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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
27/68

26. 翻弄

「そう……」

 さして広くなく、必要最低限のものしかないシンプルな部屋。

 その端に置かれた清潔そうなシングルベッドに、誠一は遥と並んで腰掛け、出来うる限り主観を交えず今日の出来事を話した。しかし、彼は溜息まじりに相槌を打つだけで、特にこれといった反応を見せることなく、ただ無表情で前を見据えるだけである。

 本当に話して良かったのだろうか——。

 何があったか教えてほしいとせがまれたので、ありのままを話したが、この判断が正しかったかどうか自信はない。しっかりしているとはいえまだ未成年だ。妹は殺人犯に攫われて行方不明、母親は警察に追われて逃亡中、父親は警察に囚われの身という状況で、平気であるはずはないだろう。そのうえ、頼るべき保護者代わりの悠人が、あのような状態になってしまったのでは——。

「僕ではダメなんだよね」

 遥はどこか遠いところを見つめ、独り言のようにぽつりと呟いた。その声にも表情にも悲壮感はない。だが、言葉はひどく思い詰めたもののように感じられた。

「遥……」

「心配しないで。どうすればいいか考えてただけだよ」

 遥は天井を仰いだ。

「師匠が望むなら、僕は澪の代わりでも何でもやるつもりだけど、偽者なんかじゃ何の慰めにもならないよね。顔や背格好が似てたって肝心なときに役に立たない。それどころか、澪そっくりの澪じゃない人間がそばにいたら、余計につらく感じてしまうかもしれない。難しいよ……」

 淡々と心情を吐露すると、遠くに目を向けたままそっと細める。彼のもどかしさ、やりきれなさ、そして隠しきれない寂しさが、その言動の端々から滲み出ていた。誠一は胸を衝かれるが、こんなときに掛けるべき言葉を見つけられない。

「その、あまり無理はするなよ」

「優しいね、誠一は」

 ふっと表情を緩めて振り向いた遥に、ドクリ、と誠一の心臓は痛いくらいに跳ねた。その儚い微笑は、遥がこれまでに見せたことのない顔である。本人は決して認めないだろうが、やはりだいぶ打ちのめされているように感じられた。

「でも、誠一の方こそ無理しないで。もともと誠一には関係のないことなんだから」

「澪が攫われてるんだから関係あるだろう。見捨てるような真似は絶対にしない」

 悠人たちとの協力は、誰に強制されたわけでもなく、誠一自身の意志で決めたことだ。もっとも、ここまでの事態になるとは思っていなかったが、だからといって手を引こうなどとは考えていない。

 しかし、遥は難しい顔になってうつむいた。

「そのことだけどさ……誠一は刑事だから言うまでもないと思うけど、人質として生かされてはいても、どんな仕打ちを受けているかはわからない。もしかすると、体も心もボロボロにされてる可能性だってある。それでも、僕は家族だから支えていかなきゃいけない。だけど、誠一は……誠一にはそんな義務なんてないから」

「……!」

 誠一は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。思わず身を乗り出して訴える。

「義務なんかなくても、俺は……」

「簡単に結論を出せることじゃないよね」

 冷ややかにそう一刀両断され、金縛りに遭ったように口が動かない。もし、澪が最悪の一歩手前の状態で戻ってきたら——想像するだけで背筋が震え、身も心も凍りつきそうになる。果たして自分に支えていけるだろうか。無言のまま、シーツに置いた指先にグッと力をこめる。

「今はまだ何も言わなくていいよ。澪が帰ってからでいいから」

 遥の声は先ほどより少し和らいでいた。しかし、それに甘えることは卑怯としか思えない。澪がどんな状態であっても支えていくと言わなければ——そう頭の中では考えていたにもかかわらず、全身がこわばり、どうしても声にすることができなかった。


 翌日——。

 誠一は定められた時間より幾分か早めに出勤した。だが、部屋の扉を開けると、楠長官はすでに執務机で仕事に取りかかっていた。少しばかり気まずいものを感じたが、あえてそのことには触れずに一礼する。

