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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
51/68

50. 望まれた半分

 橘の家に戻ってまもなく、美咲は直葬された。

 彼女の遺体が腕だけになっていることは、信用のおける必要最低限の関係者にしか知らせず、近しい身内である剛三、遥、澪、そして悠人の四人で見守りながら荼毘に付した。出来れば夫である大地にも最後のお別れをさせたかったが、狂ったように暴れて、とても連れてこられるような状態ではなかった。今頃は、鎮静剤を打たれて屋敷の一室で眠っているだろう。

 火葬場を出て、澪は薄青色の空を見上げる。

 火葬をするときも、終わってからも、不思議とあまり悲しい気持ちにはならなかった。そもそも柩の中には腕しかなかったのだから、実感が薄いのも仕方のないことだと思う。今は気が抜けたようにぼんやりとしている。誤解を怖れずに言えば、ほっとしたということかもしれない。

「帰るよ」

「……うん」

 後ろから遥に声を掛けられて振り返る。包帯を巻いていない方の手を彼に預け、捻挫している足首を庇いながら、剛三と悠人が向かった駐車場の方へ歩き出した。生ぬるい春風がほのかに頬をかすめ、黒髪をさらさらと揺らす。いつのまにか、制服だけでも肌寒さを感じなくなっていることに気が付いた。


 美咲の死は、いずれ折を見て公表することになっている。

 世間に名の知られた科学者である以上、ずっと伏せているわけにはいかないが、今はまだ各所との調整がすんでいない。公表するまではくれぐれも口外しないようにと、剛三からしつこいくらいに釘を刺されている。学校は春休みのため、欠席して勘ぐられるようなことはないし、うっかり口を滑らせる心配もないだろう。新学期までにはおそらく公表されるはずである。


 メルローズは、ひとまず武蔵に預けられることになった。

 ずっとこの国で生きていくのであれば、橘家の養子として迎え入れた方がいいだろうが、大地と一緒の家に置いておくのはやはり危険で、加えて魔導の制御を覚えなければならないという事情もあるため、当面は武蔵の隠れ家にこもって訓練することになったのだ。周囲に何もないあの場所であれば、万が一暴発しても無関係の人を巻き込まないですむ、というのも理由の一つである。


 大地は屋敷の一室にこもったまま、日がなベッドの上で過ごしている。

 いまだに美咲の死を冷静に受け止めることができず、精神が不安定で、ときどきひどく暴れては鎮静剤を打たれていた。悠人はそんな彼に寄り添いつつ世話をしているらしいが、澪は小笠原から戻ったあと一度も顔を合わせていない。彼が一歩も部屋を出ないので偶然会うようなことはなく、だからといって、あえて会いに行こうという気にもなれなかった。


「武蔵たちのところ、行かない?」

 翌日、遥が散歩にでも連れ出すかのような軽い調子で誘いに来た。何か思惑があってのことだろうか。怪訝に思いながら、澪は仰向けに寝転がっていたベッドから体を起こして小首を傾げる。

「どうして?」

「二人が心配だから」

 遥は基本的に冷たいくらい他人に無関心だが、身内だけはとても大切にしている。武蔵のことも、メルローズのことも、すでに身内同然と思っているのかもしれない。そうでなければ二人を気に掛けたりはしないだろう。だが、料理を始めとして家事はすべてそつなくこなすし、面倒見も良い方なので、武蔵に限っては何の心配もいらないはずだ。

「私はいいよ。大丈夫だと思うし……」

 こころもち目を伏せ、控えめな物言いで断る。

 決して武蔵と会いたくないわけではない。ただあそこは彼と暮らした家ということもあり、誠一はこころよく思わないはずで、できれば行かない方がいいような気がした。もちろんもう二度と裏切るつもりはないが、裏切らなければいいというものでもないだろうし——などと考えたものの、自分を納得させるための言い訳でしかなかったのかもしれない。

「メルローズのこと、怖い?」

「…………」

 ふいにそう尋ねられて何も言葉を返せなかった。自分自身でも明確には意識していなかったが、図星である。白い包帯の巻かれた左手にじっと目を落とす。小笠原から帰還して以降、微妙に彼女を避けるような行動をした自覚はある。人間を跡形もなく吹き飛ばすほどの力を目の当たりにしたのだ。地上であればそこまでひどい暴発は起こらないと聞いているし、理解もしているつもりだが、湧き上がる本能的な感情だけはどうしようもない。

