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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
48/68

47. 消えゆく命を前にして

「ミサキ!!」

 甲高い悲鳴が、無機質な大広間に響き渡った。

 溝端に体を押さえつけられていたメルローズは、その腕が外されると、横たわる美咲に飛び込むように縋りついた。白いワンピースが血に染まるのも構わず顔を覗き込む。鳶色の瞳からは止めどなく涙が溢れていた。米国大使館で武蔵が撃たれたときはぼんやりとしていたが、今回は怯えた顔で引きつるように泣きじゃくっている。美咲の身に何が起こっているのか概ね理解しているようだ。

「おい、待てっ!」

 武蔵は混乱に乗じて逃げようとしている溝端に気付き、腕を引っ掴んで声を荒げた。

 その隙に、澪は自分を支えてくれていた彼の手を振りほどき、美咲に向かって駆け出した。遥も同時に走り出す。待て、という制止の声が背後から聞こえてきたが、二人は足を止めるどころか振り返りもしなかった。

「お母さま!!」

 澪が膝をついて呼びかけると、虚ろな瞳がかすかに反応したような気がした。遥は大急ぎで着ていたパーカーを脱ぎ、傷口と思われるところに強く押し当てる。しかし、ドクドクと溢れる血が止まる気配はなく、みるみるうちに濡れていくのがわかった。遥の表情は険しい。それを見た澪は、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。


「どういうつもりだ!」

 武蔵は乱暴に腕を掴んだまま溝端と対峙していた。カッとして声を荒げるものの、溝端の方はそれでも飄々とした態度を崩さない。

「彼女は人柱になるんですよ」

「わかるように言え!」

「そんな義務があるとでも?」

 眉ひとつ動かさない彼を睨みながら武蔵は歯噛みする。しかし、そのスーツの内側に何かを見つけてハッとすると、抗う隙も与えず素早く手を伸ばして奪い取った。美咲を撃った拳銃である。指が食い込むほどの力で溝端の腕を掴んだまま、もう片方の手で撃鉄を起こし、彼の額にグリッと黒い銃口を突きつける。

 溝端は息をのんだが、その表情はすぐさま冷笑に変わった。

「こんな脅しで口を割ると本気でお思いですか。私の役目はもう終わったのです。殺されても計画に支障はありませんので、撃ちたければご自由にどうぞ。最後まで見届けられないのは些か残念ですが」

 彼に臆する様子はない。その額を抉るかのように銃口を押しつけたまま、武蔵は顔をしかめてギリと奥歯を噛みしめた。


「お母さま、しっかり!」

 澪は彼女の手を取り、ひたむきに声を掛けることしか出来なかった。遥もまた傷口を強く押さえ続けるだけである。美咲の目はもう焦点が定まっていない。撃たれた彼女自身も、まわりを囲む三人も、恐ろしいくらい血まみれになっていた。

 メルローズは美咲の腕に縋りつき、小さくしゃくり上げながらうわごとのように名前を呼んでいた。しかし、不意にそのかぼそい声が途絶えて嗚咽も聞こえなくなる。澪が振り向くと、うつぶせになった彼女の小さな身体が薄い光を纏っていた。

「メル、ローズ……?」

 怪訝に覗き込みながら、その小さな背中に手を置こうとする。が——。

「きゃあっ!!」

「澪?!」

 触れた箇所が大きく発光し、バチッと凄まじい勢いで弾かれて後ろに倒れ込んだ。手のひらに無数の針が突き刺さったかのような激痛を感じる。目を落とすとそこは赤黒く焼けただれていた。手首を掴んで、痛みに耐えながらグッと奥歯を食いしばる。遥は目を見開いて振り返ったものの、美咲からは手を離せず、めずらしく対応に戸惑っているようだった。

