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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
16/68

15. 見えない枷

「終わったー!」

 昇降口から外に出ると、澪は両手をまっすぐ空に突き出し、大きく伸びをして息を吸い込んだ。空は鉛色に垂れ込めているが、空気は新鮮で心地良い。利きすぎた暖房でぼうっとした頭も、少ししゃっきりとしてきた。

 隣を歩くスーツ姿の悠人は、お疲れさま、と柔和な微笑みで澪をねぎらった。


 今日は高校の三者面談だった。

 本来は生徒の保護者が出席するものだが、両親とも忙しく、その代理として悠人が来たのである。こういったことは今回が初めてではない。学校側も橘家の事情は理解しており、入学当初から、戸籍上無関係の悠人を保護者代理として認めていた。

 面談の内容は、主に進路のことである。

 澪は文系を選択しているが、担任には、以前から理系に変更することを勧められていた。特に理系分野の成績が良いわけではないのだが、おそらく母親が名の知れた科学者なので、澪にもその才能があると思われているのだろう。おまけに、意欲さえあれば遥にも負けないはずだと、何の根拠もないことを本気で言うのだ。そのたびに、澪は辟易としていた。


「お母さまのせいで、変に期待をかけられちゃってつらいな」

「気にすることはないよ。澪は澪でやりたいことをやればいい」

 人影のない静かな石畳を歩きながら、つい弱音をこぼした澪に、悠人は優しく励ましの言葉を掛ける。けれど、逆にそれが澪を悩ませることになった。うーん、と唸りながら思案顔で小首を傾げる。

「やりたいこと、特にないんですよね。将来の夢とかも全然なくて……」

 遥は橘家を継ぐように言われているが、澪の将来は誰にも決められていない。橘の名に泥を塗るようなことでない限り、何を目指しても反対はされないだろう。しかし、せっかくの自由にもかかわらず、いまだ方向性を定めることさえ出来ずにいた。

 思い悩む澪を横目で見ながら、悠人はくすりと笑った。

「僕もそうだったよ」

「えっ? 師匠も?」

「そんなに意外?」

「はい……」

 澪はまじまじと悠人の横顔を見つめた。いつも現実的に先を見据えて行動している彼が、将来について悩んでいたなど思いもよらなかった。彼にも未熟なころがあったということだろう。

「師匠はどうやって大学や学科を決めたんですか?」

「僕と一緒のところにしろ、って大地に言われてね」

 悠人は苦笑しながら答える。

 いかにも大地が軽々しく言いそうなことで、澪もつられて笑ってしまう。しかし、このときまで二人が同じ学科だったことを知らなかった。同じ高校・大学出身だとは聞いていたが、学部や学科のことまでは話題に上らなかったのだ。

「何学科だったんですか?」

「工学部生物工学科だよ」

「理系、だったんですね」

「見えない?」

「そんなこともないですけど」

 そう答えたものの、二人とも何となくではあるが文系のイメージが強く、少しだけ驚いてしまったのは事実である。しかし、白衣で実験する姿を想像してみると、意外と似合っているように感じた。悠人に言っても断られてしまいそうなので、こっそり大地に頼んで当時の写真を見せてもらおう、などと考えて、思わずくすっと小さな笑みをこぼす。

「無理に大学に行かなくても構わないよ」

「えっ?」

 悠人の声で現実に引き戻され、澪は振り向いた。彼は足を止めることなく続ける。

「専業主婦という道もあるだろう? もちろん強制ではないよ。僕は澪を縛るつもりはないから、大学へ行きたければ行ってもいいし、働きたければ就職してもいいけど、そういう選択肢もあるということ」

 その一方的な内容に、澪は眉をひそめた。

「あの、師匠と結婚するのは決定事項なんですか?」

「そう言わなかった? 時期については澪の希望も聞くつもりだよ。僕としては少しでも早い方がいいんだけど、現実的には次の夏休みか卒業式のあとくらいかな。結婚式や披露宴はもちろんだけど、新婚旅行もきちんと行きたいしね」

