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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
44/68

43. 束の間の日常

「君は……非常識にも程があるだろう」

「承知の上でお願いしています」

 誠一はとある頼みごとをするために、悠人の部屋を訪れていた。

 応接用のソファやテーブルはないからとベッドに座らされており、正面には椅子をまわして膝を突き合わせてきた悠人がいる。初めのうちは彼も穏やかに応対してくれていたのだが、誠一が頼みごとを口にした途端、その表情を大きく曇らせて不快感を露わにしたのだ。それでも怯まない誠一を見ると、ますます顔つきを険しくして冷ややかに言い返す。

「こんなときに楽しむなと言っているのではありません。むしろ、澪たちには普段どおりの生活をしてほしいと思っています。南野さんもたまには息抜きをすればよいでしょう。ただ、澪は高校生です。男性との外泊など認められるとお思いですか?」

 その声に非難めいた色がまじった。当然の反応だろう。誠一としても想定の範囲内だ。

「通常ならそうでしょうが……」

「今さら、と言いたいのですか?」

 理論武装を展開しようとした矢先に挫かれてしまい、言葉に詰まる。自分の考えはすべて見透かされているのだろうか。胸中に湧き上がったその不安を証明するかのごとく、悠人は射るような眼差しを向けて続ける。

「確かに、夜中に澪をあなたのところまで送り届けたことはありました。ですが、あのときは澪の気持ちを慮ってそうせざるを得ないと判断したからで、今とは明らかに状況が違います」

「それは、そうですが……」

 誠一はどう反論しようかと頭を巡らせる。追いつめる言葉なら思いつかないでもなかったが、下手を言って取り返しのつかなくなる事態は避けたい。悠人との関係を悪くするわけにはいかないのだ。やはりここは素直に引き下がった方が賢明かもしれない。そんなことを考えていると——。

「いいでしょう」

「えっ?」

 発言の意味を測りかねて、誠一は怪訝に聞き返した。

 悠人は感情の読めない面持ちで口を開く。

「今回だけ特別に許可します。澪にも南野さんにも随分とつらいことを強いたので、その罪滅ぼしだと思ってください。ただし、もう二度と許可しませんからそのつもりで。澪との交際までは反対しませんが、節度のある付き合いをお願いします」

「……ありがとうございます」

 結局、今回も折れたのは澪のためということだろう。自らの手で両親の罪を曝くようなことをさせられ、そのせいで一ヶ月近く拉致監禁されてしまい、ようやく家に戻ってくれば衝撃の真実が発覚、両親の問題が解決していないにもかかわらず学校へ行き、一ヶ月の欠席を取り戻すために家でも勉強づけ、その間に怪盗ファントムの仕事までやらされていた、そんな彼女の願いを却下するほど非情にはなれなかったのだ。

 しかし、彼女に想いを寄せる一人の男としては受け入れがたいに違いない。先日、荒ぶる気持ちを澪にぶつけていたことを思い出し、顔を曇らせながら物言いたげにじっと彼を見つめる。

「……何でしょう?」

「その、私が言うのも何ですが……大丈夫ですか?」

 遠慮がちに尋ねると、悠人はふっと自嘲の笑みを漏らして目を伏せた。

「少なくとも澪には、二度とあのような醜態をさらさないつもりです。もう諦めもつきましたし……剛三さんから聞きました。あなたが剛三さんに澪の結婚について尋ねたこと、そして剛三さんがどう答えたのかということも」

 剛三は悠人と澪を結婚させたがっている——誠一は、澪と遥からそういう話を聞かされていた。だが、二人とも剛三から直に聞いたわけではないという。なので、実際のところはどうなのかはっきりさせようと、先日、思い切って本人に心積もりを尋ねてみたのだ。

 彼が言うには、悠人と澪に結婚してほしいと思っていることは事実である。何年か前から悠人の気持ちには気付いており、剛三としても悠人に婿として橘を継いでほしいと考え、何度も悠人に行動を起こすよう発破を掛けたり、陰ながらあれこれと手助けもしてきたが、澪の意思を無視してまで結婚させようとは考えていない。澪の気持ちが悠人に向くことを願っていたが、もはやそれも難しいと諦めており、澪の結婚相手は本人の意思を尊重しようと考えている。もっとも、ろくでもない男ならば家族として反対するが、誠一であれば特に反対する理由はないと——。

