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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
35/68

34. 積み重ねた17年

「う……ん……」

 ぼんやりと開いた漆黒の目に、幼いころから見慣れたアイボリーの天井が映った。ベッドの感触も馴染んだものである。ここは自分の部屋だ——澪がおぼろげながらそう認識した直後、必死な顔をした武蔵がいきなり視界に飛び込んできた。

「澪、目が覚めたか? 気分はどうだ?!」

「えっ……と……」

 思考が混濁していて、何がどうなっているのかわからない。しかし——。

「過労と心労が重なってるみたいだから、しばらく寝てれば良くなるだろうって、さっき診てくれた田辺先生が言ってた。今朝、じいさんの書斎で何があったか覚えてる?」

「あ……」

 少し離れたところに座っていた遥に問いかけられ、ようやく記憶がよみがえってきた。帰るなり剛三に呼びつけられて書斎に集まり、そこで出生に関する調査結果を聞かされたのだ。遥の口ぶりから察するに、残念ながら夢というわけではなかったらしい。

「おい、今、それを言うのかよ」

「隠したって何にもならないよ」

 武蔵と遥が淡々とした口調ながらも言い合いをしている。その様子を、澪はベッドに横たわったままぼんやりと眺めていた。自分と遥は実験のためだけに作られた存在で、血の繋がった本当の父親はこの武蔵なのだ——今は少し落ち着いて考えられる。しかし、やはりすんなりと受け入れられるものではない。

「ねえ、遥……どうしてそんなに冷静でいられるの?」

「僕が僕であることに変わりはないから」

 何か上手くはぐらかされたような気がした。納得がいかず顔を曇らせると、彼はちらりと一瞥してから言葉を繋ぐ。

「遺伝子だけじゃなく生まれてからの17年が、今ここにいる僕たちを作っている。母さんたちの思惑とは無関係なところで、多くの人と関わり合ってきた記憶が、僕や澪という存在を支えてくれている。もし、幼いころに知ったらもっとショックを受けただろうけど、今の僕は自分の存在意義を見失ったりしないよ」

「よく、わからないよ……」

 澪は天井に視線を移し、目を細めた。

「僕たちが実験のためだけに作られた存在だとしても、実験のためだけに生きてきたわけじゃないってこと。師匠が僕たちに武術を教えてたのも、じいさんがファントムをやらせてたのも、綾乃や富田や真子と友達になったのも、澪が誠一と付き合っているのも、どれも母さんの実験とは無関係だったはずだよ。それさえ理解していれば、必要以上に悲観しなくてすむと思う」

「うん……」

 完全に理解したわけでも納得したわけでもないが、それでも少しだけ気持ちが楽になった気がした。これまでの人生すべてを否定する必要はないのだ。家族という枠組みは嘘で塗り固められていたかもしれないが、実験を知らなかった人たちとの交流に嘘はなかったはずである。

「まあ、僕も異種族交配の影響については心配だし、父親があんなのって知ってガッカリしたけど」

「おいっ、あんなのって! ガッカリって!!」

 不満を露わにして突っかかる武蔵に、遥は面倒くさそうに言葉を返す。

「武蔵としては良かったんじゃない? 澪のこと、これでもう諦めがついたよね」

「おまえはバカか。そう簡単に気持ちの整理なんてつけられるかよ。俺は本気だったんだぞ。いきなり俺の子供でしたとか言われたところで、何の実感もないし、気持ちが変わることも萎えることもない。俺にとっては娘なんかじゃない、好きな女なんだよ」

 武蔵は眉を寄せ、堰を切ったように真情を吐露する。

「でも、親子だって事実は変わらない」

「子供さえ作らなきゃ問題ないだろう」

「こっ……?!」

 澪はギョッとして素っ頓狂な声を上げながら、布団から跳ね起きた。

「ちょっと武蔵、落ち着いてよ!!」

「俺は十分すぎるくらい落ち着いてる」

 そう言った彼の青い双眸には、隠しきれない情熱が滾っていた。あの夜に見たものと同じ——思わず逃げるように目を伏せると、血色のない手でぎゅっと掛け布団のシーツを掴む。

