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東京ラビリンス  作者: 瑞原唯子
本編
15/68

14. 裏取引

「遅かったな。待ちくたびれたぞ」

 学校から帰るとすぐに、澪と遥は剛三の書斎に呼び出された。いつもの怪盗ファントムの打ち合わせかと思ったが、扉を開けると、見知らぬ二人の男性が剛三の執務机の前に立っていた。二人とも折り目正しいスーツを身につけており、一人は剛三と同年代、もう一人は悠人と同じくらいの年頃に見える。澪が戸惑いの眼差しとともに軽く会釈をすると、年配の方の男性は、にっこりと人当たりの良い笑みを浮かべた。

「紹介しよう」

 剛三はよく通る声でそう言い、すっと立ち上がった。

「こちらは警察庁長官の楠昭彦さん、そして、警察庁警備局公安課の溝端彰さんだ」

「けっ……?!」

 大声を上げそうになり、澪は慌てて指先で口を押さえる。まさか正体を知られたのだろうか? 逮捕しに来たのだろうか? 橘家も会社も何もかもおしまいなのだろうか? 絶望的な想像が、次から次へと脳裏を駆け巡っていく。

 その横で、遥は冷静に首をひねった。

「楠って、もしかして……」

「そう、よく気付いたな。さすがは遥」

 剛三は嬉しそうに顔をほころばせ、声を弾ませる。

「楠長官は、悠人の父君だ」

「えっ……ええーーー?!!」

 澪は有らん限りの声を上げてのけぞった。

 楠長官の顔をまじまじと観察してみると、確かに、目元や顔の輪郭などは似ている気がする。彼が見せている穏やかな微笑みも、悠人のそれと重なるものがあった。しかし、これまで悠人から父親の話を聞いたことはなく、それどころか実家に帰っている様子もなく、父親との仲はあまり良くないのかもしれない。

 もしかすると——。

 ふと頭をよぎった仮説に、澪はごくりと唾を飲む。

 先代ファントムをやっていたことを父親に知られてしまい、そのせいで、折り合いが悪くなったのではないだろうか。警察庁長官の息子が怪盗の一味など許されるものではない。縁を切られるどころか逮捕されても仕方がない。やはり、部下を連れて訪ねてきたのは——最悪の懸念を顔に滲ませると、剛三は見透かしたかのように口の端を上げて言う。

「おまえたちには言ってなかったが、先代のときから取引しておってな。怪盗ファントムを黙認してもらう代わりに、要請があれば公安の手助けをすると」

「……えっ?」

 澪はとっさに話が呑み込めなかった。構わず剛三は続ける。

「黙認といっても、このことを知っているのは警察庁の上層部と公安の一部だけで、ファントムを逮捕しようと躍起になっている刑事たちは、あくまでも本気でかかってくるからな。気を緩めるでないぞ」

「はぁ……」

 少しずつ理解が追いついてきたが、あまりにも信じがたい話で、澪は気の抜けた返事しかできなかった。警察が怪盗を黙認というのもありえないが、その怪盗に手助けを頼むなど、常軌を逸しているとしかいいようがない。遥も同じ気持ちだったのか、呆れたように大きく溜息をついていた。

「今日は仕事の依頼に来ました。よろしく頼みますよ、可愛らしいファントムさん」

 楠長官は人なつこい笑みを向けて言う。

 戸惑いつつも、澪は上目遣いでちょこんと頭を下げた。怪盗ファントムを黙認する代償だと言われては、いくら気乗りしなくても断ることは出来ない。それに——警察が怪盗にどのような仕事を頼むのか、ほんの少しだけ興味をひかれる気持ちもあった。


 書斎脇の簡素な打ち合わせ机には、剛三をはじめとするいつもの面々に加え、楠長官と溝端の二人も席に着いていた。親子である悠人と楠長官は互いに素知らぬ顔をしている。溝端は懐から一枚の写真を取り出すと、すっと机の中央に差し出した。そこには、黒塗りの車から降りたところと思われる、濃紺色のスーツを着た初老の男性が写っていた。

