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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
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4. 二人でひとり

「結局、誠一とは別れなかったの?」

「あれくらいで別れるわけないって」

 赤絨毯の引かれた大階段を上っていた澪は、遥の質問を笑い飛ばし、軽やかに足を弾ませくるりと振り返った。黒髪が艶やかに流れ、高窓からの光を受けてきらりと輝く。

「別にあんなことで怒ったりしないもん。まあ少しは驚いたけど……でも、男の人ってそういうものでしょう? みんなやらしい本とかビデオとか隠し持ってるんだって、綾乃もいつも言ってるし」

「それは偏見。みんなってのは言い過ぎだから」

「そっか、隠さず堂々としてる人もいるもんね」

「そうじゃなくて……」

 遥は眉を寄せて反論しかけたが、諦めたように言葉を切って溜息をついた。肩からずり落ちそうになったスクールバッグを掛け直し、澪に続いて大階段を上りながら、その歩調に合わせて淡々と畳みかける。

「修羅場になってないんだったら、どうしてあんなに帰るのが遅かったわけ? ひとこと連絡くらい出来なかったの? こっちからの電話をなんで無視したの?」

「それは、ちょっとね」

 澪はごまかし笑いを浮かべて言葉を濁した。その表情だけで察したのか、それとも興味がなかったのか、遥は呆れたように溜息をつくだけで、それ以上追及しようとはしなかった。上目遣いでちらりと視線を送ると、立ち止まっている澪を追い越しながら忠告する。

「今回は僕にも責任があると思ったからフォローしたけど、もうこれきりだからね」

「うん、ありがと」

 澪は明るく笑って答え、先を行く背中を追いかけた。

 昨晩、夕食の時間になっても帰らない澪を心配して、執事の櫻井が捜索願いを出そうとしたのを、遥がどうにか引き止めてくれたらしい。それに関しては、申し訳なかったと素直に反省していた。

「ねえ、遥」

「何?」

「もう別れさせようとしないで?」

 目を伏せたままの遥に、澪は小首を傾げてお願いする。

 しかし、彼は振り向きもせず、面倒くさそうにズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「困るの?」

「えっ?」

「僕が何か言ったくらいでダメになるなら、その程度の仲ってことじゃない?」

「それは……」

「だったら、遅かれ早かれ別れることになると思うよ」

「そっか……そうだよね……」

 澪はそう呟くと、ギュッと両手を握りしめて気合いを入れた。

「私、遥の妨害には負けないんだから!」

「ホント、澪はノーテンキだね」

 遥は呆れたように横目を流しながら、溜息まじりに言う。

 それでも、澪はニコッと笑い返した。なんだかんだ冷たいことを言いながらも、彼はいつもあたたかく見守ってくれている。それは、小さな頃からずっとそうだったし、これからもずっとそうだと信じていた。


 二人は並んで階段を上る。

 肖像画の掲げられた踊り場を通り過ぎ、二階へ足を進めると、突き当たりの大きな扉の前で立ち止まった。そこは剛三の書斎である。学校が終わったら来るようにと、彼に言いつけられていたのだ。

 コンコン、と遥は強めに扉をノックした。

「入れ」

 中から、剛三の迫力ある重低音が聞こえた。二人は扉を押し開けて入る。だが、いつもいるはずの正面の執務机に、彼の姿は見えなかった。

「こっちだ」

 声のする方に振り向くと、先日まではなかった打ち合わせスペースらしきものが目に入った。机も椅子も小さな会議室で使用するような簡素なもので、この重厚な書斎には不釣り合いな、いかにも急ごしらえという安っぽい雰囲気が漂っている。

 その奥の席で、剛三は意気揚々と手招きをしていた。隣には、秘書の悠人が微笑を浮かべて座っている。

 しかし、そこにいたのは、彼らだけではなかった。

 二人の向かい側には、澪の見知らぬ若い男性が、妙に馴染んだ様子でパイプ椅子に腰掛けていた。会社関係の人間ではないだろう。シャツにジーンズというカジュアルな格好をしており、髪も栗色に染められ、少なくとも本社で勤務するにはありえない姿である。それに、外見からするとかなり若そうで、澪たちとそれほど年齢が違わないように見えた。

「あの……」

「遅かったな。何をやっておったのだ」

 意図的ではなかったのだろうが、澪が切り出した言葉を遮るように、剛三はよく通る低音を響かせた。そこには、非難というほどでもないものの、はっきりとした不満の色が滲んでいた。

「学校で勉強だけど」

「今日は8時限まであったんです」

 素っ気ない遥の返答に、澪は補足する。

 だが、剛三の表情は変わらなかった。自分から訊いたにもかかわらず、興味なさそうに「まあ良い」と受け流し、空席を示しながら二人に座るよう促す。

 先に遥が右端に座ったので、澪は中央の席に腰を下ろした。左隣に座っているのは例の見知らぬ男性で、頬杖をつきながら、澪たちを観察するように無遠慮な視線を送っている。澪は少しムッとして、左手で彼を指さしながら剛三に尋ねた。

「この人どなたです?」

「おまえは本当にせっかちだな」

 剛三は呆れたようにそう言うと、軽く咳払いをしてから続ける。

「それではさっそく紹介するとしよう。怪盗ファントムの一員として、我々を手伝ってくれることになった志賀篤史君だ。彼は大学生ながら経験豊富なハッカーでな、現在、日本で彼の右に出るものはいないと言われておるのだ」

