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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
54/68

53. 傷心旅行

 澪はタクシーから降りると、脇目もふらず客船ターミナルに駆け込んだ。

 ターミナルといっても、空港とは規模からして比べものにならないが、それでも思ったより明るく広々としていた。シンプルながら開放感のあるデザインがそう感じさせるのかもしれない。正面はほぼ全面ガラス張りになっており、その向こうには停泊中の大型旅客船が見えた。あれが小笠原行きの船なのだろう。

 スクールバッグを肩に掛け、奥の待合いスペースに小走りで足を進める。

 家族連れや友達同士など観光旅行客と思われる人たちが各々談笑している中で、遥はひとりぼんやりと窓の外を眺めていた。足元には黒いスポーツバッグが置かれている。

「よかった、間に合って……」

 澪がほっと吐息まじりの声を落とすと、遥は振り向いて目を丸くした。

「澪……なんで……?」

「黙ってひとりで行くなんてずるいよ」

「見送り、ってわけじゃないよね?」

「私だって傷心旅行したいんだからね」

 澪は冗談めかしてそう言い、左手を腰に当てながらニコッと笑ってみせる。

 一拍の間のあと、遥はわざとらしく肩を上下させながら盛大な溜息を落とした。そして腕時計にちらりと目を落とすと、別に傷心旅行じゃないけどねとぶつくさ言いつつ、スポーツバッグを肩に掛けて椅子から立ち上がった。


 この日はトラブルのため出航が二時間遅れになっていたらしい。そうでなければ、澪がどれだけ急いだところで間に合わなかっただろう。何も調べず、何も考えず、とにかく大慌てで遥を追いかけてきたのだが、そのことが逆に功を奏したといえる。

 悪運だけは強いね、と遥は呆れたように揶揄したものの、澪が同行することに反対はしなかった。それどころか、窓口で二人同室になるように乗船券を手配し、宿にも電話を入れて一人追加したいと頼んでくれていた。しかも、澪の財布には三千円ほどしか入っていなかったので、交通費も宿泊費もすべて遥に出してもらうことになった。

「たった三千円で小笠原まで行けると思ったの?」

「だって急いでたんだもん。ちゃんと返すよ」

 嫌味を言いつつもきちんと面倒を見てくれる彼は優しい。もしかすると、二人旅になることを内心で喜んでいるのかもしれない。根拠はないが何となくそう感じ、ぶっきらぼうな彼の横顔を見ながら密かにクスッと笑う。

 それからすぐ、搭乗手続きを始めるというアナウンスが流れた。


「わあ、海!」

 出航からしばらくは客室でのんびりと寛いでいたが、そのうち外を見たくなり遥を誘って甲板に出た。思いのほか風が強く、短いスカートが捲れて少しあたふたしたが、そこから見える風景は雄大で爽快なものだった。すでに港からだいぶ離れているようで、どこを見渡しても一面の大海原と青空である。あとは遠くに小さく貨物船が見えるくらいだ。

 二人は手すりに腕を置いてもたれかかり、物思いに耽るようにぼんやりとその風景を眺めた。

「お父さまとお母さまも、こんなふうに船で小笠原に行こうとしてたんだよね」

「……そうだね」

 遥は目を伏せてぽつりと答える。風に掻き消されそうなくらいの小さな声だったが、肩が触れ合うほど近くにいた澪の耳にはかろうじて届いた。さらさらの黒髪が潮風に乱されるのを構いもせず、手すりに置いた腕にそっと顔をのせる。

「事故に遭わなければ、二人は普通に幸せになってたのかな」

「たら、れば、を語ったところで何の意味もないよ」

「それは、そうかもしれないけど……考えたくなるよ……」

 遥の冷たい物言いに一抹の寂しさを感じ、溜息を落とす。彼は右手で頬杖をついて遠くを見やった。

「まあ、そうなってたら僕らは存在しないけどね」

「うん……」

 あの事故がなければ、美咲が非人道的な実験に身を投じることもなく、当然ながらその産物である澪たちも存在しない。大地と美咲は二人で幸せに暮らしていたかもしれない。澪たちではなく別の子供がいた可能性もある。誠一は他の人と付き合って結婚して——うっかりそんなことまで考えてしまい、気持ちがズンと沈み込んだ。

「あ、そういえば誠一に何も言わずに来ちゃった」

 弾かれるように上体を起こすと、バッグから携帯電話を取り出した。しかし——。

「圏外……そっか……」

「船内に公衆電話があるよ」

 絶望的な気持ちで携帯電話のディスプレイを見つめていると、遥がさらりと教えてくれた。それならどうにか連絡をつけられそうでほっと胸を撫で下ろす。無断のまま行方不明になる事態だけは避けたかった。しかし、行き先を知らせればそれで済むという話でもない。