「私、武蔵の気持ちには応えられない。武蔵の気持ちは変わらないかもしれないけど、私は血の繋がった父親とは絶対に無理だから……たとえ誠一と上手くいかなくなったとしても、武蔵と恋愛とかそういうのはもう考えられない……ごめんなさい……」

 たとえ恋愛に近い感情がくすぶっていたとしても、澪の理性はそれを拒絶する。もう二度と受け入れることはないだろう。あえてそのことを口にしたのは、自分自身のためにも、彼のためにも、明確にしておいた方がいいと考えたからだ。

 武蔵は静かにうつむき、その顔に仄暗い陰を落とした。

「好きでいることくらい、許してくれよな」

「それは……ん……」

 許すも許さないも自分が決めるべきことではないが、そう突き放してしまうのは、弱ったところに追い討ちを掛けるようで抵抗を感じる。だからといって許すと言うのも憚られる。澪は困惑し、視線を落としたまま曖昧に頷くことしか出来なかった。


 コンコン、と部屋の扉が小さくノックされた。

「あ、どうぞ」

 澪は淀んだ空気を払拭するように声を張る。すぐに、そろりと扉が開いて悠人が顔を覗かせた。ベッドで上体を起こしている澪を目にすると、ほっと小さく息をついて中に入ってくる。

「澪、もう目を覚ましてたのか」

「はい……って、え? 誠一?!」

 悠人に続いて部屋に入ってきたのは誠一だった。今朝、仕事に出かけたときと同じスーツを身につけたまま、少々きまり悪そうにごまかし笑いを浮かべている。まだ午前中なので仕事が終わったわけではないだろう。

「どうしてここに?」

「仕事でね、楠長官と溝端さんに同行して橘会長に話を聞きに来たんだよ。そうしたら澪が倒れたなんて言うだろう? 動揺してたら楠長官が見舞いに行ってこいって……仕事中だし、一応は遠慮したんだけど」

 そう言いながら、遥に譲られた椅子をベッドに寄せて座った。

「話を聞きに……って、きのうのこと?」

「ああ、複数の目撃者に車のナンバーごと通報されてるし、騒ぎを起こしたのが橘家の人間だってことは露見している。大使館で誰と会っていたかも察しはついているみたいだな」

 楠長官は美咲のことを聞きに来たに違いない。剛三がどこまで話すのかはわからないが、事実を知ったところで、彼女を手中に収めるのは困難なはずである。相手は世界随一の大国なのだ。日本が交渉したところで切り札がなければどうにもならない。当然ながら、いかに財閥会長といえど剛三個人では話にもならない——。

「澪、どうした? 大丈夫か?」

 ふと、誠一が心配そうに覗き込んできた。別に体調が悪いわけでも気分が悪いわけでもないが、うつむいたまま黙り込んでいたので誤解されてしまったのだろうか。澪は安心させるように精一杯の笑顔を見せる。

「ちょっと考えごとをしてただけ」

「それならいいんだけど……」

 その言葉とは裏腹に、彼の表情はいまだ曇ったままである。

「ねぇ、ちょっと心配しすぎじゃない?」

「倒れたばかりなんだから当然だろう」

「それだって疲れが出ただけなんだからね」

「まあ、きのうは大変な一日だったからな」

「うん……」

 声のトーンが少し落ちた。美咲を説得することは出来なかったが、メルローズは取り戻し、みんな生きて帰って来られたのだから、結果としてはそれほど悪くないだろう。決して無意味ではなかったのだと、間違ってはいなかったのだと、そう自分に言い聞かせる。

「おいっ!」

 その刺々しい声につられて顔を上げると、武蔵が身を乗り出し、誠一の鼻先に人差し指を突きつけていた。

「他人事みたいに言ってんじゃねぇよ。わかってるのか? 自覚してるのか? 澪が倒れたのはおまえのせいでもあるんだぜ。昨晩、澪が大変な一日だったことを知っていながら、本能のまま朝まで寝かせなかったんだろうが」