「おはようございます」

「おはよう」

 楠長官は悠然と挨拶を返し、意味ありげな薄笑いを浮かべる。

「悠人の様子はどうかね」

「落ち着いていました」

 昨夜、橘家へ戻る悠人に同行したときには、すでに冷静さを取り戻していたようだ。自分に出来ることをやるしかないのだと、自分たちの力で澪を捜すしかないのだと、淡々と前向きな決意を口にしていた。だが、それはおそらく虚勢だろう。何かを必死に堪えるような張り詰めた表情からは、今にも崩れ落ちそうな危うさが見てとれた。

「あの子を頼んだよ」

 楠長官は書類に目を落としながら軽い調子で言う。からかっているのか、本気で心配しているのか、誠一にその真意は汲み取れない。しかしながら、いずれにせよ悠人を放っておくつもりはなかった。無難に「はい」とだけ返事をすると、自席に着き、机に置かれたノートパソコンをゆっくりと開いた。


「南野君」

「はい」

 頼まれた書類を作成していた誠一は、キーボードを打つ手を止めて顔を上げた。

 楠長官はちょうど電話を終えたところのようだ。節くれだった手で白い受話器を戻すと、大きな椅子にゆったりと身を預けて視線をよこす。

「私は、何も意地悪で澪ちゃんを放置しているわけではないのだよ。まだ高校生の女の子に犠牲を強いることは心苦しく思っている。ただ、国の安全を守るものとして優先すべきことがあってね。許すことはできないだろうが、せめて理解だけはしてほしい」

 そういえば、彼はきのうも同じようなことを言っていた。つまり——。

「橘美咲の研究は国の存亡に関わるもの、ということですか?」

「対未確認生物の要として必要不可欠なものだよ」

「未確認生物というのは、実験体の女の子でしょうか?」

「今、君に話せるのはここまでだがね」

 楠長官はニッと不敵に笑って切り上げた。が、すぐに真面目な顔になって提案する。

「我々が橘美咲を確保した折には、全力で澪ちゃんを救出すると約束しよう。だから、我々の側につきたまえ。君にとっても悪い話ではあるまい。君の目的はあくまで澪ちゃんの救出であり、橘に忠義を尽くす必要はないのだからな」

「私に何をさせたいのですか?」

「橘美咲を捜索するのに必要な情報収集だよ。その中には、君が私的に得た情報も含まれる」

 きのうと同じ内容の答えだが、幾分か具体的になっていた。

 ここにいる以上、職務として命じられれば遂行せざるをえず、ある程度は覚悟していたつもりである。だが、橘の情報を流すことだけは、何とかして誤魔化そうと思っていた。悠人を、遥を、ひいては澪を裏切ることにもなりかねないからだ。それが、たとえ澪を救うためだったとしても——。

 楠長官は見透かしたかのように言い添える。

「君にも立場があることは理解している。返答は求めない。行動で示してくれればそれでいい」

 誠一はゆっくりと顎を引き、唇を引き結んだ。二重スパイのような真似はしないと、楠長官に籠絡などされはしないと、そう決意したはずの気持ちが徐々に傾いていることに気がついた。嫌悪と期待がせめぎ合う。しかし結論は出せず、現実から逃避するようにノートパソコンでの書類作りを再開する。

 しかし、楠長官の話は続いていた。

「さっそくだが、君にやってもらいたいことがある」

「……何でしょう?」

 誠一は再び手を止め、少し警戒しながら尋ねる。

 そんな様子を楽しむかのように、楠長官は口もとに意味ありげな微笑を浮かべた。


 誠一が楠長官に連れてこられたのは、地下の取調室だった。

 取調室といっても警視庁のそれとは違い、厚いアクリル板で仕切られた、刑務所の面会室を模した作りになっていた。その両側にはそれぞれ見張りと思われる人物が控えている。仕切られた向こう側の中央に座っているのは、澪の父親であり、美咲の夫であり、剛三の息子である橘大地だ。シャツは少々くたびれているが、ヒゲは剃られ、髪も梳かれ、それなりにきちんと身なりは整えられている。彼は、楠長官とともに入ってきた誠一を見るなり、人懐こい笑みを浮かべて口を開く。

「今度はずいぶん人の好さそうな取調官ですね」

 楠長官は仕切りの前に用意されていた椅子に座り、誠一も促されるままその隣に腰を下ろす。そして、アクリル板の向こうでニコニコと微笑んでいる大地に小さく会釈をした。

「彼は南野誠一君といってね、澪ちゃんの恋人なのだよ」

「本当に?」

 大地は目を丸くして誠一を見る。

 まさかそんな紹介をされるとは思わなかった誠一は、胸の内で慌てふためくが、この状況で言い逃れるなどとても出来そうにない。額に汗が滲むのを感じながら、消え入りそうな声で「はい」と頷く。それを聞いて、大地は腕を組みながら苦笑した。

