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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
41/68

40. 都合のいい男

「それで、おまえはノコノコ帰ってきたっていうのか?」

「そう言われても……帰るしかありませんよ……」

 広くはない悠人の部屋で、大地がぞっとするような怒気を孕んで誠一に詰め寄っていた。基本的には人当たりのいい彼も、美咲のこととなれば我を忘れる。その迫力に圧倒されてか、誠一はじりじりと壁際まで追いつめられてしまい、間近に迫った大地の顔を見て表情を引きつらせている。


 そんな二人の様子を、悠人は椅子に座ったまま無言で眺めていた。


 警察庁に出勤した誠一が帰ってきたのは、夜六時をまわった頃だった。

 そのとき、武蔵は田辺医師に銃創を診てもらっており、剛三は外せない用事のため会社の方へ行っていた。それゆえ、とりあえず先に話を聞いておこうと思い、誠一にこの部屋へ来てもらったのである。大地もいたのでちょうどいいと思ったのだ。

 メルローズの居場所について何か探れたのか——そのことを尋ねるつもりだったのだが、彼の口から語られた話に、悠人も大地も驚かずにはいられなかった。メルローズはおろか美咲とまで会っていたなど完全に予想外である。しかも、彼女は自らの意志でそこに留まっているという。それが事実であるかどうか確かめる術はないが、彼が嘘を言っているようには見えなかった。


「君は刑事だろう。なのに、何の手がかりも掴んでこないとはどういうことだ。密かに携帯電話を発信するなり、レコーダーで録音するなり、美咲のいた部屋に盗聴器やGPSを仕掛けるなり、何かしら出来ることはあったんじゃないのか?」

「そんな、無理ですよ」

 今にも頭突きされそうな状態で、誠一は壁に背を張りつけたまま引きつり笑いを浮かべた。

 彼の言い分は当然だと悠人は思う。大地の気持ちもわからないではないが、そんなことまで要求するのは酷だろう。聞いた話では手錠も目隠しもされていたらしいし、そもそも盗聴器やGPSなど用意していなかったはずだ。予想外の事態なのだから仕方がない。むしろ、自分たちが先回りして対策を立てるべきだったのだ。

「とんだへなちょこ刑事だな」

 大地はやり場のない怒りをぶつけるように言い捨てると、腰に手を当てて悠人へ向き直る。

「まだ場所は掴めないのか?」

「そう簡単にはいかないだろう」

 自室で休んでいた篤史を電話で叩き起こして依頼したのは、ほんの数分前のことである。いくら何でもそんなに早く突き止められるはずはない。ただ、時間を掛けても可能性は低いのではないかと思う。警察庁の出入り口にカメラがあるわけではなく、ナンバーどころか車種もわからないのでは、どの車を追跡すればいいのかさえわからない。雲を掴むような話なのだ。

「メルローズが警察庁の地下にいるっていうのも違ったようだな」

「たとえ警察庁の地下でも、そうと悟られないため車に乗せるはずだ」

 感情的になっている大地をなるべく刺激しないよう、悠人は淡々と答えを返す。そのおかげか彼は少し落ち着きを取り戻したようだ。ふうと大きく息を吐き出して力を抜くと、どさりとベッドに腰掛け、うつむいたまま膝の上で両手を組み合わせる。

「橘美咲さんを探して、どうするつもりですか」

 誠一がおずおずと尋ねると、大地は冷たい一瞥を流して答える。

「会いたい、話したい、今はただそれだけだ」

 それは彼の本心に違いない。悠人も同じ気持ちである。あんな伝言ひとつで易々と引き下がれはしない。もっとも、悠人に対しては伝言のひとつさえなかったのだが——。

「まどろっこしいな」

 大地はベッドからすくっと立ち上がった。強い決意を秘めた表情になると、椅子に座る悠人を見下ろして言う。

「長官に直談判に行くぞ」

「……わかった」

 悠人は少し考えてからそう答えた。場所を掴むことが難しい現状では、直接当たってみるのも悪くない。素直に教えてもらえるとは思っていないが、対峙して反応を見ることで、何らかのヒントが得られるかもしれないのだから。