「あ、いや、寝かせなかったってことは……少しくらいは……」

 誠一はしどろもどろで弁明しかけたが、途中で開き直ったように反撃に転じる。

「それについては悪かったと思うが、君だって人のことを言えるのか? ここに戻ってくる前日、大変な一日になるとわかっていながら一晩中ずっと澪を放しもしないで……あんなに痕が残るくらい……だいたい、あれさえなければ俺だってあんなには……」

「ほう、全部俺のせいだって言いたいのか?」

 武蔵は僅かに顎を持ち上げ、冷笑を浮かべながらひどく挑発的に問いかける。だが、誠一もいつになく強気で一歩も引こうとしない。二人の視線は、激しく火花を散らしてぶつかり合った。

「もうやめてよ、二人とも!」

 澪は顔を真っ赤にして声を上げた。これではまるで二人に抱かれたことが過労の原因であるかのようだ。確かにこの二日間はあまり寝ておらず、影響がまったくなかったとは云えないが、だからといってこんなことを言い争われてはたまらない。

「澪、こんな男と別れた方が身のためだぞ」

「君にそんなことを言う権利はないだろう」

「それが、残念なことにあるんだなぁ」

 武蔵は芝居がかった抑揚をつけてそう言うと、不敵に口角を上げる。

「なんてったって、俺は……」

「待って!」

 彼が何を言おうとしているか察し、澪は慌てて制止した。悠人に視線を移して指示を求める。

「師匠、あのこと……」

「南野さんになら話しても構わないよ。もちろん澪さえ良ければだけど」

 誠一はすでにおおよその内情を把握している。今さら隠し立てするつもりはないが、当事者である澪の意思は尊重する、というのが橘家としての判断のようだ。澪としては、積極的に話したいわけではないが、彼に対しては正直でいようと決めた。だから——緊張が高まるのを感じながら小さく頷くと、怪訝に眉をひそめている誠一に向き直り、ゆっくりと語りかけるように言葉を紡ぐ。

「あのね、私自身もまだ全然実感がなくて、ちょっと信じがたいんだけど……その……そこにいる武蔵がね、私と遥の本当の父親だったらしいの」

「……は?」

「私たちは、橘美咲と武蔵の子供ってこと」

「…………」

 誠一はだらしなく口を半開きにしてぽかんとしていた。しかし、澪の話した内容を咀嚼するにつれてその顔は怒りに染められていき、ついには弾かれるように武蔵の胸ぐらに掴みかかった。

「君は橘美咲さんにも手を出していたのか!」

「?!」

 澪はようやく自分の言葉足らずに気がついた。そうじゃなくて、と慌てて声を上げようとするものの、どう説明をすればいいのかわからない。考えがまとまらずおろおろしていると、武蔵は溜息をつき、軽く顎を上げて後ろに視線を流した。

「遥、おまえが説明してくれ」

「そうだね」

 遥も呆れたように溜息を落とすと、その場に立ったまま事務的に説明を始めた。DNA親子鑑定の結果に始まり、異種族交配の実験ではという推測まで、落ち着いた口調で流れるように述べていく。しかし、それを聞いている誠一の表情は、徐々に険しさを増していった。

「あ、あのね、誠一……無理しなくてもいいからね……」

 澪は掛け布団の縁をギュッと縋るように握りつつ、おずおずと切り出した。誠一に怪訝な目を向けられ、鼓動が速くなるのを感じながらも、それに答えるように冷静を装い言葉を継ぐ。

「こんなのが父親だなんて嫌だろうし」

「おい、こんなのって何だよ」

「それに、異種族交配の影響がどうなるか……」

 武蔵の抗議には取り合わず話を進める。この異種族交配の影響が最も深刻な問題だろう。澪たちの体に何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか、おそらく前例がないため誰にもわからない。美咲に聞けばある程度のことは判明するだろうが、今まで問題がなかったとしても、今後もそうだという保証はどこにもない。そんな面倒な相手とあえて付き合い続ける義務はないし、離れていっても仕方がないと思う。しかし——。

