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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
18/68

17. アリバイ

「ほっ、本当に大丈夫なんですか?」

『セカンド、僕の指示を信じるんだ』

 怪盗ファントムの衣装に身をまとった澪は、風呂敷に包んだ絵画を抱えて、比較的人通りの少ない道路を疾走していた。足を止めることなく後ろをちらりと確かめる。いまだに刑事一人と警官二人が追ってきていた。

 失敗したわけではない。これも計画のうちである。

 いつもはヘリコプターや下水道、あるいは群衆に紛れるなどの手段で引き上げていたのだが、マンネリは良くないという剛三の一存で、あえて警察に追われつつ街中を逃走する羽目になったのだ。危険なことをさせないでと美咲が頼んだ矢先にこれである。もっとも、悠人がいつでも助けられるよう待機しているため、危険に晒される心配はないという話ではあるが——。

 住宅街に入った澪に、新たな指示が飛ぶ。

『セカンド、正面の道には警官が二人待ち構えている。右側の住宅の間を突っ切って、向こうの道路へ抜けるんだ。男子高校生が一人歩いているから注意して』

「了解」

 そう答えて、住宅を仕切るブロック塀に飛び乗り、軽やかにその上を駆けていく。両側の住人のうち一人に気付かれたが、窓から顔を出しただけで追ってはこない。たとえすぐに追いかけてきたとしても、並みの人間では簡単に追いつけはしないだろう。

 視界が開けて素早くあたりを見渡すと、十数メートル先に、街灯にうっすらと照らされた男子高校生らしき姿が見えた。悠人が言及した人物だと思われる。この距離ならば追ってきても逃げ切れると確信し、澪は躊躇なく塀を蹴り、くたびれたアスファルトにすたりと着地した。

「……澪?」

 よく知った声。

 澪はドキリとして反射的に振り向いた。薄暗いうえに距離もあるため、顔まではよく見えなかったが、おそらく間違いないだろう。その男子高校生は、澪の同級生で幼なじみの富田拓哉だ。怪盗ファントムの衣装を身にまとい、仮面をつけたこの姿を見て、彼は「澪」と呼びかけた——その意味するところを理解し、澪の背筋は一瞬で凍りつく。

『セカンド、どうした?』

 イヤホンからの声にも反応できない。しかし——。

「見つけたぞっ、怪盗ファントム!」

 富田の背後から追いかけてきた警官の、若干息切れしたその声を耳にして、ようやくハッと我にかえった。すぐさま長い黒髪をなびかせて地面を蹴り、少しだけ騒々しくなった住宅街を疾走していく。呆然と立ち尽くした富田だけをその場に残して——。


「富田にバレたかもしれない?!」

「シーッ! 声が大きいよ!!」

 翌朝、きのうのことを遥に相談すると、彼は大きく目を見張って聞き返した。慌てて、澪は立てた人差し指を唇に当てて見せる。悠人にも、篤史にも、もちろん剛三にも知られたくない。怖々とあたりの廊下を見まわしたが、誰の姿もなく、とりあえずはほっと胸を撫で下ろした。

「どうして反省会のときに言わなかったのさ」

「だって……そう決まったわけじゃないし……」

 澪の言い訳に、遥は呆れかえって溜息をつくと、いかにも面倒くさそうに口を開く。

「どういう状況だったの?」

「うん……」

 澪は目を伏せて頷いた。

「住宅街を走って逃げていたときにね、たまたま歩いてた富田の前に飛び降りたんだけど、いきなり『澪?』って名前を呼ばれて……しかも、無視して逃げればよかったのに、ついうっかり振り返っちゃって……」

「仮面はつけてたんだよね?」

「うん」

「何か声を出したりしたの?」

「ううん」

「どこか掴まれたりはした?」

「触れられてもないよ」

 矢継ぎ早の質問に、澪は一つずつ端的に答えを返していった。それを聞いた遥は、スクール鞄を肩に掛け直しながら、拍子抜けしたかのように小さく息をつく。

「それならまだバレたってわけじゃないよ。証拠は何もないんだからさ、富田が疑ってたとしても、澪さえ認めなければ大丈夫。知らない、わからない、何のこと? って、何を訊かれてもしらを切り通してよね」