「待ってください!」

 慌てた様子でそう声を上げたのは、誠一だった。

「橘会長に行動を起こすなと言われているはずです。それに、武蔵にもこの話をしてからじゃないと……」

 美咲だけでなくメルローズも一緒にいたのだから、武蔵にも話すのが筋だとは思うが、そうすると確実にややこしい事態になってしまう。できれば、このまま誰にも邪魔をされず自分たちだけで向かいたい。悠人はそう考えながら、大地の意向を探るべく上目遣いで窺う。

「止めるなら、力尽くで止めてみろ」

 彼はまっすぐ誠一を見据え、研ぎ澄まされた本気を思わせる声で挑発した。

 誠一は表情を硬くして顎を引く。しばらく物言いたげに大地を見つめ返していたが、やがてふいと背を向け、無言のままドアノブに手を掛けようとする。が、大地がその手をすんでのところで捻り上げ、固く握ったこぶしを鳩尾に叩き込んだ。うっ、という苦悶の呻き声とともに誠一は膝から崩れ落ちる。

 足元にだらりと横たわったその身体を、大地は冷たく一瞥した。

「手足を縛って口を塞げ」

「そこまでするのか?」

「妨害されたくないからな」

 意識が戻ったら間違いなく武蔵や剛三にこの件を伝えるだろう。そうすれば途中で引き戻されかねない。仲間である彼にあまり手荒なことをしたくなかったが、この状況では仕方ないと自分に言い訳しつつ、悠人は使えそうなロープやハンカチを探すべく立ち上がった。


「美咲と会わせていただけますか」

 執務机で不敵な笑みを浮かべる楠長官に怯むことなく、大地はにっこりと微笑んで本題に切り込んだ。しかし、楠長官もこう来ることは予想していたのだろう。唇に笑みをのせたまま悠然と切り返す。

「彼女の言葉は伝わっているのかな?」

「ええ、だからここに来たのです」

「美咲さんに帰る意志はないようだが」

「でも、会わせてはいただけますよね」

 監禁ではないと主張している以上、会わせないなどという強硬なことは言えないはずだ。いつもながら大地はこういう交渉が上手い。悠人が横目を流しながらめずらしく感心していると、不意に楠長官の矛先が自分へと向けられた。

「悠人、おまえも美咲さんに会いたいのか」

「……いけませんか」

 からかうような意味ありげな薄笑いが癪にさわり、つい反抗的にそう言い返した。けれど、大地についてきただけと答えた方がよかったかもしれない。あまり美咲に執着していると思われたくないのだ。父親にはもちろん、大地にも——。

 楠長官は見透かしたように鼻を鳴らし、再び大地に視線を移す。

「大地君、まだこんなのと連んでいるのかね」

「いけませんか」

 その言葉は先ほど悠人が発したものと同じだった。口もとにはうっすらと笑みが浮かんでいる。悠人に対する揶揄なのか、長官に対する挑発なのか、あるいは他愛もない冗談なのか、考えてみたところでわかりようがない。ただ、願望でしかないのかもしれないが、悠人には彼が味方をしてくれたように感じられた。


「チェックメイト」

 カツン——乾いた音を響かせながら白のクイーンを動かし、大地は宣言する。その声には隠しきれない愉悦が滲んでいた。悠人は盤上の駒を確認して小さく溜息を落とす。これでゲームセットだ。まるで勝てる要素のなかったひどい対局である。

「チェスなんて学生のとき以来だけど、案外覚えてるものだな」

 大地は腕を組みながら、革張りのソファに身を預けて口もとを上げた。もっとも悠人も同じく学生のとき以来ではあるが、そのことは敢えて口にせず、ソファに座ったままちらりと掛け時計に目を向ける。溝端が退出してから、間もなく指定の時間が過ぎようとしていた。

 二時間——。

 楠長官はそれだけ待てるならばと条件を提示し、大地の承諾を得ると、美咲をこの部屋へ連れて来るよう溝端に命じた。本当に二時間も必要なのかわからない。美咲のいる場所が離れていると思わせるために、無駄な時間つぶしをしているとも考えられる。だが、それを問い詰めたところで白状はしないだろう。ここで下手に事を荒立てるより美咲を待った方が得策だ。二人ともそう判断し、おとなしくチェスをしながら待つことにしたのである。

