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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
32/68

31. 血縁

 美咲との面会の時間が近づき、澪たちを乗せた車は米国大使館に向かっていた。

 運転しているのは車の所有者である悠人で、助手席には遥、そして後部座席には澪と武蔵が並んで座っている。当初、武蔵は澪だけを連れてバイクで行こうとしていたが、メルローズを連れ帰るなら車にすべきだという助言を受け、不満げながらも車を出してもらうことにしたのだ。それにともない、澪もライダースーツから高校の制服に着替えている。なるべく相手を警戒させない服装の方がいいという悠人の判断である。

 武蔵は懐から問題のカードを取り出し、目を落とした。

 彼によると、それは少年時代に所持していた学生証で、確かに一度なくしたことはあるが、どこでなくしたかは覚えていないとのことだ。顔写真の横には彼の本名であるアンソニーと読める文字が入っている。英語ではないが類似した言語のようで、文字もアルファベットに近く、その固有名詞だけは何となく判読できたのだ。このことからも、武蔵本人のものであることは間違いないだろう。

 剛三たちにはすでに報告済みである。しかし、その学生証がどういう経緯で美咲の手に渡ったのか、手がかりは何も残されておらず、彼らも困惑してただ首を捻るだけだった。もちろんキャリングケースの中身がすべてではないので、どこかに記録が存在するのかもしれないが、そうだとしても簡単に手に入れられるものではない。今のところ、頼りは武蔵の記憶だけである。

「本当に心当たりないわけ?」

「ないから困ってるんだろ」

 遥の冷ややかな追及に、武蔵は顔をしかめて苛ついたように言い返す。とぼけたり嘘をついたりしているのではなく、本当に覚えがないのだということは、ずっと彼の様子を見てきた澪にはよくわかっていた。

「もしかしたら、武蔵も何かの実験に使われてたんじゃない?」

「確かに、あの頃は派手に結界が壊れていたが……」

 真顔で学生証を見つめながら呟く武蔵に、澪は小首を傾げる。

「結界?」

「国を守るために張り巡らせている、目に見えない防御壁みたいなものだ。許可なく出入りが出来ないようになっていて、外部から存在を隠す役割も果たしている。だから、おまえたちの地図に俺らの国は載っていない。ただ、あの頃はちょうど事故があって結界が壊れていた。今はもう完全に修復しているが、数年前までは綻びが残っててな。橘美咲はそこから俺らの国を見つけ、子供たちを攫っていったんだろう」

 澪はじっと彼の横顔を見つめながら聞いていた。結界についてはぼんやりとしかわからなかったし、そんなことが可能なのか半信半疑だったが、話の腰を折るのも躊躇われて口を挟めなかった。

 武蔵は微かに眉を寄せる。

「だが、俺には橘美咲と会った記憶はないし、行方不明になったこともないし、そもそも子供たちの失踪事件とはまったく時期が違う」

 残された記録によると、美咲が子供たちを拉致していたのは10年前に始まり5年前に終わっている。10年前であればまったく時期が違うとはいえない気がして、澪は首を傾げた。

「その学生証、いつ頃のなの?」

「おまえらの生まれる前だぞ」

「え……??」

 あまり武蔵の年齢を意識したことはなかったが、何となく20代半ばくらいのように思っていた。しかし、それだと計算が合わない。うっすらと認識違いを感じながら、おそるおそる、けれど単刀直入に尋ねてみる。

「武蔵って、その、年いくつ?」

「31、2くらいだ」

「うそ、意外とおじさん……」

 思わず本音が口をついた。武蔵はムッとして横目で睨み、喧嘩腰で突っかかる。

「おまえの冴えない彼氏とそんなに変わらないだろう」

「冴えないとか言わないで。それに誠一はまだ20代だし」

「でも、体力や持久力は俺の方があるんじゃないか?」

「そ、そんなの知らないし!」

 何か含みのある口ぶりに、澪はカァッと顔を真っ赤にして誤魔化すように言い返す。その直後、急ブレーキが踏まれた。前のシートにぶつかりそうになり咄嗟に手をつく。とりたてて危険を感じるほどではなかったが、いつもの悠人らしからぬ荒い運転に、何かあったのではないかと少し心配になった。一方の武蔵は、運転席のヘッドレストを軽く叩いて文句をつける。