「そっか……うん、わかった」

 澪は的確な助言を聞いてようやく安堵した。遥の前に回り込んでニコッと微笑むと、玄関の扉を開け、長い黒髪をなびかせながら外に出る。先ほどまでの重さが嘘のように足取りが軽い。のんびり出てくる遥を「早くっ!」と急かし、二人並んで学校へと向かい始めた。


「そっか、今日は富田と日直だったんだ……」

 教室に入った澪は、黒板に書かれた日直二人の名前を見て、その場に呆然と立ち尽くした。よりによって昨日の今日で富田と日直など、ついていないとしか言いようがない。

「なんだよ、その微妙に嫌そうな言い方は」

「ひゃっ!」

 いきなり耳元で本人の声がして、口から心臓が飛び出しそうになった。少し身を引きながら振り返ると、すぐそばに富田が立っていた。澪のあからさまな過剰反応のせいか、きのうの出来事のせいか、何ともいえない複雑な表情を浮かべている。

「朝っぱらからセクハラとは、さっすが富田だねぇ」

「やってねぇし!」

 綾乃がクラス中に聞こえる声でからかい、富田は慌てふためきながら言い返す。この二人の言い合いは日常茶飯事であるが、今日の彼はあまり乗り気でないようだ。ふう、と疲れたように小さく溜息をつくと、物言いたげな目で澪に向き直る。

「今日はよろしくな」

「う、うん……」

「じゃ、またあとで」

 彼はぶっきらぼうに自席に腰を下ろし、頬杖をついて窓の外に目を向けた。きのうのことには触れていないものの、それが気になっていることは明白である。知らないふりをしてくれるのか、あとで言ってくるつもりなのか——澪にはどちらかわからないだけに、二人きりになる機会の増えるこの日直が怖かった。


 放課後になっても、富田は切り出してこなかった。

 すっかり人のいなくなった教室で、澪は黒板消しをクリーナーにかけ、富田は自席で日誌を書いている。これまでも二人きりになる機会は何度かあったが、富田は怪盗ファントムの話題に触れることすらしなかった。もしかしたら勘違いだと思ってくれたのかな、といささか都合の良い解釈をしながら、澪はクリーナーのスイッチを切った。ウウゥーン……と吸い込まれるようにモーター音が消滅し、教室はしんと静まりかえる。

「澪、おまえさ……きのうの夜、何してた?」

 来た——澪の心臓はドキンと大きく跳ね上がる。

「いきなり、何……?」

 声がうわずっているのが自分でも認識できた。もっと落ち着かなければ、普段どおりに話さなければ、とわかってはいるのだが、冷静になろうとすればするほど動揺が大きくなっていく。

 富田はシャープペンシルを置いて、そっと日誌を閉じた。

「今日、何か用があるか?」

「え……別にないけど……」

 聞かれるまま正直にそう答えたあとで、澪はハッとして息を呑んだ。おそらく富田はファントムの件を問いただすつもりなのだ。今さら用があるなどと言い直すこともできず、顔からすうっと血の気が引いていく。

「じゃあ、これが終わったらどこか……」

 ガラガラガラ——。

 富田の発言を遮るかのように、派手な音を立てて後ろの引き戸が開かれた。そこに立っていたのは帰ったはずの遥である。スタスタと教室に進み入ってくると、富田の後ろの自席に鞄を投げ置き、乱暴に椅子を引いて腰を下ろした。

「忘れ物か?」

「まあね」

 振り返って尋ねた富田にそう答えながら、取り出したノート数冊を鞄に放り込んだ。そして、ふと思いついたように顔を上げて言う。

「富田、せっかくだから付き合ってよ」

「え? 付き合うって、どこへだ……?」

「久しぶりにパフェが食べたいんだけど」

「ああ」

 遥の答えを聞いて、富田は安堵したように吐息混じりの声を漏らした。二人はこれまで何度も一緒にパフェを食べに行っている。富田も意外と甘いものが好きで、遥に誘われると断りはしなかった。けれど、今日の彼には他に重要な目的がある——。