 聞き慣れない怪しげな単語に、澪の眉は反射的にしかめられた。

「ハッカーって、コンピュータで悪いことをする犯罪者?」

「それはクラッカー」

 間髪入れず、篤史が訂正する。

「ハッカーっていうのはコンピュータやネットワーク技術に精通した人のことで、必ずしも犯罪者ってわけじゃない。まあ、俺の場合、多少ヤバいことをやってきたのも事実だけどな」

「…………」

 臆面もなく悪事を告白する彼を、澪は浅ましげに睨んだ。

「おじいさま、こんな犯罪者まがいの人を仲間にしていいんですか?」

「そういうおまえだって、犯罪に足つっこもうとしてんだろ?」

「そっ、それは……」

 篤史から思わぬ横やりを入れられ、澪は返す言葉もなく口ごもる。自身が望んでのことではないが、やがて同じ穴の狢となる以上、どんな反論も空疎な言い訳にしかなりえない。

 剛三は豪快な笑いを響かせた。

「高度情報化社会の時代、こういう人材は必要不可欠でな。快く迎え入れてやってほしい」

 今やセキュリティも書類もほとんどがコンピュータで管理されている。そういう方面に詳しい仲間がいれば、頼りになることは間違いないだろう。そのことはもちろん理解しているが、澪としてはやはり気が進まなかった。彼を信用することも、彼に好感を持つことも出来そうにない。せめてもう少し誠実そうな人なら良かったのに、と思うものの、今さらそんなことは聞き入れられそうもない。

「おじいさまがそう言うのでしたら」

 渋々ながら澪が折れると、剛三は満足げに大きく頷く。

「おまえの心配もわからないではないが、彼を仲間にすることは悠人も賛成しておる。十分に吟味して出した結論なのだ。腕の方は申し分ないし、人格的にも問題はない。それに、我々と同じファントムの名を持っていたのも何かの縁だろうからな」

「それどういう意味です?」

「彼のハッカー名が『phantom』なのだよ。そのことが、彼に目をつけた理由の一つでもある」

 剛三はいつになく上機嫌で声を弾ませていた。まるで無邪気な子供のようである。彼にとっては、新しいおもちゃを見つけたようなものなのだろう。澪は溜息を落として篤史に振り向いた。

「災難だったね」

「どうかな」

 篤史は口もとに薄く笑みを乗せて言う。どういう意味なのか判然としない。わざわざ問い詰めようとまでは思わないが、その思わせぶりな物言いが腹立たしく、澪は片眉をしかめて唇をとがらせた。


「まずは、簡単な案件で感覚を掴んでもらおうと思う。いわば実地研修のようなものだな」

 剛三は真面目な顔になり、机の上で両手を組み合わせた。

 会社の新人教育みたいなことを言っているが、その内容は反社会的な怪盗としての仕事である。もう開き直ったつもりではいたが、現実として自分たちが犯罪者になるかと思うと、澪は否応なしに暗澹とした気持ちになった。

「悠人、写真を」

「はい」

 剛三の指示を受けて、悠人は手元のファイルから一枚の写真を取り出した。少し頬のこけた細身の男性と、小学生くらいの女の子が、仲睦まじそうに笑顔を寄せて写っている。二人とも幸せそうに見えるが、背景から察するに病室のようだ。

「誰? この人たち」

「先日、夭逝した洋画家の高塚修司と娘の春菜だ。この写真は亡くなる少し前のものだろう。妻は春菜を産んだときに亡くなっており、それ以来ずっと二人きりの家族だったそうだ」

「じゃあ、今は娘さん一人ぼっちなんですか?」

 澪が心配そうに尋ねると、剛三は重々しく頷いた。

「親戚が引き取るか、施設に預けるか、まだ決まっていないらしい。どうやら親戚とは疎遠だったらしく、誰も春菜とは会ったことがなかったそうだ。それに、高塚修司は天才画家といわれてはいたが、寡作だったため、遺産と呼べるものはほとんどない状態でな。それも、皆が春菜を引き取りたがらない理由の一つなのだ」

「そんな……」

 短い身の上話を聞いただけにもかかわらず、澪はすっかり春菜に同情していた。彼女の心境を想像すると、自分まで泣きたいような気持ちになってくる。それは、相手に面識があろうとなかろうと関係のないことだ。

「とりあえず本題に入ろう」

 剛三は冷静に言葉を継いでいく。

「不治の病で先が短いことを知った高塚修司は、娘への最後のプレゼントとして、文字通り命を削って彼女の肖像画を描き上げたのだ。だが、自称親友で画商の浅沼がそれに目をつけてな。画商というよりブローカーと云った方が近いかもしれんが」

 その吐き捨てるような語尾には、やるかたない忌々しさが滲んでいた。

「奴は金のためなら平気で悪辣なことをやる男で、今回も高塚修司が亡くなると、管理のために預かるなどと言いくるめて、その未発表の肖像画を持ち帰ったのだ。後日、春菜が返してくれるように頼んだが、そんなものは知らんと……要は騙して手に入れたということだな」

「ひどい! 詐欺じゃない!」

 澪はカッと頭に血をのぼらせる。正義感の強い澪には、とても冷静でいられる話ではなかった。

 その隣で、遥は胡散臭そうな目をしていた。

「そんなのすぐにバレるんじゃないの?」

「そうでもないぞ。春菜が何を言っても証拠はないからな。逆に浅沼なら売買契約書の捏造くらいはやるだろう。おそらく何年か寝かせておいたのち、寡作の天才画家の遺作として大々的に発表し、最大限に価値の上がったところで売り払う寸法に違いない」