 悠人は少しも悪びれずに言う。

 彼が結婚を決めていることはわかっていたが、一応、春までは返事を待つと言っていたはずだ。せめて自分の発言には責任を持ってほしいと思う。だいたい、早い方がいいといっても、怪盗ファントムの仕事も終わらないうちに結婚だなんて——そこまで考えたとき、ふと、ある疑問が澪の頭をよぎった。

「私たちって警察に黙認されてるんですよね? だったら、ファントムのことを誠一に話したって……」

「それでも法を犯していることに変わりはない」

 彼の声に厳しさが宿った。

「確かに僕たちは私利私欲で動いているわけではないし、黙認もされているけれど、悪いことをしているという自覚は持つべきだ。気の緩みは破滅に繋がりかねない。そもそも警察庁にとっても機密事項なんだよ。これ以上、誰にも知られてはならないということは、きちんと理解しておいて」

「……はい」

 ピシャリと言われて、澪には返す言葉がなかった。

 悠人の指摘したことも確かにあるが、考えてみれば、肝心の誠一がどう受け止めるかもわからない。いくら警察に黙認されているとはいえ、彼自身の正義が許さない可能性もある。そう思うと、急にゾクリと背筋が震えてきた。

「さ、これからどこへ行こうか」

「えっ?」

 考え込んでいるうちに、いつのまにか悠人の黒い小型車の前まで来ていた。駐車場に他の車は見当たらない。彼は助手席側のドアを大きく開き、澪を促しながら、にっこりと満面の笑みを浮かべる。

「嫌だと言っても一晩付き合ってもらうからね。三者面談なんて面倒なことを押しつけられたんだから、そのくらいのご褒美がないとやってられないだろう? もちろん剛三さんにも許可はもらってきたよ」

 澪はくすりと笑った。

「遥とも三者面談のあと御飯を食べに行きましたよね」

 遥の三者面談は数日前だったが、そのあと二人で食事に行ったと彼から聞いている。帰ってきたのは日付が変わるころで、自分のいないところでそんなに盛り上がったのかと、少し寂しく、そして羨ましく思ったことを覚えている。

「ああ、あれは二人きりで男どうしの話がしたくてね」

「男どうしの話? それってどういうのなんですか?」

「内緒」

 悠人は澄まし顔のまま素気なく一蹴した。しかし、秘密にされると余計に気になってしまう。

「ヒントだけでも」

「ダメだよ」

 こうなってはいくら粘ったところで聞き出せそうもない。ひとまずは素直に諦めたふりをして、あとでこっそり遥に聞いてみようかな——などと少々ずるいことを考えながら、悠人に促されて助手席に乗り込む。

「で、どこへ行こうか。晩御飯まではまだ少し時間もあることだし、行きたいところがあれば連れて行ってあげるよ」

 悠人は開いたドアに片腕をのせ、助手席の澪を覗き込みながらそう尋ねてきた。しかし、急に行きたいところと言われてもなかなか思いつかない。少し考えて、頭に浮かんだものを素直に答える。

「じゃあ、海が見たい」

「海ね、了解」

 少し無謀なことを言ってしまったかと思ったが、悠人はにっこり微笑んで了承してくれた。助手席のドアを丁寧に閉め、反対側から運転席へ乗り込む。そして、カーナビに手早く目的地を設定すると、エンジンをかけてゆっくりと発車させた。


 タプン、タプン——。

 下方から、コンクリートに打ち付けられる水音が聞こえる。眼前には細波立った黒い海面が広がり、どこからか運ばれた小枝の塊や、捨てられた空のペットボトル、ビニル袋などを不規則に揺らしていた。ところどころ油も浮かんでいるようだ。そのせいか潮風には僅かに異臭が混じり、視覚的にも嗅覚的にも、さわやかな海のイメージとはほど遠い。