「悪いけど、今日は……」

「私のことなら気にしないで!」

 澪は黒板消しを持ったまま声を張り上げると、富田に駆け寄り、机に置かれた日誌を取って胸に抱えた。

「あとは私がやっておくから、遥とパフェしてきてよ」

 澪としては、何がなんでも行ってもらわなければ困る。富田の肩を押して強引に立ち上がらせ、返事を聞こうともせずにっこりと手を振った。不自然だという自覚はあるが、そんなことに構っていられない。彼は困惑ぎみに眉をひそめたものの、遥に手を引かれると、仕方なくといった様子で教室を出て行った。


 二人は学校近くのフルーツパーラーに入った。

 品のある落ち着いた雰囲気の内装で、パフェも美味しく、遥も富田も気に入っている店である。遥は迷うことなくフルーツパフェを、富田も少し考えて同じものを注文した。ウエイトレスが水を置いて戻っていくと、それきりどちらも口を開こうとしなかった。

 やがて、フルーツパフェが二つ運ばれてきた。

 富田はほっとしたように小さく息をつくと、さっそく生クリームをすくって食べ始めた。同様に、遥も黙々とパフェを口に運んでいく。そんな彼らに、まわりの女性たちはチラチラと好奇の目を向けるが、二人ともそういう視線にはもう慣れっこだった。

「澪を呼び出して何するつもりだったの?」

 パフェの残りが少なくなってきたところで、遥がそう口を切った。

 富田はスプーンを持ち上げたまま動きを止める。

「まさか、おまえ……それを阻止するために俺を誘ったのか?」

「富田が澪だけを呼び出すなんて、今までなかったと思うけど」

 その追及に、彼はきまり悪そうに目を逸らしたが、やがて表情を硬くこわばらせて口を開く。

「俺さ……、きのう間近で怪盗ファントムを見たんだ」

「それで?」

 遥は冷ややかに先を促す。

 富田は僅かに顎を引き、ごくりと唾を呑んだ。

「あれは、澪だ」

「ファントムが?」

「ああ……」

 そう言うと、スプーンをそっとグラスの中に置き、白いテーブルの上で両手を重ねた。溢れそうな感情を押しとどめるかのように、その指先にはグッと力がこもっている。しかし、遥の飄々とした態度は少しも崩れなかった。

「澪ならずっと家にいたけど」

「……それ本当か?」

「僕の部屋でグダグダ宿題やってたよ」

 富田は眉を寄せると、ゆっくりと顔を上げて遥を見据える。

「てか、おまえも仲間なんじゃないのか? もしかしたら、おまえの家族もひっくるめてみんな……ファントムってヘリとかよく使ってるけど、おまえんちなら簡単に調達できるだろうし……」

「何? 富田はウチを犯罪一家だって言いたいの?」

「……すまん、言い過ぎた」

 じとりと非難の視線を返した遥に、富田は両手を合わせて許しを請う。由緒ある橘財閥に対して、また友人の家族に対して、失礼な物言いだったことは素直に認めたが、それでも納得はしていないようだった。

「でもなぁ、あれはやっぱり澪に間違いないと思うぜ。俺、ずっと昔から澪のことを見てきたし、顔は見えなくても何となくわかるんだよ。それに、澪って呼びかけたら振り向いたし……」

「声がしたから振り返っただけじゃない?」

「それは……そうかもしれないけど……」

 遥は残り少なくなったパフェを、グラスの底からすくった。

「もし澪がファントムだったらどうするつもり?」

「そんなのわからねぇよ……けど、とりあえず本当のことが知りたいんだ。何か理由があるなら聞かせてほしい。俺は警察に突き出そうなんて思ってないぜ? でも、こんなこと続けてたらいつか捕まるかもしれないし、できれば早いうちに説得してやめさせたい。友達だから言えることってあるだろ?」

「そうだね」

 静かにそう答えたあと、畳みかけるように続ける。

「けど、澪はファントムじゃないよ。確かに髪型や背格好が似てるのは認めるけど、澪にはあんなことをするだけの度胸も頭脳もない。富田はさ、澪のことばっかり考えてるから、そう見えたんじゃない?」

「うっ……」

 富田は頬を赤らめてのけぞった。それでも、遥は容赦なく問い詰めていく。

「隠す気ないよね? 気付いてないの澪本人くらいだよ」

「…………」

 富田はもの言いたげに半開きの唇を動かすが、そこから言葉が紡がれることはなかった。諦めたように口を結んでうつむき、テーブルに置いた手をギュッと握りしめる。その顔は、今にも湯気が立ち上りそうなくらい真っ赤になっていた。