「澪の幸せを望む気持ちは誰にも負けないつもりです。剛三さんにも、あなたにも」

 悠人はやにわに真剣なまなざしになると、静かにそう宣言した。

 それについて反論しようという気はさらさらない。もちろん誠一も決して負けてはいないつもりだが、彼には保護者としての長い年月があるのだ。そのくらいの自負があるのも当然といえるだろう。肯定も否定もせずただじっと見つめ返すと、彼はこれまでに聞いた何よりも重い言葉を紡ぐ。

「澪を、幸せにしてくれますよね」

「……はい、必ず」

 誠一は無意識のうちにすっと背筋を伸ばし、若干の緊張を覚えつつも、彼から目を逸らすことなく真摯に答えた。


「師匠がよく許してくれたね。駄目だと思ってたからビックリ」

「こんなことなら小旅行でも考えておくんだったな」

「ううん、こういう普通っぽいのがいいの。普通がいちばん幸せだもん」

 穏やかな陽光が降りそそぐ中、澪は晴れやかな笑顔で振り向いてそう答えた。いつもどおりの自然な口調ではあるが、彼女の境遇を思うとやけに重く感じられる。しかし、ここで持ち出すべき話ではないと思い、誠一はただ柔らかく微笑み返すにとどめた。

 今日は映画を観るということくらいしか決めていない。そのあとは街中をぶらぶらしながらのんびりと過ごし、どこかで夕食をとったあと、深夜になるまえに誠一の部屋に来てもらえばいいだろう。外泊の許可が出る可能性は低いと思っていたので、特別なことは何も考えていなかったのだ。もっとも、女子高生とふたりでホテルや旅館というのも難しいので、結局は誠一のところに泊まるしかなかったのかもしれないが。

「私、これがいいな」

 シネコンの上映作品一覧の中から澪が指さしたものは、近未来SFと思われる洋画だった。二人とも映画に詳しくなく、特にこだわりもない。澪はSFやアクションなどのハリウッド大作を好み、誠一もラブストーリーよりはそういう方が好きなので、何を見るか決めずに来ても揉めることはなかった。

 カウンターで最後列の座席を指定してチケットを買い、開場を待って座席に着く。あたりを見まわしてみると、十代、二十代から五十代くらいまで幅広い年齢層の人たちが来ている。席は半分ほど埋まっているだろうか。公開から一週間が過ぎてこれだけ入っていれば、それなりに盛況と云えるだろう。

 誠一は、この映画がどんな話なのか知らなかった。

 おそらく澪も知らなかったのだろう。知っていれば選ばなかったに違いない。

 簡単にいえば、研究者である両親に実験台にされていた少女の話だ。少女は両親とともに幸せに暮らしていたが、ある日、記憶と現実の乖離に小さな疑念を感じる。そんなとき謎の男が現れ、少女は半信半疑ながらも男の助言に導かれていき、やがて自分の過去がすべて作られた偽の記憶であることを知る。過去の記憶が人格に与える影響を研究している両親が、何度も様々な記憶を上書きし、その都度どう人格が変化するかを実験していたのだ。少女は謎の男とともに現実と夢を行き来し、本当の過去と彼女自身の人生を取り戻す、という話である。

 全体としてはそう似ているわけではないが、両親に実験台にされていた少女、というあたりがどうしても澪の境遇と重なってしまう。映画とは違い、澪たちは初めから実験のために作られたのだからなお悪い。それなりの時間が経過しているのならともかく、今はまだ生々しすぎるだろう。

「面白かったね」

 エンドロールまで流れ終わり館内が明るくなると、澪は椅子から立ち上がってそう言った。笑みを浮かべているものの、泣いていたことは一目瞭然だ。目が少し潤んだまま充血しており、睫毛も濡れている。しかし、誠一はあえてそこには触れず「そうだな」とだけ答え、彼女の手を引きながら若干足早に映画館を後にした。