「ふーん……」

 彼は無感情に相槌を打つと、澪に視線を移して言う。

「なんか似てるね、こないだ聞いた母さんの話と」

「あっ、言われてみれば」

 先日聞いた母親の過去と、今日聞いた春菜の話は、細かいところは違うのだろうが、話の骨子はまったく同じといっても過言ではない。偶然とはいえ、ここまで立場や状況が重なることもめずらしいだろう。

「どうだ、力になってやりたいと思うだろう?」

「私、俄然やる気が出てきたわ! その肖像画を取り返すのね?」

 澪は身を乗り出して言う。もはや怪盗としての仕事であることなどすっかり忘れていた。

 剛三は大きく頷く。

「そう、おまえたちにはこの肖像画を盗み返してもらうのだ!」

 舞台役者のように声を張りながら、芝居がかった所作で大きく右手を伸ばす。その先では、いつのまにか悠人が肖像画を掲げていた。描かれているのは、どこか気恥ずかしそうに微笑む愛らしい少女で、それが高塚の娘であることは一目でわかった。

「……えっと、どうしてその絵がここにあるんですか?」

「レプリカじゃない? それと同じ絵を盗めってことだよ」

 遥は当然だとばかりに言う。澪も素直に納得しかけた。しかし——。

「いや、これが本物だ」

「……どういうことです?」

 剛三の答えはいたって端的だが、その意味はまるで理解できない。澪は訝しげに眉をひそめて聞き返した。遥も同じく、口には出していないものの、追及するようにじっと祖父を見つめている。

 ニヤリ、と剛三の口の端が上がった。

「先日、悠人と篤史がこっそりと浅沼邸から盗んできたのだ。代わりにこちらで用意した贋作を置いてきたから、あやつにはまだ気付かれておらんだろう。この案件についてはひと月以上も前から準備を進めておってな。何度か正式な客として浅沼邸を訪問しながら、家の構造やセキュリティを密かに調査攻略し、今はもう自由に出入りできるようになっておる」

「そこまで大掛かりなことをする必要があるの?」

「何ごとも慎重かつ大胆にやるのが、成功の秘訣だ」

 半ば呆れたような口調の遥に、剛三は得意げに答えて胸を張る。

 しかし、澪はいまだに釈然としなかった。

「もう盗んできたのなら、行く必要ないんじゃ……」

「馬鹿者っ!!」

 ダン、と勢いよく両手で机を叩きつけ、剛三は唾を飛ばしながら一喝した。

「ただ盗むだけではコソ泥でしかないだろう。我々は怪盗なのだぞ。派手に、華麗に、人々の記憶に残るように盗まねば意味がない! 最高に素晴らしいパフォーマンスを皆に見せつけるのだ!!」

「はあ、そうですか……」

 暑苦しく力説する剛三についていけず、しかし無下な態度をとることもできず、澪は当たり障りのない相槌を打った。その気持ちは表情にも滲み出ている。それでも、剛三はまるで意に介する様子もなく、コホンと咳払いして一方的に話を進めていく。

「二代目は美少女怪盗というコンセプトで行こうと思っておる」

 そう言うと、悠人のファイルからイラストボードを取り出して皆に見せた。そこには、長い黒髪をなびかせた澪そっくりの少女が、東京の煌めく夜景を背にして、凛々しくビルの屋上に立っているイラストが描かれていた。高校の制服に似たジャケットとスカートだが、中は真紅のシャツと白のネクタイで、全体的にあまり制服っぽさは感じられない。さらに、黒のニーソックスと革靴、純白の手袋、赤のリボンが巻かれた黒のシルクハットというオプションが付き、地味なようでいて意外と目立つ格好になっている。

「どうだ? なかなか良いだろう。初代以上の話題沸騰は間違いなしだ」

 剛三は喜色満面で声を弾ませた。

「えーっと……この格好するのって、その……私?」

「おまえ、今さら何を言っておるのだ」

 こわばった顔でおずおずと尋ねた澪に、剛三は呆れたような目で睨みをきかせる。そこには、拒否など決して許さないという、怖いくらいの気迫が満ちていた。もはや、どう足掻いても回避できそうにない。

 二人の会話を聞いていた遥は、つまらなさそうに頬杖をついた。

「じゃあ、僕は裏方ってことだね」

「裏でもあり、表でもある。そのあたりの詳細はこれから説明しよう」

 剛三はイラストボードを机の中央に置くと、隣の悠人と目を合わせ、意味ありげに口もとを斜めにした。篤史は左腕を机につきながら、遥に視線を流してニヤニヤと厭らしく笑う。その場に流れる奇妙な空気に、自分に向けられる好奇の眼差しに、遥は困惑した様子で微妙に顔をしかめた。


「へえ、けっこういい家。画商って儲かるのかな」

「誠実でないほど儲かる職業なのかもね」

 後部座席で呟いた澪の独り言に反応し、運転席の悠人はにこやかに皮肉を言った。

 澪、悠人、篤史の三人は、乗用車で小高い丘の上にある浅沼の家に来ていた。といっても、訪問するわけではなく、ゆっくりと前を通り過ぎるだけである。悠人と篤史はすでに飽きるほど訪れているが、澪はまだ見たことがなかったため、先に軽く下見をすることになったのだ。

