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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編

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31/68

30. 過去との邂逅

「そろそろ起きる時間だぞ」

「んー……眠い……」

 大きな手でペチペチと頬を叩かれるが、それでも目は覚めない。夢うつつで武蔵の声を聞きながら、澪はごそごそと掛け布団に顔半分もぐり込んだ。自分の体温であたたまった布団が心地よく、ますます夢の世界に引きずり込まれそうになる。

「家に帰りたくないのか?」

「帰りたい……けど……」

 まどろみの中、その気配から逃れようと無意識に背を向ける。

 頭上で小さく溜息が落とされた。

「ま、仕方ないか」

 そんなあきらめたような独り言が聞こえたかと思うと、バッと掛け布団がめくられ、猫のように丸まっていた体がひょいと抱き上げられる。澪は驚いて目を開けた。そして、自分が一糸まとわぬ姿であることに気付き、カァッとゆでだこのように顔を真っ赤にする。

「や、ちょっと……!」

「寝かせてやりたいけど、そうもいかないからな」

「わかったから! もう起きたから下ろしてっ!!」

 まるで駄々っ子のように、自分を抱える腕の中でジタバタしながら喚き立てた。武蔵にはさんざん裸を見られているせいか、わりと平気になっていたはずだが、今朝はどうしてだかやたらと羞恥を覚えてしまう。きのうはあんなことまでしたのに——そう考えた瞬間、思わず脳裏にその情景がよみがえり、ますます動揺して顔が熱くなっていく。

 武蔵は見透したようにニッと口の端を上げると、澪を横抱きにしたまま、スタスタと軽い足取りで浴室へ向かっていった。


 やっぱり、まだ眠い——。

 シャワーを浴びていったんは目が覚めたかと思ったが、落ち着いたらまたしても睡魔が襲ってきた。力が抜けて滑り落としそうになった箸を持ち直し、形の良い卵焼きをぼんやりと口に運ぶ。噛みしめると、ほっとするような優しい甘さがじわりと広がった。

 結局、武蔵に解放されたのは朝方だった。最後は意識をなくしたのか眠気に負けたのかも覚えてなく、時計を見る余裕もなかったが、そのころ夜が明けようとしていたのは感覚的に間違いない。おそらく一時間も寝ていないだろう。当然ながら酷い睡眠不足であり、おまけに体もだるくてたまらない。朝まで眠らせないなどというキザな物の喩えを、本当に実践する人がいるとは夢にも思わなかった。

「武蔵は……その、眠くないわけ?」

「俺は二、三日寝なくても平気だからな」

 そんな自分本位な基準に付き合わされては甚だ迷惑である。今日が大事な日であることくらい、わかっていたはずなのに——澪はじとりと恨みがましい視線を送るが、彼はお構いなしに箸を進めていた。

「元気だよね」

「おかげさまで」

 涼しい顔で嫌味を受け流す彼に、ますますムッとして口をとがらせる。

「きのうは泣きついてきたのに」

「会えなくなるわけじゃないんだろう?」

「……会うだけだよ」

 澪は警戒心を露わにして予防線を張った。しかし、武蔵は悪びれずもせずに声を弾ませる。

「冷静に考えてみたら、彼氏がいるからといって諦める道理はないんだよな。脈無しってわけじゃなさそうだし、体の相性もバッチリだったし、俺になびく可能性は十分あるってことだ。落ち込んでなんかいられるかよ」

 そのあけすけな物言いに、澪は思いきり頬を紅潮させて狼狽えた。

「あ……あの……きのうのことは、みんなには言わないで……」

「きのうのことって?」

 その声にはニヤニヤした笑いが含まれていた。とぼけていることは明白である。澪をからかって面白がっているのだろうか。それとも、まさか——。

「おっ、脅す気……?」

「そんなことするかよ。おまえを無理やり縛り付けたところで、嫌われたら元も子もないからな。それに……おまえにとっては単に流されただけのことかもしれないが、俺にとっては一生忘れるつもりのない大切な思い出だ。それを自分で穢すような真似はしない」

