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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
42/68

41. 大人げない大人

「ぅぐっ……」

 誠一はくぐもった声を漏らしながら、瞼を震わせてそっと目を開いた。だが、あたりは真っ暗で何も見えない。手首は背中側でまとめて拘束され、足首と膝もそれぞれがっちりと縛られ、おまけに猿ぐつわまで嵌められている。立ち上がるどころか助けを呼ぶことさえできない。体のあちこちに壁や荷物のようなものが触れており、かなり狭いところに押し込められているようだと思う。

 体を少し捩ると、鳩尾のあたりに鈍痛を感じた。

 その瞬間、一気に記憶がよみがえって事の次第を理解した。楠長官に美咲とメルローズのところへ連れて行かれたあと、悠人と大地にそのときのことを報告すると、彼らは独断で警察庁へ直談判に行くと言い出し、それを制止した誠一の鳩尾を殴って気絶させたのだ。その後、体を縛り上げたうえでここに幽閉したのだろう。

 それからどれだけの時間が過ぎたのか、そもそもここがどこなのか、今のこの状況では判断のしようがない。それでも落ち着いていられるのは、命の危険はないとわかっているからだ。これは直談判に邪魔が入らないための一時的な措置であり、それさえ終わればおそらく解放してくれるはずである。


「師匠!」

 不意に、澪の切羽詰まった声が耳に届いた。

 直後にガチャリと部屋の扉が開き、スイッチが弾かれて蛍光灯がともった。仕切りの隙間から僅かに灯りが漏れ入ってきたが、外の様子はおろか周囲さえほとんど見えない。ひとつの落ち着いた足音と、それを追う軽めの足音が、部屋の中に進み入ってくるのが聞こえる。だが、誠一の押し込められた狭い場所を開く気配はない。

「今までどこへ行ってたんですか? お父さまや誠一も一緒だったんですか? 櫻井さんが言ってました。誠一はお仕事から帰ってすぐ師匠に呼ばれたって。でも、探してもみんなどこにもいないし、帰ってきたのは師匠ひとりだし……」

 澪が心配そうな声で問いただしている。しかし、悠人は疲れたように深く溜息をついた。

「あとで話す。今はしばらく一人にしてほしい」

「じゃあ、お父さまと誠一が無事かだけでも教えて!」

 必死に追い縋るその声とともに、踏み込んだ足音も聞こえた。澪の思いつめた顔が目に浮かぶ。それでも悠人は心を動かされなかったようだ。訊かれたことに答えるどころか、まるで詰るかのように冷えた声を投げかける。

「僕のことは心配してくれないんだな」

「えっ?」

「ただの雇われの身だから当然か」

「あの」

「どうせ家族でも恋人でもないからな」

「師匠?」

 澪は戸惑いを滲ませて怪訝に聞き返した。暫しの沈黙のあと、悠人は静かに吐息を落として口を開く。

「すまなかった……澪、君を傷つけるようなことをしたくはないが、今は自分を抑えられる自信がない。一緒にいたら歪んだ感情をぶつけてしまいそうだ。だから頼む、落ち着くまでしばらくのあいだ一人にしてほしい」

「……わかりました」

 澪はそう答えると、一呼吸おいてから冷静に言葉を繋ぐ。

「これだけは言わせてください。私、師匠のこともずっと心配していました。心配しないわけがありません。家族じゃないけど家族も同然だと思ってますし、私にとってかけがえのない大切な人ですから」

「だが、君は僕を選ばない。君だけじゃなく……」

 その続きが語られることはなかった。深い苦悶の滲んだ声を詰まらせて、何度目かわからない溜息をつく。クシャと髪を掻き上げる音が聞こえた。

「すまない……」

「うん……私、もう行きますね」

 その言葉を耳にして、ずっと会話に聞き入っていた誠一はようやく我にかえった。澪に気付いてもらえるこの機会を逃すわけにはいかない。固く縛られたまま慌てて大きく身を捩ると、ガタガタッ、と足と肩が周囲にぶつかり音が立った。

「……何?」

「忘れていた」

 ひどく醒めた声が落とされたかと思うと、足音がまっすぐにこちらへ向かってきた。耳元でガタリと音がして仕切りが開かれる。暗かったそこに蛍光灯の光が差し込み、誠一の視界は一瞬で白んだ。その眩しさに眉をしかめて目をつむる。