「確かに海だけど……」

「あしたの予定を全部キャンセル出来たら、きれいな海へ連れて行ってあげられたんだけどね」

 悠人は肩をすくめて苦笑する。

 しかし、澪とてリゾート地のような海を期待していたわけではない。思ったよりほんの少し酷かっただけのことだ。薄汚れた白い柵に両腕を置き、そこに顔をのせて、鈍重な冬の海をじっと眺める。不意に強まった冷たい潮風が頬を掠め、長い黒髪をさらりと吹き流した。

「海の匂いを嗅いでいるとね、私、お母さまのことを思い出すの。研究所が海の近くだからかな。健康診断で研究所に行くときくらいしか、お母さまとゆっくり過ごせなかったし……」

 そう言うと、目を伏せて薄く微笑む。

 研究に明け暮れている母親との思い出は、ほとんどが研究所に関わるものだった。けれど、それを悲しいと思ったことはない。優秀な科学者である母親は、澪にとって誇りであり、憧れてさえいたからだ。なのに、その研究所で不正が行われていたなんて——。

「澪、大丈夫か?」

 心配そうに声を掛けた悠人に、澪は精一杯の笑顔を見せた。

「平気です。私には師匠や遥がついているんですから。師匠には、橘家のことで面倒ばかりかけて、申し訳なく思ってますけど……今日の三者面談だって……」

「澪はそんなことを気にしなくていいんだよ」

 悠人は澪の頭にポンと大きな手を置いて言う。その言葉に嘘はないだろう。ただ、面倒をかけられたことは否定しておらず、この現状については、やはりそれなりの不満を感じているのだと確信する。

「お父さまのお仕事って、そんなに忙しいんですか?」

「まあ、忙しいのは忙しいと思うけど、家に帰れないほどではないはずだよ。仕事も上手い具合に人に押しつけてるし。あまり家に帰ってこないのは、少しでも美咲と一緒にいたいからだろうね」

「……えっ?」

 話の意味が今ひとつ掴めず、澪は振り向いて聞き返した。

「仕事のあと研究所に行ってることが多いんだよ。知らなかった?」

「うん……」

 仕事が忙しいと聞かされていたためか、不在のときはすべて仕事だと思い込んでいた。いや、実際に昔はそう言っていたはずだ。今ではもう尋ねることさえなくなったが、小さな子供のころは、両親が帰らない理由をよく訊いていた。そして、答えはいつも「仕事」だったのだ。

 悠人はズボンのポケットに片手を入れて、うつむいた。

「美咲は研究に明け暮れているからわかるが、大地があれこれ僕に押しつけるのは、多分、面倒なことをしたくないからだろうね。興味のあること以外はやりたがらない子供みたいな奴だから……」

 そう言って小さく息をつくと、顔を上げ、遠い眼差しを空に向ける。

「大地は、昔から自分勝手で気ままで自由だった」

 淡々とした口調。しかし、そこには深淵な感情が潜んでいるように感じられた。

「美咲のことも……いくら気に入ったからといって、まだ小学生の女の子を、いずれ結婚するつもりで引き取るなんて、僕には狂っているとしか思えなかった」

 怪盗ファントムとして絵画を取り返した大地は、一目見て、本来の持ち主である美咲に心を奪われた。そして、彼女に身寄りがいないことを知ると、剛三に頼んで養子として橘家に迎える——それが倫理的に褒められるものではないことは、澪も理解している。

「でも、剛三さんもどういうわけか乗り気でね。僕の反対意見は聞き入れてもらえなかったよ。幸か不幸か、小笠原の事故に遭って、大地と美咲の気持ちは通じ合ったみたいだけど」

 結婚前のことだが、大地と美咲が小笠原へ向かう途中、乗っていたフェリーが沈没するという事故に遭ったらしい。生存者はこの二人だけだったようだ。科学者としての橘美咲を特集していた新聞記事で、この話を知ったのだが、当事者である両親から直に聞いたことはない。

「事故に遭ったから……?」

「きっかけはそうだろうね。あの事故で、美咲にとって大地は命の恩人になったんだ。それまでも兄としては慕っていたようだけど、それとは違う、危うささえ感じるくらいの慕い方をするようになってね。事故からしばらくの間は、片時も離れようとはしなかった」