「おい、ちゃんと運転してくれよ」

「話しかけないでくれないか」

 悠人の声は刺々しく、それだけで十分に苛ついていることは伝わってきた。ハンドルを握る手にも明らかに無駄な力が入っている。ただ、何について苛ついているのかはよくわからない。武蔵との砕けた会話が気にくわなかったのだろうか。

「くだらないことばかり言ってないで、もう少し真面目に考えなよ」

 遥はやにわに後部座席に振り向いて眉を上げた。先ほどの憶測を裏付けるかのような言葉に、澪は思わず小さく肩をすくめて視線を落とす。しかし、武蔵の方はつゆほども悪びれる様子はなく、鷹揚に頭の後ろで手を組んでシートに身を預ける。

「考えてもわからないものは仕方ないだろう。どうせ今から橘美咲に会うんだ。ついでにこのことも追及してくるさ。俺らの国に来たときにたまたま拾った、くらいの話だといいんだけどな」

「そうだね……」

 たまたま拾った学生証を持ち帰って保存というのは、どう考えても無理のある話だが、そんなことくらい彼自身もわかっているだろう。それでも願わずにはいられない気持ちを、澪には敢えて否定することなど出来なかった。


 米国大使館に着くと、念入りにボディチェックをされてから応接室に通された。

 調べられることは事前に予想していたので、発信機や録音機の類、もちろん武器なども一切身につけていなかった。こんなことで、せっかく手に入れた機会を棒に振るわけにはいかない。まず会わないことには何も始まらないのだ。

 案内の女性が退出してからしばらく経つが、まだ誰も現れない。

 二人は長いソファに並んで座っていた。密かに様子をモニタされている可能性があるので、澪はおとなしく口をつぐんでいたが、武蔵はわかっているのかいないのか、澪の肩をぐいっと抱き寄せて耳元で囁く。

「そんなに緊張するな。俺がついてる」

「そういうボディガードっぽくないことはやめてよ」

「俺が護衛じゃないことは、とっくにバレてるぜ」

「え? どういうこと?」

 澪は大きく目を瞠りつつも小声で尋ねた。

 しかし、彼は悠然とソファにもたれかかって声を張る。

「忘れたのか? 俺は数日前まで三億円の賞金首だったんだ。おまえは見てないから状況が掴めてないかもしれないが、テレビや新聞に似顔絵が出まくってたし、日本にいて俺の顔を知らない人間の方が少ないくらいだ。実際、ここの受付の女も俺を見てハッとしてたしな」

「……それ、大丈夫なの?」

 思わず眉をひそめた澪を横目に、武蔵はククッと喉の奥で笑った。

「世間では誘拐じゃなく駆け落ちだと噂されてるみたいだぜ。橘会長が二人の仲を許したから懸賞金を撤回したんだろうってな。警察の動きが鈍かったことも噂に拍車をかけているらしい。ま、だから俺ら二人が一緒にいてもなんら不思議はないってことだ」

 事実から大きく乖離したあまりに突拍子もない話に、澪は唖然とした。噂にしてもひどすぎる。彼が思いつきで捏造しているのではないかと少し疑いつつ、眉を寄せてじとりと睨む。

「どうして、私が武蔵の恋人みたいになってるのよ」

「それだけお似合いに見えたってことだろう。週刊誌にはメロドラマみたいな妄想記事が山ほど書かれてたぞ。まあ、結果的に恋人同然の関係になったわけだけどな」

「なってないし」

 それについてはキッパリと断ったはずである。恋人同然というのが体の関係のみを指しているなら、間違いといえなくもないが、それも昨晩きりのことで継続するつもりはない。澪は表情を硬くしたが、逆に武蔵は口もとを上げてくすりと笑った。

「ずいぶん意地っ張りだな。ベッドの中ではあんなに素直なのに」

「……あの煎餅布団のいったいどこがベッドなわけ?」

「よし、じゃあ今度はきちんとベッドでしよう。約束する」

「ちょっ、勝手に約束しないで! 今度なんて絶対にないんだから」

 自分がこれほど顔を火照らせているというのに、武蔵はいたって余裕なのが悔しい。澪は横目で睨んで口をとがらせる。それでも彼は軽く笑って受け止めていたが、急に真剣な顔になると、手を伸ばして澪の頭をグイッと引き寄せた。至近距離には彼の真顔がある。