「誠一?!」

 悲鳴のような甲高い声が頭上から降りそそいだ。おずおずと目を開くと、今にも泣きそうに顔を歪ませながら覗き込んでいる澪がいた。遠慮がちに触れてくる彼女の手のあたたかさに、誠一は安堵して体中から力が抜けていくのを感じた。


 誠一はすぐにそこから出され、手足の拘束と猿ぐつわを解かれた。

 幽閉されていた場所は、悠人の部屋に備え付けられたクローゼットだった。時計を確認するとあれからもう四時間半が過ぎている。縄で縛られていた部分はもちろんだが、無理な姿勢が祟ったのかあちこちが痛い。おまけに全身がカラカラに脱水しているかのようだ。

 そのことを告げると、澪がどこからかペットボトルの水を持ってきてくれた。受け取るなり勢いよく呷って流し込む。冷たい水が喉から五臓六腑に染み渡っていき、しおれた体が生き返ってくるように感じた。それでも疲労までは回復されず、いっそこのまま寝てしまいたい衝動に駆られるが、腰掛けているのは悠人のベッドなので横になるわけにもいかない。

「こんなひどいこと……これって、師匠の仕業なんですか……?」

「僕たちの行く手を阻もうとしたからね」

「誠一が何をしたっていうの? ここまでやる必要があったの?!」

 澪は涙目になりながら悠人を責め立てるが、彼は顔色ひとつ変えなかった。口を閉ざし言い訳さえしようとしない。そんな彼に苛立ちを募らせ、さらに前のめりになって食いかかっていく。

「何とか言ってください!」

「澪、俺なら大丈夫だから」

 誠一は間に入り、彼女を刺激しないようやんわりと宥めて落ち着かせる。もちろん澪が自分のために怒ってくれたことは嬉しいし、こんなことをされた本人として腹立たしい気持ちもある。だが、今はそれに拘泥するよりも、誠一が気絶したあとに何があったのかを冷静に聞くべきだと考えた。


 剛三の書斎にある打ち合わせスペースに、皆が集められた。

 そこで、今朝から立て続けに起こった重要な出来事を、悠人が時系列に沿って端的に説明していく。誠一が楠長官に連れられて美咲とメルローズのところへ行ったこと、美咲は自らの意志で公安のもとに身を寄せていること、それを聞いた悠人と大地が楠長官のところへ直談判に行ったこと、大地は橘家を離れて美咲とともに暮らす選択をしたこと、メルローズを安定させられれば二人は解放されること、それが可能になるまで数ヶ月ほどかかる見込みだということ——誰も口を挟むことなく、一様に難しい顔をして彼の話に聞き入っている。ただ、武蔵だけは敵意を露わにして悠人を睨みつけていた。

 話が終わると、剛三は大きく息をついた。

「勝手な行動はするなと言ったはずだ。おまえがついていながら何をやっていた」

「申し訳ありません。しかし、長官と会って感触を掴むのが最善と判断しました」

「準備をしてから臨めば、美咲たちの居場所が早々に掴めたかもしれんだろう」

 剛三の言葉を聞き、悠人はひどく苦しげな面持ちでうつむいた。誠一には手がかりを掴んで来なかったからと非難を浴びせておきながら、自分たちは何の準備もしていかなかったなど、二人ともどれだけ間が抜けているのだろうかと思う。

「篤史、進捗はどうだ?」

「難しいな。美咲さんが連れて来られたあたりの映像とも照らし合わせて確認してみるが、場所が突き止められる可能性は低いと思う。あちらさんもかなり警戒して慎重になってるみたいだしな」

 篤史は渋面になって剛三の問いに答えた。メルローズが橘家から拉致されたときには、警察庁所有とわかる車を使っていたため、比較的容易に行き先を特定することができた。だが、今回はそれとわからない車が使用されているのだろう。