 外はすっかり暗くなっていたが、家には煌々と灯りがついており、庭もところどころライトアップされている。おかげで、こちらから照らさずに観察することができた。敷地はかなり広いようだ。建物自体はそうでもないが、庭だけならば橘家よりも大きいだろう。しかし、そこには庭園のようなものはなく、ただひたすら芝生が続いているだけである。

「予告状は出したって言ってましたよね?」

「もちろん怪盗ファントムの署名入りでね」

「そのわりには静かじゃないですか」

 あたりに人の気配はほとんどない。予告状を出したとなれば、警官や警備員が大挙して出動し、報道陣が押し寄せ、野次馬も集まっているような、騒がしく物々しい状況を予想していたが、現実はまったくの肩透かしである。

 篤史は膝に載せたノートパソコンを操作して、システム画面や隠しカメラの映像を次々と映し出した。

「警察はいないけど、一応、警備員は二人呼んでるな。半信半疑ってところなんだろう」

「あれでも何十年も美術に携わってきた人間だから、怪盗ファントムを知らないことはないと思うけど、もうかれこれ20年以上も活動していなかったし、悪戯を疑うのは当然といえば当然だろうね」

 ハンドルを切りながら、悠人は冷静に分析する。しかし、篤史は小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、頭の後ろで手を組み、背筋を伸ばしてシートにもたれかかった。

「狙われているのが騙し取ったものだから、警察に通報しづらいってのもあったんだろう。そして警備員を雇うには金がかかる。何億もする名画ってわけじゃないし、来るか来ないかわからない怪盗のために、そんなに金はかけられない。あのケチなおっさんなら、そんなところだと思うぜ」

「そのあたりも見越して、これを実地研修に選んだんだよ」

 悠人はそう言うと、後部座席にちらりと視線を向けて微笑む。

「派手なデビュー戦はちゃんと用意してあるからね」

「えっ? いえ、そんなのはいらないです!」

 澪は慌てて両手をぶるぶると振った。困るとわかっていて意地悪を言う悠人が恨めしく、ほんのりと頬を染めて口をとがらせる。

「贋作ってことはバレてないみたいだな」

 膝上のノートパソコンに目を落とした篤史は、隠しカメラの映像を見てニヤリと笑った。そこには浅沼邸の一室が映し出されており、その中央に置かれた大きな透明ケースには、すり替えた肖像画の贋作が鎮座していた。

「なーんにも知らずに大事そうにしてるぜ」

「それでは、予定どおりプランAでいこう」

 悠人は事務的な口調で決断を下した。身を乗り出していた澪は、シートに座り直しながら尋ねる。

「よくバレませんでしたね。画商なんでしょう?」

「彼に絵画の良し悪しを見るだけの眼力はないよ。良い値がつく絵を嗅ぎつける才能は持っているみたいだけど。絵は単なる儲けの道具でしかない、という考えだからね」

「つくづくサイテーな人ね。俄然やる気が出てきたわ!」

 悠人の話を聞いて、澪は浅沼という人間にいっそう嫌悪感を募らせた。力強くこぶしを握りしめて気合いを入れると、耳に装着したイヤホンマイクを軽く押さえ、別の場所で待機する遥に電波を通して話しかける。

「頑張ろうね、遥!」

『ファーストだよ』

 イヤホンから無愛想な返答が聞こえた。

「あ、そっか。コードネームで呼ばなきゃいけないんだっけ。遥はファースト、私がセカンド、ハッカーがサード、師匠が副司令、おじいさまが司令ね。なんかめんどくさいなぁ。呼び方なんて、そんな急には変えられないよ」

 澪が溜息まじりに不満を漏らすと、隣の篤史が咎めるような目を向ける。

「遊びじゃねぇんだぞ。一応スクランブルは掛けてあるが、誰に聞かれるかわからないんだからな。本名で呼び合うなんて、捕まえてくださいって言ってるようなもんだぜ」

「わかってるよ、サードっ!」

 すぐ隣にいるにもかかわらず、わざわざ嫌みたらしくイヤホンマイクに向かって言った。それでも腹立たしさはおさまらず、顔をしかめたまま、腕を組んでぶつくさと独りごちる。

「せめて、もう少しかっこいいのなら良かったのに」

「剛三さんの一存だから仕方ないよ」

 悠人は軽く笑って受け流しながら、標的の家からほど近い駐車場に入った。その隅に車を停めてエンジンを切る。いくつかある残りの駐車スペースは空のようだ。一通りあたりを見まわして確認すると、イヤホンマイクを通して剛三に報告する。

「ポイントBに到着しました。問題はありません」

『よし、さっそく作戦開始だ。総員配置につけ!!』

「了解」

 暑苦しいくらいテンションの高い剛三とは対照的に、車の三人はそろって淡泊な声で返事をした。悠人と篤史はどうだかわからないが、澪が呆れていることは、そのわかりやすい表情からも明らかだった。


 澪は、屋敷の裏側に張り付いて待機していた。

 外にはひとりも警備員が出ておらず、監視カメラも門と玄関だけのため、敷地内に侵入するのは容易だった。

 すでに衣装替えは済んでいる。ほぼコンセプトイラストどおりだが、シルクハットだけは身に付けていない。逆に追加されたのは、顔全体を覆う白い仮面である。薄気味悪くて澪は気に入らなかったが、素顔を晒すわけにはいかず、文句を言いながらも受け入れるしかなかった。

