第9話 手紙
終戦から3か月が経過した昭和20年12月1日、陸軍省、海軍省が廃止され、それぞれ第一復員省、第二復員省として設置された。
それから半年後の昭和21年6月15日、両省は統合されて復員庁となり、第一復員局が旧陸軍関係を、第二復員局が旧海軍関係を担当することとなった。
さらに1年半年後の昭和22年10月15日、復員庁は廃止となる。
第二復員局は内閣総理大臣直属となった後、昭和23年1月1日に廃止され、その業務は引揚援護院に引き継がれた。
第一復員局は、厚生省に移管された後、昭和23年5月31日に引揚援護院と統合して厚生省外局の引揚援護庁となった。
これにより、復員業務はすべて引揚援護庁に引き継がれ、さらにその後、厚生省本省に設置された引揚援護局に移管されたことから、以後の引揚援護、戦傷病者、戦没者遺族、未帰還者留守家族等の援護及び旧陸海軍の残務の整理を行う事業は、防衛省ではなく厚生労働省が担当することになった。
❏❏❏❏
昭和21年6月末。
日本に帰国した古川俊夫は、復員庁第一復員局の出先機関が用意したかつての兵舎に入った。
長い間忘れていた風呂につかり、伸び放題の髪を切って、ひげを剃る。麦飯と味噌汁という食事をとると、日本に帰ってきたという実感がようやく湧いてきた。
翌朝、乾パンと復員服、無料乗車券に三百円ほどのお金を渡され、汽車で郷里へと向かった。
一日汽車に揺られて、やっと郷里に着いたが、出征のときバンザイで送り出された駅に、古川の帰還を祝う者は誰もいなかった。
懐かしい街並みを歩いてみても、あちらこちらから冷たい視線を向けられているように感じられ、見知ったはずの顔からも顔を背けられる。
カーキ色の復員服は、この町にとって、戦争の亡霊を思わせる異様な姿だったのかもしれない。
向けられた視線は、まるで厄介者を見るようで痛い。
(負けて帰ってきたからなのか。だが、負けたのは日本だ。俺ではない)
(それとも、捕虜になったからか)
戦陣訓は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という。
しかし、武装解除は上官の命令によるものだった。
好きで兵隊になったわけじゃない。望んで戦地に行ったわけじゃない。
だが。
この、手のひらを返したような扱いはどうだ。
確かに日本は負けた。けれど、それは自分のせいじゃない。お上が勝手に戦争をして勝手に負けたんだ。
古川にすれば、到底納得できるはずがなかった。
(こんな思いをするために、戦地から帰ってきたのか。こんな情けない、惨めな扱いを受けるために戦地に送られたのか)
古川俊夫は、祖国のために命をかけて戦った。泥の中を這いずり回った。それが、日本を、いや、親兄弟、妻や娘を守るためだと思えばこそ堪えられた。
命を失う覚悟で銃を構えた。怯えながら塹壕に潜んだ。部隊が散り散りになっても、帰ってこられる場所があると信じられたからこそ、一人になっても歩き続けられた。
斃れた同胞の死体から服を剥ぎ取った。靴を脱がせて奪い取った。雑嚢から食糧を持ち去った。
何人もの日本人を見殺しにし、うじやハエがたかる死体を放置した。ハゲタカがそれをついばむのを見なかったことにした。
それでも。
出征の日、大歓声と少しばかりの涙で見送ってくれたこの町の人から、家族が白い目で見られることのないよう国に尽くしてきたつもりだった。
その挙げ句がこの仕打ちなのかと、唇を噛みしめる。拳を痛いほど握りしめる。帽子を目深にかぶり、前方を睨みつける目と引きつる頬を隠す。
だが、兵士の姿を隠すことはできない。
平和が訪れた町に兵士は異形の存在だ。負けた日本兵は不吉の象徴でしかない。その姿は嫌でも敗戦を思い起こさせる。
教えられてきたことは偽りだったと、お前達は間違えていたのだと、いいように騙されて大切なものを失ったのだと、そのことを嫌でも思い知らされる。
敗戦国で貧しさにあえぐ人々にとっては、平和になったのではない。戦争が終わっただけなのだ。
しかも。
負けて終わった。兵隊はもういらない。負けたのだからなおさらだ。役に立たなかったも同然。生きて帰ってなんになる。
俊夫の心が荒んでくる。
そんな俊夫に希望があるとすれば。