「ちょっと、こんなところで……」

 そう言って彼を押し返そうとするものの、その手にはほとんど力が入っていなかった。抗議の言葉ごと唇を奪われる。そのうえ舌までも情熱的に絡められた。のぼせたように頭の中が霞みがかってくる。どうして今こんなことをするのだろうか。いつ誰が来るかもわからないのに——。

 ガチャリ、と扉の開く音が聞こえた。

 澪は我にかえり、彼の胸を必死にこぶしで叩いて訴えるが、頭を抱え込んだまま放してくれない。その間にも、二つの足音は躊躇いなくこちらに向かい、そろって正面のソファに腰を下ろす気配がした。

「待たせたわね」

 その声で、ようやく塞がれていた唇を解放された。ハァッと胸いっぱいに空気を吸い込むと、上気した顔で武蔵を思いきり睨めつける。そこに浮かぶ意味ありげな微笑が腹立たしい。突っかかりたくなる衝動をどうにか鎮めると、濡れた口もとを拭いながら正面に向き直る。

 そこには、美咲と石川がいた。

 美咲は膝丈の淡いワンピースを身につけて、優美で凛とした佇まいを見せており、石川はくたびれたスーツに白衣を羽織り、穏やかな笑みを浮かべている。石川までいるとは思わず少し驚いたが、今までと何ら変わりのない二人の姿に、澪の涙腺はじわりと緩む。

「お母さま……」

「久しぶりね。元気だった?」

「はい、お母さまたちは?」

「この通り元気にやってるわ」

 まるで何事もなかったかのように挨拶が交わされる。目の前にいる二人があんな非道な実験をしたなど、澪にはとても信じられない気持ちだった。今までにしてもほとんど実感はなかったが、直接会って言葉を交わすと、ますますそれが希薄になっていくように感じる。しかし、現実から逃げてばかりはいられない。

「前に言っていた内緒の彼氏って、その人なの?」

「えっ?」

 澪が本題を切り出すより先に、美咲が尋ねてきた。一瞬、何を言っているのかわからなかったが、美咲に連れられて研究所に向かうときに、好きな人について話したことを思い出した。もちろん好きな人というのは誠一である。刑事だとは知られたくなかったので、素性については内緒にさせてもらったのだ。

「それは別の人! 武蔵は全然そういうのじゃないから」

「これからそうなる予定だけどな。よろしくお母さま」

「ちょっと!」

 武蔵は勝手なことばかり言うと、ソファの背に腕を掛けてもたれかかり、ひどく挑発的な笑みを美咲に向けた。それで復讐しているつもりなのだろうか——彼の思考が理解できず、澪は困惑ぎみに横目を流して眉をひそめる。しかし、美咲は少しも狼狽えた様子を見せることなく、若干呆れたような視線を返しながら口を開いた。

「あなたたち、交際報告に来たんじゃないでしょう?」

「当たり前です! そうじゃなくて……えっと……」

 澪は小さく息をついて気持ちを落ち着けると、丁寧に言葉を紡いでいく。

「お母さま、どうしてあんなひどい実験をしたの? 動物実験のつもりだったの? 私たちと少し違うかもしれないけど、私たちと同じように思考も感情もある人間だよ? それも、何の罪もないあんな小さな子供たちを……」

「言い訳はしないわ。私たちがひどいことをしたのは確かよ」

 美咲は背筋を伸ばしたまま淀みなく答える。その眼差しには何の翳りも見られなかった。進むべき道を固めているかのように、覚悟を決めているかのように、一片の迷いもないかのように——。澪の目には涙が滲み、視界は大きくぼやけてぐにゃりと揺らめいた。

「わかってるんだったらやめてよ! 一緒に帰ろうよ……」

「もう、引き返せないところまで来てしまったのよ」

「そんなことない!」

 声を震わせて訴えるが、美咲はただ曖昧に薄く微笑むだけだった。今度は縋るように石川の方に身を乗り出す。

「石川さん、お母さまを止めて!」

「澪ちゃん、申し訳ないけど僕にはできないよ。僕にとって美咲さんは絶対だ。何があっても美咲さんについていく、美咲さんを守っていくって、もうずっと昔からそう決めているから。澪ちゃんが生まれるよりも前からね」