 だから、あんなに名前を呼ばせたわけね——。

 澪は恥ずかしくなって目を逸らしつつ、胸の内で密かに毒づく。二人で抱き合っているさなか、目を開けて顔を見ること、そして名前を呼ぶことを、しつこいくらいに何度も要求された。思い出のためと言われれば、合点がいかなくもない。

「あ、でも武蔵って本名じゃないよね」

 頭で考えたことが独り言となって口をついた。その話の飛躍に、武蔵は少し不思議そうな顔を見せたが、すぐに澪のたどった思考を理解したようだ。柔らかく表情を緩めると、卵焼きにたっぷりの大根おろしをのせながら言う。

「おまえにとっての俺は武蔵だから、それでいいんだよ」

 判然としない言い分に、澪はどこかむず痒いものを感じながら小首を傾げる。

「そういうもの?」

「そういうもの」

 武蔵はさも当然のように断定して卵焼きを口に運んだ。価値観の相違だろうか。話を聞いても首を捻るだけで納得はいかなかったが、だからといっていつまでも固執していても仕方がない。武蔵自身がそれで良いというのであれば、澪が否定しても意味はないし、むしろ余計なお世話でしかないだろう。

「じゃあ、本当の名前はなんていうの?」

 気を取り直すように、今度は明るい声音でそう尋ねる。

「それ聞いてどうするんだよ」

「ただ知りたいだけ。ね、教えてよ」

「別に知らなくてもいいだろう」

 何の不都合があるのか武蔵は冷ややかに突き放した。だが、そうなると余計に知りたくなるのが人間の性である。もちろん澪も例外でなく、何がなんでも聞き出さなければと身を乗り出した。

「で、何??」

「…………」

 彼は眉をしかめ、思いきり渋い顔になって澪を睨めつけた。それでも無邪気にニコニコと返答を待っていると、やがて、観念したようにぞんざいな溜息をついて答えを返す。

「アンソニー」

「へぇ、見かけによらずメルヘンな名前なのね」

「おい、メルヘンって……何だよそれ……」

 メルヘンという表現は適当でなかったかもしれないが、澪の中では、少女漫画に出てくる王子様のような人物が思い浮かんだ。豪勢なバラを背負ってキラキラと輝いているような——もちろん、それが偏見に満ちた想像であることは承知しているのだが。

「もしかして、結構いいところのお坊ちゃま?」

「まあ、当たらずとも遠からずってところだな」

 武蔵はさらりと答える。その発言が本当なのか確かめる術はないが、こんなことで嘘をついても仕方ないだろう。意外な事実が明らかになるにつれ、これまで考えもしなかった彼の生い立ちについて興味が湧いてきた。思わず、前のめりになって目を輝かせる。

「ね、武蔵の小さい頃ってどんなだったの?」

「俺の恋人になるんだったら教えてやるよ」

「えー……イジワル……」

 決して呑むことの出来ない条件に意気消沈し、子供のように唇をとがらせた。

「そんなこと言うなよ。服だって用意してやったのに」

 武蔵はそう言って小さく笑いながら顎をしゃくる。何だろうと不思議に思いながらも、澪は示された方向を素直に視線で辿った。すると、カーテンレールに掛けられた衣装カバーつきのハンガーが目についた。わぁ、と顔を輝かせて感嘆の声を上げると、箸を置いて弾むように駆け出していく。

「着替えるのは食べ終わってからにしろよ」

「うん、わかってる!」

 ここに連れてこられて以降、ずっと半袖Tシャツとジャージばかりだったので、どういう服を用意してくれたのか想像もつかない。胸を躍らせながら、衣装カバーのファスナーを下ろして中を覗き込んだ。

 まず目についたのは、小さめのTシャツと黒革のライダースーツだった。運転もできないのに格好だけ一人前というのは面映ゆいが、武蔵のバイクに乗って行くのであれば、実際的にスカートよりも適切なのは確かだろう。澪個人としても一度くらいは着てみたい服である。

 さらに内側にはブラジャーとショーツも吊してあった。肌触りのなめらかな柔らかい白地に、繊細なレースとリボンがあしらわれた、可愛らしくて清潔感のあるデザインである。今までのハーフタンクトップや安物のショーツとは大違いだ。ふと疑問を感じてブラジャーのタグを確認すると、アンダーもカップも自分のサイズに間違いなかった。