「やっぱり怒られるかな」

「そうだね」

 怒られることが怖いわけではなく、怒らせてしまうことが申し訳ない。今さらながら、身勝手な行いを自覚して胸が痛む。

「僕も師匠に怒られるよ」

「え、言ってなかったの?」

「言ったら止められるから」

 他のところならともかく、小笠原となれば悠人ももちろん行かせたくはないだろう。それでも、遥ならきちんと説得して来ているものと思っていた。澪は肩をすくめ、黒髪を風になびかせながら小さく笑みを浮かべる。

「じゃあ、二人で一緒に怒られよう?」

 そう言うと、遥もふっと目を細めて柔らかく微笑んだ。


 二人は船内に戻り、レストランで休憩してから電話をかけることにした。ふたりともコーヒーを注文して席につく。店内は広く、多くのテーブルが並んでいるが、食事時でないためか閑散としている。隅の方にもう一組いるくらいだ。

 澪はコーヒーを一口飲んだあと、遥を見つめて少し前屈みになる。

「どうして小笠原に行こうと思ったの?」

「別に深い意味はないよ」

「ただの観光旅行? あえて小笠原に?」

「一度ちゃんと行ってみたいと思って」

 その気持ちは澪にも何となくわかる気がした。自分たちにとって因縁深い場所ではあるが、島の方にはまだ一度も足を踏み入れていない。どんなところか自分の目で見たいと思うのは、それほど不思議なことでもないだろう。

「風景がきれいでいいところみたいだよ」

「傷心旅行にはぴったりだね」

 いたずらっぽく茶化すように再びその言葉を口にすると、遥は呆れたような目つきになり、吐息を落として椅子の背もたれに身を預けた。

「傷心旅行したいのは誠一の方だと思うけど」

「えっ?」

 澪はコーヒーカップに手を掛けたまま、目をぱちくりさせる。

「プロポーズ、断ったんだよね?」

「ちょっ、え、なんでそれ……!」

「誠一から聞いた」

 顔を真っ赤にして狼狽える澪に、遥は冷ややかに言葉を継ぐ。

「守られるための結婚が嫌だとか贅沢言ってる場合? 一応言っておくと、未成年でも結婚したら成人として扱われるようになるから、今の澪にはそれだけでも十分にメリットあると思うよ」

「…………」

 贅沢と言われても仕方ないのかもしれない。それでも、やはり澪には頷くことができなかった。口を引き結んでコーヒーカップの黒い液体に目を落とす。船が揺れているからなのか、手が震えているからなのか、水面が緩やかに波打っている。

「まあ、澪の人生だし好きにすればいいけど」

「ごめん……」

 そう答えて、曖昧な表情を浮かべた。遥は頬杖をついて窓の外に目を向ける。

「澪も僕も、そろそろ進路について考えないとね」

「遥は橘を継ぐんじゃないの?」

「そのつもりだったけど、それでいいのかなって」

「うん……よく考えた方がいいよね……」

 それは遥だけでなく自分にも当てはまることだ。単に進学先ということではなく、これからどういう人生を歩むのか、そのためには何をすればいいのか、そろそろ考えるべき時期に差し掛かっている。いつまでも子供のままではいられないのだから。


 その後、売店でテレホンカードを購入して、船内の公衆電話から誠一と悠人に電話をかけた。

 誠一はしばらくのあいだ絶句するほど驚き、そして心配した。しかし遥と一緒だと告げると幾分か安堵したようだ。言いたいことはいろいろとありそうな様子だったが、澪の意思を尊重してくれたのか、とにかく気をつけて無事に帰ってくるようにとだけお願いされた。

 悠人は、遥にはいくらか苦言を呈していたようだが、澪には「楽しんでおいで」と優しく言ってくれた。彼にも少なからず心配する気持ちはあるはずだが、あえてそれを口にしなかったのは、この旅行が良い気分転換になることを願っているからだろう。

 客室に戻ってから、明日中に美咲の死亡を公表する予定だと遥が教えてくれた。先ほどの電話で悠人が言っていたらしい。澪たちがいない間を狙って公表しようというわけではなく、もともと明日のつもりで調整していたとのことだ。澪はざわつく胸に手を当て、気持ちを整えるように目をつむって深く呼吸をした。


 船内で一泊して船旅を満喫したあと、小笠原に着いた。

 もう夕方に差し掛かろうかという時間になっている。港に降りると、年配の男性が「橘様」と書かれた宿名入りのボードを掲げて出迎えてくれた。橘です、と無表情で名乗り出た遥に、男性はにっこりと柔和に微笑む。

「遥さん、澪さんですね。遠いところをよくいらっしゃいました」

「お世話になります」

 遥が丁寧に頭を下げるのを見て、澪も慌ててペコリとお辞儀をした。しかし、なぜ澪の名前まで知られているのだろうかと疑問に思う。予約するときにはそこまで言っていなかったような——微妙な顔つきで考え込んでいると、男性は穏やかな声で言い添える。