「澪に彼氏がいたのも驚きだけど、よりによって公安とはね」

「事件の日までは捜査一課の刑事だったが、引き抜いてきたのだよ」

 その補足的な説明を耳にした瞬間、彼の瞳に強く鋭利な光が宿った。が、すぐに鼻から息を抜いて口もとを緩める。

「おじさんは相変わらずやることがえげつないですね」

「悠人にもまったく同じことを言われたよ」

 二人はアクリル板を挟んで軽く笑い合った。会話から察するに昔から面識があったのだろう。表面上は和やかで親しげな光景に見えるが、実際はそうでもない気がして、誠一は何ともいえない居心地の悪さを感じる。

「まあ、南野君を不憫に思うなら、早く白状してあげることだね」

 楠長官はそう言って立ち上がった。誠一も慌てて立とうとするが、左手で制される。

「後は任せたよ」

「はい……」

 どうやら今から一人で大地の取り調べをしなければならないようだ。こんなことになると思っていなかった誠一は、困惑と不安を露わにするが、楠長官は涼しい顔のまま悠然と取調室をあとにする。バタン、と重たい扉の閉まる音が大きく響き渡った。


「南野さん、それでは取り調べを始めましょうか」

「あ、はい……よろしくお願いします」

 誠一はそう言って頭を下げる。しかし、彼の娘と内緒で付き合っていたことを知られたばかりであり、気まずいのはもちろんのこと、どのように取り調べを進めるべきか大いに頭を悩ませていた。相手に反感を持たれては聞き出せるものも聞き出せなくなる。勝手に暴露してさっさといなくなった楠長官が恨めしい。

「澪とはいつから?」

 誠一が逡巡していると、大地は両腕を台にのせて身を乗り出し、好奇心に目を輝かせながらそう尋ねる。まるで友人の恋愛話を聞き出すかのような態度だ。誠一はますます困惑しながらも、今さら隠し立てするわけにはいかず、出来うる限りの平静を装い正直に答える。

「知り合ったのは彼女が中三のとき、付き合い始めたのは高一のときです」

「けっこう犯罪的な感じだよね。まだ何もない、ってことはないんだろう?」

「えっと、その……すみません……」

 誠一は釈明のひとつもできないまま、小さく身を縮こまらせてうつむいた。さすがに冷や汗が止まらない。大地の声に非難めいた色は感じられず、ただ面白がっているだけのように思えるが、実際のところはどうなのか判然としない。一般的にいえば、高校生の愛娘に手を出した男に、良い印象を持つはずはないのだ。

「悠人はこのことを知っているのか?」

「少し前に知られてしまったようで……」

「反対してる?」

「はい……」

「だろうねぇ」

 大地はニヤニヤしながら楽しそうに言う。この口ぶりだと、悠人の澪に対する想いは知っていそうである。彼は父親としてどう考えているのだろうか。やはり悠人と結婚させようとしているのだろうか。いっそ目の前の本人に聞いてみれば——。

 そこまで考えて、誠一はふと我にかえる。

 いつのまにかすっかり大地のペースにのせられていた。これではどちらが取り調べを受けているのかわからない。もちろん彼が娘の恋愛を気に掛けるのは理解できるし、誠実に答えねばならないとも思うが、一刻も早く澪を救出するために優先すべきことがある。

「澪は……澪さんは、正体不明の男に連れ去られたままです」

「そのようだね」

 まるで他人事のような物言いに、誠一は不快感を覚えた。それでも理性的な態度は崩さない。

「橘美咲さんの居場所を教えてください。彼女が確保できれば、澪さんを救出することができます」

 それが楠長官との取引であることには言及しなかった。話していいのかわからなかったというのもあるが、どこかしら後ろめたさを感じていたことも否めない。それでも訊かれれば正直に答えるつもりである。