「どうかしたのか?」

「サイズ……」

「ああ、だいたい合ってるはずだぜ」

 タグを見つめたままぽつりと呟いた澪に、武蔵は事も無げに答える。サイズを教えたことはなく、測られた覚えもないのに、どうしてぴったり合っているのだろうか。何とも形容しがたい微妙な気持ちが湧き上がるが、武蔵を追及する気にはなれず、ただ衣装カバーを掴んで力ない笑いを浮かべていた。


「結構歩くんだな」

「もうすぐだよ」

 剛三の指示で、澪と武蔵はいくつかある隠し通路のひとつから橘の屋敷へ向かっている。橘所有の地下駐車場まではバイクで乗り付けられるが、そこの隠し扉より先は徒歩でしか行くことができないのだ。隠し通路といえば聞こえはいいが、人ひとりがどうにか通れるくらいの舗装もされていない地下道である。ぽつぽつと薄明かりはついているものの、足元を照らすだけの光量はない。

 澪は怪盗ファントムの仕事で使っているので、この狭く薄暗い地下道にもだいぶ慣れていた。しかし、武蔵は今日が初めてである。何度となく後ろを振り返って確認したが、腰を屈めて歩きづらそうではあるものの、遅れることなく澪についてきていた。もっとも、遅れたところでほぼ一本道なので迷いはしないだろう。

 やがて突き当たりに到着し、古めかしい重厚な扉を開けて中に入った。

 そこは調度品も何もないがらんとした小部屋である。床も壁も白一色で、ずっと薄暗い地下道を歩いてきた目には眩しいくらいだ。正面奥には収納式の階段が天井から下ろされている。そして、扉のすぐそばには執事の櫻井が控えていた。彼はいつものように恭しく一礼して澪を出迎える。

「お帰りなさいませ、お嬢さま……ご無事で何よりです」

「ありがとう。心配かけてごめんなさい」

 澪が小さく肩をすくめてそう言うと、櫻井は無言でもういちど頭を下げた。ただでさえ並外れて心配性な彼のことだ。どれほど胸を痛めていたかは想像に難くない。武蔵のことは敢えて紹介していないが、澪を誘拐した犯人だとは認識しているだろう。それでも一切失礼な態度を取ることなく、ただ静かに頭を下げて迎え入れた。武蔵も軽く会釈を返し、ぐるりと見まわしながら澪のあとについて入る。

「へぇ、大層なもの作ってるんだな」

「ここから家に上がれるの」

 澪は階段を指し示してそう説明し、先導するように軽い足取りで駆け上がっていく。すると——。

「澪!」

「誠一?!」

 階段を上がった澪を待ち構えていたのは、恋人の誠一だった。カジュアルなジャケットにジーンズという休日の格好である。なぜこの家の住人でない彼がいるのか不思議だったが、それより今は会えて嬉しい気持ちの方が大きく、パァッと大きく顔を輝かせて駆け寄ろうとした。が、そこへ素早く武蔵が割って入り、澪を背中に隠すようにして誠一と対峙する。カラーコンタクトを嵌めた黒い瞳が光った。

「今はまだ俺のものだ」

「…………」

 誠一の表情が険しくなった。視線だけを動かして上から下まで武蔵を観察すると、彼にしてはめずらしく敵意を剥き出しにして睨めつける。それに応じるかのように、武蔵も凄みのある冷たい眼差しで睨み返した。どちらも引き下がろうとしない。二人の間の空気は、息が詰まりそうなほど緊迫していた。

「あ……あの……」

 澪は両手を合わせつつ、武蔵の背後からおずおずと顔を覗かせた。

「誠一、えっと、せっかく来てくれたのにごめんね。ある条件が達成されるまでは、この人の側につく、味方でいるって約束してるの。あと少しで解決すると思うから、それまで待っててくれる?」

「そう……か……」

 誠一は戸惑いながらも一応は理解を示してくれた。曖昧な説明しかできなくて心苦しいが、彼がどこまで事情を把握しているか不明なため、あまり詳しく話すわけにはいかないのだ。