「おうちの方からも頼まれていますので」

 澪と遥は顔を見合わせて瞬きをした。先導する男性について歩きながら、声をひそめる。

「師匠かな?」

「だろうね」

 悠人に電話をかけたとき、遥が宿泊先を訊かれて答えていたことを覚えている。未成年だけで遠方に何日も宿泊するのだから、保護者が連絡しておくのは当然かもしれない。しかし、やはりまだ子供なのだと思い知らされたようで、澪としては少しばかり複雑な気持ちになった。

「どうぞこちらへ」

 男性は白いワンボックスカーに澪たちを乗せると、ゆっくりと海沿いの道を走り出した。


 車で数分の、港からそう遠くないところに宿はあった。こじんまりとしたペンション風の建物である。客室は二部屋あるらしいが、澪たちの滞在中に他の宿泊客はいないとのことだ。もとより騒ぐつもりはないものの、気を使わなくていいのが嬉しい。

「わあ!」

 澪は部屋に通されるなり感嘆の声を上げた。ただのツインルームとは思えないくらい広々としている。正面は大きなガラス窓になっており、とても明るくて開放的な雰囲気である。窓の向こうには悠々と歩きまわれるほどのベランダがあり、カフェテラスのようなテーブルと椅子も設置されていた。

「お気に召しましたか?」

「はい、とても!」

「ごゆっくりお寛ぎください」

 男性ははしゃぐ澪を見つめて満足げに微笑み、静かに扉を閉めて下がっていった。


 澪はさっそく両開きのガラス窓を押し開いてベランダに出ると、遥と二人並んで手すりを掴んだ。高台になっているようでとても見晴らしがいい。少し冷えてきた風がゆるりと頬を撫で、海の香りがふわりと鼻をくすぐる。ザザ、と心地良い潮騒の音も聞こえてきた。眼下には夕陽に染まったオレンジ色の海が広がり、宝石を撒き散らしたようにきらきらと煌めいている。

「この景色だけでも来た甲斐があったね」

「明るい日中の海もきれいだって」

「うん、じゃあ、あした見に行こう?」

「もちろんそのつもり」

 二人は顔を見合わせてクスッと笑い合った。

 滅多に見られない雄大な景色のせいか、のんびりとした雰囲気のためか、小笠原に来てからの遥の表情はいつもよりずっと自然で柔らかい。そのことも、ここへ来た甲斐があったと思う理由のひとつだった。


 夜は、近くの地魚料理店へ足を運んだ。

 ここへ来るまでの道すがら、他に歩いている人を見かけず不安を覚えたが、店内は盛況といっても差し支えないくらいに賑わっていた。どうやら観光客だけでなく地元の人たちも訪れているようだ。赤ら顔ですっかり出来上がっているカウンター席の三人組は、店員たちとも互いに親しげにしゃべっているので、おそらくは常連客なのだろう。

 澪たちは個室に席をとり、騒がしい声を遠くに聞きながら一品ものを注文していくが、刺身、寿司、焼き魚、煮魚など何を食べても外れがなかった。地元でとれたての魚を使っているらしくとても新鮮なのだ。もちろん、その素材の良さを活かせるのは料理人の腕がいいからだろう。辺鄙なところなのであまり期待はしていなかったが、それがただの偏見にすぎないことがよくわかった。


 食事のあと、二人で海沿いを少し散歩してから宿に戻った。

 眠くなる前にと思い、澪は戻ってからすぐに部屋のシャワーを浴びた。着替えは何も持ってきていないため、宿で用意された浴衣だけを身につける。下着すらないのは何となく心許ないが、朝になったら遥がコインランドリーに行ってくれるというので、それまでの辛抱である。

 バスルームから出ると、遥が椅子に腰掛けてテレビをつけていた。リモコン片手に次々とチャンネルを変えている。

「ニュースを探してるの?」

「そう、母さんのことやってるかなって」

 美咲の死亡は今日のうちに公表されることになっている。すでに公表されていれば、テレビのニュース番組でも多少は扱われるかもしれない。遥の後ろに立ち、濡れた髪をバスタオルで拭きながらテレビに目を向ける。その瞬間、橘の屋敷が画面に大きく映し出された。右上には「LIVE」という文字が入っている。

「え、わざわざ生中継?」

 確かに美咲は優秀な科学者だが、さすがにここまでの扱いをされるほどの有名人ではない。橘財閥会長の娘であることを考慮してもだ。いったい何をどのように公表したらこんな事態になるのだろうか。怪訝に思ったのは澪だけでないらしく、遥も表情を険しくして食い入るようにテレビを見ていた。

 画面がゆっくりと動き、緊迫した顔つきでマイクを持つ男性リポーターが映った。

『まもなく、怪盗ファントムの犯行予告時刻となります——』

「……えっ、ええっ?!!」

 澪は椅子の背もたれに後ろから手を掛けて、大きく身を乗り出した。遥も唖然としている。テレビではリポーターが怪盗ファントムの犯行予告文を読み上げ始めた。それを聞いて二人はますます混乱した面持ちになり、互いに物言いたげな目を見合わせた。


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