『家の構造は頭に入ってるか?』

「もちろん」

『作戦の手順は?』

「大丈夫よ」

 澪はイヤホンマイク越しに、篤史と短い会話を交わす。家の構造も作業の手順も、今日の打ち合わせで聞いたばかりだが、その場ですぐさま頭に叩き込んだ。遥ほどではないが、澪も記憶力はいい。この程度のことならば難なく覚えられるのだ。

『一応こちらで指示を出すけど、現場では想定外のことが起こる。そういうときは、自分の判断で臨機応変に対応しろ。捕まらないことが最優先だ』

「できるかなぁ」

『今さらなに言ってんだよ。自信を持ってやれよ』

 弱音を吐露した澪を、篤史はぶっきらぼうに叱咤する。澪は表情を引き締めてこくりと頷いた。

『そろそろ予告の時間だ。セカンド、ベランダの柵の上に立て』

 そのベランダは二階にあるが、澪にとっては何の問題もない。少し下がって助走をつけると、凹凸を利用しながら外壁を駆け上がり、音を立てないようにベランダへと飛び移る。そして、その柵の上にすくっと立ち、背筋を伸ばして右手を腰に当てた。

「オッケーよ」

 澪が声をひそめて報告すると、篤史は40からカウントダウンを始めた。澪はそのポーズを維持したままで、彼の声を聞きながらじっと待つ。カウントが10を切ったあたりから、次第に鼓動が速くなってきた。

『5、4、3、2、1、0』

 その瞬間、敷地内の灯りがいっせいに落ちた。部屋の中から、浅沼と思われる男の動揺した叫び声が聞こえる。警備員にもヒステリックに怒鳴り散らしているようだ。

『ライトアップ』

 篤史の冷静な声と同時に、澪は背後から強烈な光で照らされた。光源を直接見ているわけでもないのに、眩しくてまともに目を開けていられないほどである。

『いいぞ、セカンド、いいシルエットだ』

 部屋の中に設置してある隠しカメラの映像で、カーテンに映るシルエットを見ているのだろう。先ほどまでとは違い、篤史の声は少し熱を帯びていた。

 当然ながら、部屋の中の浅沼もシルエットには気がついていた。あたふたとその窓に駆け寄り、乱暴にカーテンを開け放つ。そして柵に立つ澪の姿を視認すると、ギョロ目をいっそう大きく見開いて、半開きの口をカクカクと震わせた。

「お……女……?!」

 驚愕と困惑の入り交じった表情で、浅沼はよろめきながら数歩後ずさった。警備員たちも後ろで呆然と立ちつくしている。

『セキュリティは切った。上の窓を開けろ』

 浅沼が窓を開けた場合はそこから入ることになっていたが、いまだその気配がないため、準備してあった別手段を取るよう篤史が指示を送ってきた。

 ちらりと右側に目を向けると、キラリと小さく輝く釣り糸が、柱に貼り付けられているのが見えた。澪はそれをさっと掴み、大きく振りかぶって引き下ろす。すると、仕掛けてあったからくりが動き、上部の窓がすうっと静かに開いた。おそらく浅沼たちからは、ファントムが手を振り下ろしただけで、触れることなく窓が開いていくように見えたのだろう。だらしなく口を開けてポカンとしている。

『飛び移れるか?』

 篤史の声は少し心配そうだった。

 その開いた窓はかなり高い位置にある。ガラスを割らずに飛び乗るのは至難の業だ。しかし、打ち合わせのときに、澪ならできると悠人は断言してくれた。師匠に信じられているのなら、難しかろうとやるしかない。

 軽く柵を蹴ってベランダに降りると、その流れで助走をつけ、最適な位置を見極めて強く踏み切る。

 ダンッ——。

 長い漆黒の髪をなびかせて、澪の体は宙に舞った。

 窓枠に掛けた両手にグッと力をこめ、体を引き寄せそこに飛び乗り、勢いを止めることなく再び大きく跳躍する。そして、浅沼と二人の警備員の頭上を越えると、くるりと宙返りをし、部屋の中央付近に軽やかに着地した。

 すぐ隣に目的のものがあった。

 それは四角い透明ケースの中にあり、開けるためには電子錠を解除しなければならない。

『0141だ、急げ』

 篤史が早口で指示を出した。言われなくても覚えていたのに、と澪は少しムッとしながら、素早く四桁の数字を入力して解除ボタンを押す。ピピッと電子音が鳴った。間髪入れずケースを跳ね上げると、中に鎮座していた肖像画を抱えて走り出した。


 一連の大胆で鮮やかな手口に、浅沼も警備員たちもただ呆然と見入っていた。

「なっ、何をやっとるかぁっ! 取り返せっ!!」

 我にかえった浅沼は、顔を真っ赤にして二人の警備員に怒鳴り散らす。それで、彼らもようやく自分の仕事を思い出し、部屋を飛び出したファントムを追って駆け出していった。


『なかなか落ち着いてて良かったぜ』

「まだ終わったわけじゃないでしょっ」

 澪は廊下を全力疾走しながら篤史に言い返す。今はまだ作戦続行中であり、喜ぶのは早いし、何よりそんな状況ではない。ちょっとした不手際が命取りになりかねないこの作戦を成功させるには、雑念は捨て去り、自分のすべきことに集中しなければならなかった。