(やっと、生きて帰ってきたんだ。家族はきっと温かく迎えてくれるだろう)
その思いだけ。
戦禍を免れた街の様子からは、俊夫の家族の暮らす家が空襲に遭ったとも、家族が焼きだされたとも思われない。
(妻も娘も、そして父も母も弟も、きっと無事でいてくれるはずだ)
我が家に向かって歩く。見慣れたはずの道を、どこか遠くの異国のように感じながら、それでも足を急がせる。
(初枝は、俺の帰りを待ち望んでいてくれただろう。何年も会っていないが、千代は大きくなっただろう。年老いた両親は息災だろうか。弟の卓己は立派な青年になっただろうか)
家が近くなるほどに、心配で居ても立ってもいられない。どうか、平穏に暮らしていてほしい。
(皆には寂しい思いをさせたが、これからは国のためではなく、家族のために生きていきたい)
新たな決意が、胸で鼓動を打ち鳴らしている。家は近い。もうすぐだ。
(頑張って働いて、皆に楽な暮らしを送らせてやろう。戦争で失った家族の時間を取り戻そう)
はやる気持ちを抑えながらも、ようやく懐かしい我が家へとたどり着いた。
畑でかがみ込んで農作業をしている人影が見える。それが遠目からでも妻の初枝だとわかって、涙があふれてきた。
やっと、やっと、帰ってこられた。
「ただいま、帰りましたーっ!」
大声で叫びながら駆け出した。戦闘帽をかぶっていてはわかりづらかろうと、手に持って、大きく腕を振る。
その声に頭を上げた妻の表情を、古川俊夫はおそらく、生涯、忘れることはできないだろう。
目を見開いて、驚きと、怯えと、後悔が入り混じった、情けないくらいにゆがんだ顔。
そして。
「……い、生きて、いたの、ですか」
という、およそ喜びとは遠い言葉。
「……ただいま帰りました」
もう一度告げるが、初枝は、俊夫に寄ってくるでもなく、ただぼうぜんとその場に立ちすくむだけ。
そのうち。
母屋から転がるように走り出てきた幼女と、それを追いかけて出てきた弟の卓己の姿が目に入る。
「……兄さん」と、言葉がこぼれるが、まるで幽霊でも見たかのように、その場で凍りついている。
「ああ、生きて帰ってきた。皆、無事か」
俊夫の言葉に、幼女が卓己を振り返って聞いた。
「お父ちゃん、だぁれ?」
俊夫の眼が大きく見開かれた。
「「……千代……」」
妻と弟の声が重なる。
二人を、いや、3人を見て、俊夫はどうしたらいいかわからず、何を言ったらいいか言葉が出てこない。
妻と弟もただ立ちすくむだけだ。
そのうち、俊夫の娘の千代が、卓己の後ろに隠れて言った。
「お父ちゃん、怖いよぉ」
もはや、聞き間違いではなかった。自分の娘は、弟のことを父親だと言っている。
「どういうことなんだ?」
そう問うが、妻は動かない。
憔悴しきったように、その場にへたり込み、慌てて、卓己が駆け寄ろうとして、そして、踏みとどまる。
やがて。
「兄さん、ここは人目につくから、家にお入りください。……それから、おかえりなさい。お疲れさまでした」
弟から出た言葉はそれきりで、そして、妻が夫の帰還を喜ぶ言葉を口にすることは最後までなかった。
❏❏❏❏
俊夫のために簡単な夕飯を用意すると、初枝は娘の千代を連れて部屋から出て行った。
残るのは俊夫と卓己だけ。
「長旅でお疲れでしょう。まずは、ご飯を食べて、ゆっくりと風呂に入ってください」
「そんなことより、説明してほしい」
「じゃあ、父さんと母さんの前で話しましょうか」
「父さんと母さんは無事なのか?」
それには答えず、「こっちに来てください」と案内されたのは仏間だった。
「……一昨年10月、病気で二人とも」
「そうか」
俊夫は、正座をして二人の位牌に手を合わせる。
「父さん、母さん。ただいま戻りました。孝行もできず、死に目にも会えなかったことを許してください」
そして、ふと気づいたのは、もう一つの位牌。
「……これは?」
「一昨年、父さんと母さんが亡くなる前の月に、兄さんの死亡告知書が届きました」
「えっ」
「戦病死と書いてありました」
そう言って、仏壇から一枚の紙片を手に取って見せてくる。
『昭和十九年七月二十二日 ビルマ方面に於て 戦病死 せられましたから御知らせ致します
市町村長宛死亡報告は戸籍法第百十九條に依つて官で處理致します
昭和十九年八月三十日 県知事