「衆議院議員の長澤朗です」

「あ、テレビで見たことある」

 澪は場にそぐわない能天気な声を上げた。隣の篤史に冷ややかな目を向けられると、慌てて口もとを押さえ、気まずい思いで小さく身を縮こまらせる。楠長官は、そんな澪を見守るように微笑むが、隣の溝端に目で促されて本題に入る。

「長澤議員は、総理よりも力があると云われる陰の権力者で、橘会長もご存知かとは思いますが、以前から数多くの不透明な金の流れが噂されています」

「別にめずらしい話でもなかろう。公安が介入するほどの件とは思えんが」

 フン、と剛三は鼻を鳴らした。

 楠長官は机の上で手を組み合わせる。

「癒着の相手が問題なのです。いくつもの過激派や宗教団体から不正に資金提供を受け、彼らの利益となるよう行動しており、今もある法案を通さないよう裏工作をしていると聞いています」

「なるほどな」

 剛三は瞳に怜悧な光を宿し、挑発するように口の端を上げる。

「その法案とやらを通さなければ、警察庁として都合が悪いということか」

「否定はしませんが、我々がこの国を守るためとご理解いただきたい」

 楠長官は顔色ひとつ変えずに答えた。

 その次第に大きくなっていく話を聞きながら、澪は無意識のうちに眉をひそめていた。過激派とか宗教団体とか法案とか、馴染みのない物騒な単語が飛び交い、何か途方もない話だというのはわかるが、あまりにも自分のいる世界とは違いすぎて、今ひとつ現実味を感じることができない。

「あの……そんなに深刻な問題なら、本職の人たちで捜査した方がいいと思いますけど」

「もちろん私たちも捜査を行ってきましたが、確たる証拠が手に入れられないのです。相手が相手だけに、こちらも慎重にならざるを得ず、警察という枠の中では限界がありましてね」

 楠長官は静かにそう言い、視線を上げた。

「そこで、盗みのプロであるあなた方に、ぜひともご協力を賜りたいと」

「プロって……私たちお金をもらってませんし、ボランティアです」

 澪は反発心を露わに言い返す。もちろん、自分たちが罪を犯しているという事実は理解しているが、誰かを救うためという免罪符までは手放したくなかった。もっとも、楠長官に深い意図はなかったようで、にっこり微笑みながら優しく言いあらためる。

「それだけ凄いということだよ、澪ちゃん」

 それでも、澪のもやもやした気持ちは晴れなかった。彼に悪気はないのかもしれないが、言い方に何か引っかかるものを感じるのだ。それに、犯罪に関することで褒められても、素直に喜ぶわけにはいかないだろう。

「それで、何を盗めばいいの?」

 それまで黙っていた遥が、じれったそうに淀んだ空気に切り込んだ。

 溝端は涼しい顔でその疑問に答える。

「長澤議員が自宅として使っている成城の邸宅、そこの二階の書斎に、インターネットに接続していないスタンドアロンのパソコンがあります。そのハードディスクのデータを盗み出していただきたい」

「そこに癒着の確たる証拠があるってこと?」

「可能性は高いと考えています」

 溝端は細い眼鏡をクイッと押し上げた。その官僚的な口調も、感情のない表情も、隙のない仕草も、何もかもが冷徹なエリートという雰囲気を醸し出している。対照的に、楠長官はどこまでも人当たりが柔らかく穏やかだった。

「どうでしょう、引き受けてもらえますかな?」

「良かろう。ただし、方法はこちらに一任してもらう」

 剛三は威圧的な厳しい口調で答えるが、それでも楠長官の穏やかな笑顔は崩れない。

「もちろん、それで構いません。よろしくお願いします」

 そう言って深々とお辞儀をする。隣の溝端も頭を下げた。まるで警察側が礼を尽くして頼んでいるかのように見えるが、それがただの体裁にすぎないことは、おそらくここにいる誰もが承知していた。


「大丈夫かなぁ」

 楠長官たちが訪問したその日から準備を始め、数日後のこの日、とうとう依頼を実行に移すことになった。しかし、そのやたらと面倒な方法を聞いた澪は、大きな不安を感じずにはいられなかった。