「僕一人で行ってくるよ」

「うん……ごめん……」

「武蔵にそう伝えとく」

 遥は軽く右手を挙げて身を翻した。深く追及しなかったのも、無理強いしなかったのも、澪の胸中を察してくれたからだろう。扉を開けて部屋から出て行く間際、ドアノブに手を掛けたままちらりと振り返る。

「今度一緒に行こう」

「……うん」

 パタン、と静かに扉が閉まる。

 たとえ武蔵の隠れ家に行かなかったとしても、メルローズからずっと逃げ回ることはできない。いずれ彼女は橘家の養子になると聞いている。つまり、この屋敷で家族として一緒に暮らすことになるのだ。せめて普通に会話くらいできるようにならなければ——。

 澪は溜息を落とし、包帯の手を胸元に置いてこてんと横になる。白いシーツの上にさらりと黒髪が広がった。


 夜になると、誠一が仕事帰りに様子を見に来てくれた。

 彼も夕食がまだということなので、澪の部屋で一緒に食べることにする。遥が武蔵のところへ出かけたきり帰って来ず、一人で食べるのも寂しいと思っていたので、いいタイミングで来てくれたことに感謝した。広くはない部屋に折りたたみ式のローテーブルを広げ、クッションを敷き、向かい合わせで食事をしながらここ数日のことを話し合う。

「じゃあ、帰ってきたその日から仕事に行ってたってこと?」

「そう、もういい加減クタクタで休日が待ち遠しいよ」

 誠一は苦笑してポタージュを手に取った。

 小笠原から帰ったときは船酔いで立つことすら難しかったのに、そのあとすぐ警察庁で仕事をしていたとは思わなかった。それから休みなく働いていれば疲労もたまって当然だろう。澪と付き合っていたばかりに面倒事に巻き込んでしまい、今さらながらあらためて申し訳なく思う。

「休ませてはもらえなかったの?」

「いろいろ大変なんだよ。事件を隠蔽するには、事情を知るごく少人数で後処理するしかなくてな。俺は主に警察庁で溝端さんたちの聴取に当たってるが、楠長官は報告やら謝罪やら根回しやら駆けずりまわってて、寝る間もないくらい忙しいみたいだ」

 当たり前のように隠蔽という話が出てきて複雑な気持ちになるが、楠長官の思惑はともかく、あの国を守るには現実的にそうするしかないことは理解している。正しくなくても従うしかない。所詮、自分も剛三や楠長官と同じ穴の狢ということだ。

「溝端さんがどうなるかわかる?」

「普通に逮捕されて裁判ってことはないな」

 そう答えたあと、誠一はふいと申し訳なさそうに顔を曇らせる。

「美咲さんを撃ったことは許せないだろうけど……」

「うん……でも、仕方ないよ……」

 澪は力のない笑みを浮かべ、ドレッシングのよく絡んだレタスに箸をのばした。まるごと隠蔽しようというのだから裁判などもってのほかだろう。事件自体をなかったこととして処理するのが最も簡単である。もちろん澪からすれば悔しく思わないわけはない。だが、美咲自身が多数の命を奪ったことも公表されておらず、何の刑罰も社会的制裁も受けていないのだから、それを棚に上げて強くは言えない。

 誠一はグラスの水をごくりと飲んで、顔を上げる。

「なあ、今度の休日どこか行かないか?」

「え、誠一、疲れてるんだしゆっくり休んでいいよ」

 クタクタで休日が待ち遠しい、とつい先ほど誠一自身が言ったばかりである。誘ってくれるのはもちろん嬉しいが、こんなことで無理をさせたくはない。しかし、彼はどういうわけかまるで聞き入れようとしなかった。

