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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
36/68

35. 疑心暗鬼

 メルローズの部屋には誰もいなかった。

 ベッドにははっきりと使用された痕跡が残されている。いや、荒らされているといった方が近いかもしれない。敷き布団はベッドから大きく斜めにずれ、その上に掛け布団が乱雑に投げ置かれたようになっていた。小さな女の子がひとりでやったとするには些か無理があるだろう。

「発信機はこのすぐ近くにある」

 ベッド脇まで来て足を止めた武蔵は、手に載せたノートパソコンを覗き込みながら言った。限界まで拡大された地図の中央付近に、赤と緑の点がほぼ重なって表示されている。つまり、そこからごく近いところに発信機があるということだ。

 篤史は掛け布団をばさりと捲り上げた。その下にあった細い金属製の輪を目にすると、小さく舌打ちして顔をしかめる。それがメルローズの足首につけてあった発信機らしい。壊れてはいない。どうやら腕時計のように簡単に着脱できる仕組みのようだ。

「メルローズがひとりでやったとは考えづらい。そもそも外し方を教えてないしな。外したいときは俺か武蔵さんに声を掛けるように言ってあったし、危ないからひとりで部屋を出るなとも言ってあった。メルローズもちゃんと理解してくれてた」

「シーツがなくなってる」

 遥がベッドにそっと手を置いて言う。確かに、敷き布団に掛けられているはずの白いシーツが見当たらない。単に外れているだけということではなさそうだ。

 誠一は腕を組んだ。

「だとすると、考えられるのは……」

「正面玄関の防犯カメラに映っていた」

 剛三は被せるようにそう言い、開かれたままの出入口から険しい表情をして入ってきた。彼に付き従ってきた悠人が薄っぺらい紙を差し出す。それは防犯カメラの映像をプリントアウトしたものだった。白い布にくるまれたメルローズと思しきものを横抱きにする溝端と、そのすぐ前を歩く楠長官の姿がはっきりと映っている。澪が声もなくその紙に目を落としていると、後ろから誠一や武蔵が首を伸ばしてきた。

「こんなに堂々と……正面玄関から……」

「あやつら、隠す気はなかったようだな」

 唖然と言葉を落とす誠一に、剛三は忌々しげに応じる。

 武蔵はノートパソコンを閉じて眉をひそめた。

「だが、こいつらはなぜメルローズの居場所を知っていた? この屋敷にいることは見当がついていたかもしれないが、何十も部屋があるのに、迷った形跡もなくごく短時間でメルローズを拉致している」

 それを聞いて、皆、難しい顔で考え込んだ。

 楠長官たちが剛三の書斎に通されたあと、悠人と誠一が澪の部屋に行き、残った剛三が楠長官たちに応対して、しばらく後に悠人が戻り、楠長官たちが書斎をあとにする——というのがおおよその流れである。この間にどうやってメルローズの居場所を掴んだのだろうか。剛三がひとりで応対しているときに口を滑らせたと考えるのが自然だが、百戦錬磨の彼がそのような軽率な失敗をするとは思えないし、たとえ失敗したとしてもそれに気付かないことはありえない。

 武蔵は射るような視線を誠一に向けた。

「裏切り者がいるとしか思えない」

 あたりの空気が一瞬にして凍りつく。はっきりと名前は口にしていないが、誠一を疑っていることは明らかだ。澪は狼狽える彼を庇うように飛び出し、キッと眉を吊り上げて武蔵の前に立ちはだかった。

「誠一は絶対に裏切ったりしない!」

「こいつ、公安の人間だろう」

「好きでそうなったんじゃないよ!」

「そんなことはわかっている」

 武蔵は目つきを鋭くすると、再び、澪から誠一へと視線を移した。

「澪を救出する手がかりを掴むためだったんだろう? だが、澪は無事に戻ってきた。今となってはもう橘の味方をする理由はないはずだぜ。公安に職務として命じられれば従うんじゃないか? なあ、見るからに真面目そうな南野誠一さん?」

 その疑惑は、彼への反発心からきているものではなく、彼の置かれた状況に基づく推測のようだ。しかしながら、澪はそれが見当違いであると確信している。そんなことをすれば澪が悲しむことくらい、彼にはわかっているはずだから——。