「普通に侵入した方が簡単ですよね?」

「まあ、剛三さんの一存だからね」

 隣の悠人が軽く苦笑しながら答える。その常套句で片付けてしまうのもどうかと思うが、実際に剛三の意向には逆らえないのだから、そう答えるより他に仕方がないのかもしれない。

「ファースト、こちらの準備は完了した。実行開始だ」

『了解』

 運転席に座る篤史がヘッドセットで指示を出すと、近くで待機している遥から短い応答があった。いかにも面倒くさそうな投げやりな声だが、公安に対する反発ではなく、自分の役回りを不満に思ってのことだろう。計画についての打ち合わせをしたあとで、どうして自分だけこんな雑用なのか、もっと面白いことがしたかった、と口をとがらせてブツブツと不平をこぼしていたのだ。

 それでも、きちんと役割を果たすのが遥である。

 応答から間もなく、ガシャンと派手にガラスの割れる音がして、そこからモクモクと白煙が上がった。彼が二階の書斎に煙り玉を打ち込んだのだ。家政婦と思われる女性の悲鳴も聞こえる。もちろん煙は無害なものであるが、何も知らなければ、さぞや驚くだろうことは想像に難くない。

 すぐに、澪の膝にのせたノートパソコンが緊急通報を受信した。本来はセキュリティ会社に送信されるものだが、長澤家のものだけここで受けるよう細工したのである。澪は画面を操作してヘッドセットで応対した。

「こちらはSKセキュリティサービスです」

「あのっ、煙が! 窓が割られて……!!」

 年配の女性が、パニックになって要領を得ない説明をする。

「はい、すぐに緊急対処員を向かわせますので、煙にも窓にも近づかないで、そのまま落ち着いてお待ちください。数分で到着予定です。警察の方にはこちらから通報しておきます」

「お願い、お願いだから早く来てっ!」

「今そちらに向かっていますので、どうかご安心ください」

 澪は怯える女性を宥めてから通話を切った。ふう、と大きくゆっくりと肩を上下させる。上手く対処できたか自信はなかったが、隣の悠人に優しく微笑まれて、ようやく少し安堵することができた。

 コホン、と篤史がわざとらしく咳払いした。

「何よ」

「別に」

 彼は前を向いたまま澄まし顔で答える。いつもはっきりと言葉にしないので、何を知っているのかはわからないが、このところ悠人との仲を冷やかすような言動が多い。別に師匠とは何でもないんだから——澪は何度もそう言いかけたが、あえて自分から切り出すのも躊躇われて、いまだに口にすることは出来ていない。

 ガラガラガラ——。

 ワゴン車の引き戸を開けて、遥がさっと後部座席に乗り込んできた。澪の隣に腰を下ろしながら覆面マスクを外し、仏頂面のまま、くしゃくしゃになった髪を無造作に掻き上げる。

「さて、行きますか」

 篤史は振り返って遥の無事を確認すると、軽く意気込んでヘルメットをかぶった。すでに防護ベストや警棒などは装備しており、準備は万端に整えられている。悠人もほぼ同じ格好をしていた。しかし、澪だけは二人とまったく別の、黒色のパンツスーツを着て、黒髪を後ろでまとめるという、いささか地味な社会人風の出で立ちだ。三人は遥を残して車から降り、目的の長澤家へと徒歩で向かっていった。


「SKセキュリティから来ました」

「私は、通報を受けて警視庁から」

 玄関口で応対した少しふくよかな家政婦に、三人は嘘の身分を告げた。念入りにも、澪は偽物の警察手帳を掲げている。そのポーズは意識的に誠一を真似ており、こんなときにもかかわらず、少しだけ気持ちが浮き立っていた。しかし、家政婦はまだ動揺が治まっていないらしく、気もそぞろで、警察手帳などまるで気に留めていなかった。