「このまえのデートの続きがしたいんだ。ダメか?」

「もうちょっと落ち着いてからでもいいんじゃない?」

「澪の怪我のことは考慮するし、無理させないから」

「そういうことじゃなくて……」

「澪が嫌だっていうんなら諦めるしかないけど」

「……その……私は、嬉しいけど……」

 せっかくの休日に外出しては疲れがとれないのではないか。つらい目に遭った自分を気遣ってのことだろうか。だからって何もそんなに急がなくてもいいのに——澪は困惑ぎみに考えを巡らせていたが、誠一に「じゃあ決まりな」と満面の笑みで言われると、つい胸の高鳴るままこくりと頷いてしまった。


 食事を終えてしばらく二人でまったりしたあと、誠一を玄関先まで見送った。

 自室に戻るときに遥の部屋を覗いてみたが、まだ帰っていないようだった。さっそく武蔵やメルローズと打ち解けて仲良くしているのだろうか。もしかしたら夕食をご馳走になっているのかもしれない。ふと、武蔵の作ってくれた素朴なごはんを懐かしく思い出した。

 ベッドに腰掛けてぱたんと仰向けになると、天井を見つめて目を細める。

 遥も、誠一も、武蔵も、他の人たちも、みんな立ち止まることなく前へ向かって進んでいた。それが出来ていないのは自分と大地くらいである。いつまでもこのままではいけないとわかっているが、今はまだ立ち上がるだけの気力がない。そう考えること自体が甘えなのだろうか——。

「……よし」

 澪は気合いを入れて、体を起こす。

 メルローズに会いに行く勇気まではまだ持てないものの、ひとまずこの家にいる大地に会ってこようと考えた。自分と同じように立ち止まっている彼と会うことで、何か見えてくるものがあるかもしれない。そして、出来ることなら彼にも前を向いてもらいたい。そう何もかも上手くいくとは思わないが、行動しなければ何も始まらないだろう。捻挫を庇いながら、彼のいる部屋へとゆっくり緊張ぎみに足を踏み出した。


「お父さま?」

 ノックをしても、声を掛けても、部屋からは何の反応も返ってこなかった。寝ているのかもしれない。こつんと扉に額をつけてうなだれたものの、せっかく来たのだから顔だけでも見てこようと思い、そっとドアノブに手を掛けてまわす。

 微かな音を立てて、扉が開いた。

 照明もつけられていない暗い部屋の中、大地はベッドで上半身を起こしていた。細いアーチ型の格子ガラス窓を全開にし、闇夜に浮かぶ下弦の月を見上げている。その顔はほとんど見えない。冷たい夜風がするりと窓から滑り込み、無造作に開かれたカーテンがふわりと揺れ、彼の短い黒髪もさらさらと軽やかになびく。

「やあ」

 声も掛けられず立ち尽くしていると、大地は静かに振り返ってそう言った。

「……元気ですか?」

「それなりにね」

 いつもと変わらない冷静な受け答えをする彼を見て安堵する。どうやら今は落ち着いているようだ。遠慮がちに足を踏み入れて後ろ手で扉を閉めると、警戒心を抱かせないようにニコッと微笑んでみせる。

「ちゃんと食べてます?」

「悠人に無理やり食べさせられてるよ」

 彼も軽く笑いながら答えた。そしてベッドに座ったまま自分の横をぽんぽんと叩き、優しく目を細めて「おいで」と声を掛ける。まるで父親のような顔をして——澪はいいようのない切なさを感じながら、片足を庇いつつ彼のもとまで進んでいき、ベッドに腰掛けた。

「足、どうしたの? 怪我?」

「軽い捻挫です。すぐ治りますよ」

「そう、なら良かった」

「心配してくれて嬉しいです」

 素直な気持ちを声にのせて顔を上げる。瞬間、怖いくらいの鋭い眼光で捉えられた。絡みつくように、舐めるように、不躾ともいえる視線を体の隅々まで注がれる。

「美咲と似てないね」

「……そうですね」

 美咲と似ていないことを非難しているのだろうか。それとも、単に思いを馳せているだけなのだろうか。真意はわからないが、何とはなしに嫌な予感がして無意識に目を逸らす。しかし、彼は小さな笑みを漏らして頬に手を伸ばした。