「そろそろかな」

 大地はくすりと笑うと、盤上から白のクイーンを手にとって軽く口づける。

 直後、複数の足音が廊下の方から聞こえてきた。まっすぐこちらへ近づいてくるのがわかる。その足音が止まるとすぐに扉が叩かれ、返事を待つことなくガチャリと開かれた。そこから入ってきたのは溝端、続いて——。

「美咲っ!」

 大地は顔を輝かせて、弾かれたようにソファから立ち上がった。すぐさま駆け寄り、覆い被さるように彼女の小柄な体を抱きすくめる。彼女は薄手の白いワンピースに七分丈のカーディガン、そしてサンダル履きという、まだ雪のちらつくこの時季には相応しくない格好をしていた。

「会いたかった……ずっと……」

「大地、みんなが見てる」

「見せつけてやればいいさ」

 艶やかな黒髪に手を差し入れて口づけようとする大地を、美咲は困惑ぎみに制止するが、彼は熱っぽく煽るようにそう言いながら強引に唇を重ねた。その言葉どおり、まわりに見せつけるように堂々と口づけを深くしていく。頬を桜色に染めて恥ずかしそうにしていた美咲も、次第に彼に応え、その広い背中に透き通るような白い細腕をまわしていく。

 悠人は見ていられなくなって顔を伏せた。その微かな音や息遣いを聞きたくなくて、わざと乱雑にローテーブルのチェスを片付け始める。しかし、盤の脇に転がされていた白のクイーンを見つけると、壊れ物を扱うかのようにそっと拾い上げた。

「そのくらいにしてもらえないだろうか」

 執務机の方でゆったりと椅子にもたれていた楠長官が、悪戯っぽい口調で声をかける。

 我にかえった美咲は僅かに体を離してうつむき、初心な少女のように恥じらいの表情を見せた。澪に少し似ているかもしれない——悠人が片付ける手を止めて横目で窺っていると、不意に視線がぶつかり、二人とも何ともいえない複雑な表情を浮かべる。瞬間、大地は彼女の顎を掴むように指を添え、もう一度クイッと自分の方へ向かせた。

「大丈夫だった? ひどいことされてない?」

「何ともないわ、このとおり元気よ」

 美咲は穏やかに微笑むが、大地はまるで幼子を心配するかのように覗き込む。

「帰りたくはない?」

「メルローズの生体エネルギーを安定させられるまでは、あの子のところにいるわ。私自身がそう決めたの。私がそばについていてあげないと……いいえ、私があの子のそばについていたいの」

 ほとんど誠一から聞いたとおりの答えであるが、実際に美咲本人の口から聞かされると、よりいっそうやりきれない気持ちになる。悠人はチェスの駒を片付け終えても顔を上げられなかった。大地もやりきれない気持ちは同じだと思うが、そんな感情は微塵も見せず、ただ優しく落ち着かせるような声音で先を促す。

「そのあとは?」

「メルローズを救出したい……けれど、そんなのどう足掻いても無理よね……」

「無理じゃないさ。美咲が望んでくれるなら、僕はどんなことだってできる」

 顔を曇らせる彼女の肩にしっかりと手を置き、物柔らかに断言した。彼が本当にそう思っているのかはわからない。美咲を安心させるためなら平気で嘘もつくだろう。一方で、美咲が願うなら本気でやりかねないとも思う。たとえ、それがどれほど無謀なことだとしても。

「大胆不敵なロマンチストだな」

 楠長官はニヤリと笑い、執務机の上で骨張った両手をゆったりと組み合わせた。

「生憎、そう簡単に実験体を手放すつもりはないがね」

「でしょうね。私の方もそう簡単に諦めはしませんよ」

「面白い」

 彼の口角が不敵に吊り上がった。それに応じるように、大地もニッと口もとを斜めにする。そんな二人のやりとりを眺めていた溝端は、口こそ挟まないものの、あからさまに嫌悪の情を滲ませていた。攻撃的な大地の言動に対してはもちろんのこと、真剣味の足りない楠長官の応答に対しても、部下として腹立たしく思っているのかもしれない。