 穏やかな彼に似つかわしくない、情熱的な決意。

 澪は返す言葉が見つからず唇を噛んだ。

「……お父さまはどうするんですか」

「私がどうこうできるものではないわ」

 美咲は顔色ひとつ変えずに答えた。まるきり他人事のような態度に、澪はカッと頭に血を上らせる。

「警察に捕まっているのは知ってるんですね? それでも見捨ててアメリカに行くんですか? 今でも二人は赤い糸で結ばれてると思っていたのに、愛し合ってると信じていたのに……石川さんさえいれば、お父さまは要らないっていうの?!」

「いつか、一緒に暮らせるといいわね」

 はぐらかしているとしか思えない的外れな返事は、何も答えないという美咲の意思なのだろう。まともに議論することさえできないこの状況に、澪は泣きたくなるが、零れそうになった涙を堪えてキュッと唇を引き結んだ。


「橘美咲、俺から二つ要求がある」

「何かしら、護衛の武蔵さん」

 武蔵が表情を引き締めて真剣に切り出すと、美咲は含みのある物言いで揶揄した。それでも彼は怯むことなく毅然と見据えて言う。

「まず一つ目。おまえたちが実験体として使っていた少女、メルローズを引き渡してほしい。あの子は俺の姪だ。あの子のためにも、姉さんのためにも、俺自身のためにも、必ず無事に助けなければならないし、どんな手段を使っても助けるつもりでいる」

「なるほど。それで私たちのまわりをうろついていたのね。ネットで接触してきたのもあなたかしら?」

「そうだ。おまえらは俺らの国の子供たちを何十人も殺してきた。とても許せるものじゃない。だが、メルローズさえおとなしく引き渡してくれれば、おまえたちに危害は加えないと約束する。澪ともそう約束した」

「わかりました。あなたにお返しします」

 即座に返ってきたその答えに、武蔵も澪も目を丸くして顔を見合わせる。すぐに承諾してもらえるとは夢にも思わなかった。彼女にとってメルローズは現存する唯一の実験体のはずだ。それなのに、なぜ——。

 美咲はくすりと笑う。

「もともとそのつもりだったのよ。あの子は実験体として不適格なことが判明してね。手元に置いておく意味はなくなったわ。だから、お父さまたちがここを突き止めてやって来たら、面倒をみてくれるようお願いしようと決めていたの。こちらの担当者にも許可はもらってあるから安心して」

「じゃあ、どうして連れて行ったんです?」

「あの場に放置していたら公安に連れて行かれたでしょうね。そうなれば、間違いなく無策無謀な実験で殺されていたわ。だから、信頼できる人に確実に託すためにこうしたのよ。あの子にはそれなりに情が移っているから。でも、あなたたちがなかなか来てくれなくて、いい加減しびれがきれそうだったわよ」

 美咲はそう言って悪戯っぽく微笑む。

 しかし、武蔵は難しい顔で考え込んでいた。

「おまえたちの実験は、魔導…いや、生体高エネルギーを留める器を作るためのものだ。つまり、メルローズの身体そのものを器にするってことだろう? いったいどういう理由で不適格と判断したんだ? 俺ほどじゃないにしても、あの子は——」

「あら、ご不満?」

 不遜なまでに挑発的な美咲の態度に、武蔵はムッとして顔をしかめる。

「せめて納得のいく説明くらいよこせよ」

「そうしたいのは山々だけど、研究については何も話さないよう釘を刺されているの。私が話そうとすれば、あなたたちは即刻ここを追い出されるわ。メルローズも取り戻せなくなるわよ」

 こう言われては引き下がるより他にないだろう。その話が本当かどうかはわからないが、万が一そうなっては後悔してもしきれない。何よりも優先すべきはメルローズの救出なのだ。わかった、と武蔵が悔しげに声を落とすと、美咲はにっこりと満足げに頷く。

「石川さん、連れてきて」

 命じられるまま、石川は丁寧に一礼して応接室を出て行った。連れてくるのはもちろんメルローズだろう。さすがの武蔵も少し緊張している様子で、表情をこわばらせながら、膝の上で祈るように両手を組み合わせた。それでも、美咲はお構いなしに淡々と話を進めていく。