 遥は小さく溜息をついた。

「ねえ、澪のどこがいいわけ? お調子者のバカだよ?」

「バカって……」

 富田は困惑ぎみにそう言い、顔を上げる。

「お調子者はともかくバカってのはないだろう。そりゃおまえと比べたらそうかもしれないけど、だいたいいつも校内で5位以内だし、全国模試でも名前が載ってたりするし、俺からしたら十分すぎるくらい……」

「勉強の話じゃなくて、なんにも考えずに生きてるってこと」

 遥はぶっきらぼうにそう言い放つと、最後のひとすくいを口に運び、スプーンをグラスの中に投げ置いた。細い銀色の持ち手が縁に沿ってまわり、カラリと乾いた音を立てる。

「澪は考えろって言われないと考えないんだよ」

「確かに、考えなしなところはあるけどな」

 それには富田も同意せざるをえなかった。もっとも、そういう能天気なところも気に入っているのだが、今はとても言えるような雰囲気ではない。口をつぐんだ富田を、遥は頬杖をつきながら醒めた目でじっと見つめる。

「やっぱり顔なの?」

「ん……まあ、それもないわけじゃないが……」

 富田はどっちつかずの曖昧な答えを返し、コップに手を伸ばした。氷が融けてぬるくなった水を口に流し込む。そのとき——。

「じゃあ、僕でもいいんだ」

 何気ない口調でまさかの爆弾発言が落とされた。富田は目を白黒させ、コップを机に戻しながらゲホゲホとむせこんだ。そして、涙目のままバンッと両手をついて立ち上がると、噛みつかんばかりの勢いで遥に詰め寄る。

「おまえいきなりなに言い出すんだ!」

「ダメなの?」

「当たり前だっ!!」

「どうして?」

 遥はちょこんと可愛らしく小首を傾げて尋ねた。大きな漆黒の瞳がまっすぐ富田を捉えている。その仕草も表情も、まるで澪を真似たかのようにそっくりだった。邪気があるのかないのかわからず、富田は調子を狂わされる。

「どうしてって……おまえ男だろ……」

「男じゃいけない?」

「いけないとかじゃなくてだな……ん?」

 言い返しているうちに混乱してきたらしく、首を捻りながら、浮かした腰をゆっくりと椅子に下ろした。

 それでも、遥は追及の手を緩めようとしない。

「僕のこと嫌いなの?」

「嫌いじゃねぇよ」

「じゃあ、好きなんだ?」

「……友達としてだぞ?」

 富田は微妙な面持ちで釘を刺す。これまでずっと友達づきあいをしてきた遥に、いきなりこんなことを言われては、当惑や不安を覚えるのも致し方ないだろう。その遥の方はといえば、思考の読めない瞳で富田を見つめ返している。

「澪のことはもう諦めた方がいいよ。友達としての僕からの忠告」

「彼氏がいるってのはわかってるよ……けど、そのうち別れるかもしれねぇし……」

「婚約者がいるんだよ」

 何の前置きもなく話が飛躍し、富田はついていけずにきょとんとする。

「えっと、彼氏が……?」

「そうじゃなくて、うちのじいさんが勝手に決めた婚約者だよ。澪もこのことは知ってる。相手は長年じいさんの秘書をやってて、僕たちの保護者代理でもある人なんだけど」

「ああ、あの人か……」

 富田も学校に来た悠人を何度か目撃しており、挨拶したこともあるため、遥の説明だけですぐに彼だと思い至った。顎に手を添え、頭を巡らせながら斜め上に視線を向ける。

「じゃあ、彼氏はどうなるんだ?」

「もちろん別れるしかないよね」

 簡単にそう言う遥とは対照的に、富田はやるせなさを滲ませた。

「富田が同情してもどうにもならないよ」

「ああ……」

 富田には橘家の事情に口を挟む権利はないし、挟んだところで聞き入れられるはずもない。それが現実である。いっそう神妙な顔つきになると、視線を上げ、そろりと遠慮がちに切り出した。