「あ、あの、二階に何かが投げ込まれて、煙も出ていて……」

「状況を確認してきますので、一階でお待ちいただけますか」

「はい、どうかよろしくお願いします」

 家政婦は大きな不安を顔に滲ませながら、緊急対処員を装った悠人たちに深々と頭を下げた。

「刑事さん、この家の方に話を聞くのでは?」

「え……あ、はい! お話を聞かせてくださいね」

 他人事のようにぼんやりしていた澪は、悠人に促されると、ハッと我にかえって家政婦にそう言った。とっさに刑事らしからぬ口調になったが、怪しまれてはいないようだ。まだ怯える彼女を気遣いつつ中へと誘導する。悠人と篤史は一礼しながらその脇をすり抜け、そそくさと二階へ駆け上がっていった。


 ダイニングキッチンで、澪と家政婦は向かい合って座っていた。

 話を聞くといっても、すべて澪たちが計画を立てたので、何が起こったかは当然わかっている。長澤議員が仕事で不在なことも、奥さんが所用で出掛けていることも調査済みだ。さらに、この家からの電話発信と着信はジャックし、相手と繋がらないようにしていたので、まだ主と連絡が取れていないことも承知していた。

 つまり、この聞き取りの目的は、家政婦をここに足止めすることだけである。

 もちろん彼女がそんな事実を知るはずもなく、澪が質問すると、申し訳ないくらい真面目に答えてくれた。しかし、彼女の緊張が解けるにつれ、大いに話が脱線するようになる。澪もあれこれ質問を浴びせられて冷や汗をかいたが、今のところはなんとか切り抜けられていた。

「お嬢さんみたいな可愛らしい子が来てくれて良かったわぁ。刑事なんてみんな目つきが悪くて、態度が悪くて、柄も悪い、いかめしい男ばかりと思っていたから、怒鳴られたりしないか不安だったのよ」

 そう言って、家政婦はホホホと笑った。澪は小さく肩をすくめる。

「刑事にも、いろいろな人がいますよ」

「お嬢さんはどうして刑事になったの?」

「えっ?」

 不意打ちの質問に焦りつつ、必死に頭を巡らせて言葉を紡ぎ出す。

「えっと、世の中の役に立ちたくて……」

「まあ、若いのに本当に立派ねぇ」

 少しも疑うことなく素直に感嘆されてしまい、澪は申し訳なさに居たたまれなくなる。騙す相手が悪人ばかりであれば気が楽なのだが、必ずしもそうはいかないのがつらいところだ。

「それにしても遅いわねぇ。何をやっているのかしら」

 家政婦は思い出したようにそう言うと、頬に手を当てながら二階の方へ視線を向ける。

「あっ、あちらは危険ですし警備員に任せておきましょう」

「それもそうね。お嬢さんとお話しているのも楽しいし」

 澪としてはそれも困る。これ以上、突っ込んだことを聞かれれば、いつ綻びが出ないとも限らない。左耳のイヤホンで聞いた篤史たちの報告によると、該当のパソコンはすぐに見つかったが、パスワード解析とデータ移行に時間がかかっているようだ。どうか早く終わって、と心の中で懸命に祈りつつ笑顔を取り繕う。

 すると——。

 コンコン、とノックされて扉が開いた。

「遅くなってしまい申し訳ありません。確認調査が一通り終わりました。投げ入れられたものに毒性はなく、癇癪玉のようなものと思われます。おそらく近所の子供の悪戯ではないでしょうか」

「そうですか、安心しました」

 悠人が説明すると、家政婦は胸に手を当ててホッと息をついた。

「投げ入れられたものや割れたガラスの破片など、とりあえず簡単に片付けておきましたが、まだ細かいものが残っているかもしれませんので、怪我などなさらないようお気をつけください」

「ご丁寧にありがとうございます」

 軽く一礼して出ていく悠人と篤史を、家政婦は玄関まで送りに行く。澪も慌ててガタリと立ち上がった。

「あっ、あの! 私もこれで失礼します!!」

「あら、もっとゆっくりしていらしたら?」

 せっかくの話し相手を手放したくないのだろう。家政婦はにっこりとして声を弾ませる。

「お気持ちは嬉しいのですが、私もそろそろ署に戻らないとなりませんので……」

「そうね、お仕事中だったのよね。私ったら長々とお引き留めしてごめんなさい」

「いえ、楽しかったです」

 澪は薄く微笑む。そこには少しの本心も混じっていた。嘘に気付かれないかずっと気がかりだったし、騙していることを申し訳なくも思ったが、それでも、彼女が温かく気さくに接してくれたことは、この作戦とは関係なく素直に嬉しかった。