「メルローズのことは誓って誰にも話していない」

 誠一は誠実なまなざしを返して断言する。しかし、武蔵が疑いの姿勢を崩すことはなかった。

「それをどう証明する?」

「メルローズがどこにいるかは、さっき志賀君が話していたときに初めて知った。それ以降はずっと君たちと一緒にいたんだから、誰かに教える機会なんてなかっただろう」

 彼の言葉に嘘がないことはわかっているはずだが、それでも武蔵は納得しなかった。

「澪の部屋にいたとき、上司と電話で何か話をしていたな」

「メルローズのことは話していない。君も聞いていたはずだ」

「暗号で伝えた可能性もある」

 もはや言いがかりとしか思えなかった。あれだけの言葉がどんな暗号になり得るというのだろう。これまで分別のある態度を見せていた誠一も、さすがに不快感を隠しきれずに眉を寄せる。

「こんなことを言いたくないが、状況的に疑うべき人物は他にもいる」

「……篤史か」

 武蔵は戸惑いがちに顔をしかめて答え、部屋の隅に立つ篤史に視線を流した。つられて他の皆も振り向く。不安と疑惑の入り混じった視線を浴びた彼は、無表情のまま眉だけをピクリと動かした。

「確かに、きのうからずっとメルローズについていたのは俺だし、メルローズの部屋を決めたのも俺だし、メルローズの行方不明に気付いたのも俺だ。あいつらの側に寝返っていたとしたら、さぞ簡単に手引きできただろうな」

 淡々とそう言った彼の双眸に、ふと強い光が宿る。

「でも俺はやっていない。証明は出来ないから、信じる信じないは勝手にしてくれ。ただ、状況っていうなら悠人さんも疑える。メルローズの部屋は悠人さんと相談して決めたし、何より悠人さんの父親はあの楠長官だ」

「やめてよ!!」

 澪は堪えきれず、体の横でこぶしを握って声を上げた。

「みんな仲間だよ? 誰も裏切ったりなんてしないんだからっ!!」

 根拠は何もない。それでも、みんなのことを信じたいし信じてほしい。互いに疑心暗鬼になっていては、これまで築いた信頼さえも崩れてしまう。それこそ楠長官の思うつぼではないか。悠人も、誠一も、きまり悪そうな顔でうつむいた。

「ねえ」

 不意にぶっきらぼうな声が上がる。振り向くと、遥が思案顔で小首を傾げていた。

「誠一に盗聴器が仕掛けられてた、ってことはない?」

「……えっ?」

 澪がそう聞き返した隣で、誠一はハッと息を飲んだ。まるで心当たりがあるかのように。

 剛三の顔つきが鋭く険しいものに変わる。

「皆、書斎に来い」

 そう言うや否や、くるりと踵を返して一人足早に部屋を出て行き、悠人はすぐにあとを追って飛び出した。武蔵は逃げるなよと言わんばかりの視線を送り、誠一も睨み返して応じ、険悪な雰囲気のまま二人並んで書斎へと歩き出す。澪はその後ろ姿を困惑ぎみに見つめながら、遥たちとともにあとに続いた。


「このボールペンだな」

 篤史は、発見器が反応を示した誠一の胸元を探り、胸ポケットのボールペンに目星をつける。手際よく中を開けて確認すると、そこにはボールペンの機能とは無関係の精密機械が仕掛けられていた。盗聴器である。

 正面の執務机で座っている剛三は、瞬ぎもせず誠一を見つめる。

「君のものか?」

「いえ、行きの車中で溝端さんが貸してくれたものです。楠長官に言いつけられてメモをとろうとしたとき、手帳の鉛筆が見当たらなかったので……使い終わったあとすぐに返そうとしたんですが、また使うかもしれないから持っていろと……」

 誠一はうつむいて眉を寄せた。

 話を聞く限り、楠長官と溝端に利用されたとしか思えない。鉛筆がなくなっていたのも偶然ではないだろう。つまり、ここにいる誰も裏切っていないということだ。しかし、武蔵だけはいまだに渋い顔で誠一を睨んでいる。

「本当は共謀してたんじゃないだろうな」

「もう疑うのはやめてよ!」

 澪は泣きそうになりながら腕を掴んで訴えるが、彼は困ったように眉をしかめただけで、固く唇を結んだまま何も答えようとしなかった。

 誠一は真剣な面持ちになり、武蔵に向き直る。

「信じてもらうのは難しいかもしれないが、本当に盗聴器のことは知らなかったんだ。だが、メルローズが連れて行かれたのは俺の責任だ。もっと自分の立場を理解して警戒しておくべきだった。本当に心から申し訳なく思っている……」

「メルローズが無事に戻らない限り、許すとは言わないからな」

 武蔵は斜めに目を伏せ、葛藤とやるせなさを滲ませてそう言い捨てた。メルローズの救出に何年も費やしてきたのだから、いくら真摯に謝られても簡単には許せないだろう。しかし、彼が本当に許せないのは彼自身なのではないか——思い詰めた横顔を見て、澪は何となくではあるがそんなふうに感じていた。