「俺はとっくに腹を括ってるよ」

 誠一はいつもの優しい笑顔を見せてそう言った。彼がどこまでこの事態を理解しているかはわからない。いつかは澪のもとから去ってしまうかもしれない。それでも、少なくとも今の澪には、彼の与えてくれたその言葉が大きな慰めとなった。

「ごめんね……ありがと……」

 目の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、精一杯の笑顔を返す。どちらからともなく伸ばされた手は、互いの温もりを確かめ合うように、互いの気持ちを伝え合うように、掛け布団の上でそっと優しく重ねられた。

「親の許しも得ないで勝手に盛り上がるなよ」

「都合のいいときだけ父親ぶらないでよ」

 あからさまにふて腐れて身勝手な文句を言う武蔵に、澪は目元を拭いながら言い返した。隣では誠一が困惑まじりに苦笑している。それでも、自分たちが親子だという事実から不自然に目を逸らすより、このくらい軽く言い合える方がいいのかもしれない——奇妙だが悪くない空気を感じながら、頭の片隅でそんなことを考えていた。


 不意にノックもなく扉が開いたかと思うと、篤史が何の躊躇いもなく入ってきた。左手には小型のノートパソコンを携えている。ベッドで体を起こしている澪をちらりと一瞥すると、さして興味なさそうに言葉を落とす。

「何だ、もう起きてたのか」

「ちょっと、無断でヒトの部屋に入ってこないでよ」

「おまえじゃなくて武蔵さんに用があるんだよ」

 口をとがらせる澪をさらりと受け流し、ノートパソコンを掲げながら武蔵の方へ向かう。

「頼まれてたもの、一通り作ってみた」

「お、早かったな、さすが天才ハッカー」

「それほど難しいものじゃないからな」

 武蔵の賛辞にも、篤史が浮かれることはなかった。ノートパソコンを開いてベッドに置く。

「急いで作ったから、見た目や使い勝手にはあまり手を掛けてないけど、時間が許せば少しずつ改良していくつもりだ。要望があれば遠慮なく言ってほしい」

「了解」

 武蔵はそう答えて小さな画面を覗き込んだ。誠一、遥、悠人の三人が後ろから取り囲むように集まり、澪もベッドの上で四つん這いになって首を伸ばす。そこには橘家付近の地図が表示され、そのほぼ中央に赤と緑の点が重なって打たれていた。

「緑がこのパソコンの位置で、赤がメルローズのいるところだ」

「両方ともウチだね」

 ああ、と篤史は素っ気なく肯定しながら、トラックパッドに指を滑らせて操作する。すると地図が滑らかに拡大され、緑の点は不動のまま、赤の点だけが斜め上に離れていった。ただし、地図上の位置としては変わっていないようだ。

「この上下で地図の縮尺を変えられる。さすがに屋敷の見取り図までは表示されないし、ここまで拡大するとわかりづらいと思うけど、赤の位置は俺の部屋のすぐ隣になっている。そこが今現在メルローズの寝かされている客室で、武蔵さんにも今日からそっちに移ってもらおうと……あ、メルローズと同部屋でいいですよね?」

「ああ、その方が助かる」

 客室は基本的に一人用だが、二人でも十分すぎるくらいの広さがあるので問題はない。彼女にとっては親戚である武蔵と一緒の方が安心できるだろうし、武蔵も彼女を目に見えるところに置いた方が安心できるだろう。

「発信機はメルローズの足首に取り付けてある。防水になってるから風呂もそのままで大丈夫だ。あと、このパソコンと発信機が100メートル以上離れたとき、あるいは発信機が探知できなくなったとき、このパソコンで警告音を鳴らすようにしてある。ただし、シャットダウン時やスリープ中は作動しない」