「探してるものは見つかった?」

 刑事変装用のスーツから普段着に着替えた澪は、黒髪をなびかせて剛三の書斎に入ると、打ち合わせ机で作業をしている篤史に尋ねた。彼は防護ベストとヘルメットを外したくらいで、まだセキュリティ会社の制服を身につけたまま、真面目な顔でノートパソコンに向かっている。

「いま捜索してるところ。しばらく待ってろ」

「うん」

 澪は隣に座って頬杖をついた。その打ち合わせ机についているのは、データ捜索作業をしている篤史、それを斜め後方から見張る公安の溝端、向かいで急かさず待っている悠人と遥、そして今やって来たばかりの澪である。楠長官は今日は来ておらず、剛三は執務机の方で他の仕事をしているようだ。

「探してるもの以外には何が入っているの?」

「ほとんどが不正の証拠になりえるデータだよ」

 誰にともなく尋ねた澪に、悠人は些末なことであるかのようにさらりと答えた。

「長澤議員ならばそのくらい揉み消すことは可能だろう」

 剛三が執務机の方から口を挟む。

「ええ、だからこそ例のデータが必要なのです」

 溝端も同調する。その口ぶりはとても冷静だったが、眼鏡の奥の瞳は燃えたぎり、怖いくらいに鋭い光を放っていた。職務に対する忠誠心なのだろうか。それとも、彼自身の正義感なのだろうか——このときの澪には、彼の静かなる情熱の正体がまだわかっていなかった。


「おし、暗号化フォルダ開いた!」

 篤史の弾けた声に反応し、澪たちはパッと一斉に振り向く。

 これまでの捜索作業で目的のデータは見つかっておらず、残るは、唯一暗号化されていたこのフォルダのみだった。おそらく、最も秘密にしたいファイルが、ここに保存されているはずである。

「どう? 探してるものはあった?」

「それはこれから確認……って、はぁっ?!!」

 澪が画面を覗き込もうとした瞬間、篤史は裏返った声を上げ、そして力まかせにノートパソコンを閉じた。壊れるかと思うくらいの勢いである。澪だけでなく、遥も、悠人も、みな驚いて不思議そうな顔をした。篤史は閉じたノートパソコンに手を掛けたまま、固く口を引き結び、額にじわりと大粒の汗を滲ませていく。

「澪はあっちへ行ってろ。遥も来るな」

「ちょっ……、何よそれ!!」

「子供には見せられないんだよ!!!」

 カッとして噛みついた澪に、篤史はその何倍もの迫力で怒鳴り返した。彼がここまで感情的になったのは初めてである。少なくとも澪は今まで一度も見たことがなかった。気圧されて咄嗟に言葉が出てこない。

「澪、そっちに座ってて」

「……はい」

 さすがに悠人に命じられては従わざるを得ない。澪は渋々そう返事をし、示された対面側にまわり遥の隣席に座った。入れ替わりに悠人が篤史の隣席に座る。篤史は険しい目つきでまわりを確認すると、気持ちを落ち着けるように息をつき、悠人と溝端に覗き込まれながら、そろりとノートパソコンを開いた。

「……何だ、これは」

「さあな。お偉い議員さんの趣味だろ」

 溝端が面食らったように尋ねると、篤史はキーボードに手を置いて吐き捨てるように答えた。悠人も画面を眺めながら眉をひそめている。三人とも見るからに不快そうな表情をしており、何かはわからないが、それが余程のものであることが窺えた。

「こういう写真ばかりなのか? 他にはないのか?」

「ファイルは全部画像みたいだが、開けてみないと何かはわかんねぇよ。今やってんだから黙って待ってろ」

 篤史はかなり苛立っているらしく、遥か年上の溝端に、失礼なくらいぞんざいな口調で返事をした。ただ、その間も手は動かし続けている。それを見て溝端は口をつぐんだ。書斎にはカシャカシャという乾いた打鍵音だけが響いていた。