留守担當者 殿 』
「これは、何かの間違いだっ!」
「……父さんと母さんは、これを見て、寝込んで……そのまま」
「寝込んで?」
「配給が滞るようになってから、何も食べたくないからって……二人とも」
「なんとかならなかったのかっ!」
「……二人とも、生きていてもしかたがない。食べる物があるのなら千代にやってくれと」
そう言って涙ぐむ弟をこれ以上責めることなどできない。
「父さんの、最後の言葉が……『俊夫の最後の願いだから、初枝と千代のことを頼む』でした。兄さんが死んで、母さんも父さんも死んで、俺は一人ぼっちになって、このまま俺も死んでしまいたいと思いました。
だけど、兄さんが寄越した手紙に、義姉さんと千代のことを頼むと書いてあったのを読んで、これからは、俺が死んだ兄さんに代わって、義姉さんと千代のことを守っていかなきゃと思うようになって……」
「……祝言はあげたのか?」
「父さんと母さんの喪があけるのを待って籍だけ入れました。
……初枝さんを実家に帰らせるのは忍びなかったし、千代と離れるのも嫌でした。俺と血がつながる者は、もう千代しかいないと思うと、手放したくなかった。
すまない、兄さん。兄さんが生きて帰ってくるとは思ってもいなかったんだ。俺も、初枝も」
「だが、俺は生きてる」
「そうですね。どうしましょうか。……俺が出て行ったほうがいいのかな?」
「……このまま、ここで暮せばいいだろ。何も出て行くことはない」
「この1年半、俺と初枝さんは夫婦だったんですよ。二人が千代の親だったんだ。それをなかったことにして、このまま一緒に暮らすことはできないよ」
「……夫婦か。1年半も」
「そうだよ。そもそも兄さんが寄越した手紙を読んで……」
「手紙だと?」
卓己は、仏壇から2通の手紙を取り出し、俊夫に手渡した。
1通目は妻初枝にあてた手紙だった。
『祖国のため陛下の御為に一身を捧げることは日本臣民の、また軍人の最大の名誉と幸福であります。
振り返ると、お前と結婚して何一つ満足させられなかったのが残念に思う。短い縁ではあったが、俺は幸福であった。
俺の亡き後は千代を立派に育ててくれ。それが最後の頼みだ。保険金が二千三百円ほど入るから千代の養育費用としてくれ。また、両親と弟にも色々と相談してくれ。
名誉の戦死であるから、お前が肩身を狭くして暮らすことはない。家族と円満に暮らしてくれ。お願いする。
これから色々と心配をかけるが、俺の亡き後は、弟の卓己に相談して、よろしくお願いするように。
くれぐれも両親を大切にしてくれ。最後に千代の養育を頼む。達者で暮らせ。
では永久にさよなら。
俊夫より
初枝へ』
それは、日本を立つとき、手紙が届かなくなることを恐れて、乗船前に初枝に宛てて送った手紙だった。
慌てて、次の手紙に目を通す。
(これは、確か、初枝への手紙に同封した両親宛ての手紙だったか)
俊夫の記憶が蘇る。
初枝と千代のことがどうしても心配になって、おろそかに扱うことのないよう、念を入れて、両親に託すために書いたものだった。
『戦場の花と散るは軍人として本分であります。東洋の平和の為、また天皇陛下の御為に最後の奉公をするものと心得てください。
思えば一度も孝養することがなかったことが残念です。ですが、名誉の戦死により立派に親孝行をしたとお喜びください。
我亡き後は、くれぐれも初枝と千代のことは円満にしてやってください。
卓己が嫁をとるとなったら、初枝も家を出ざるを得ないだろうが、そのときは初枝に保険金から一千円を扶助料としてやってください。暮らしが立つようにしてやってください。何卒お願い申し上げます。
もし、初枝が再婚するとしても、世間の笑いものにならないようにしてやってください。
俺は靖国神社で永久に眠っています。
後のことはお願いします。先に行きます。
俊夫より
御両親様』
読み終えた俊夫は、仏壇を見上げた。
(俺は死ねばよかったのか。帰ってこなければ、こんな目にあわずに済んだのか)
そこに俊夫の問いに答える者はいなかった。
参考・引用文献
前掲のほか。
竹田恒泰監修「日本人なら知っておきたい昭和戦後史」PHP研究所2014年
藤原彰、粟屋憲太郎、吉田裕編集「昭和20年/1945年」小学館1995年