「数ヶ月、待つしかないってこと?」

 今まで静かに聞いていた遥が、不意に口を挟む。

 その瞬間、武蔵は沸騰したように頭に血を上らせて「ふざけるな!」と叫び、固く握ったこぶしを思いきり机に叩きつけた。鮮やかな青の瞳には激しい憤怒がたぎっている。

「橘美咲は勝手にすればいいが、メルローズはどうしてくれる?!」

「落ち着け、武蔵」

 剛三は眉ひとつ動かさずそう言い、彼を見据える。

「メルローズは不安定な生体高エネルギーを抱えており、美咲はそれを安定させるために尽力しているのだ。メルローズにとっても君にとっても悪い話ではないだろう。今、メルローズを公安から救い出したとしても、暴発の危険があるのなら普通の生活は送れまい。それに、公安も彼女が安定するまでは実験を進められないはずだ」

「そんなものはただの憶測だ」

 武蔵はテーブルに両肘をついて頭を抱え込んだ。あいつ殴っておくんだった、と忌々しげに吐き捨てて強く舌打ちする。あいつというのは大地のことだろう。殴っておけば事態が好転したというわけではないが、そう思うしかない彼のやるかたない心情は理解できる。

 しかし、剛三は慰めるでも諦めるでもなく、凛として前を向いていた。

「ただの憶測ではなく確度の高い憶測だ。絶望するのはまだ早い。メルローズを救えるよう共に力を尽くそう。美咲が彼女を安定させるまでの数ヶ月で、可能な限りの調査をして救出計画を立てる。南野君にも引き続き協力を頼みたい」

 そう水を向けられると、誠一は意識的に背筋を伸ばしてしっかりと頷いてみせる。もとよりこのまま引き下がるつもりはなかった。役に立てるかどうかはわからないが、求められる限りとことん付き合うつもりである。

 遥はすっと剛三に目を向けた。

「僕たちは?」

「今のところおまえたちにやってもらうことはない。とりあえず、そろそろ学校へ行った方がいいだろうな。特に澪はもう一ヶ月も休んでおるのだから」

 それを聞いて、彼女は困惑まじりの何ともいえない表情を浮かべた。こんな状況で学校なんてという気持ちが滲み出ている。しかし、澪たちが学校へ行くことは誠一も全面的に賛成である。学生時代の一ヶ月は大きい。頭はいいようなので今ならすぐに取り戻せるだろうが、長引けば長引くほど大変になる。できるだけ早く復帰するに越したことはない。

「わかった。あしたから行く」

「私もそうします……」

 遥が了承すると、澪も見るからに不満そうではあるがそれに従った。剛三は満足げに大きく頷き、悠人も篤史も同調する。そういえば篤史は大学生のはずだがきちんと通えているのだろうか、と誠一は少し気になったが、自分が干渉することではないと考えて口には出さなかった。


 話は一段落した。

 誠一たちは、剛三と悠人を残して書斎をあとにした。篤史と遥はさっさと各々の自室へ戻っていく。武蔵も自室へ戻ろうとしていたが、澪が追いかけて後ろから呼び止めていた。何か話しているようだが距離があるためよく聞こえない。やがて澪は申し訳なさそうにペコリと頭を下げるが、武蔵は彼女の顔を上げさせ、優しく宥めるようにその頭にぽんと大きな手を置いた。そのまま言葉を交わしたあと、二人は小さく片手を振り合って別々に歩き出した。

 澪は離れたところに立っていた誠一に気付くと、小走りで駆け寄って来た。

「もしかして、心配してくれてた?」

「少しね」

 誠一がそう答えると、澪はほんのりと嬉しそうな笑顔を見せる。何の話をしていたのかも気になるが、それはあえて尋ねないことにした。だいたいの想像はついている。おそらく大地のやったことを彼女が謝罪していたのだろう。血の繋がりはないが身内であることに変わりはない。少なくとも彼女はそう思っているはずだ。

「あ、こっちだと遠回りだよ?」

 考えながら歩いていると、隣の彼女が思いついたように声をかけてきた。二人の足はまっすぐ澪の部屋に向かっているが、誠一の使っている客間はその反対方向にある。しかし、わかったうえでこちらへ歩いているのだ。

「部屋まで送っていくよ」

「えっ……うん、ありがとう」

 澪は少し驚いていたが、すぐ屈託のない笑顔になって嬉しそうに頷いた。誠一の腕にぎゅっと抱きついて身を寄せる。シャンプーなのかボディソープなのかわからないが、微かに立ち上るその甘い匂いにひたっていると、彼女が小首を傾げながら遠慮がちに覗き込んできた。