「ねぇ、何なんだろう? 遥は何だと思う?」

「普通に考えれば、エロかグロのどっちかだろうね」

 画面を見ることを許されない澪と遥は、目の前の三人の様子を窺いながら、顔を近づけてひそひそと話し合う。しかし、部屋が静かだったこともあり、あまり離れていない三人には、話の内容まで丸聞こえだったようだ。

「子供が余計な詮索するなっ!」

 篤史は画面から目を離すことなく叱り飛ばした。澪は口をとがらせる。

「そんなに子供じゃないもん」

「17歳は間違いなく子供だ」

 そう言う篤史も、成人はしているのかもしれないが、さほど澪と年齢は変わらないはずだ。大学二年生と聞いているので二十歳くらいだろう。ほんの三歳ほどしか違わない彼に、偉そうに子供扱いされるのは、澪としてはやはり面白くない。

「澪、篤史の言うとおり、君はまだ子供なんだよ」

 悠人にそう言われるのも釈然としないものがある。確かに年齢的には親子ほど離れているが、強引なキスをしたうえ結婚まで迫っているのだから、もはや子供扱いする資格があるとは思えない。

「よくそんなことが言えますよね」

「澪は大人として扱われたいの?」

「……子供のままでいいです」

 にっこりと満面の笑みを浮かべて尋ねられると、そこはかとない身の危険を感じてしまい、不本意ながらも引き下がるしかなかった。篤史と剛三にはニヤニヤと意味ありげな目を向けられる。いろいろと言いたいことはあったものの、藪蛇になりかねないので、あえて口を閉ざして知らんぷりを決め込んだ。

「でも、篤史ひとりだけで確認するのって効率悪くない?」

 話を逸らそうと何気なくそう言うと、正面の三人は一斉に顔を上げた。思わず澪はビクリとする。

「だって、ほら、私たちには見せられなくても、師匠なら見てもいいんでしょう? 二人で分担した方が早く終わると思うんだけど。師匠だって篤史ほどじゃないけどパソコン使えるよ? 名前とか住所とか書かれてる画像があるか確認するくらいなら出来るはずだし……特殊な方法であぶり出さないと確認できないなら仕方ないけど……」

「それだっ!!」

「えっ?」

 篤史は唐突に澪を指さして大声で叫ぶと、ノートパソコンにかぶりつき、これまでの何倍もの速度でキーボードを叩き始めた。視線もせわしなくあちらこちらと動いている。その表情は真剣そのものだった。

「画像ファイルに隠し情報として埋め込まれているかもしれない」

 澪にその意味はわからなかったが、彼が何かをひらめいたのは確かだろう。

「出たっ!」

 しばらく作業に没頭していたかと思うと、短く歓喜の声を上げ、ほっとしたように椅子の背もたれに身を預ける。その両側から、悠人と溝端が前のめりになって画面を覗き込んだ。

「これで間違いないでしょう」

 そう言って、溝端は中指で眼鏡を押し上げ、切れ長の目をちらりと篤史に流す。

「天才ハッカーにしては随分と手際が悪かったですね」

「まったく、よりによって澪に気付かされるとはな」

 篤史は苦々しげに顔をしかめて吐き捨てた。その言い様に、澪はムッとして口をとがらせる。

「何よ、素直に感謝してくれてもいいじゃない」

 そう抗議するものの、自分の言葉がどうヒントになったのかは理解しておらず、あまり声を大きくして言うことはできなかった。

 篤史は天井を仰いで後頭部で手を組み合わせる。

「方法としては難しいわけじゃなく初歩的なものなんだ。けど、まさかあのジジイがやってるとは思わなかったし、このとんでもない画像を見て完全に逆上してたからな」

「仕方がないだろう」

 悠人は軽く溜息を落とす。

「フォルダのパスワードを破ったとしても、この画像を見れば、それだけでたいていの人間は納得してしまう。これを隠すためにパスワードを掛けたんだとね。心理的なもう一つの鍵といったところだな」

