体に跨がられ、逃げることもできない。

「……泣いてる?」

「泣いてないよ」

 わずかに目が潤んでいたかもしれないが、あくまでそう言い切る。若干弱気になって涙ぐんだだけで、泣いてなどいないし、泣いている場合でもないのだから。

 そんな態度を誠一がどう思ったのかはわからない。ただ、床についた彼の両手はいつしかグッと握り込まれていた。

「何かあるなら些細なことでも言ってくれ」

「うん……でも、もう少しだけ待ってて」

 澪が薄く微笑むと、彼はもどかしげに顔をしかめた。声を絞り出すようにして訴える。

「俺は、澪の力になりたいんだよ」

「……じゃあ、私に力をくれる?」

 この難題に毅然と立ち向かうだけの勇気を——言えない言葉を胸に、澪は真剣なまなざしで彼の双眸を見据える。

 それだけで何を望んでいるのか感じ取ってくれたのだろう。誠一はつらそうな表情のままわずかに目を細めると、ゆっくりと覆いかぶさるように顔を近づけ、熱い吐息を触れ合わせながらそっと口づける。

 あたたかい——。

 彼は問題を解決する力になりたいと望みながら、それでも澪の意思を尊重してくれた。だから、何がなんでも失敗するわけにはいかない。何があってもあきらめたりしない。澪は口づけに応じつつ、彼の背中に両手をまわしてしがみつくように力を込めた。


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