「危ないっ!!!」

 後ろにいたはずの武蔵が、美咲の傷口を押さえていた遥を乱暴に引き倒すと、彼と澪の頭を同時に抱え込みながら覆い被さる。直後、ドンッと彼の背中越しに衝撃が伝わってきた。はみ出していた脚や身体の一部には焼けるような熱さを感じたが、一瞬だったため耐えられないほどではない。

「ぐっ……」

 武蔵は呻きながら体を起こすと、澪と遥を立たせて一緒に後ろに下がった。

「武蔵……その、背中は……?」

 澪はそう尋ねながら、身を挺して守ってくれた彼をおずおずと見上げる。彼は少し苦しげながらも「大丈夫だ」とはっきり答えた。そして、そんなことよりもと云わんばかりに澪の手をとり、焼けただれた手のひらに目を落とす。彼の顔が歪んだ。

「ひどいな……手当は後でする。しばらく我慢できるか?」

 澪は無言でこくりと頷いた。これまで感じたことのない痛みに脂汗さえ滲むが、ここには薬も包帯も何もないのだから、現実として我慢するしかないと理解している。

 武蔵はメルローズの方に向き直る。

 美咲の腕を抱え込んだ小さな体は、目の眩むような白い光に包まれていた。息苦しいのか背中は大きく上下している。その度に、まわりの光が少しずつ増幅していくように見えた。

「メルローズの魔導の力が暴走を始めた。もう止めることは不可能だ」

 彼女の様子を眺めながら、武蔵は額に汗を滲ませて苦々しげにそうつぶやく。確かに、抱き込んで抑えた米国大使館のときとは明らかに様子が違っている。無知な澪にも何となく手遅れであるようには感じられた。

「下がっていろ」

 武蔵はひとり前に進み出ると、両手をまっすぐメルローズたちの方に突き出し、口先で何か呪文のようなものを唱えた。すぐに薄い光の膜がメルローズたちを覆う。それは彼女を中心に据えた半球状を形作っており、小柄な美咲の体もすべてその内側に収まっている。

「結界の強度が足りない。澪、遥、力を貸してくれ」

 武蔵は両手を下ろして真剣な顔で振り返った。そもそも澪たちがここへ来たのは、いざというときに魔導力を使ってもらうためで、彼に請われれば力を貸すのが当然である。しかし——。

「お母さまは、どうなるの?」

「……近づけないんだ」

 苦渋に満ちたその一言だけで、何を云わんとするかは十分すぎるほど理解できた。愕然として半開きの口を小刻みに震わせていると、遥が駄目押しのように追い打ちを掛けてくる。

「どのみち助からないよ」

「でも……っ!」

 思わず声を上げたものの、継ぐべき言葉が見つからずきゅっと唇を引き結ぶ。それでも必死に頭を巡らせてひとつの可能性を見つけると、結界の一歩手前まで駆けていき、火傷していない方の手を胸元で握りしめて大声で叫ぶ。

「メルローズお願い! 正気に戻って!!」

 反応はなかった。

 メルローズ自身が制御できなくて暴発するのだから、正気に戻るとかそういう問題ではないのかもしれない。それでも一縷の望みに懸けるような気持ちで、何度も何度も縋るように彼女の名前を呼ぶ。やがて、大きな手がずっしりとした重みを持って肩に置かれた。

「澪、頼む……今できることを考えてくれ」

「っ……そんなの、わからないよ……」

 澪は今にも泣きそうになっていた。そんな様子に気付いているのかいないのか、武蔵は後ろから澪と遥を勢いよく懐に引き入れ、囲い込むような形で結界に両手を置いて言う。

「俺の手におまえらの手を重ねて、気を集中させてくれ。俺に送るようにイメージしてみろ」

 それが、今の二人にできるたったひとつのことであり、そしてやらなければならないことなのだろう。遥は請われるまま武蔵の片手に己の手を重ね、気持ちを整えるように目を閉じて浅く呼吸をする。しかし、澪はいまだ覚悟が決まらず立ち尽くすだけだった。