「南野さん」

「……はい」

 先ほどまでとは打って変わり、大地は真剣な顔になっていた。台の上で両手を組み合わせる。

「君にとって澪がかけがえのない存在であるように、僕にとって美咲は何よりも守りたい存在なんだよ」

「でも、澪さんはあなたの娘ですよね」

「そうだね……僕は良い父親にはなれなかった。澪も遥も可愛いとは思っているけれど、美咲か子供たちかと問われれば、僕は迷うことなく美咲をとるからね。それは、これからも永遠に変わることはない」

 詭弁ではない、と誠一は思った。

 澪から聞いた話では、保護者としての役割はほとんど悠人が担っており、両親とは月に数回会えればいい方という状況だったようだ。それでも澪は両親を慕っているようなので、彼女には言えなかったが、いくら忙しいとはいえ少し異常だと感じていた。大地の愛情が子供に向いていないのであれば、残念ではあるが納得はいく。

「しかし、美咲さんも逃げ続けるのは大変なはずです。いつまで逃亡を続けるつもりですか? この先どうするか当てはあるのですか? 警察は罪に問わないと言っているのですし、この国を守るためにも……」

「南野さん」

 大地の顔つきが険しくなった。

「あの実験を美咲に強要したのは公安だ。最初の何年かは言われるまま実験していたが、次第に反発するようになってね。もう言いなりにはならないと宣言した途端、すべての責任を美咲に押しつける形で捕らえようとする。しかも、僕らの家族を利用するという汚いやり口でだ。そんな奴らを信じられると思うかい?」

 その淀みない説明を聞くにつれ、誠一の鼓動は速さを増していく。

「……本当ですか?」

「証拠は提示できないけどね。どちらを信じるかは君次第だ」

 大地は一呼吸してから続ける。

「とにかく、僕は僕にできる方法で美咲を守る。警察のことは信用していないから、何ひとつ情報を渡すつもりはない。澪のことは……そうだな、君と悠人に頼むよ。勝手を言うようだが救ってやってほしい」

 誠一は眉根を寄せてうつむいた。おそらく都合の良いところだけを選んで、都合の良いように脚色したのだろうが、まるきり嘘をついているようには思えなかった。警察側と美咲側のどちらに正義があるのかはわからない。それでも、澪の救出に利用できるものがあれば、用心深く利用していくしかないと思う。

「何か、ヒントだけでもいただけませんか」

「取調官とは思えないセリフだね」

 大地はくすっと笑うと、腕を組んでゆったりと椅子にもたれかかった。

「そうだな……ヒントというより忠告になるが、君は志賀篤史君を知っているか?」

「面識はありませんが、怪盗ファントムの仲間で天才ハッカーだと聞いています」

「そのことも知っているわけだね」

 彼は口もとを斜めにする。

「公安は彼のハッカーとしての腕を欲しているはずだ。不正を働いた証拠を掴まれてしまえば、警察に拘留され、無理やり手伝わされることになる。僕は橘家の人間だから配慮してもらってるけど、篤史君だとどうなってしまうだろうね? 人生台無しになりかねないよ」

 その忠告には、篤史のハッキング行為を封じようとする意図が感じられた。橘の側であれ、警察の側であれ、篤史がハッカーとして動くことを怖れているのだろう。つまり——。

「それは、美咲さんの逃亡を有利にするために言っているのでは?」

「もちろんそうだよ。でも、言ったことは嘘じゃないからね」

 大地は悪びれもせずに言う。

 誠一は顎を引き、アクリル板越しに彼を見据えた。

「私がそれを聞いて志賀さんを止めるとお思いですか。私の目的は澪を救い出すことだけです。それを叶えてくれるのなら橘だろうと警察だろうと構わない。ましてや、面識のない彼がどうなろうと関係ありません。必要とあれば彼を警察に売り渡すことだって厭わない」

「君はそういうタイプではないね。それとも、澪のためなら悪魔にでもなれる?」

 大地はゆっくりと頬杖をつきながら、誠一の瞳を見つめ、挑発するように悪戯っぽく問いかける。はったりであることは完全に見透かされているようだ。彼の指摘どおり、おそらく自分にはそんなことなど出来ないだろう。報復を怖れているわけではなく、道義的に許されないと思うからだ。けれど。

 悠人なら、どうするだろう——。

 その疑問が脳裏をよぎった瞬間、誠一は膝にのせた手を無意識にグッと握りしめた。手のひらに爪が食い込んでいく。頬を伝い流れるぬるい汗が、小さく震えるこぶしの上にぽたりと落ちて弾けた。


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