「誠一はどうしてここにいるの?」

「ああ、遥に連絡をもらったんだ」

「遥に?」

 澪のためにわざわざ呼んでくれたのだろうか。しかし、家族と櫻井以外には秘密のはずの、地下への階段まで教えるなど、剛三に了承を取っているのか心配になる。ここは怪盗ファントムの仕事でも使うもので、刑事である彼に存在を知られてしまっては——。

「積もる話はあとでしてよ。みんな待ってる」

「遥!」

 大階段の方から顔を覗かせた双子の兄に、澪はパッと笑顔を見せた。

「心配かけてごめんね」

「……無事で良かった」

 遥はそれだけ言うと、すぐに踵を返して大階段を上っていく。久しぶりの再会とは思えない無愛想な態度だが、それがかえって彼らしく、澪としてはようやく帰ってきたのだと実感できた。その姿を見送りながら、胸元のファスナーを少し下ろして武蔵に声を掛ける。

「私たちも行こう?」

 話は剛三の書斎で聞くことになっている。すでにみんなが待っているのであれば、いつまでもここで立ち話をしているわけにはいかない。だが、武蔵の返事はなかった。どうしたのかと小首を傾げて覗き込むと、突然、彼は見せつけるように澪の手を引いて歩き出した。黒髪が大きくなびく。青ざめて立ち尽くす誠一の前をそのまま横切ったが、目を向けるだけで声を掛けることは出来なかった。


 書斎の隅にある打ち合わせスペースには、カーテン越しに柔らかい陽光が射し込んでいた。

 席に着いているのは七人。現在の橘家住人である剛三、悠人、篤史、遥の四人、呼ばれてやって来た武蔵、澪の二人、加えてなぜか誠一までもがいる。研究所での人体実験や怪盗ファントムについては、彼にも一通りの事情を説明してあるということだ。その犯罪行為の数々を彼はどう思っているのか——澪は考えるだけで血の気が引いたが、今はとても二人で話し合える状況ではない。

「美咲がいるのはここだ」

 そう言って、剛三は一枚の写真を差し出した。

 武蔵はそれを手元に引き寄せ、身を乗り出した澪とともに覗き込む。そこに写っていたのは大きなビルだった。質実剛健という言葉が相応しい飾り気のないデザインで、商業ビルというよりオフィスビルといった印象の建物だ。

「どこかの会社?」

 澪は感じたまま呑気にそう尋ねたが、剛三はひどく険しい顔をしていた。少しの間のあと、机の上でゆっくりと両手を組んで口を開く。

「米国大使館だ」

「えっ……?」

 思いがけない答えに、澪はきょとんと瞬きをした。隣の武蔵は眉を寄せる。

「大変なところなのか?」

「かなりやっかいだな」

 剛三はそう答え、険しい顔のまま小さく息を吐いた。

「美咲はアメリカへ逃亡するつもりなのかもしれん。美咲の研究はあちらも喉から手が出るほど欲しいはずだ。保護を頼まれて断る理由はないだろう。表向きには事件など起こっていないのだから、警察の引き渡し要求に応じる義務もない」

 彼の話は端的でわかりやすかった。澪は真剣に考えて疑問を口に上す。

「大使館に留まっているのは何故です?」

「それはわからん。受け入れ準備に時間がかかっているのか、条件面での折り合いがついていないのか、あるいは日本でやり残したことがあるのか……いずれにせよ、今はまだ米国大使館にいることは間違いない」

「メルローズも一緒にいるのか?」

「確認はできていないが、その可能性は高いだろう。美咲にとっては現在唯一の実験体だからな……武蔵、君が直接本人に訊いてくるといい。美咲との面会の約束は取り付けてある。今日の午前11時に米国大使館だ」