「それでも、君の半分は美咲だ」

 顔の形を確かめるように、肌の感触を味わうように、大きな手で包み込みながら指先を這わせていく。澪はぞくりとして体をこわばらせた。頭の中でうるさいくらいに警鐘が鳴り響く。しかし、何をされたわけでもないのに振り払って逃げるなどできない。

「あ……あの……」

「緊張しなくてもいいよ」

 熱を帯びた甘い声。それはもう娘に対するものではなかった。澪は半ばパニックになりながら顔を上げる。

「わっ、私、お母さまじゃありません!」

「わかってるよ、君は澪だ……美咲の娘のね」

 息の掛かる距離で囁くようにそう言われたかと思うと、逃げる間もなく食むように口づけられた。驚いて彼の胸を押し返そうとするものの、思った以上に力が強く、後頭部と背中に手をまわされてびくともしない。唇やそのまわりまで舐め回され、閉じた口をこじ開けられ、肉厚な舌が澪の舌を絡め取るように蠢く。それでも澪は諦めずに腕をつっぱり、抵抗の意思を示す。

「……っ……はぁっ」

 ようやく口を解放されて大きく息を吸い込むと、大地を突き飛ばして逃げようとする。が、後ろに飛び退きかけたところで腕を取られ、逆に体ごとベッドに叩きつけるように転がされた。治りきっていない捻挫や打ち身に痛みが走り、顔をしかめる。しかし、彼は容赦なく仰向けの体に馬乗りになると、ブラウスの前を力任せに開いた。ボタンが引きちぎれて方々に飛び散る。

「ひっ……!」

 仄かな月明かりを背にした暗がりで、大地は蝋人形のような無表情で澪を見下ろすが、その瞳にだけは狂気と激情が燃えたぎっていた。顔を引きつらせて怯える澪を見ても躊躇せず、乱暴に下着をずり上げて胸のふくらみを露わにする。

「や、だっ……やめ、て……っ!!」

 澪は泣きそうになりながら細い腕を振り回して必死に抵抗するが、すぐに手首を掴まれベッドに押しつけられた。露わになった白い肌にゆるゆると唇と舌が這いまわり、ところどころ強く吸われ、ふるりと小さく震えた胸の頂を口に含まれ舐られる。ギュッと目をつむり、逃れるように何度も勢いよく首を左右に振った。

「ん、あっ……やっ……お父さま、も、やめて……ぁ……んっ!」

 大地はあらがう澪を押さえつけたまま、口だけを使って巧みに愛撫を施していく。彼の動きには微塵の迷いも感じられない。やがて、熱い吐息とともに名残惜しげに体を起こし、ぐったりして浅く呼吸する澪を見下ろした。

「可愛い声で啼くね、澪は」

 ありありと嬉しさを滲ませて目を細めると、火照った澪の顔にかかる黒髪をそっと払い、頬を包みながら再び口づけようと身を屈める。そのとき、澪は自由になった左腕で力いっぱい彼の体を横薙ぎにした。

「くっ……」

 不意打ちを食らった彼がバランスを崩した隙に這い出し、ベッドから転がり落ちると、服も直さず一目散に扉へ向かって逃げ出そうとする。が、大地に後ろから引き倒されて体ごとのしかかられた。またしても両手首を掴まれ、絨毯の上に押しつけられ、彼の前に体を開いた格好になってしまう。

「嫌ぁっ! お父さまやめてぇっっ!!!」

 我を忘れて無茶苦茶に体を捩り、絹を裂くような声で絶叫した。しかし——。

 バシン、と激しい破裂音が体に響く。

 頬を叩かれたのだと理解するまでに数秒の時間を要した。片側の頬がジンジンと熱を持って疼いている。その痛みより、彼に手を上げられたことがショックで放心した。今まで一度だって叩かれたことなんてなかったのに、こんな理不尽なことで——澪の目からぽろぽろと涙が零れ落ちていく。

「痛かったかい?」

 大地はひどく優しい声音でそう尋ねると、熱を孕んだ頬を、叩いたその手で柔らかく包み込んだ。愛おしげな笑みを浮かべてゆっくりと覆い被さり、半開きの唇をねっとりと舐め上げ、首筋から胸、下腹、内腿、その付け根へと口づけを落としていく。澪は天井を見つめたまま止めどなく涙を流し、横髪を濡らしていた。