 それは初めて聞く話だった。過去のこととはいえ、自立した今の美咲とは別人のようで、澪は少しばかり戸惑いを感じてしまう。しかし、よく考えてみれば、無理もないのかもしれない。まだ10代前半の少女が、命を落としかねないほどの大事故に遭えば、心に深い傷を負うだろうことは容易に想像がついた。

「今の研究の道に進んだのも、大地の意向らしいよ」

「じゃあ、お父さまが才能を見いだしたってこと?」

「ある意味ではそういうことになるかな。でも、彼女にとっては幸せだったのかどうか……」

 以前の澪なら、迷うことなく「幸せだ」と言い返していただろう。しかし、研究所の不正を知ってしまった今では、そう断言する自信はなくなってしまった。美咲が関与していたのかはわからないが、研究所としての不正は間違いないらしく、そこまで追いつめられていたとしたら、もしかしたら——。

「大地が何を考えているのかわからない」

 悠人は白い柵に腕を置き、前屈みにもたれかかりながら言う。

「昔から相談してくれたことなんて何ひとつなかった。いつも自分ひとりで勝手に決めて進み、そして僕やまわりの人たちを巻き込んでいく。他人がどうなろうとお構いなしさ。僕は彼のことを友人だと思っていたけれど、彼は都合よく利用していただけなのかもしれない」

「……恨んでいるの?」

「そうかもしれないね。でも、どうしても嫌いになれない。悔しいけれど好きなんだよ」

 それは初めて聞く悠人の本音だった。どういうわけか、今日はこれまで語らなかったことを次々と口に上している。研究所の不正を知って少し参っているのだろうか。澪と同じように、もしかすると澪以上に、やりきれない思いを抱えているのかもしれない。言葉の端々からそれが滲んでいるような気がした。

 澪が無言で立ち尽くしていると、悠人はふっと柔らかく微笑んで振り向いた。

「何より、大地のおかげで澪と会えたわけだしね」

 そう言いながら、人差し指で澪の横髪をすくい上げ、ゆっくりとなぞるように耳に掛けていく。たったそれだけのことで、くすぐったさとは別のものを感じてゾクリとする。表情に出したつもりはなかったが、悠人にはすっかり見透かされていたようで、意味ありげに片側の口角が上がった。澪はほのかに頬を染めたまま、唇をとがらせる。

「師匠も最近自由に見えますけど」

「大地を見習ってみたんだよ」

 悠人は臆面もなく答えた。そして薄い唇に笑みをのせると、白い柵を握り、仄暗い鉛色の空を仰ぎ見る。

「人生で一度くらい、ひとつくらい、我が儘になっても構わないだろう?」

「……そういう言い方、ずるいです」

 澪は胸にズクンと鈍重な痛みを感じた。目を細め、鼻筋の通った彼の横顔をそっと見つめる。大地の我が儘に振り回され、剛三の野放図に付き合わされ、自分たちの世話まで押しつけられてきた、そんな彼がたったひとつ望むことだとしたら——。

「冷えてきたね。そろそろ行こうか」

 いつのまにか陽が落ち、あたりには急速に夜の帷が降りてきていた。自分の口から出た吐息はうっすらと白く、手足も顔もすっかり冷え切っている。澪はこくりと頷いて柵から手を離し、彼の隣に寄り添う。

「澪は何が食べたい?」

「……温かいもの」

「温かいものね、了解」

 悠人は笑いを含んだ声で復唱すると、澪の肩に手を回し、離れた駐車場に向かって歩き出した。

 二つの足音が次第に重なっていく。

 彼の隣は居心地がいい。物心ついたときからずっと大好きで、尊敬していて、言いようもないくらいに感謝もしている。そんな人に結婚を望まれるのは幸せなことかもしれない。そして、それを受け入れれば彼への恩返しにもなるだろう。

 けれど——。

 澪は視線を落としたまま眉を寄せ、そっと唇を引き結んだ。それ以外に選ぶべき未来のないことは理解している。だが、その現実と正面から向き合う覚悟までは、まだ持てずにいた。


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