「随分とふざけた真似をしてくれたな。我が屋敷から連れ去った少女を返してもらおう……とぼけるでない! 防犯カメラに映っておったわ! ……君らが少女を抱えて玄関から出て行くところだ……それで言い逃れられると思っておるのか! ……待て!!」

 剛三は舌打ちし、叩きつけるように受話器を戻す。

「あやつら、連れ去ったことからして認めるつもりはないようだ。防犯カメラに映っていたのは白い布だけだからな。あくまで状況証拠でしかなく決定的な証拠にはなりえん。まあ、証拠を掴んだところでメルローズを返してくれるとは思えんが」

 眉間に皺を刻む剛三を、武蔵は執務机に片手を付いて覗き込んだ。

「おい、このまま引き下がるつもりじゃないだろうな?」

「ここまで虚仮にされて引き下がれるわけなかろう」

 責任感とは別のところで剛三の闘志に火が付いた。漆黒の瞳には怖いくらいの鋭い光が宿っている。こうなってはもはや誰にも止められない。もっとも、今回に限っては誰も止めはしないだろうが。

「私は警察庁に戻って話を聞いてきます」

 誠一は意を決したように姿勢を正してそう告げた。しかし、それは敵の本拠地に一人で乗り込むようなものだ。公安は次第に手段を選ばなくなってきているのに——澪は顔を曇らせ、後ろから彼の袖をちょんと引っ張った。

「大丈夫、なの?」

「職場に戻るだけだよ」

 誠一は安心させるように柔らかく答えてくれた。それでもあまり不安は拭えなかったが、行くなとは言えない。澪にできるのはせいぜい無事を祈ることくらいだ。

「無理をするでないぞ」

 剛三の言葉に、誠一はあらためて表情を引き締めると深々と礼をした。

 悠人は一歩踏み出して思い詰めたように訴える。

「私も彼と一緒に行きます」

「おまえが行ってはややこしくなる」

 逆上して楠長官の首を絞めたという前科がある以上、このような緊迫した状況では行かせられないだろう。以前の二の舞になりかねない。悠人自身もそのことを自覚しているのか、悔しげに歯噛みしつつも素直に引き下がった。

「手を貸してほしいときには連絡します」

 誠一はうつむく悠人に視線を送りながらそう言うと、再び剛三に一礼し、今にも走り出しそうな勢いで書斎をあとにする。その背中には、澪たちの前では見せなかった怒りが滲み出ている気がした。


「お返しします」

 誠一は執務机の前に立つと、胸ポケットから取り出したボールペンを楠長官の前に置いてそう言った。感情を見せないよう平静を装ってはいるものの、次第に速くなる鼓動までは制御しようもなく、知らず知らずのうちに顔が上気していく。対照的に、楠長官は眉ひとつ動かさずボールペンを一瞥した。

「それは溝端のものだろう」

「長官のご指示ですよね?」

 先回りして尋ねると、彼は無言のまま口の端を上げた。誠一の手のひらが少し汗ばむ。

「メルローズをどこへやったのですか」

「何のことだね」

 とぼけるその声には、どこか楽しむような声音が混じっていた。

 誠一はカッと頭に血が上るのを感じながら、それでも必死に理性を保つ。

「あなたのしたことは誘拐です」

「誘拐? 言うのなら窃盗だろう」

「……どちらにしても犯罪です」

 楠長官の発言は、メルローズを人として扱わないと宣言しているも同然だ。しかし、今は人間の定義について言い争っている場合ではない。それよりも、メルローズの救出方法を優先して考えるべきである。

「メルローズをどうするつもりですか」

「さあ、知らんな」

「橘美咲さんを手に入れるためですか」

 恐怖心を胸の奥にしまい、揺さぶりを掛けるべく真正面からぶつかっていく。

 ふっ、と楠長官の唇に笑みが浮かんだ。

「南野君、君のそういうところは気に入っているがね。残念ながら君の諫言を受け入れることはありえない。なぜなら私個人の意志ではなく、警察庁、ひいては国の意志なのだからな。私も駒の一つにすぎないということだよ」

 以前も国の存亡に関わることだと言っていた。長官ですら駒だと聞くと、相手がいかに途轍もないかを思い知らされ、ゾクリと背筋に冷たいものが走る。それでも手を引くつもりはない。何の罪もない幼い少女が実験体として攫われているのだから。

「橘大地の取り調べを許可願います」

「……良かろう」

 楠長官が断らないだろうことはわかっていた。たとえ誠一から申し出なかったとしても、いずれ楠長官の方から命じられたに違いない。状況が大きく変わった今、橘美咲を手に入れるための新たな情報を、少しでも大地から引き出すために——。