 やがて奥の突き当たりに行き着いた。振り返ると、二人の警備員が息を切らせて走ってくるのが見える。

「追いつめたぞ!!」

 警備員の一人がそう言うと、もう一人とともに澪に飛びかかってきた。

 澪は抱えていた肖像画をその場に投げ捨てると、身軽に一歩下がり、つんのめった警備員の背中を踏み台にして上方に跳び上がった。そして、あらかじめ取り付けてあった天井の小さな手すりを掴むと、足を振り上げて点検口を蹴り飛ばし、そのまま足から天井裏に飛び込んでくるりと着地する。

 警備員たちは唖然としていたが、ハッと我にかえり、傍らに置き去りにされていた肖像画を拾い上げた。それの無事を確認すると、大きく安堵の息をつく。そして、重そうな体を揺らして追いかけてくる浅沼に、その肖像画を頭上に掲げて嬉しそうに報告する。

「取り返しました!」

「汚い手で触るな!」

 その瞬間、ズサッという鈍い音とともに、肖像画に深々とナイフが突き刺さった。天井裏から澪が放ったものである。ナイフにはメッセージカードも刺してあった。

 浅沼は声にならない悲鳴を上げた。

 青ざめて凍り付く警備員を突き飛ばし、肖像画からナイフを抜いて黒いカードに目を落とす。

 ——本物はいただきました 怪盗ファントム

「おのれ、いつのまにっ……!」

 浅沼は奥歯が削れそうなほどにギリギリと歯がみした。そのナイフで偽物をズタズタに切り裂くと、二人の警備員を睨みつけて濁声で叫ぶ。

「おまえら何をやっとる?! 追え!!」

「は、はいっ! 梯子は……」

「ファントムみたいに跳び上がれ!!」

「出来るならとっくにやってます!」

 浅沼は頭をぐしゃぐしゃに掻きながら梯子を探しに走り、その間に警備員たちは肩車をして、一人だけでも天井裏に這い上がろうと奮闘していた。


 澪は身を屈めながら、音を立てないように天井裏を進んでいく。まわりの空気は少し湿っていてカビ臭い。だが、思ったより埃っぽさはなく、普通に呼吸をしても咳き込むようなことはなかった。

『一応、軽く掃除しておいたからな。感謝しろよ』

「至れり尽くせりね」

 他家の天井裏をこそこそ掃除する篤史たちを想像し、澪は肩を竦めて苦笑する。

『目的の場所はわかりそうか?』

「目印、ちゃんと見えてるよ」

 天井裏はほとんど暗闇といっていい状態だったが、所々に蓄光テープが貼ってあり、澪の進むべき道をわかりやすく示してくれていた。そのテープを回収しながら進んでいくと、やがて、隅に隠すように置かれたスクールバッグを見つける。

「例の鞄、あったわ」

『よし、警備員のやつらは振り切ったか?』

「うん、やっと天井裏に登ったところかな」

 肩越しに背後を確認してみるが、まだ姿は見えず、音も遠くに聞こえるだけである。目印はすべて回収済みなので、どこに怪盗ファントムがいるのか、この広い天井裏で見つけるのは困難だろう。

「じゃあ、そこから下に降りろ」

 澪は足元の点検口を開き、先ほど見つけたスクールバッグを抱えて飛び降りた。そこは来客用のお手洗いである。大きな屋敷に見合うだけの広さがあり、内装も立派で、当然のように隅々まできちんと清掃されていた。

「降りたよ」

『あとは打ち合わせどおりいけるな。おまえはそこで着替えて、見つからないようこっそり外に出る。そしてA3番から戻ってこい。仮面は敷地を出るときに外すこと。いいな?』

「うん……でも……」

『何か問題でもあるのか?』

 歯切れの悪い返事を聞いて、篤史は怪訝に問いかけた。澪はぎゅっと鞄を抱えてあたりを見まわしたあと、少し言いにくそうに切り出す。

「もしかして、ここに隠しカメラついてたりしない?」

『はぁ?』

 裏返った素っ頓狂な声がイヤホンから聞こえた。

『アホな心配してないでさっさと着替えろ!』

「そうやって誤魔化すところが怪しいっ!!」

『おまえ、自意識過剰もいい加減にしろよ!』

『セカンド、そこにカメラはついていない。僕が保証する』

 これまで黙っていた悠人が、ヒートアップした二人の言い合いに口を挟んだ。いつものように冷静な声である。その言葉が本当だという証拠は何もないが、彼がこんなくだらないことで嘘をつくとは考えられない。

「わかりました、師匠……じゃなくて、副司令」

 澪は落ち着きを取り戻してそう答えると、個室のひとつに入って鍵をかけた。しつこくもあたりをきょろきょろと確認してから、白い仮面を取り、素早く怪盗ファントムの衣装を脱いで着替え始めた。

『さ、出番だファースト』

『了解』

 今度は遥の方に指示が出される。もう覚悟は決めているのだろうが、面白くはないらしく、あからさまに気乗りのしない声で返事をしている。怪盗ファントムをやると言ったことを後悔しているのかもしれない。