「わかった」

 武蔵は真剣に頷いた。

 そのとき、どこからか小さく振動するような音が聞こえた。ノートパソコンを覗き込んでいた誠一が体を起こすと、スーツの内ポケットから震える携帯電話を取り出し、背面ディスプレイにちらりと目を落とす。すぐにその場から離れながら、二つ折りの電話をさっと開いて耳に当てた。

「はい、南野です……もう目は覚ましていますし、特に心配はないと思います…………いえ、戻ります…………はい……申し訳ありません……はい、伝えておきます……」

 口調と内容から察するに、相手は一緒にこの屋敷へ来ている楠長官と溝端のどちらかだろう。最後に「失礼します」と言い置いて通話を切ると、背中を向けたまま小さく吐息を落とし、携帯電話を懐にしまいつつ澪たちの方へ戻ってきた。

「楠長官から。仕事はいいから澪についてろって言われた。あと澪にお大事にって」

「あ、うん……」

 楠長官が何を考えているのかわからず、澪は曖昧に目を伏せる。一応、今現在は美咲を巡って橘家とは敵対関係にあるはずだ。仕事に関しては非情な人だと思っていたが、本来は思いやりのある人なのだろうか。それとも何らかの計略や底意があるのだろうか。親切心を疑うようなことはしたくないのだが——。

「僕は剛三さんのところに戻るよ」

「あ、はい」

 悠人は軽く手を挙げると、振り向きもせず急ぎ足でそそくさと部屋を出ていった。楠長官の名前が出たことと関係しているのかわからないが、その後ろ姿からは若干の焦りが見てとれる。彼らの中に剛三を置いてきたことが心配になったのかもしれない。

 今度は、遥が体を起こした。

「僕も自分の部屋に戻る。宿題、まだ残ってるから」

「あっ、私、一ヶ月も学校休んじゃってる……」

「落ち着いたら進んだところまで教えてあげるよ」

「うん、ありがと」

 澪はベッドの上に座ったまま、部屋を出ていく彼をにっこりと手を振って見送った。遥が教えてくれるのは心強い。しかし、事件前の日常を早く取り戻したいと切望する一方で、それどころではないという矛盾した思いも抱えており、今はまだ学校に復帰する心持ちにはなれなかった。

「俺はメシ食ってくるかな」

 篤史はそう言って、欠伸をしながら大きく伸びをする。

「きのうの夜から作業に没頭してたせいで、寝てないし食ってないしヘロヘロだぜ。メシ食ったあとはしばらく部屋で寝るつもりだけど、武蔵さん、それのことで疑問があったらいつでも訊きにきてくれていいから」

「感謝する」

 武蔵はノートパソコンに片手を置いて振り返り、気怠そうに出ていく篤史にそう声を掛けた。部屋の扉が閉まると、パイプ椅子に座ってノートパソコンを膝に載せ、無言でトラックパッドに指を滑らせ始める。

「武蔵はまだ部屋に戻らないの?」

「おまえらを二人きりにするかよ」

 武蔵さえいなくなれば二人きりになれる。せっかくだから二人きりになりたい——その魂胆はすっかり見透かされていたようだ。せめてもう少し離れてくれればいいのだが、誠一のすぐ隣にいるので気になって仕方がない。澪は口をとがらせる。

「邪魔なんだけど」

「邪魔してるからな」

「はぁ?!」

 完全な嫌がらせだ。思わずカッと頭に血を上らせる澪を、誠一は苦笑しながら宥める。

「あんまり怒ってるとまた倒れるぞ。もう少し寝てた方がいいんじゃないか?」

「せっかく誠一と一緒にいられるのに、寝ちゃうなんてもったいないよ……」

「澪が元気になったら一日中でも付き合ってあげるよ」

 その言葉とともに、ベッドに寝かされて布団を掛けられるものの、ついあれこれ考えてしまって眠れそうもない。この二日間であまりに様々なことが起こりすぎて、まだ自分の中で消化しきれていないのだ。ベッドに横になったまま、顔だけをそろりと誠一の方に向ける。