「ね……今日、一緒に寝てほしいな」

「えっ?!」

 嬉しくないわけではないがどう考えてもまずい。なにせ隣は遥の部屋なのだ。どこか別の部屋だとしてもやはりまずい。ここは橘の屋敷なのだ。理性を総動員してどうにか踏みとどまろうとする。

「いや……その、声とか聞こえるかもしれないし……」

「あっ、そうじゃないの! そういうのじゃなくて!」

 澪は慌てふためいて両手をふるふると左右に振りながら、一気に顔を紅潮させた。それから困ったように顔をうつむけると、ちらりと横目を流し、どこか恨みがましく小さな口をとがらせる。

「ただ一緒に寝るだけなんだけど……ダメ?」

「あ……ああ、そういうこと……」

 先走った勘違いがたまらなく恥ずかしいが、あれは仕方ないだろう。どう考えても誘っているとしか思えない。そう自分に言い訳しつつ、誤魔化すように顔をそむけて前髪を掻き上げる。露わになった額には少しだけ汗が浮かんでいた。


「子供のころは、よくこんなふうに師匠と一緒に寝ていたの」

 澪はパジャマに着替えてベッドの上に座り、枕代わりのクッションを抱えながら、過去を懐かしむような口調でそう言った。その表情はどことなく寂しげに見えたが、我にかえったようにパッと笑顔になる。何を思っているのか誠一には察しがついた。しかしながらあえてそこには触れず、冗談めかした物言いでおどけてみせる。

「俺は保護者代わり?」

「ダメ?」

「それはそれで嬉しいよ」

 不安そうに顔を曇らせた澪が、ほっと息をついた。

 求められたのが保護者としての役割だとしても、澪の不安を解消する手助けになるのなら、彼女の恋人として嬉しく思わないはずがない。ただ、その気持ちの根底には悠人への対抗意識もあるのかもしれない。そんなことを考えながら、誠一は蛍光灯のあかりを落として澪のいるベッドへ向かった。


 薄暗い部屋の中、二人は狭いシングルベッドで寄り添って横になった。

 ただ一緒に寝るだけなら問題ないと思ったものの、こんなにも密着しながら何もしないというのは難しい。もちろん自制はするが、寝付くまでにはかなりの時間が掛かりそうである。それでも、彼女が少しでも安心して眠れるというのなら——。

「師匠、何かあったのかな」

「……多分ね」

 天井に顔を向けたままぽつりと言葉を落とした彼女に、誠一は率直に答えた。あのときの様子を見れば誰でもそう思うだろう。おそらく警察庁で何かあったのだと思うが、さすがに何があったかまではわからない。父親である楠長官に挑発されたのかもしれないし、身勝手な大地と言い合いになったのかもしれない。

「今日の師匠、駄々をこねる子供みたいだった」

 今まで親同然の存在だっただけに、彼女が困惑するのは理解できる。だが——。

「大人だからって立派になるわけじゃないよ。本質は子供のころとそんなに変わらない。取り繕うのが上手くなって理性的に振る舞えるようになる、それがある意味で大人になるってことかもしれない。楠さんもそうだろうね。でも、あのときはきっと許容量を振り切っていて、取り繕う余裕がなかったんじゃないかな」

「そっか……」

 澪はもぞもぞと誠一の方へ体を向けると、そっと頭を寄せる。

「私、本当に師匠のことを大切に思ってるし、師匠が苦しんでるなら力になりたい。だけど、師匠を選ばなかった私が何を言っても、傷つけてしまうだけなのかな……白々しい慰めとしか受け取ってもらえないのかな……」

「それは、楠さんが自分で乗り越えるしかないだろうね」

 澪がどう慰めたところで、彼自身が変わらなければ受け入れられることはない。彼に多少の同情はするが、自分と相手の気持ちが重ならないなど誰にでもあることだ。みんな折り合いをつけながら生きているのである。

 寄り添う彼女の体に、少し力がこもるのがわかった。

「師匠との結婚、受け入れられたら良かったのに」

 一瞬、目の前が真っ暗になった。冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのように、呼吸も思考も何もかもが凍りつきそうになった。いったいどうして急にこんなことを——。