 バリバリバリバリ——。

 上空から轟音と強烈な光が降りそそいだ。その振動が屋敷にも伝わってくる。

「あっちだ! 何をやっとる! 追え!!」

 その轟音の正体が何であるか、浅沼はすぐに理解したのだろう。必死に警備員たちに怒号を飛ばして急き立てていた。しばらくして、澪の潜んでいるお手洗いの前を、いくつかの足音が通り過ぎる。計画どおり、彼らをもうひとりのファントムのもとへ誘導することに成功したようだ。

「頑張ってね、ファースト」

 ちょうど着替え終わった澪は、長い髪を後ろに流しながら、くすっと小さく笑ってそう言った。


「その女だ!! 捕まえろ……っ!!」

 浅沼は息を切らせてヨロヨロになりながら、前を走る警備員たちに命令する。

 広大な庭の奥には、本物の肖像画を抱えた怪盗ファントムが、すぐ上でホバリングするヘリコプターの風を受けて、長い髪を舞い上がらせながら立っていた。左手に持っていた黒いシルクハットを被ると、ヘリコプターから下ろされた縄ばしごに足を掛ける。

「逃がすなっ! 飛びつけっっ!!」

 実際に捕まえられそうなくらいまで、警備員たちは怪盗ファントムとの距離を詰めていた。浅沼に命じられるまま飛びかかろうとする。が、その瞬間——怪盗ファントムは、メッセージカードの刺してあるナイフを、まるでダーツの矢ように素早く投げ放った。サクッと草を切る音とともに、追っ手の足元付近に突き刺さる。

 二人が怯んだ隙に、ヘリコプターは高く上昇していった。

 警備員たちは唖然とし、浅沼は地団駄を踏む。そんな彼らに、怪盗ファントムは自らの姿を見せつけるように、縄ばしごにつかまったまま、印象的な長い黒髪をなびかせながら遠ざかっていった。


「ただいまー」

 澪が剛三の書斎に戻ったとき、すでに打ち合わせスペースには篤史と遥が座っていた。二人とも先ほどまでと同じ格好をしている。つまり、遥はまだ怪盗ファントムの衣装を身に着けたままだった。

「大成功だったね」

 澪はニコニコしながら、空いていた篤史の隣に腰を下ろす。席が決められているわけではないが、何となく、最初の打ち合わせのときと同じ場所になっていた。

「おまえ、もうちょっと真剣にやれよ」

「やってるよ!!」

 澪はムッとして篤史に言い返すと、ひっそりと座っている遥に振り向いた。

「ねえ、遥、いつまでその格好でいるつもり?」

「じいさんが反省会が終わるまで着替えるなって」

 遥は顔を上げることもなく、腕を組んだまま、むすっとふてくされて答えた。さすがに仮面とシルクハットは外しているが、ジャケットもスカートもニーソックスも、おまけに長髪のカツラまでそのままである。自分そっくりのその姿に、澪はどことなく落ち着かないものを感じた。

「カツラくらい取ってもいいんじゃない?」

「冗談じゃない。このままの方がまだマシだよ」

 なぜカツラを取りたくないのかわからなかったが、めずらしく機嫌の悪い遥を刺激しないよう、澪は何も訊かずそっとしておくことにした。

「おお、澪も帰ってきたか」

 肖像画を抱えた悠人を伴って、剛三はニコニコしながら書斎に入ってきた。打ち合わせスペースにどっしり座ると、篤史、澪、遥と順に視線を送り、誇らしげにゆっくりと大きく頷く。

「皆、ようやってくれた」

 滑舌のいい聞き取りやすい声で、まずは労いの言葉を掛ける。それが心からの言葉であることは、彼の表情を見れば一目瞭然だった。

「怪盗ファントムはこのまま続けていけそうだな」

「はい、問題ないでしょう」

 悠人が静かに同意すると、剛三は満足そうに口もとを上げた。

「なかなか良いアイデアだっただろう、美少女怪盗。澪と遥の見た目を最大限に活かして、人目を引くものになっておる。顔を隠さねばならんのが実に惜しい。二人ともきれいな顔でよく似ておるのに。むしろ脚の方が気になるくらいだ」

「……脚?」

 その意味するところがわからず、澪は小首を傾げた。すると、剛三は不意に残念そうな面持ちになり、芝居がかった深い溜息を落とすと、机の上で両手を組み合わせながら答える。

「遥の方がな、少しだけ脚が細いのだよ」

「う、うそよ、そんなこと……っ!」

 そう言いながらも、澪は縮こまって視線を落とした。そこへ篤史は容赦なく追い打ちをかける。

「胸も遥の方つめすぎなんじゃねーの?」

 剛三と悠人はそろって澪と遥の胸を見比べようとする。澪は慌てて両腕で抱え込むように胸元を隠した。篤史を睨んで無言で非難するが、彼は悪びれることなく、頬杖をついて涼しい顔をしていた。

「悠人、あとで調整しておいてくれ」

「承知しました」

 からかわれるのはもちろん嫌だが、真面目に議論されるのも困る。澪は頬を紅潮させたまま口をとがらせた。

「それより盗んだ絵はどうするんです? 本来の持ち主に返すんでしょう?」

「無論だ。我々が利益を得るためにやっているわけではないのだからな」

 堂々と力強く答える剛三の隣で、悠人は肖像画をあらためて机の上に置いた。すでに額装までされている。今日盗んだわけではないので、もう何度も目にしているはずだが、それでも剛三は心を奪われたようにその肖像画に見入った。