「なるほど、趣味と実益を兼ねた保管方法というわけですか」

 溝端は抑揚のない声で相槌を打つと、ノートパソコンの画面を冷ややかに見下ろした。

「どうやら一つのファイルが一人または一企業の情報になっているようですね。おそらく他のファイルにも書き込まれているでしょう。すべて取り出すにはどのくらいかかりますか?」

「そうだな、一時間くらいってところか」

「今すぐ取りかかってください」

「はいはい、やっておきますので休憩してきていいですよ」

 篤史はいかにもうざったそうにそう言い、再びノートパソコンに向かうと、溝端を追い払うかのごとく手をひらひらさせた。しかし、彼は鉄仮面のようにピクリとも表情を動かさない。

「私が目を離すわけにはいきません」

「……勝手にしろ」

 まるきり信用していないであろう口ぶりに、篤史は眉間に皺を寄せ、前を向いたまま突き放すように言う。そして、関わり合いになりたくないとばかりに、必要以上に画面に顔を近づけて作業を始めた。


「二人とも、夕食を済ませておいで」

 悠人が、正面に座ったままの澪と遥にそう促した。

 掛け時計はもう夕食の時間を指している。それを見て、澪は思い出したように空腹を感じた。この案件についての打ち合わせのため、昼食が早めだったせいもあるのだろう。今にもおなかが鳴り出しそうである。

「行こう、澪、おなかすいた」

 遥も同じく空腹を感じていたようで、そう言いながら、さっそく机に手をついて立ち上がった。澪も続いて立ち上がる。一人で作業を続ける篤史のことが気になったが、ここにいても自分に手伝えることはない。今は、素直に悠人の言葉に甘えることにした。


「はあっ?!!」

 再び発せられた篤史のただならぬ声に、書斎を出ようとしていた澪たちの足が止まった。振り返ると、彼が画面を覗き込んだまま固まっているのが見えるが、その画面に何が映し出されているのかまではわからない。

 澪たちを見送ろうとしていた悠人も、怪訝な顔で振り向いた。

「どうしたんだ、篤史」

「あ、いや……」

 いつになく篤史の歯切れが悪い。すると、斜め後ろにいた溝端が口を切る。

「財団法人 生体高エネルギー研究所——当然ご存知でしょうが、橘美咲女史が所長を務める研究所です。長澤議員は、不正に提供を受けた資金の多くをそこに流しています」

「……えっ?」

 あまりにも突飛な話で思考が追いつかない。母の研究所が長澤議員から資金を受け取り、その資金というのは、過激派や宗教団体から不正に得られたもので——澪は必死に咀嚼するが、内容の難しさゆえぼんやりとしか理解できない。それでも、深刻な事態であることを感じ取り、じわじわと嫌な汗が滲んでくる。遥も、隣で険しい顔を見せていた。

「知っておったのだな?」

 執務机の剛三が、非難めいた眼差しを溝端に投げる。それでも彼は平然とした態度を崩さない。

「確たる証拠はないと申し上げました」

「敢えて我々に曝かせるとは、警察庁も良い趣味をしておる」

「感謝していただきたい。あまり他に知られたくないでしょう」

 溝端は一歩も引かず、百戦錬磨の剛三と渡り合っている。彼自身の性格もあるのかもしれないが、こちらの弱みを握っていることが何より大きいのだろう。だからといって、しおらしくなるような剛三ではない。鋭く刺すように睨みつけて威嚇する。

「あまり図に乗るでないぞ」

「ご忠告、痛み入ります」

 それでも溝端は動じることなく、淡々と受け流した。

 澪は立ち尽くしたままそっと眉を寄せる。この一連のやりとりを聞いていると、まるで美咲の不正が決定事項のようである。少なくとも二人はそれを前提に話をしていた。しかし、澪としてはとても信じられなかったし、信じたくもなかった。