 大地はあらためて楠長官に向き直り、美咲の肩を抱いた。

「今後はいつでも会わせてもらえるんですよね」

「残念ながらそうはいかない。研究内容も研究場所もこの国の最高機密でね。かつて我々を裏切ったことのある人間を、気軽に出入りさせるわけにはいかないのだよ。今回、美咲さんをここへ連れてきたのは、君への温情で特例だと思ってほしい」

 楠長官の声はどこか愉しげだった。大地も笑みを浮かべて応じる。

「でしたら仕方ありません。美咲は連れて帰ります」

「大地!」

 真っ先に反応したのは、彼に細い肩を抱かれていた美咲である。その声には驚愕と非難が入り混じっていた。切羽詰まった目で大地を見上げ、縋るようにシャツの胸元を掴み、黒髪を揺らしながら必死に訴えかける。

「お願い! メルローズに何かあったら、きっと大地を恨んでしまうわ」

「甘受するよ。僕が恨まれるくらいで君を助けられるなら安いものだ」

 大地はにっこりと微笑んで彼女の頭に手を置いた。美咲を守る方法がそれしかないのだとすれば、どんな説得にも意見を覆すことはないだろう。彼はそういう人間だ。美咲も冷静になってそのことを悟ったのか、返す言葉を失い、漆黒の瞳を小さく震わせながらうつむいた。

 しかし、楠長官は諦めることなく反撃する。

「もし、実験体が暴発を起こせば、無関係な人も含め数百人が亡くなる試算だ」

「構いませんよ。美咲さえ守れるなら、誰がどうなろうと興味はありません」

 相変わらず大地は少しの動揺も見せない。が、美咲は息を呑んで表情を凍りつかせた。みるみるうちに顔面から血の気が失せていく。再び大地に向き直り、感情をぶつけるようにシャツの胸元を引っ掴んだ。

「大地! 私はやっぱり嫌よ!!」

 今にも泣き出しそうに叫んだ彼女を、大地は両腕でしっかりと抱きすくめた。そのまま耳元に口を寄せ、優しく言い含めるように言葉を紡いでいく。

「ねぇ、美咲、僕だってつらいんだよ。出来るなら君の言うことを何でも聞いてあげたい。でもね、美咲を奪われることだけは許せないんだ。ずっと僕と一緒にいてくれるって、僕のために生きてくれるって、そう約束したよね」

「それは……そうだけど……」

 美咲は困惑し、彼の腕の中で顔を曇らせる。

 そんな身勝手な約束なんか破棄してしまえばいい——悠人は心の中で毒づく。それでもあえて口に出さなかったのは、美咲が橘家に帰ることには賛成だからである。おそらく大地だけが、この方法だけが、美咲を家に帰らせることが出来るのだろう。腹立たしく思っても今は利用するしかない。

「メルローズのことは帰ってから考えよう。大丈夫、絶対に見捨てたりしないから」

 大地の後押しに、美咲の漆黒の瞳は小さく揺らいだ。彼のたくましい腕に拘束されたまま、広い胸に顔を寄せ、追いつめられたような表情を浮かべる。

「一つ提案だが」

 ふと楠長官が執務机から声を放った。

 大地は眉をひそめたが、すぐに平静を取り繕って振り向く。

「何でしょう?」

「大地君、君も一緒に来てはどうだろうか」

「……どういうことです?」

 彼の仮面は剥がれ、訝るように顔を曇らせた。

 楠長官は少しも動じることなく笑みを浮かべる。

「美咲さんに与えた個室で君も一緒に暮らすんだよ。そうすれば君は幾分か安心できるだろうし、美咲さんも望みどおり研究に打ち込める。もちろん自由に外出はさせられないが、実験体が安定して研究の道筋が立てられれば、美咲さん共々解放すると約束しよう。さすがに実験体までは渡せないがね」