「ハァ……良いよ、澪……やっぱり親子だな……美咲を思い出す……」

 熱に浮かされたように、歓喜に打ち震えたように、大地は濡れた吐息まじりの声を耳元に落とす。

 焦らすような動きで腰を進められるあいだも、奥でじっと動きを止められていたあいだも、澪はきつく唇を引き結んで声を堪えていたが、律動が始まるやいなや呆気なく陥落した。望まぬ快感を引きずり出されてあられもない声が上がる。どういうわけか澪の弱いところを知り尽くしたように攻めてくるのだ。頭は霞みがかり、次第に何も考えられなくなっていった。


 それから、どれだけの時間が過ぎたのかわからない。

 何度か意識を飛ばして朦朧としていた澪は、コンコンと扉をノックする音が耳に届き、少しだけ現実に引き戻された。気怠い体の上には、ほとんど衣服を乱していない大地が、体重を預けるようにのしかかっている。下半身が繋がったままだということは嫌でもわかった。

「大地、起きてるか?」

 扉の向こう側から悠人の声が聞こえた。

 これでようやく解放される——そんな希望を感じて目を細めたものの、大地は澪の体から離れようとしなかった。それどころか、再びゆるゆると腰を動かして揺さぶり始めた。そのリズムに合わせてぐちゅぐちゅと粘着質な音が立ち、中からどろりとしたものがあふれてくる。彼のぬるい汗がぽたりぽたりと澪の首筋に落ちた。

「取り込み中だ。あとにしてくれ……はっ……」

「ぁ……あっ……は、あぁ……」

 助けを求めたいのに、口をつくのは熱い吐息ばかりだ。しかし——。

「澪……? いるのか?」

 悠人に自分の名前を呼ばれ、頭が冷えて意識がはっきりしてくるのを感じた。扉一つ隔てたところに悠人がいる。この機を逃せば、おそらくもう助けを呼ぶことはできないだろう。首を大きく捩りながら、息の整わないまま絞り出すように声を上げる。

「た、すけて……助けて……っ!」

「澪?! どうした?!!」

 バン、と勢いよく扉を開いて悠人が入ってくる。絨毯の上で重なる澪と大地の姿を目にすると、愕然として手に持っていたトレイを落とした。サンドイッチが床に叩きつけられて散らばり、コーヒーカップが割れて黒い液体が飛び散る。

「何をやっている!!」

 悠人は目を剥いて怒号を上げ、澪に覆い被さる大地を乱暴に引きはがし突き飛ばした。ドタンと壁にぶつかり崩れ落ちたその無様な姿を、呼吸を荒く乱したまま睨めつける。そして我にかえったように澪に振り向くと、肌を隠すように自らのジャケットを掛け、めくれたプリーツスカートを戻して脚を閉じさせた。赤く腫れた頬を見たせいか、胸の鬱血の痕を見たせいか、体液で汚れた内股を見たせいか、彼の顔には激しい怒りとやりきれなさが滲んでいる。

 しかし、当の大地には少しも悪びれる様子がなかった。無表情のまま気怠そうに溜息をついて立ち上がり、ジーンズを上げる。冷たい月明かりを浴びた瞳が鈍く光った。

「家族だの大切だの言っても、所詮その程度の気持ちってことだな。美咲なら黙って体を差し出したよ」

 どうして、こんな——。

 彼を家族として大切に思う気持ちも、彼と家族でいたいと願う気持ちも、彼を父親と慕ってきた過去さえも、すべて否定され穢されてしまったように感じた。彼が必要としているのは美咲の半分としての自分だけだった。澪は濡れた睫毛を小刻みに震わせながら、小さく嗚咽を漏らし始める。

「……っ!」

 悠人はこぶしを固く握りしめて大地を睨んだが、殴りかかりはしなかった。クッと歯を食いしばり振り切るように顔をそむけると、泣き濡れた澪を横抱きにして部屋をあとにする。床に散らばったサンドイッチも、砕けたコーヒーカップも、絨毯に染み込んだ黒い染みも、冷たく虚ろな目をしている大地も、何もかもそこに置き去りにして。


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