 剛三の言葉に、武蔵は大きく息を呑んだ。

「面会できるのは澪と護衛一人だ。君は護衛として行くがいい」

「……その面会が、あいつらの罠でないと言い切れるのか?」

「言い切れん。だが、美咲と交渉することを望んだのは君だ」

「わかった、了解だ」

 二人のやりとりを聞きながら、澪は胸に大きな不安の波が押し寄せるのを感じた。美咲と対峙する覚悟はしていたつもりだが、僅か数時間後などあまりにも急すぎるし、何より大国の後ろ盾など想像もしなかったのだから——。

「武蔵、君が理解しているかわからないが……」

 剛三はそう前置きしてから、武蔵の双眸を見据えて続ける。

「米国大使館には、我々はもちろんのこと警察でさえ手が出せない。だからこそ美咲はそこを選んだ。正直、乗り込んで行くのはかなり危険だと思っている。君がどうなろうと構わないが、下手をすれば澪や美咲にも危害が及びかねないのだ」

「橘美咲を守る気はないが、澪は命を懸けて守ってみせる」

 武蔵は憚りもせず堂々と宣言した。守ってくれるというのはありがたいが、この言い方では、まるで恋人同士か何かのように聞こえる。少なくとも誘拐犯と被害者には思えない。澪は困惑ぎみに顔を曇らせて目を伏せた。だが、剛三は真剣な面持ちのまま首肯する。

「よかろう。ただし、くれぐれも無理をするでないぞ。メルローズの居場所がわからない、あるいは取り戻せそうにない場合は、いったんおとなしく引き下がってほしい。帰ってからともに作戦を練り直そう」

「そんな悠長に構えてもいられないが……まあ、仕方ないな」

 武蔵は前髪を掻き上げながら溜息まじりに同意した。不服そうな様子だが、それが最善であることは理解しているようだ。剛三はそんな彼を見て満足げに頷いたあと、悠人に視線を流す。

「悠人、あれを」

「はい」

 悠人は短く返事をして立ち上がると、執務机から半透明のプラスチック製キャリングケースを持ってきて、打ち合わせ机の中央にそっと差し出すように置いた。中身は紙束のようだ。澪が無遠慮に顔を近づけて覗き込む隣で、武蔵は怪訝な面持ちで眺めている。

「これは?」

「美咲が残していった人体実験の記録だ」

 メルローズの監禁されていた地下室に残されていたものだろう。公安が持っていたコピーの原本も入っているかもしれない。澪もそのうちのいくつかに目を通したことはあるが、専門的な内容については当然ながら理解していない。ただ、何度も出てきた「死亡」という言葉は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

 剛三は、固唾を呑んだ武蔵を見つめ、机の上で両手を組み合わせる。

「現在、我々が所有しているのはそれがすべてだ。見たところでどうなるものでもないだろうが、君の国の子供たちが実験に使われていた以上、君には事実を知る権利があると思ってな。もちろん見るも見ないも君の自由だ。どちらを選択しようと構わない」

「…………」

 武蔵はキャリングケースに目を落として考え込んだ。無表情を装っているようだが、その瞳には怒りとやるせなさが滲んでいた。やがて、真剣な眼差しをゆっくりと剛三に向けると、感情を抑えた静かな声で話し出す。

「俺にはこの内容を知る義務があると思う。だが、読んで冷静でいられる自信はない。可能であれば、おまえたちのいないところで読ませてもらいたい」

「了解した。ただし、見張りとして澪はつけさせてもらう」

「ああ、俺としても澪と離れるつもりはないからな」

 澪の意見を聞こうともせず勝手に決められてしまった。母親が行った非道で残酷な実験の記録——それを読んでいる武蔵のそばで、どんな顔をすればいいのかわからない。だが、居心地が悪くとも逃げ出すことは許されないだろう。

「澪、おまえの部屋を貸してやれ」

「わかりました」

 剛三の具体的な指示に、澪は気持ちを落ち着けて了承の返事をする。そして、キャリングケースを抱えた武蔵とともに、指示どおり自分の部屋に向かおうとした、そのとき——。

「待ってください!」

 ダン、と悠人は机を叩きつけて立ち上がった。ひどく思い詰めた面持ちで剛三に訴える。

「私は反対です。得体の知れない男と澪を二人きりにするなど……」

「もう何週間もずっと二人きりだったんだ。今さらだろう」

 武蔵は挑発的な冷笑を浮かべながら口を差し挟んだ。瞬間、悠人は火に油を注いだようにカッといきり立った。わなわなと震えるくらい強く拳を握りしめ、奥歯を噛みしめ、今にも殴りかからんばかりに武蔵を睨めつける。

 澪はぎょっとして、どうにかこの場を収めようと必死に笑顔を作った。

「あ、あの、師匠? 私なら大丈夫ですから……」

「大丈夫じゃないだろう、そんな痕まで付けられて!」

 痕って——?