「もう一つの要求は何かしら」

「もう一つは……、これだ」

 武蔵はブルゾンの内ポケットから学生証を取り出し、掲げて見せた。

 ああ、と美咲は気の抜けた声を漏らす。

「どうしておまえがこれを持っていた。俺の学生証だぞ」

「えっ……、それあなたなの?」

「見た目が随分違うと言いたいんだろうが、髪は黒く染めていて瞳は黒のカラコンだ。この日本で金髪碧眼は目立つからな。変装していることは澪も知っている。俺の本当の名前がアンソニーであることも、この学生証を見つける前から澪には言ってあった」

 武蔵の話を受け、澪はこくりと頷いて肯定を伝える。

 美咲は大きく目を見開いて口もとに手を添えると、初めは小さく、やがて大きく肩を震わせながら笑い出した。そして、困惑を隠せない澪と武蔵に向き直り、この上なく愉快そうに声を弾ませる。

「本当になんて偶然なのかしら」

「自分ひとりでわかってないで俺にも教えろ!」

「言ったでしょう? 研究については話せないって」

「俺に、何かしたのか?」

 何か得体の知れない実験をされていたのではないか——信じたくなかったであろうその推測が、にわかに現実味を帯びてきた。武蔵の額にはじわりと汗が滲んでいる。恐怖を感じるのも無理はない。実際に彼女の実験で何人もの人間が殺められているのだ。

 美咲は真顔になると、澪を見つめて強い口調で言う。

「澪、その男だけはやめなさい」

「え……と……どうして?」

 もともと武蔵とどうこうなるつもりはなかったが、なぜ急にそんなことを言い出したのか気に掛かり、とりあえず遠慮がちに理由を尋ねてみた。しかし、美咲は素知らぬ顔をして答えようとせず、再び武蔵に目を向けて冷たく言い放つ。

「あなたも随分と澪にご執心なようだけど、諦めてちょうだい。残念ながら許されないことなのよ」

 武蔵はムッとして眉を寄せる。

「別に、おまえに許してもらおうとは思っていない」

「許さないのは私じゃないわ。言うなれば血かしら」

「……それは、俺の血に何かしたってことか?」

「研究については話せないって何度言えばわかるの」

 思わせぶりなことばかり口にして、核心については素気なく撥ねつける。おそらく、いくら問い詰めても答えてはくれないだろう。しかし、何かしらの実験を施したことは、この返答で示されたも同然である。武蔵は頬に一筋の汗を伝わせながら、忌々しげに歯噛みして目を伏せた。


 コンコン——。

 扉が軽くノックされ、すぐに開いた。

 石川が小さな女の子の手を引いて入ってくる。その子は、確かに地下室で見たあの幼い少女だった。薄地の白いワンピース一枚きりだったあのときとは違い、今日は白いワンピースにボレロを合わせ、レースの可愛らしい靴下に、つま先の丸いストラップ留めの革靴という、良家のお嬢様のような格好をしていた。彼女の赤みがかった長い髪にもよく似合っている。

「ミサキっ!」

 少女はパッと顔を輝かせてトタトタと駆け出し、ソファに座る美咲に飛び込んだ。美咲も笑顔で抱き止める。それは、まるで幼い娘が母親に甘えているかのような光景だった。思い返してみれば、地下室でも縋るように美咲の名を何度も呼んでいた。もしかすると、少女にとって美咲は母親同然の存在なのかもしれない。

 武蔵は呆然とその光景を見つめていた。どういうことだと譫言のように呟いたあと、何とか気を取り直し、前屈みでメルローズに何かを話しかける。その言葉は彼の母国語なのだろう。しかし、メルローズは鳶色の瞳をぱちくりさせ、不思議そうな顔をするだけだった。

「この子、お国の言葉は忘れちゃったみたいなの。無理もないわよね。連れてきたときはまだ3歳だったんだから。でも、日本語ならある程度は理解できるわよ」

「…………」

 罪悪感の欠片もない美咲の物言いに、武蔵は敵意を露わに睨みつける。しかし、すぐに目を伏せて気持ちを落ち着けると、カラーコンタクトを外して立ち上がり、美咲の傍らまで進んでいった。その膝先でしゃがんでメルローズと目線を合わせる。ビクリとして美咲にしがみつく小さな少女に、武蔵は鮮やかな青の瞳を向けて微笑みかけた。