「もしかして、おまえにもいるのか? 決められた婚約者とか……」

「今のところは聞いてないけど、そういうこともあるかもね」

 遥はまるで他人事のように軽く受け流すと、空になったパフェグラスを横にどけ、テーブルに腕を置いて大きく身を乗り出した。

「だから、僕にしといたら?」

「いや、何でそうなるんだよ」

 富田は脱力して額を押さえた。けれど、遥は真顔のまま言い募る。

「男ならそもそも結婚だとか望みを持たなくて済むよね」

「まあ、それは……一理あるような、ないような……」

「はっきりしなよ。いったい僕の何がいけないわけ?」

 じれったそうに少しきつく問い詰めると、テーブルに手をつき、腰を上げてズイッと顔を突きつける。その近さに、富田はビクリとしてのけぞった。顔から首までみるみるうちに紅潮していく。

「いっ、いけないとかじゃなくてだな……」

「じゃなくて、何?」

「えっ、な……なんだっけ……えっと……」

 富田はソファの背もたれに張り付いたまま、しどろもどろになった。

「ねえ、富田、キスしたことある?」

「キ……?!」

 遥はさらに身を乗り出して、額がくっつきそうなほど近づくと、艶めいた唇に薄く笑みをのせた。ふいに二人の息が触れ合う。富田の脳内はその一瞬で限界値を振り切り、瞬きすらできず、ただ体を硬直させたままゴクリと唾を呑んだ。

「お、俺……」

「じっくり考えればいいよ。何日でも、何ヶ月でもね」

 遥はそっと目を細めて囁くように言うと、くすっと小悪魔のような笑みを浮かべる。澪と見まがうほどそっくりな顔で、澪のしない妖艶な表情を見せられ、富田は壊れそうなほどの動悸を感じていた。


「おかえり!」

 澪はフレアのミニスカートをひらめかせて玄関に駆け下りると、ようやく帰ってきた遥を笑顔で出迎えた。半分ほど袖に隠れた手を、ざっくりと編まれた白いセーターの胸元に置いて言う。

「さっきは助けてくれてありがとう」

「とても見ていられなかったからね」

 遥は一瞥しただけで、足を止めることなくさっさと階段を上っていく。しかし、澪は気にせず軽やかな足取りで追いかけると、後ろで手を組み、さらりと黒髪を揺らしながら覗き込んだ。

「富田、何か言ってた?」

「疑ってた。ていうか、確信してた」

 おそらくそうだろうと予想していたので、驚きはしないが、やはり不安が募るのは止められない。それでも落ち着いていられるのは、遥という心強い味方がいるからである。

「疑いは晴らせたの?」

「その時間は僕の部屋にいたって言っておいたけど、完全には信用してないみたいだね。僕も他の家族もみんな共犯じゃないかって疑ってるし。ま、実際そのとおりなんだけど」

「そっか……」

 力のない相槌が零れ落ちた。しかし遥は淡々と続ける。

「今は他のことで頭がいっぱいだろうから、次に怪盗ファントムが話題になるまでは大丈夫だと思う。でも、あくまで応急処置にすぎないから、できるだけ早く何か手を打たないと」

「他のこと? 応急処置??」

 何を言っているのかさっぱりわからず、澪はきょとんと小首を傾げた。

 遥は足を止め、ゆっくりと思わせぶりな視線を流す。

「富田は単純だからね」

 その声は、彼にしてはめずらしく弾んでいた。何か良からぬ悪だくみをしているのではないかと心配になるが、自分ではそれを白状させることさえできないのだと、澪にはよくわかっていた。


 その日の夜——。

 怪盗ファントムの次の案件が、剛三から告げられた。

 標的となる絵画の写真を見せられつつ、それにまつわる話と、奪わねばならない理由を聞かされる。今回も、本来の持ち主に返却することが最終目的だ。澪にも異存はなく、時折小さく頷きながら真面目に聞いている。

 舞台は、橘の屋敷からほど近い美術館だった。

 悠人が全体の計画と各々の役割を説明していく。今回は取り立てて難しくないということだが、何重にも代替手段が用意されているあたり、篤史にはない彼の慎重さや緻密さが窺える。経験の差もあるのかもしれない。