 澪は手首に視線を落とすが、長袖の下から僅かに包帯が覗いているだけで、手錠の傷痕はまったく見えていない。もっとも、一般的にいえば、包帯の下には傷のある可能性が高いわけだが——あれこれと考えを巡らせていた澪の肩を、武蔵は軽く抱き寄せた。

「俺は、澪の嫌がることはしない」

「…………!」

 悠人はますます鬼のような形相になり、血管がぶち切れんばかりに青筋を立てた。そして、武蔵は相変わらず不敵な笑みを浮かべたままだった。もはやどうすればいいかもわからず、澪は困惑してオロオロするだけである。

 その一触即発の状況を制したのは、剛三だった。

「悠人、感情に流されるな」

 パイプ椅子にどっしりと深く腰掛けたまま、貫禄のある声でそう言い、何かを訴えるような鋭い視線を彼に送る。悠人はグッと歯噛みした。そのまま口を開くことなく椅子に体を落とすと、大きくうなだれ、無造作に右肘をついて前髪をぐしゃりと掴んだ。


「これ、おまえの部屋?」

 先に足を踏み入れた武蔵は、興味深げにぐるりと見まわして意外そうに尋ねた。

 澪はドアノブに手を掛けたまま振り返り、小首を傾げる。

「そうだけど、変?」

「財閥令嬢っていうから乙女チックな部屋を想像してた」

「私、小さい頃からこういうシンプルな方が好きなの」

 可愛らしいものも決して嫌いではないのだが、自分の部屋をレースやフリルで飾ろうとは思わなかった。女の子らしさとは縁のない育てられ方をしたせいかもしれない。あるいは、着飾ることに興味のない母親からの遺伝だろうか。

「この写真……」

 澪が扉を閉めて向き直ると、武蔵は腰を屈めてじっと学習机を覗き込んでいた。視線の先にあるのは、写真立てに飾られた十年ほど前の家族写真である。昔から家族四人が揃うことはあまりなかったため、自分にとっては思い出の詰まった貴重な一枚なのだ。しかし、武蔵にとっては見たくもない不愉快な写真に違いない。

「ごめんなさい」

 謝罪とともに、大慌てで写真立てを伏せようと手を伸ばす。が、武蔵はそれを制止した。穴の空きそうなほど写真を見つめたまま、不思議そうな顔でぼんやりと口を開く。

「そうじゃなくて……これ、おまえらなのか?」

「うん、こっちが私で、こっちが遥だよ」

 澪も隣から覗き込み、丁寧に写真を指さしながら答える。真ん中の二人が澪と遥だ。澪は肩より少し長いくらいのおかっぱ、遥は今とほぼ同じショートカットである。今もよく似ているが、この頃は瓜二つといえるくらいそっくりだった。

「この写真がどうかしたの?」

「いや、俺の親戚によく似てるなと……」

「なにそれ、古いナンパの手口か何か?」

「おまえをナンパしてどうするんだよ」

 武蔵は体を起こすと、腰に手を当てて呆れたように言い返した。もちろん澪も本気で思っているわけではない。クスクスと笑いながら奥に向かうと、厚手のカーテンをシャッと引き開ける。清かな朝の光が部屋に広がった。