「やあ、南野君、どうしたんだ?」

 アクリル板の向こうで、橘大地がニコニコと人懐こく微笑んだ。

 仕切られた両側にはそれぞれ警備担当がひとりずつ配置され、複数の監視カメラがアクリル板を挟む二人を捉えている。もちろん音声も録音されているだろう。しかし、橘側の情報の大部分が知られしまった今、隠さなければならないことはそれほど多くない。

「きのう、澪さんが無事に戻ってきました」

「それにしては浮かない顔をしているね」

 感情を表に出さないよう細心の注意を払ったつもりなのに、彼には簡単に見抜かれてしまった。それでもあえて素知らぬ顔で受け流すと、当初の予定どおり淡々と話を進めていく。

「橘美咲さんの居場所もわかりました」

「ほう?」

「橘会長が先方と面会の約束を取り付け、澪さんが行ってきました。澪さんは帰ってくるように訴えたらしいですが、残念ながら美咲さんは首を縦に振らなかったようです」

「だろうね」

 大地はクスッと笑って相槌を打つだけで、美咲がどこにいたのか尋ねようとしなかった。今までの口ぶりから考えても知っていた可能性が高い。米国大使館で起こった一連の事件について、彼の見解を聞きたい気持ちはあったが、公安に知られない方がいいと判断して思いとどまる。

「ただ、メルローズは預かってきました」

「ここで話してもいいのか?」

「もうすでに公安に奪われてしまいましたので」

「は? ……ったく、悠人は何をやってたんだか」

 大地は呆れたように大きく溜息をついた。しかし、その口調も態度もいたって軽く、深刻な様子は見受けられない。誠一は微かな違和感を覚えつつも、そのことについては追及しなかった。

「何のために彼女を奪ったと考えますか?」

「実験体なんだから実験以外にないだろう」

「しかし、橘美咲さんは戻っていません」

「公安の目的はもとよりメルローズの方さ」

 話が見えず、誠一は怪訝に眉をひそめた。大地は少し考えてから言葉を繋ぐ。

「公安は僕らに実験を強要していたが、次第に言いなりにならなくなった、ということは話したな? 美咲を脅して実験を継続させることも考えてはいただろうが、最後の実験体であるメルローズさえ奪取すれば、たとえ美咲の協力がなくても実験を継続することはできる。研究の道筋はすでに美咲がつけているからね。まあ、僕としてはそう簡単にいくとは思ってないけど」

「では、どこかの研究機関に……?」

「さあ、そこまではわからないな。一時期、国立医療科学研究センターを間借りしていたことはあったけど、ずいぶん昔のことだし、かれこれ十数年ほどまったく接点を持っていない。少なくとも僕たちはね」

 唐突に具体的な名称が出て、誠一は慌てて手帳を広げてメモを取る。しかしながら公安にも聞かれてしまった以上、そこにメルローズが拘束されていたとしても、すぐに別の場所へ移送される可能性が高いだろう。それでも貴重な手がかりであることには違いない。

「君は、なぜそんなに一生懸命なんだ?」

「えっ?」

 思いもしなかったことを問われ、誠一は手帳を閉じながら顔を上げる。

「澪は恋人だから命懸けで取り戻したいと思うのも理解できる。だが、メルローズは君とはまったく無関係の存在じゃないか。こんな危険なことにわざわざ首を突っ込むこともないだろう。橘剛三に利用されているだけなのか? 抜けるに抜けられなくなったのか?」

「それもありますが……人命を守るのは警察の務めですし……」

「いや、あの子は『人間』ではないだろう?」

 嫌味でもなく、挑発でもなく、悪意でもなく、ただ単に事実を確認しただけのような口調。だからこそ、その言葉はなおさら誠一の胸に深く突き刺さった。メルローズは人間ではないと、人間以外の生物だと、大地は当然のように認識している。そして——。

「澪と遥のことも、そう思っているのですか」

「……なんだ、知っていたのか」

 大地は目を見開いてそう言ったあと、小さくフッと笑った。

 黒い手帳を握った誠一の手に力がこもる。

「今朝、親子鑑定であなたが父親ではないと判明しました。本当の父親は澪を攫った男です。彼はメルローズの叔父にあたる人物で、彼女を取り戻すためにこの国へ来たそうです。澪と遥のことは、彼の方も寝耳に水だったらしく動揺していました」