「お母さまが不正なお金をもらってたって、本当なんですか?」

「十分に有り得る話だ。研究にはいくらでも金がかかるからな」

 剛三は事も無げに頷いた。すぐに悠人が補足する。

「しかし、研究一筋の美咲が主導できるものとは思えません。おそらく大地が咬んでいるのではないかと。もしかすると、美咲は何も知らないということも考えられます」

「なるほどな……」

 剛三は真剣に考え込む。

「問題は、なぜ長澤議員が資金を提供していたのかということだ。何の見返りもなくそんなことをする奴ではあるまい。美咲の研究で利益を享受する算段をつけていたとしか思えんが、そのあたりのことは何かわかっておらんのか」

 溝端は横目でノートパソコンの画面を一瞥した。

「ファイルには書かれていないようですね。もし、何かわかりましたらお知らせいたします。ご承知いただいているとは思いますが、捜査の妨げになりますので、橘美咲女史にも、橘大地氏にも、その他の誰にも、なにとぞ今回の件はご内密にお願いします」

 澪は口を引き結んでうつむいた。肩から落ちた黒髪がさらりと頬を掠める。こんな話を聞いたあとで、何事もなかったように両親と接するなど、果たして自分に出来るのだろうか。両親の不正を完全に信じたわけではない。だからこそ本人の口からきちんと聞いて、話し合いたいのに、それすら許されないことがもどかしい。

「お母さまの研究所、どうなるの……?」

「ご安心ください。この件が表沙汰になることはありません。長澤議員の罪を公に暴き立てるつもりはなく、取引材料として、これらの証拠を使わせていただく所存ですので。当然、研究所への金の流れはストップすることになるでしょうが」

 溝端はいたって事務的に答えた。非難しているようにも、嫌味を言っているようにも聞こえない。しかし、彼の思考がまったく掴めない分、澪には、その答えがかえって空恐ろしく感じられた。


 澪、遥、悠人の三人は、そろって廊下に出ると静かに書斎の扉を閉めた。当初は、澪と遥だけで夕食に行くはずだったが、急に悠人も一緒に行くと言ってついてきたのだ。澪たちがショックを受けていないか心配しているのだろう。

 窓から見える風景は、もうすっかり紺色に塗り替えられていた。その下方で、黒い枯れ木が音もなく揺れる。

 澪はほんのり冷えた空気を吸い込み、息をついた。

「これで、いいのかな」

「何が?」

 遥は無表情のまま尋ね返した。少し躊躇いつつ、澪は後ろで手を組んで答える。

「長澤議員も、研究所も、何の罰も受けないみたいなこと言ってたから」

「澪は、母さんや父さんが逮捕されてもいいの?」

 その挑発的な物言いに、幾分かムッとしながらも冷静に言葉を返す。

「別に逮捕されてほしいわけじゃないよ。私だってそんなの嫌だし、困るし、このままずっと平穏な生活が続けばいいって思ってる。だけど……もし本当に、お母さまやお父さまが悪いことをしてるんだったら……」

「それをいったら僕らも同じだよ。窃盗してるわけだし」

「それは……そうなんだけど……」

 遥の指摘があまりに身も蓋もなくて、澪は言葉に詰まった。確かに自分たちも罪は犯している。が、私利私欲でなければ、他人を傷つけるものでもない。一方の長澤議員は、過激派や宗教団体から大金をもらい受け、この日本を危険にさらしているのだ。そして、その金が美咲の研究所に流れているのだとしたら——。

「澪」

 考え込んでいた澪の頭に、悠人が優しく微笑みながら手を置いた。

「澪の考えていることは正しい。これからもずっとその気持ちを忘れずにいてほしいと思う。だが、現実には、正義よりも最善を選択することは少なくないんだ。納得はしなくてもいい。ただ、自分ではどうにも出来ないことであれば、あまり深く思い悩まない方がいい」

 それは、澪を傷つけることなく宥めるために、慎重に選んだ言葉なのだろう。けれど、どことなく彼自身に言い聞かせているようでもあった。師匠もつらいのかもしれない——澪はそう感じたが、硬い表情のままこくりと頷くことしかできなかった。

 悠人に促されて、澪たちはゆっくりと歩き出す。

 誰も口を開こうとはせず、三人の靴音だけが、静寂に包まれた廊下に冷たく響いた。


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