「見れば見るほどいい絵だな」

「ええ」

「いつもは鋭く深く迫力のある絵を描く高塚修司が、このような柔らかい絵を描くのはめずらしい。何かを感じ取った娘の不安な内面が繊細に描き出されているが、それを優しい愛情で包み込むように彩っており、それゆえこのような深みのある温かい絵になったのだろう」

 熱っぽい視線を注ぎ、饒舌に語る剛三を見ていると、その絵に相当入れ込んでいる様子が伝わってくる。自らの意思で絵画泥棒を始めたくらいなので、当然ながら絵画は好きなのだろうが、だからこそ澪は少し心配になってきた。

「おじいさま……まさか、返すのが惜しくなったなんて言いませんよね?」

「ちゃんと返すわい。取り返してやったんだ、眺めるくらい良かろう」

 剛三は面倒くさそうに言い返すと、無言で座っている遥に振り向いた。

「遥、今からおまえが返してこい」

「僕が?」

「異議は認めんぞ」

 剛三にそう言われては、遥も観念せざるをえない。せめてもの自己主張なのか、大きく溜息をついてから立ち上がった。そして、うざったそうに長髪を後ろに流しながら尋ねる。

「この格好で行けばいいの?」

「いや、男性版の衣装も用意してあるので、それに着替えて行くが良かろう」

 剛三はニコニコと満面の笑みを浮かべて言う。しかし、彼が笑顔を見せるときはろくなことがない。遥は疑惑と警戒の眼差しでじとりと祖父を見下ろした。


 コンコン——。

 ベッドで横になっていたものの、寝付けずにいた春菜は、不思議な物音を聞いて体を起こした。ガラス窓がノックされるような音だが、ここは一軒家の二階である。普通に考えればありえないことだ。気のせいか風のせいだろう、そう自分を納得させて再び横になろうとしたのだが。

 コンコンコン、と再びノックの音が聞こえた。

 気のせいなどという言い訳はもう通用しない。怖いと思う気持ちはあったものの、確かめない限り、気になって眠ることはできそうもない。音を立てないようベッドから降りると、カーテンを少しだけ開き、おそるおそる外のベランダを覗く。

 そこには、白い仮面をつけた、黒スーツ姿の男性が立っていた。

 春菜はビクリとして一歩後ずさる。逃げようと思うものの、体が凍り付いたように動かない。薄く開いたカーテンの隙間から、表情のない白い仮面がじっとこちらを見ている。そのまま互いに身じろぎもせず向かい合っていたが、やがて、男はゆっくりとした動作で仮面を外した。露わになったその顔は、まだ少年だ。大きな漆黒の瞳がまっすぐに春菜を捉えている。

 このひと、誰——?

 その疑問に答えるかのように、彼の胸元に絵画らしきものが掲げられた。

 春菜はハッとする。

「お父さんの絵!」

 細い隙間からでは一部しか見えなかったが、それだけでも一瞬でわかった。亡くなった父親が唯一自分に遺してくれた絵だと。大切にしようと思っていたのに、浅沼に言葉巧みに騙し取られ、それ以来ずっと馬鹿な自分を責めていた。そして、これからも責め続けるのだろうと思っていた。なのに、その絵がなぜここに——。

 彼は白手袋をはめた人差し指で、何かを指し示した。どうやら窓の鍵を開けろと云っているらしい。冷静に考えれば危険なことである。だが、春菜は父の絵に会いたい一心で、考える間もなく、鍵を外してガラス窓とカーテンを開け放った。

 冷たい夜風が静かに滑り込み、柔らかな頬を撫でる。

 肩ほどの黒髪がささやかにそよぎ、綿のパジャマも微かに風をはらんだ。

「お父さんの絵……本当にお父さんの絵……」

 春菜は一目見て本物であると確信した。この大切な絵を見間違えるはずはない。触れられるほどの距離で直に見ることは、もう二度と叶わないだろうと思っていただけに、胸に熱いものがこみ上げてきた。

 ふと、その絵が目の前に差し出された。

 戸惑いながら、春菜はおずおずと顔を上げて尋ねる。

「くれる、の……?」

「もう二度と離すなよ」

「……ありがとう!」

 春菜は震える手で絵を受け取り、涙を滲ませながら顔を綻ばせた。

 黒スーツの男性もつられるように小さく笑みを漏らすと、すぐに背を向け、軽々と舞うようにベランダの手すりに飛び乗った。すらりとした細身の体躯が、ほのかな月明かりに浮かび上がる。

「待って! お兄さんは……誰……?」

 春菜の問いかけに、彼は答えなかった。顔半分だけ振り返ると、立てた人差し指を唇に当てて見せる。内緒だ、ということなのだろうか。それでも春菜は諦めきれなかった。

「誰にも言わないから、名前だけでも教えて?」

「……怪盗ファントム」

 少しの躊躇いを含んだ声で、彼はそう答えた。

 ザワザワ、と木々の葉擦れが聞こえる。

 瞬間、突風が吹き込んできて、春菜は思わず目をつむった。前髪が額に打ちつけられる。風が過ぎ去りそろりと目を開けると、もうそこに彼の姿はなかった。慌ててベランダに飛び出し、ぐるりとあたりを見まわす。しかし、どこにも彼を見つけることは出来なかった。

「怪盗ファントム……」

 春菜は噛みしめるようにそうつぶやくと、くすっと小さく笑い、大切な絵を抱えながら夜空を見上げる。柔らかな月明かりは、優しく包み込むように彼女を照らしていた。


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