「メルローズ、俺はアンソニーだ。メルローズのお母さんの弟の……覚えてるか?」

 しかし、彼女は困惑したように顔を曇らせ、ゆっくりと小首を傾げた。物言いたげな視線は頭部に向けられている。そのことに気付いた武蔵は、小さく苦笑して自分の黒髪に左手を差し入れた。

「これは黒く染めてるんだ。けど、顔や声は一緒だろう?」

「……おじ、さま?」

 メルローズはおずおずと言う。武蔵は少女の頭に大きな手をのせた。

「大きくなったな。無事でよかった」

「おじさまっ!!」

 メルローズは灰赤色の髪をなびかせて広い胸に飛び込んだ。縋りつく小さな体を抱き上げた武蔵は、あやすように背中を優しくぽんぽんと叩く。その表情からは大きな安堵が窺えた。ソファに座ったまま見守っていた澪も、実験体の少女を取り戻せたことに、血縁の二人が無事再会できたことに、ようやくほっとして胸を撫で下ろす。

「俺と一緒に行こう」

「…………?」

 武蔵は真摯にメルローズを見つめて言うが、彼女はきょとんとするだけだった。美咲や石川から何も聞いていないのだろう。この場で事情を説明するのは難しいと思ったのか、安心させるように柔らかく微笑むと、何も言わずに小さな体をひょいと抱き上げた。そのままくるりと振り返って言う。

「澪、帰るぞ」

「えっ?」

 澪は目をぱちくりさせ、慌ててローテーブルに手をつき前のめりに立ち上がる。

「ちょっと待って! もう少しお母さまと話をさせて」

「残念ながら時間切れよ。今すぐ家に帰りなさい」

 武蔵が答えるより先に美咲がそう言いつける。いったい何が時間切れなのか意味がわからない。しかし、有無を言わさぬ毅然とした口調、強い意志を感じさせる厳しい表情、形容しがたい気迫に圧倒されてしまい、何も言い返すことはできなかった。

「ありがとう……そして、ごめんなさい。みんなにもそう伝えておいて」

 美咲は柔らかく微笑んで付言する。

 澪の胸中には相反する様々な感情がせめぎ合っていた。彼女のささやかな願いに頷くことさえ躊躇われる。口を引き結んで立ち尽くしていると、メルローズを抱えた武蔵が肩を叩いて促した。澪は顔を曇らせながらも小さく首肯する。

「元気でね、メルローズ」

 美咲は連れられていく少女に別れの言葉を贈る。しかし、まるで事態を把握していないその少女に、答えを求める純粋な眼差しを向けられると、困ったような微妙な面持ちになり言い添える。

「私はここに残るの。あなたは叔父さんと一緒に行きなさい」

「いや……ミサキ……! ミサキっ!!」

 メルローズは大きく身を乗り出し、美咲に手を伸ばす。しかし、武蔵はその体を抱きしめて離さなかった。苦々しげに顔をしかめ、急いでその場から立ち去ろうとした、そのとき——。

「…………?!」

 メルローズの体が急にまばゆい光を放ち始めた。直後、武蔵はバチッと大きく弾き飛ばされ、絨毯の床に受け身を取りながら倒れ込む。彼の腕から離れて一人になったメルローズは、白く発光したまま絨毯の上でうずくまっていた。

「メルローズ、落ち着け!!」

 武蔵は臆することなく彼女に駆け寄り、白い光を纏った小さな体を抱き込んだ。彼の体も同じように白く発光し始める。その光が、メルローズの光を抑え込んでいるように見えた。やがてどちらの光も緩やかに収まっていく。何が起こったのかはよくわからないが、それでも危機が去ったことを感じ、澪は我知らずホッと安堵の吐息を落とした。しかし——。

「逃げて!」

 突如、美咲がソファから立ち上がってそう叫んだ。同時に、背後から二人の屈強な男性が飛び込んできた。騙したな、などと英語で怒声を上げながら、一人は美咲と石川を取り押さえ、もう一人は武蔵に照準を合わせて拳銃を構える。

