プロローグ(後編)
森野春子の自宅は職場から徒歩数分の距離にある。
自宅に着いた春子は、キャリーケースを置いてすぐ戻る予定であったがここでふと、持ち帰ったキャリーケースに違和感をもった。
そして今。
通行人も交通車両もそこそこ行き交う一般道で
頭にウォーボンネットを被り、顔には奇抜なデザインの面を着け、個性的な衣装を身に纏いボロ布にしか見えないマントを靡かせ足早にどピンクのキャリーケースを引いて歩く不審者を周囲の者達は距離をとり二度見・三度見を繰り返す。
が、春子はそんな周囲の様子など知った事ではなかった。
(まったく沖のヤツめ。人のキャリーケースにアレやコレや詰め込みおって)
春子は先程、自宅でキャリーケースを開けて驚いた。
というのも職場の自室に飾ったはずのコレクションと、確かにデスクに置いたはずの面まで詰め込まれていたからだ。
沖野とは、当時中学生だったヤツの家に、大学生だった私が家庭教師として訪問するようになってからの、かれこれ20年来の付き合いになるが、こんな巧妙さを持ち合わせていたとは...。
しかし、残念だったな沖野。
お前もまた分かっていなかったようだ。
今まで〝そこ〟に調査対象があるならジャングルの奥だろうが、標高の高い山だろうが行き、
様々な交渉も不可能という部族の元へも何度も足を運び、時には縄で縛られるというハプニングにあいながらも最後には調査する権利をもぎとってきた並々ならぬ執念深さを持つ私という人物を。
ここで春子は一旦足を止め、キャリーケースに目を向ける。
実はコレ先程自宅で新たに詰め直し
従量増し増しにバージョンアップしたのだ。
スペースが無いなど知ったことか!
無いなら作ればいいだけのこと!
「はーはっはっはっはっは。フンッ!」
決意新たに突然高笑いをあげ、鼻息を荒くした春子に
周囲は一層距離をとった。
(お。アレは...。)
春子は今一番会いたかった人物が少し先の横断歩道の手前で信号待ちしている後ろ姿を捉えニヤッと笑みを浮かべる。
「沖野翔太ァ!!」
するとその声掛けに沖野の肩が〝ビクッ〟と跳ねる。
(くっくっく。どうやら距離はあったが聞こえたようだな。)
そして追いつくべく更に足を速めた春子だったがそこの信号が青に変わるや否や沖野は振り返りもせず駆け出した。
「チッ!アイツ。」
だが舌打ちした直後、左から来る大型トラックに気付いた春子が再び声を張り上げる。
「沖ッ!!!止まれーーーーー!」
瞬間、景色が揺らいだ気がした。
「な、何が..起きてる....」
春子は今、目の前の光景に目が逸せないでいた。
着けている面をゆっくり外し周囲を窺う。
....『ない』
今そこにあった
街の『音』が『匂い』が
一瞬にして無くなった?
全てがない
感じられない
何故、自分だけが動いているのか。
何故、周囲の全てが止まっているのか。
常識ではあり得ない事が、今この瞬間起こっているのは間違いなかった__。
だが呆けていたのも束の間次に春子は視界に入ったそれに気付くとすぐさま正気に戻り浅くなった呼吸を無理矢理おさえつけて駆け寄る。
走る格好のまま止まった沖野はすぐ側まで迫った大型トラックを見上げている。
春子はそんな沖野の脇に手を入れ羽交い締めにすると、トラックから距離を取るべく引っ張った。
ぐぐぐぅぅぅ!?
(?)
ふんがぁぁぁぁ!
(栄養が、全部身長に、いったヤツだと、思っていたがっ)
ぬぎぃぃぃぃぃぃぃ!
(どこにッ、、こんな重さうぉぉぉ、隠し、持ってんダァァァーーー!!)
「はぁ??ちょ、どうなってンの??」
しかし何故かそこにいる沖野が動かせないでいると春子は焦る気持ちを抑えて思考を巡らす。
(斯くなる上は...。)
「怪我はするかもだけど死ぬよりマシと思ってくれる(沖野なら!)」
そして意を決した春子は沖野を殴る蹴る引っ張りまくる暴挙にでた。
・
・
・
・
・
ハァ。ハァ。ハァ。
「なん、で...。」
春子は膝に手をあて、息も絶え絶えにそう声を漏らす。
結局トラックの正面に位置した沖野が動いた様子は1ミリもなく、また相当な暴力を振るったにも関わらず、その体は傷1つ負うことなくそこにある。
(どうして...。)
春子は滴る汗を手で雑に拭い呼吸を整える。
「次は....。」
(!!!!)
しかしここで先程もあった〝揺らぎ〟を感じた春子は〝(まさか)〟と思った瞬間、一度大きく息を吸いキャリーケースを持つ手に力を込めるとハンマー投げの要領で沖野を名一杯ぶん殴った。
ー 全てが同時だった ー
街に『音』と『匂い』がもどり、殴られた沖野が前方に飛ぶ。
春子は沖野が今までいた位置に立って
驚愕の色を浮かべたトラックの運転手とバチリと目が合った。
けたたましいブレーキ音と体への衝撃。
春子はそのまま高ーく高ーく空を飛び・・・・落ちた。
「先生ーーーーッ!!」
目を開けることはどうやらできないらしい
遠ざかる意識のなか
沖くんの声が
聞こえた気がした。