「へえ、それは不思議な縁だね」

 その態度はまるきり他人事だった。ふざけるな、と怒鳴りたい衝動をグッと堪える。

「実験、だったんですよね」

「そうだよ。研究を進めるために公安の提案を受け入れた。僕も美咲も反対はしなかったよ。研究者の多くは道徳心より探求心の方が勝っている。それでも通常は法律を犯さないよう自制するが、国家機関が促しているなら遠慮はいらない。命を弄ぶような実験は許せないかい?」

 そう尋ねた大地の顔には微笑が浮かんでいた。ついに、誠一は糾弾の言葉を抑えられなくなった。

「生まれてくる子供がどんな気持ちになるか、考えなかったのですか」

「そもそも真実を話す気はなかったからね」

「異種族間交配による何らかの悪影響が出る可能性もあったんですよね」

「障害を持って生まれてくる子は大勢いるさ」

「自分の妻に他の男性との子供を身籠もらせるなんて常軌を逸してる」

「セックスしたわけじゃない。人工授精だよ」

 何を訊いても彼は淀みなく答えを返す。そこからは罪悪感の欠片も感じられない。もし彼の本心だとすれば、理解しがたい思考である。むしろ理解などしたくない。彼に対する嫌悪感と拒絶感が沸々と湧き上がった。

「それでも、私なら絶対にさせません」

「ボーダーラインは人それぞれだろうな」

 誠一から見れば、彼のボーダーラインは異常としか思えなかった。橘美咲が澪と遥を産んだのは16歳のときだと聞いている。たとえ本人が納得していたとしても、そんな年若い少女に、しかも自分の妻に、誰だかわからない男との人工授精をさせるなど、あらゆる意味で考えられることではない。

「澪と遥のことは……」

「ああ、人間かどうかはともかくとして、ちゃんと可愛いとは思っているよ。愛する美咲の遺伝子を継いでいるんだから当然だろう? あまり良い父親ではなかったかもしれないが、それなりに可愛がってきたつもりだけどな。あの子たち、愛情が足りなかったとでも言っていたか?」

 彼は少しも悪びれていない。

 誠一は、腹立たしいというよりも、得体の知れない恐怖を覚えた。

「申し訳なさは感じていないんですか」

「澪も遥も生まれてきて良かったと思っているだろう。なのに、どうして申し訳なく感じなければならないんだ。それこそ二人に対して失礼じゃないのか。君は、澪が生まれて良かったと思っていないのか?」

 いくら澪と出会えたことに感謝していても、二人が生まれて良かったと思っていても、それをここで認めてしまっては彼らの実験を肯定することになりかねない。大地の詭弁にすぎないとわかっていても——。

「澪を見捨てるつもりか?」

「そんなことはしません!」

 思わず、弾かれたように顔を上げて言い返す。

 大地はにっこりと満足げに微笑んだ。

「じゃあ、これからも澪のことを大事にしてやってほしい。悠人にとられないよう気をつけるんだな。あいつ結構ずるくてしつこいぞ。まあ、僕としては悠人の方を応援してるんだけどね。長年尽くしてきたのにまったく報われてないし、中学生のときからずっと片思いばかりの可哀想なヤツだからな」

 そう軽く笑いながら頬杖をつくと、思い出したように付け加える。

「そうそう、ついでに遥も可愛がってくれるとありがたい。頭が良くてしっかりしているけど、そのせいか甘えることを知らない子でね。どうにも危なっかしくて心配なんだよ」

「……わかりました」

 父親面した彼には反発を覚えるが、言っていることは至極まともで、気持ちを鎮めて了承の返事をする。ずっと握り締めていた手帳を内ポケットにしまい、あらためてアクリル板の向こうの大地に目を向けた。

「今日はこれで失礼します。後日、また話をさせてください」

「南野君の取り調べなら大歓迎だよ。あ、そうだ悠人に伝えてくれるか」

 そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた彼に、小さくちょいちょいと手招きをされる。どうやら内密にしたい話のようだが、いくら声をひそめてもマイクに拾われる可能性が高い。聞かれますよとやんわり断ったものの、わかってるからと笑顔で軽くいなされ、仕方なく穴の空いたアクリル板に耳を寄せる。そこに囁かれた言葉は、一連の出来事とは無関係に思える私的なことだった。しかも——。

「……楠悠人さんに、ですか?」

「そう、楠悠人さんに」

「わかりました、伝えておきます」

 ニコニコと微笑む大地に、誠一は事務的に一礼して立ち上がった。彼の思考はとても理解できそうにない。胸にわだかまる奇妙な思いを抱えたまま、振り返ることなく無機質な部屋をあとにする。その背後で、彼が僅かに口の端を上げたことには気付いていなかった。


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