 一通りの説明が終わると、遥が手を上げて立ち上がった。

「どうした、遥」

「前回、澪が逃走中に同級生と鉢合わせたみたいで、今そいつに思いっきり正体を疑われてて」

 予想もしなかった唐突な暴露に、澪は唖然とした。出来ればみんなには内緒にしておきたかったことであり、何の相談もなく話した遥を恨めしく思うものの、さすがにここまできて嘘をつくわけにはいかない。

「本当か?」

「うん……」

 悠人に尋ねられると、小さく縮こまって頷いた。

 すぐに遥は補足する。

「仮面のおかげで顔は見られてないし、他に決定的な証拠もないから、しらを切り通せばすむ話なんだけど、澪だからそれも難しいみたいで」

「だろうな……」

 悠人は溜息まじりに同意する。剛三も、篤史も、まったくだと言わんばかりに何度も大きく頷いていた。

「だから、次で疑惑を晴らしたい」

「何か策でもあるのか?」

「気乗りはしないんだけど……」

 遥はあからさまに嫌そうにそう前置きすると、彼の考える作戦を説明し始めた。


 数日後——。

「富田ー! こっちこっち!!」

 綾乃はつま先立ちで背伸びをしながら、大きく手を振り、人混みの向こうに見える富田を呼んだ。一緒にいた澪と真子も小さく手を上げる。富田は黒山の人だかりを縫いながら、なんとか三人のもとに辿り着いた。

「はー……結構、野次馬って来るもんだな」

 溜息まじりにそう言いながら、ぐったりして腰に手を当てる。実際、あたりはまるでお祭りのように人が溢れかえっていた。澪たちの学校から近いこともあり、他にも見知った顔がちらほら目につく。日が沈んでからは冷え込みがいっそう厳しくなり、吐く息も白いが、美術館の周辺だけは沸き立つような熱気に包まれていた。

「ていうか、綾乃、おまえ怪盗ファントム嫌いじゃなかったのかよ」

「せっかく近くに来るってんだから、とりあえず見とかないとね」

 綾乃はニカッと白い歯を見せた。

「ったく、何だかんだいって結局ミーハーなんだよな」

 富田は呆れたように白い溜息をつくと、そろりと澪に目を向けた。

「おまえ、そろそろ行かなくていいのか?」

「え、どこへ?」

 あらかじめ心の準備をしていた澪は、過剰な反応をせず、不思議そうに小首を傾げて尋ね返す。そのリアクションに、富田は意表を突かれたようだ。

「あ、いや、別に……」

 あたふたと否定しながら言い淀んだが、それでもまだ澪を気にして、ちらちらと不安げな眼差しをよこしている。予告時間の間際になっても一向に動こうとしないので、どうするつもりなのかと心配しているのだろう。なにせ、怪盗ファントムの正体は澪だと思っているのだから——。

 ざわざわ、と、急にあたりが騒がしくなった。

「来たよ、ほら!」

 綾乃が勢いよく指さした方向を見上げると、夜の帷が降りた空の彼方に、白いハンググライダーがぼんやりと浮かび上がっていた。まだ目を凝らさないとよく見えないくらいだ。しかし、次第に大きくなり、やがて操縦者の姿まで認識できるようになる。

 間違いなく怪盗ファントムだ。

 野次馬の頭上をすうっと音もなく横切り、緩やかに弧を描くと、美術館の正面玄関前にふわりと降り立った。すぐさま襲いかかる警備員を次々とかわし、長い黒髪を舞い上げながら、まるで挑発するかのように鮮やかに翻弄していく。野次馬の集まる門のそばに来て、存分にその姿を見せつけると、あたりの熱気は最高潮に達した。

「わあ、私、実物初めて見た!」

 真子は手袋をはめた両手を組み合わせて、目をキラキラ輝かせながら、小さくピョンピョン跳び上がっている。普段おしとやかな彼女とは思えないはしゃぎっぷりだ。隣の綾乃は、微笑ましげに幼なじみの可愛らしい姿を眺め、そして腕を組みながら澪に振り返った。