「ねえ、誠一はお父さまに会ったりしてるの?」

「大地さんなら、ときどき取り調べしてるよ」

「元気そう?」

「ああ、橘財閥の人間だからそんなに悪い扱いはしていないはずだし、実際とても元気そうにしているよ。囚われの身なのにそんなことを感じさせないくらい明るくて、こっちが調子を狂わされるくらいだ」

「お父さまらしい」

 澪はくすっと笑みを零したあと、少し真面目な顔になる。

「あのね、今度、私たちの出生についていろいろ訊いてきてほしいんだけど」

「あー……彼の取り調べは二人きりってわけじゃないんだ。録画録音もされているから秘密の話はできそうにない。澪の頼みを聞いてやりたいのは山々だけど……ごめんな、役に立てなくて……」

「ううん、それなら仕方ないよ」

 そう言いながらも、心のどこかで無意識に安堵している自分がいた。覚悟をしていなかったわけではないが、臆する気持ちまではそう簡単に拭いきれない。しかし、いつかは訊かなければならないときが来るだろう。大地と美咲が隠していた真実と思惑を——。

「澪にとっての父親は、今でも橘大地さんなのか?」

「……わからない……どうすればいいのか……」

 気遣わしげに切り出された誠一の問いかけに、澪はそっと目を細めた。思い返してみると、大地にはほとんど父親らしいことをしてもらった覚えがない。それは、我が子と認められていなかった証左なのかもしれない。彼のことを父親として慕うのは迷惑でしかなかったのだろうか。そもそも、どうして父親として慕っていたのかもわからなくなってきた。

「あのな、澪」

 武蔵がノートパソコンから顔を上げ、静かに切り出した。

「良くも悪くも、家族ってのは簡単に切れるものじゃない。いくら絶縁して家族じゃないと思っても、心の奥深くでは呪いのように縛られている。それは血の繋がりによるものじゃなく、家族として過ごしてきた時間によるものだ。おまえは17年も橘大地を父親だと思ってきたんだからな。向こうがどうであれ、澪の方はそこから逃れられはしない。下手に拒絶しても歪みが生じるだけだ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「あるがまま受け入れるしかない」

「よくわからないよ……」

 天井を見つめたまま、澪は消え入りそうな声で答えた。武蔵は少し考えてから続ける。

「父親だと思いたい気持ちと思えない気持ち、どちらも否定するなってことだ」

「そう、だね……」

 彼の言いたいことは何となくわかったが、結局、大地を父親と思うべきかどうかは曖昧なままである。いつか決断を下さねばならないときが来るかもしれないのに。だが、どういう決断を下してもその心の有り様は必要だろう。澪は彼の言葉をそっと胸に刻み、目を閉じた。


「武蔵さん!」

 ようやくうとうとと眠りかけていたところで、バンッと扉が開き、篤史が勢いよく部屋に飛び込んできた。彼らしくない慌てぶりに面食らったものの、またしてもノックがなかったことに気付き、澪はベッドから体を起こしながら口をとがらせる。

「もうっ、ノックしてってあれほど……」

 そう言いかけたが、彼の様子を目にして息を飲んだ。

 どこからか全力で走ってきたらしく、額に大粒の汗を滲ませて荒い息を吐いているが、その顔は今にも倒れそうなくらい青ざめている。そのうえ、武蔵をまっすぐに見つめる眼差しには、ひどく思い詰めたものが感じられた。おもむろに彼の口から重い声が落とされる。

「メルローズが、どこにもいない」

「何っ?!」

 武蔵はとっさに手元のノートパソコンを覗き込む。

 だが、最初に見たときと変わることなく、赤と緑の点は中央にほぼ重なって表示されていた。その矛盾が何を意味するのか澪にはわからない。ただ、メルローズがいなくなったという事実だけでも、大変な事態であることを察するには十分だった。


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