「……澪、変なことを考えてないだろうな?」

 必死に感情を押し殺して問いただす。

 彼女はゆるく首を横に振った。

「誠一と出会ってないときに師匠に結婚しようって言われたら、少し迷うかもしれないけど、受け入れて結婚して幸せになったんじゃないかなって思う。でも、誠一と付き合っている今はとても受け入れられない……もし受け入れたとしても、お互いにわだかまりが残っちゃう気がする……上手く言えないけど……」

「わかるよ」

 誠一は心から安堵して答えた。しかし、彼女は伏せた瞼を震わせる。

「私はますますわからなくなってきちゃった。他人に対しての気持ちって何なんだろう。そのときの状況で変わる相対的なものなのかな。それとも私が流されやすいだけなのかな」

「相対的、か……自分としては縁と言いたいかな」

「縁?」

 澪はうつむけていた顔を上げ、半分布団に埋もれた状態で小首を傾げた。

「たとえば、俺と澪がもう一年早く出会っていたら、付き合っていなかったかもしれない。もう一年遅く出会っていたら、もう楠さんと婚約していたかもしれない。でも、俺たちはあの日に出会って付き合っている。それは縁があったってことなんだと思う」

「うーん、わかったような、わからないような……」

「別にわからなくても構わないよ」

 眉を寄せながら混乱した様子で考え込んだ澪に、誠一は軽く笑いながら言った。運命と言う人もいるだろうし、奇跡と考える人もいるだろうが、それを縁と呼びたいだけのことだ。ほかの人に押しつけようという気はない。

「ただ、俺がこの出会いに感謝してるってことだけわかってもらえれば」

「うん、私も……ずっと今みたいに誠一を好きでいたいな」

 澪は小さく肩をすくめてはにかみながら、そんないじらしいことを言う。

 誠一は思わずその華奢な体に腕をまわして抱きしめた。突然のことに彼女は若干当惑している様子だが、嫌がっているわけではないようだ。少し腕を緩め、ほんのり色づいた柔らかな頬に口づけを落とす。

 それだけで終わるつもりだった。しかし——。

 彼女の瞳にともった燃えるような甘い熱情を目にすると、一瞬で気持ちが昂ぶり、抗いがたい何かに引き寄せられるように唇を重ねた。そのまま裾から手を滑り込ませて素肌を探る。指先に感じる柔らかな肌、首筋にかかる熱い吐息、耳に届く抑えた喘ぎ声、鼻をくすぐる甘やかな匂い——理性は溶け出し、次第に歯止めが利かなくなっていった。


「ねえ」

 ガチャ、と扉が開くと同時に聞こえた不機嫌な声。

 誠一は澪の胸元に顔を埋めた状態でビクリと凍りつき、思考が真っ白になった。

「ちょっ……ノックくらいしてよ!」

 澪は顔を上気させたまま、大慌てではだけた胸元を掻き寄せながら、誠一を押しのけるように体を起こした。今さら無意味だと思うが、掛け布団を引いて誠一の頭を隠そうとする。扉の方から、遥の呆れたような大袈裟な溜息が聞こえてきた。

「隣に僕がいることわかってるよね」

「え……あ、うん……」

 澪は今にも消え入りそうに返事をした。遥はさらに険のある声を張る。

「誠一もわかってるよね?」

「……ああ」

 誠一は頭から布団をかぶったままぼそりと答えた。顔を出して謝罪すべきかどうか迷ったが、澪が望んでいないだろうと思い、その場で身じろぎもせずにじっとしていた。酸素不足のせいか、この状況のせいか、やたらと顔が火照って息苦しい。

 やがてパタリと扉の閉まる音が聞こえ、足音が遠ざかっていく。

 誠一はほっと安堵の息をついて体を起こした。念のため一通りあたりを見まわしてみるが、遥の姿はない。あらためて胸を撫で下ろしたその直後、ふと澪と視線が合い、気恥ずかしさから互いに目を泳がせて頬を染める。

「ごめんな」

「うん、私も……」

 そう言って照れ隠しのように小さく笑い合うと、二人は再び横になった。もう暴走はしないと気を引き締める誠一の隣で、澪はそう時間をおかずにスヤスヤと寝息を立て始める。人の気も知らないで気持ちよさそうに——誠一は少し恨めしく思いながらも、まるで子供のような彼女の寝顔を見つめて柔らかく目を細めた。


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