「さっきの映画、私なら大丈夫だから気を遣わないでね」

 映画の後に入ったカフェで、澪はショートケーキにフォークを刺しながら明るくそう言った。すっかりいつもの彼女に戻ったように見えるが、無理をしていないとも限らない。誠一は「ああ」と曖昧に答えてコーヒーを口に運んだ。

「私の場合はもう真実がわかっちゃってるし、助けてくれる仲間もたくさんいるんだもん。あ、でも、自分の記憶が作られたニセモノで、これも現実じゃなくて夢だったら、って考えるとすごく怖いけど……」

 澪は難しい顔になってうつむき、フォークを持つ手を止めた。

 誠一はふっと表情を和らげてコーヒーカップを戻す。

「大丈夫、少なくとも俺は現実だから」

「そういう人ほど信じちゃいけないって」

 澪はいたずらっぽく唇に笑みをのせて言い返した。それは、先ほどの映画でとある人物が口にしたセリフである。即座にそれだけの反応ができるのならもう大丈夫だろう。誠一はフォークを手に取り、ショートケーキのイチゴを突き刺しながら口の端を上げる。

「じゃあ、あとでたっぷり信じさせてあげるよ」

「どうやって……あっ……」

 最初はきょとんと不思議そうに聞き返した澪だが、すぐにその意図するところに思い至ったようで、頬を染めながら一人あたふたと目を泳がせる。しかし、やがてそろりと上目遣いで誠一を見つめると、小さくはにかむような笑顔を見せて頷いた。


 カフェを出ると、空は薄曇りになっていた。

 雨の予報ではなかったので、普通の傘はおろか折りたたみ傘さえ持ってきていない。澪も小さなハンドバッグだけなので持っていないだろう。せめて、外を歩いているときに降り出さないよう祈るしかない。

 そういえば、澪が初めて誠一の部屋に来ることになったのは、突然の通り雨に降られたからだったな、とふいに懐かしく思い出した。去年の春休みだからちょうど一年前のことだ。あのときに、本当の意味で彼氏彼女になったのかもしれない。少なくとも誠一の意識としては——。

「ねえ、誠一、これからどうするの?」

「澪はどこか行きたいところある?」

「んー、じゃあ雑貨屋さん。見るだけだけど」

 澪はそう答えてくすっと笑う。彼女自身の部屋はいたってシンプルで、雑貨などほとんど置かれていないが、店であれこれ見るのは楽しいようだ。これまでも雑貨を見ながら目を輝かせていたことは度々あった。

「じゃ、あっちに渡ろう」

 確か向かいのビルに雑貨屋が入っているはずだと思い、澪の手を取り、ちょうど歩行者信号が青になったスクランブル交差点に向かう。足を踏み入れたそのとき、ジャケットの内ポケットで携帯電話が震え出した。半分ほど取り出して背面ディスプレイに目を落とすと、そこには「楠長官」と表示されていた。何だろうと思いつつ、二つ折りの携帯電話を片手で開いて通話ボタンを押す。

『南野君、いま何をしている?!』

「街中を歩いてますが……非番なので……」

 常に冷静沈着な楠長官とは思えないほど焦燥した声に、少なからぬ戸惑いを覚え、質問の意図がわからないまま曖昧な答えを返す。非番であることは彼も知っているはずだ。翌日出勤してから何をしていたか尋ねられることはよくあるが、わざわざ非番のときに電話で問いただされたのは初めてである。

『ということは、君は仲間ではないのだな?』

「……仲間って……どういうことですか?」

 楠長官はひどく気が動転しているようで、いまだに何を言っているのか要領を得ない。怪訝に尋ね返すと、電話の向こうでゆっくりと呼吸するような音が聞こえ、そして幾分か冷静さを取り戻した声で説明が継がれた。

『溝端が我々を裏切った。美咲さんと実験体を攫って姿をくらましたのだ』

「えっ……」

 スクランブル交差点の真ん中で足が止まった。携帯電話を持つ手に力がこもる。澪が手を繋いだまま心配そうに覗き込んできたが、今の誠一に彼女を気遣うだけの余裕はなかった。さまざまなことが頭を駆け巡っていく。周囲の音が急速に遠くなり、まるで自分だけが雑踏から切り離されたかのように感じた。


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