第8話 国際事業部
西葛西のアパートに帰ると、大原いずみが夕飯の用意をしていた。
鼻歌まじりで、ゴキゲンに。
……生理痛とか、やっぱり嘘だったんだな。仮に痛み止めを飲んでいたとしても、そんなにノッたりはしないぞ。
生理による体調不良で働くことが困難な場合は生理休暇を取ることが労働基準法で認められている。企業がこれに違反すると30万円以下の罰金に処せられる。
だから、たとえ就業規則に定められてなくても認められる休暇だが、本来、生理休暇とは、生理が重くて、就業が著しく困難な場合に認められるもの。
仕事ができないほどに症状が重いわけでもないのに、生理休暇を使って休むとか、ありえない。
しかも、それが嘘だったと知られたなら、いくら人権感覚に敏感なうちの事務所でも、懲戒処分をするかもしれないんだぞ。
もっとも、普段から真面目に仕事をこなしている大原がそういう目で見られることはない。
今日だって変な目で見られたのは俺だった。
俺達が一緒に暮らしていることを、大原は隠していない。
大原の体調が悪いと信じたボスの田中弁護士や秘書の根本さん、神原事務局長からは、家に帰ったら大原をいたわるように散々言い含められた。
夕飯の買い出しから調理に後片付け、お風呂の用意を俺が率先してするようにと。
お風呂はきれいな湯をぬるめで張って長風呂をすると痛みが薄れるからと。
そうアドバイスまでされた。
明日も無理して出勤しなくてもいいからと伝えるように、念を押された。
「♪みす、てぇええぇ〜り、あすっ!」
突然の素っ頓狂な歌にドキッとする。
あの人達に、こいつの今の姿を動画に撮って送ってやりたい。
だが、俺が、大原のアパートに転がり込んだことを知っている人達には何を言っても無駄だろう。
あの人達の目には、俺はヒモとしか映っていない。俺だって、生活費は出しているのに。
奨学金とか諸々の返済があるから、折半にはほど遠いけれど。
そもそも、こいつはピルを使って生理の時期を調整している。レースに向けて体調を整えている。
前の会社の陸上部が廃部になったことで、駅伝選手を引退せざるを得なかったけれど、走ることまでやめたわけじゃない。
今はマラソンに出場するための準備をしているところだ。
42キロも走る競技なんて、俺には意味すらわからないけど。
車で行けば42キロなんてすぐなのに。
いや、42キロも運転するなんて俺には無理だった。耐えられないから電車とタクシーを使う。……ペーパードライバーで運転に自信がないからじゃない。断じて。
「ぶーたぁ! 料理できたからテーブル拭いて食器を用意してぇ」
その声に、俺は冷蔵庫から取り出そうとした缶ビールを戻す。
今日、事務所でのこいつの高校時代の先輩達とのやり取りを話すのなら、しらふでいたほうがいい。
こいつ、まだほかにも隠してることが山ほどあるはずなんだ。じゃなきゃ、逃げ出したりはしないはずだから。
だけど。
ぶーた、だと? 親しき仲にも礼儀ありって言葉を知らないのか。
山武太一の真ん中を取って、ぶーた。こいつが小学生の頃に俺につけたあだ名だ。
文句の一つも言い返してやりたいが、こいつは、彼女であると同時に債権者だ。
しかも、このアパートを借りている名義人でもある。立場は圧倒的に俺が弱い。
俺は、きびきびとテーブルを拭いて食器を並べる。炊飯器からご飯を茶碗によそって、電気ポットのお湯でインスタント味噌汁とお茶を用意する。……他にすることはなかったかな?