「澪……!」

 武蔵の声には切実さが滲んでいた。

 澪は正面を見つめる。美咲の姿はメルローズの発する光に包まれて、もうほとんど見えなくなっていた。かろうじて投げ出された片手と足先が覗く程度である。それももうピクリとも動かない。まわりの床に広がるおびただしい血溜まりが惨状を物語っていた。

 お母さまは、助からないかもしれない——。

 それは遥に言われずとも感じていたことだ。けれど、助からないという確定的な根拠がない以上、むざむざと見殺しになどするわけにはいかない。だからといって、今の自分にはどうしようもないこともわかっている。開いたままの目から一筋の涙が伝った。

「すまない……」

 武蔵の謝罪が何に対するものかはわからない。しかし、本当に謝罪すべきはむしろ自分の方だろう。今は一刻を争う状況なのにいつまでもこんな——澪はようやく決意を固めると、火傷を負っていない方の手を彼の手に重ね、遥と同じように目を閉じて気持ちを集中させた。

「よし……おまえらの力が伝わってくる……」

 体から力が抜けていくように感じるのは、魔導の力が吸い取られているからだろうか。隣の遥もわずかに眉を寄せている。今まで味わったことのない感覚ゆえに不安を覚えるが、生命の危機を感じるようなものでなく、立つのに支障をきたすほどのものでもない。

「これで封じ込められるんだよね?」

「いや、さすがにそれは無理だ」

 澪の期待を、武蔵はあっさりと一蹴する。

「だが、もちろん無駄なことをやってるわけじゃないぜ。この結界は間違いなく破られるだろうが、ここで幾分か威力を削いでおけば、国を守る結界の方は破られずにすむ……かもしれない。そっちまで破られたらおしまいだからな」

 この国を覆っている結界を破損させたうえ、そこからミサイルを撃ち込んで壊滅させる、というのが溝端たちの計画だということを思い出す。武蔵はその最悪の事態を防ごうとしているのだ。だが、彼の物言いからすると絶対の自信があるわけではないらしい。

 結界を補強している間に、メルローズの体は禍々しい光の渦にのまれて見えなくなった。

 澪の胸に恐怖心が湧き上がってくる。ごく薄い光でさえ手のひらが焼けるほどの威力だったのに、この強烈な光の渦に結界を破られたら、いくら武蔵が庇ってくれても無事で済むとは思えない。次第に足が震えてきた。

「すまない、もう少しだけ耐えてくれ」

 澪の震えを感じてそう言ったのだろうが、彼自身がひどく苦しそうな声をしている。それでも気は緩めていない。触れ合っている手から緊張が伝わってきた。

 グワッ、と急激に光が膨れあがる。

 澪はビクリと体を仰け反らせて背後の武蔵にぶつかった。直後、彼は澪たち二人を脇から抱えてくるりと身を翻し、すぐさま降ろして力いっぱい突き飛ばすように背中を押す。

「振り返るな! 全力で走れ!!」

 そう言われたにもかかわらず、澪は足を止めたままオロオロしてしまう。しかし、遥に手を引かれて我にかえり一緒に走り出した。武蔵がどうしているのか気になったが、そのうち後方から彼の足音が聞こえてきて、幾分かほっとする。開かれた扉を超えてさらに進もうとすると、グォォオォォォ、と大気が震えるほどの轟音が響き出した。驚きのあまり澪だけでなく遥も足を止めてしまった、そのとき。

 ドドドォオオォオン——!!!

 鼓膜が破れたかと思うくらいの爆音とともに視界は真っ白に染まり、背後から強い衝撃を受けて吹き飛ばされる。爆風に揉まれて天地もわからなくなるほど体が回転し、全身に刺すような激痛を感じたかと思うと、受け身さえ取れないまま石の床に激しく叩きつけられた。

 考える間もなく、澪の意識はそこで途切れた——。


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