 そう言って、ククッと鼻から息を抜いて笑う。

 無意識なのか、意識的なのか、美咲を抱きしめる大地の手に力がこもる。そのまま無言でじっと考え込んでいたが、やがて顔を上げ、揺るぎのない眼差しで楠長官を見据えた。

「いいでしょう、その条件で」

 凛然と答えると、表情を和らげて腕の中の彼女を覗き込む。

「美咲もいいね?」

「ええ……大地さえ良ければ……」

 彼女は困惑しながらも承諾の答えを返した。メルローズを見捨てずに済み、大地ともいられるのだから、彼女からしても悪い話ではないだろう。しかし、視野を広げて大局的に考えてみると、決して橘側に有利な話とはいえない。悠人は険しい顔でソファから立ち上がった。

「馬鹿な真似はよせ。人質が一人増えるだけだぞ」

「何ならおまえも一緒に来るか? 」

 自分が行ったところで、さらに人質が増えるだけで何の解決にもならない。人の話を聞いていたのだろうか。訝りながら眉をひそめて見つめるが、大地はあっけらかんと畳みかける。

「僕たち三人で仲良く暮らすか?」

「…………」

 ドクリと心臓が大きく打った。彼が何を思ってこんなことを言い出したのかわからない。いつのまにかのぼせたように頭がぼうっとして何も考えられなくなる。口を半開きにしたまま立ち尽くす悠人を見て、大地はクスッと笑った。

「本気になるなよ、冗談だ」

 悠人は知らないうちに頬を伝っていた一筋の汗を手のひらで拭い、大地を睨めつける。それでも彼は嫌味なくらい余裕たっぷりに微笑をたたえていた。美咲を抱いていた腕を解くと、悠人の方へ歩を進めつつ言葉を重ねていく。

「おまえには澪と遥の面倒を見てもらわないといけないからな。もちろん会長秘書の仕事もあるしね。それに、いざというときに僕らを助けに来てくれる人が必要だろう? おまえが外にいてくれれば、僕は安心して心置きなく美咲のもとへ行ける」

 悠人は思いきり眉をひそめ、舌打ちした。

「勝手なことばかり言いやがって」

「頼りにしてるってことさ」

 大地はすぐ正面まで来て足を止めると、すっと手を伸ばし、包み込むように悠人の頬に触れた。ほのかな温もりが手のひらから伝わる。何だ? と怪訝に思うと同時に顔を寄せられ、抗う間もなく唇を掠め取られた。触れ合っていた時間は一秒もない。何の反応もできずに呆然としていると、間接キスだと思ってもいいぞ——と揶揄するような囁きが耳朶をくすぐった。

「じゃあ、行きましょうか。目隠しや手錠をするんですよね」

 大地は踵を返し、何事もなかったかのように平然と歩いて戻る。

 ありえない光景にさすがに唖然としていた溝端も、すぐに仕事の顔を取り戻し、楠長官の方に伺いを立てるような目を向けた。彼が頷くのを見ると、手を取り合った大地と美咲に感情のない視線を向ける。

「来てください」

 そう言うと、大きく扉を開けて部屋を出ていく。大地と美咲もそのすぐあとに続いた。出る間際、大地は満面の笑みを浮かべて手を振ったが、悠人は応えることなくただじとりと睨み返す。大地の隣には、申し訳なさそうに苦笑している美咲がいた。

 ガチャン、と扉が閉まる。

 悠人は執務机についている楠長官と二人きりになった。気まずさを感じて微妙に体をそむける。いまだ感覚の残る唇を拭おうとするが、上げかけた手を戻し、さらに深く顔をうつむけて下唇を噛んだ。

「相変わらずいいように利用されているな」

「……言われなくてもわかっています」

 小馬鹿にするように言われ、背を向けたまま静かに言い返す。

 今さらこんなことで傷ついたりしない。中学生のときに出会ってから今に至るまでずっと、都合のいい存在でしかなかったことくらい承知している。大地は基本的に去る者を追わない。嫌なら去ればいいだけのこと。それをしないのは、どんな理由を付けたとしても自分自身の選択に他ならない——悠人は吐息を落とすと、楠長官に目を向けることなく無言で部屋をあとにした。


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