つまるところ、俺は、こいつに逆らうことなどできないのだ。
仮に借金がなかったとしても、だけど。
❏❏❏❏
夕食後、説明を終えた俺は、コーヒーを淹れると、「じゃあ、次は君の番だ」と説明を促した。
「え〜と、何かな?」と、両手でカップを抱えてとぼけようとするが、そうは問屋が卸さない。
ボスからは、対立当事者の双方を連れてきたことでお小言をくらったものの、俺のミスを他の弁護士に押しつけるわけにはいかないと、法律相談の担当を自ら買って出てくれたのだ。
そんなボスの配慮に応えるべく、できる限り、情報は取得しておきたい。多くの場合、相談者は自分に都合のいいことしか話さないからだ。
俺の説得に、「プライバシーに関することだから、言いたくないんだけど」と前置きをしながら。
「わたしが知ってるのは、平成26年の夏から古川理事長が亡くなったその年の冬までのこと」
「生徒会で予算が足りなくなって、古川理事長のところへ寄付のお願いに行ったんだよな。そこでどんな話をしたんだ?」
「自分はもう老い先短いから、財産のほとんどは贈与して何もないんだと言われたんだ」
「ほう」
「それで、寄付してくれそうな人を紹介してもらえませんかと、お願いしたら、会社のほうを、古商物産の国際事業部の古川聡部長を紹介されたんだ。この人は、古川理事長のお孫さんで、櫻井先輩のお母さんのお兄さんにあたる人なんだけど」
「ちょっと待て。国際事業部? なんで、学校の寄付に国際事業部が関わってくるんだ?」
「古商物産の国際事業部は、東南アジアからの食品輸入を担当しているんだけど、本来の業務は、戦争で亡くなった日本人の遺骨収拾。毎年ミャンマーに行ったり、慰霊碑を建てたりしてる。その部署なら古川家の名前でお金を引き出しやすいからって」
「その部署の今の部長って、櫻井洋平氏だよな?」
「そうみたいだね」
「裏金を作る部署なのか?」
「そんなの、わかんないよ。ただ、利益を追求する会社において、唯一、赤字を垂れ流すことが許されてる部署らしいよ」
「そんなばかな」
「だから、古川理事長は、古川聡部長のお母様に古商物産の株式全部を生前贈与したんじゃない」
「これは俺の想像なんだけど、間違っていたら指摘してくれ」
大原が頷いたのを見て、俺は続ける。
「古川理事長には、息子が二人いた。
長男が今の会長で、その息子が今の社長。つまり、経営陣だ。
そして、古川理事長の二男、今は亡くなっているが、その奥さんと子供達が株式を相続する流れになっている。
つまり、同族会社とはいうけれど、実際は、経営陣と株主に分かれていて、経営陣としては、金ばかり使う国際事業部をなんとかしたい。だけど、株主がうんと言わない。
だから、古川理事長が株主に生前贈与したことをなかったことにしたい」
「そうらしいね」
「君は、なんで、それを知ってる?」
「今の社長としては、娘の満子先輩が主宰している劇団の赤字をなんとかしてあげたいらしいんだよね。それで、国際事業部に相談したら、戦争の悲惨さを題材にした劇を上演するならって言われたんだけど、満子先輩からすればそんな重いのよりも、日常のスラップスティックをやりたいからって」
「満子先輩は、そう言って断ったわけだ」
「あんたには、満子先輩なんて言ってほしくない。なんか、いやらしい」
「満子先輩、満子先輩、満子先輩」
「なんだ。ちんぽ先輩っ!」
「……ごめん」
「わかってくれたならいいよ」
「でも、古川理事長、よく、国際事業部を紹介なんてしてくれたな」
「うん。わたしも不思議に思って聞いたことがある。そうしたら、……もし、自分にこのくらい娘がいたら、してやりたかったからって言われた」
「それ、おかしくないか? 古川理事長に娘はいなかったんだろ?」
「そうだね。だからかな。古川理事長は二男の奥さんにすごく優しかったんだ」
「長男の奥さんには?」
「話題にあがったこともなかったな」
「話題?」
「あっ」
「ほかにも何かあるんだな。隠し事はやめてくれ」
「隠したつもりはないよ。実は、わたしが寄付のお願いに行ってから、理事長がたびたび学校に来るようになったんだ。……理事長室でよくお茶をいただいてたから。羊羹と一緒に」
「羊羹?」
「うん。羊羹、大好物だって言ったら、とらやの羊羹をいつも持って来てくれてたんだ」
「たびたび来てた?」
「そう。生徒の一部からは、理事長の愛人じゃないのかって噂されてた」
「おいっ!」
「やめてよ。相手は九十歳のおじいちゃんだよ? ただの茶飲み友達。わたしが走るのを見たがってたな。……でも、結局、駅伝大会で走るところは見せられなかった。全国大会に出られたらテレビ放送があったんだけどね」
そう言って、寂しそうに大原は笑うが、そこに、古川年男という男が抱えた秘密があるように思えてならない。
「ところで、裁判所で櫻井洋平氏に会ったとき、わざと名前を間違えてたな。わからないふりをしたのはどうしてだ?」
「早く逃げたかったから。……遺産分割部のフロアで会ったってことは、調停で呼び出されたからでしょ? なら、調停を申し立てたのは満子先輩に決まってるじゃない。……わたし、満子先輩には、ちゃんと言ったんだよ。無理筋だからやめなさいって」
……元凶は、こいつかぁ〜!