「やっぱちょっと澪に似てるかもね。澪の方が女の子っぽいけど」

 的確な指摘に、澪は苦笑する。

 怪盗ファントムとして美術館に降り立ったのは遥である。その間に、澪は富田たちと一緒に怪盗ファントムを見に行き、別人であることを納得してもらおうという計画だ。このために、遥はハンググライダーの操縦まで習得したのだから、澪としてはますます頭が上がらなくなる。

 富田は怪盗ファントムと澪を交互に見て唖然としていた。やがてハッと我にかえって門に飛びつき、その向こうにいるファントムを凝視する。そして、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、手早くいくつかボタンを押してから耳に当てた。

「あ、遥か?」

『……富田?』

「ああ、おまえ本当に遥なのか? 今どこにいるんだ?!」

『……うざい』

「ちょっ、おま……切りやがった!!」

 富田は目を大きく見開き、握った携帯電話に向かって叫ぶ。

 隣で耳をそばだてていた綾乃は、腹を抱えてゲラゲラと大声で笑い出した。

「いきなりそれじゃウザいわ、確かに」

 当然ながら電話に出たのは遥ではない。あらかじめ遥の携帯電話を預かっていた篤史が、富田からの電話を受け、数パターンの録音した音声から適切なものを選んで流したのだ。普段からぶっきらぼうな遥だからこそ成り立つ計画だったのかもしれない。

「風邪ひいたって言ってたし、寝てたのかもしれないよ」

 真子が冷静に推論を述べる。風邪ぎみで微熱が出ているというのが、遥が来なかった表向きの理由なのだ。普段より輪を掛けて無愛想なのも、それが原因と考えるのが普通だろう。しかし、富田の不満は収まらない。

「だからって、このまえあれだけ付き合えとか迫ってきたくせに、今日はうざいから拒否るなんてありえねーだろ! そりゃまだ返事はしてなかったけど……俺は……」

「付き合え? 迫る?」

 澪がきょとんとして聞き返すと、彼はギクリと顔を引きつらせた。

「あ、いや、それはその……」

 急にたじたじになり、言い訳もできないまま目を泳がせる。頬もほんのりと薄紅色に染まっていた。

 綾乃は両手を腰に当てると、思いきり胡散臭そうに下から覗き込む。

「あんたたち、いつのまにそういう関係になってたわけ?」

「誤解だ! 遥が一方的に迫ってきただけで、俺は別に……」

 富田は両手をふるふると振り、大慌てで弁明する。

「もしかして、最近、様子がおかしかったのってそのせい?」

「……俺、おかしかったか?」

「うん。ぼーっとしながら遥くんを見てることが多かったよ」

 真子が指摘すると、彼の顔はまるで茹で蛸のように真っ赤になった。富田は単純だからね——先日の遥の言葉と合わせて考えてみると、富田に迫ったというのは、怪盗ファントムから気を逸らせる策だったのだろう。だが、それは富田の気持ちを弄ぶ行為であり、澪としてはさすがに少し申し訳なく思う。

「あのね……多分、遥はからかっただけだと思うよ」

「やっぱそうだよなぁ」

 富田は溜息をつきながら、まるで夜風で火照りを冷ますかのように、顔を上げてぼんやりと遠くの空を見やる。そんな彼にも、綾乃は容赦なく横向きに間合いを詰め、彼の脇腹を肘でつついてニヤニヤとからかう。

「なになに? もしかしてマジで落とされちゃった?」

「落とされたとかじゃねぇし!」

 富田はむきになってそう言い返したが、直後、気力を喪失したように吐息を落とした。綾乃から逃げるように視線を逸らすと、前髪を掻き上げつつ、反対側にいた澪を横目でちらりと一瞥する。

「悪かった」

「えっ?」

「いや、なんでもない」

 わあっ、とまわりで再び大きな歓声が上がった。

 バリバリバリ……と大きな音を立てて近づいてきたヘリコプター。それを待っていたかのように、絵画を抱えたファントムが美術館の屋上に姿を現し、垂らされた縄ばしごに飛び乗って颯爽と去っていく。どうやら本来の目的の方も無事に達成したようだ。澪はほっと安堵すると、すぐ隣にいる富田の横顔をそっと窺った。

 こっちこそ、ごめんね——。

 伝えられない言葉を心の中でそっと呟く。少し、胸が締め付けられるように疼いた。


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