「武蔵、その机、好きに使っていいから」

「いや、机じゃなくあっちにしてくれ」

 武蔵が指さしたのはベッドだった。えっ、と澪は小さく瞬きをしてきょとんとする。

「何のために二人きりになったと思ってるんだよ」

「あ、えっ……?!」

 彼の言わんとすることに思い当たり、声が裏返った。両手をわたわたと振りながら後ずさる。

「えっと、あ、ここじゃちょっと……防音じゃないし……その……」

「何を言ってるんだ。読む間、隣にいてほしいだけなんだけどな」

「……えっ?」

 澪はこれ以上ないくらい真っ赤に顔を火照らせた。その様子を、武蔵はこれ以上ないくらい楽しげに眺めている。わざと誤解させるような言い方をしたに違いない。その思わせぶりなニヤニヤした顔を見ていると、頭から蒸気が噴き出そうになり、思いきり口をとがらせて上目遣いに睨み上げた。

「期待させたなら悪かった」

「期待なんかしてないし!」

 少しも悪いと思っていなさそうな半笑いの謝罪に、澪はますますカッとして言い返す。

 しかし、そのあと武蔵は急に真面目な顔になった。持っていたキャリングケースをベッドに投げ置くと、小首を傾げた澪をひょいと横抱きにし、優しくベッドに横たえるように下ろした。黒髪がシーツの上に広がる。ギシ、とベッドのスプリングが僅かに軋んだかと思うと、片膝をベッドにのせた彼が、覆い被さるように両手をついて真上から見下ろしてきた。

「ちょっ、え……しないんじゃ、なかったの……?」

「今はしない」

 そう言いつつも、武蔵はゆっくりと顔を近づけてくる。澪は瞬きもせず見つめ返した。これもからかっているだけに違いない——自分にそう言い聞かせるものの、彼の動きが止まる気配はない。熱を帯びた吐息が触れ合う。堪えきれずに瞼を震わせながら目を閉じると、ほのかにあたたかい唇がそっと重ねられた。

 その感触に、昨夜の出来事を思い出して一気に体中が熱くなる。決して期待しているわけではない。少なくとも理性では否定している。なのに、この状況を嫌だと思えないのはなぜだろうか。次第に頭がのぼせたようにぼうっとして、何も考えられなくなっていく。

 やがて、ゆっくりと唇が離れていった。

 おずおずと目を開くと、至近距離に留まっていた武蔵がふっと薄く微笑んだ。「続きは、無事に帰ったらな」と吐息でくすぐるように囁かれ、澪は思わずゾクリとして逃げるように目を逸らす。続きなんて絶対にありえないんだから——心の中でそう反論するものの、口にすることは出来なかった。

 武蔵はベッドに腰掛け、手に取ったキャリングケースを開く。

「寝不足ならしばらく寝てていいぞ」

「……寝られるわけないじゃない」

 澪は頬を火照らせたまま恨めしげに呟いた。さっきのキスでまだ心臓がバクバクと暴れている。睡眠不足に責任を感じているのなら、何もせず最初からそう言ってほしかった。小さく溜息をつきながら体を起こすと、彼の隣に並んで腰掛ける。

「武蔵、何か落ちたよ」

「ん?」

 彼がキャリングケースから書類を取り出したとき、何か小さなものが転がり落ちるのが見えた。拾い上げると、身分証明書のような顔写真入りのカードだった。アルファベットのような文字が書かれているが、英語ではないらしく、目を通した限りでは単語のひとつも判読できない。写っているのは金髪碧眼の少年である。全体的にあどけなさは残っているものの、とても整ったきれいな顔立ちをしていた。

 この子も、実験に使われたのかな——。

 そんなことを考えて居たたまれない気持ちになりながら、武蔵にカードを手渡した。しかし、彼は受け取ったものを一瞥した瞬間、目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。慌てて表も裏も食い入るように観察すると、そのまま動きを止め、じわじわと額に大粒の汗を滲ませていく。ただごとではないその様子に、澪は心配になって横から覗き込んだ。

「知ってる人?」

「……これ、俺だ」

「えっ?!」

 とっさに武蔵の横顔と顔写真を見比べてみたが、確かに共通する面影は窺えた。少年時代の写真と言われれば納得はいく。武蔵が嘘をついているようには思えないし、自分の顔を見間違えることもないだろう。だとしたら、いったいなぜ美咲がこのカードを——澪も武蔵も困惑し、言葉をなくしたまま互いに顔を見合わせた。


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