 武蔵は片手を伸ばし、自身の前に透明な光の壁のようなものを作り出した。

 拳銃を構えた男は大きく目を見開くが、すぐ我にかえり、武蔵の足もとに狙いを定めて発砲した。しかし、弾丸はすべて光の壁に阻まれる。彼は拳銃を下ろして大声で何かを叫んだあと、トランシーバーで捲し立てるように指示を出す。英語なのですべては聞き取れなかったが、どうやらメルローズを奪取するための応援要請らしい。

「澪、行くぞ!」

「え、うん!」

 隅にいる美咲と石川をちらりと一瞥したが、二人とも上腕を掴まれているだけで、それ以上の手荒な真似はされていないようだ。心配ではあるものの留まってはいられない。メルローズを横抱きにした武蔵とともに、澪は扉を開けて応接室から飛び出した。しかし、すでに両側の廊下から複数の追っ手がこちらに向かっていた。正面には嵌め殺しのガラス窓があるだけである。

「ど、どうしよう!」

「……クッ」

 武蔵は奥歯を食いしばり、汗を滴らせながらあたりを見まわした。そうしているうちにも追っ手は迫ってくる。どうすればいいか澪にはわからない。怪盗ファントムで大勢の警備員や警察官を相手にしてきたが、今回は勝手が違い、こちらが無抵抗でも容赦なく拳銃を向けてくるのだ。

「武蔵……?」

 メルローズを抱えたまま前方に突き出した彼の手に、直視できないほどの白くまばゆい光が集まった。はっ! という掛け声とともに放射すると、前方のガラス窓と壁が砕け散り、眼前が大きくひらけて長い黒髪が舞い上がった。

「先に飛べ!」

 武蔵は澪の腕を掴んで促した。

 正面には薄い雲のかかった青空が広がっている。ここは三階だ。しかし飛び降りられない高さではない。澪は大きく空いた風穴から下を覗き、着地点を確認すると、助走をつけて踏みきり外へと飛び出した。バン、バン、バン、と背後で何発か発砲する音が聞こえる。空中で身をすくませるが体には当たらなかった。

 澪は見定めた歩道近くの芝生に着地して振り返ると、武蔵もメルローズを抱えて飛び降りていた。澪からさほど離れていないところに着地する。が、メルローズをそっと地面に下ろすと、そのまま崩れるように片膝をついてうずくまった。

「武蔵……?」

 怪訝に思って覗き込み、ギョッとする。

 胸元を押さえた彼の手は赤く染まっていた。ブルゾンが濃色のためわかりにくいが、おそらく銃撃を受けて出血したのだろう。よく見ると、メルローズの白いワンピースやボレロも一部が赤く染まっていた。

「メルローズを連れて逃げてくれ……」

「ダメ! 武蔵も一緒に!!」

「俺は、必ず……あとから、行く……」

 たまたま居合わせた人たちが遠巻きに見ている。目の前で繰り広げられる映画のような光景に、ただただ呆然としているようだ。それでも、そのうちの何人かは我にかえり、携帯電話で警察や救急に連絡し始めた。

 ビルから複数の男たちが駆けてくる。

 どうしよう、どうしたらいいの——澪は半ばパニックになりながらも、血に濡れた武蔵の手を握りしめ、必死に思考を巡らせようとする。そのとき、悠人の車が勢いよく歩道脇に滑り込んできた。

「乗れ!!」

 開いた運転席の窓から悠人が叫ぶ。

 澪は車に駆けつけて後部座席のドアを開け放つと、メルローズを乗せ、武蔵を押し込み、最後に自分が飛び乗ってドアを閉めた。アスファルトに血痕を残したまま、車は振り切るような急発進で走り出す。

 武蔵の息はだいぶ荒くなっていた。

 澪は急いで制服のジャケットを脱ぐと、傷口と思しきところにギュッと押し当てる。しかし、そのジャケットもみるみる血まみれになり、押さえる手までもが赤く染まっていく。生まれて初めて目にする惨状に、血の匂いと感触に、くらりと目眩がして少し気が遠くなった。それでも何とか意識を保つ。

 お願い、死なないで——。

 今は他に為すすべもなく、ただ必死に祈り続けることしかできない。その頬には知らず涙が伝っていた。


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