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月は、欠けては満ちてゆく  作者: ふじわらこう
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第7話 責任の所在

 終戦を迎えた後、古川俊夫が命じられたのは、鉄道運輸隊の保線部隊だった。


 すでに日本軍はなく、兵として国に尽くす義務はないはずだが、食べていくためには仕事をするしかない。


 そもそも、一人では遠い日本へ帰ることなどできない。今は、部隊長の、ここで働いていたら国に帰れるという言葉を信じるしかなかった。


 そして。


 終戦は平和をもたらさない。


 そのことを知った。


 戦地だった場所には、銃があふれ、野盗と化した元兵士、元ゲリラが跋扈ばっこする。


 親日だった政権は失脚し、抗日勢力は、対日協力者を拘束した。同盟国というよりも占領国としてふるまっていた日本に、タイ国民の不満は高まっていた。


 何がどこで起きるかわからない。一度破壊された秩序は、なかなか元には戻らない。強者が奪い、犯し、しいたげる。秩序が回復するまで弱者の忍従の日々は続く。


 だから。


 詭弁きべんろうすることにかけては、世界に類を見ないと定評のある英国紳士達が、旧日本軍兵士に対する扱いを、各地の事情で大きく変えたのは当然のことだった。


 自動車道路建設工事という復興を要する地域では、粗末な食事と朝暗いうちからの労役が求められる一方、治安や施設維持を要する地域では、武装解除することなく日本兵組織がそのまま活用された。


 古川が組み込まれた保線部隊は、つい先日まで捕虜だった連合軍の将校の元、泰緬たいめん鉄道の沿線で、強盗団や泥棒から鉄道の設備や汽車の部品が盗まれないよう警備にあたっていた。


 やがて、古川達のところにもイギリス軍が訪れ、元日本兵達は粛々(しゅくしゅく)と武装解除に応じ、バンコクの捕虜収容所に入ることになった。


 ただし、鉄道司令官を始めとする二千名に及ぶ泰緬たいめん鉄道建設関係者はバンコクの捕虜収容所で取り調べを受けた後、シンガポールに移送された。


 鉄道建設にあたって、多くの捕虜を非人道的に取り扱い、虐待により死なせたことで戦争犯罪に問われることになったのだ。


 古川は、あの日、部隊長から言われて駅舎の庭で焼いた帳簿や書類のことを思い出した。


 そこに何が書かれていたかわからなかったが、不都合な証拠となるから焼却を命じられたのだと初めて理解した。


 それは、古川にとって、裁かれるべき者が犯罪を隠蔽いんぺいするために、自分を利用したとしか思えなかった。


 誰かの密告により、自分も裁判にかけられるのではないかと怯えて日々を過ごした。


 こうやって、死んだ年男としおの無念も、自分の痛みも、残された家族の悲しみもなかったことにされるのなら、日本という国から受けた仕打ちは、戦勝国ではなく、この手で晴らしたい。


 少なくとも、街道を部下のしかばねで埋め尽くした上官の責任は追及されるべきだと思った。


 だが、その隠蔽行為の責任は問われることはなく、古川は帰国に向けてバンコクの収容所にとどまることになる。


 収容所といっても、外部との通行は自由で、強制労働もなかった。ただ、自主的に各部隊に割り当てられた道路での作業を1日3時間程度することで、わずかではあったが、給料も支払われ、野菜や肉が支給される生活が送れるようになった。


 その後。


 東京裁判で戦争指導者として起訴された28人は、うち25人が有罪となり、7人が死刑となった。


 泰緬たいめん鉄道を巡る戦争裁判で、起訴された120人のうち111人が有罪となり、32人が死刑になったことを考えると、古川の願いは連合国にも裏切られたということになる。


 もっとも。


 お門違いと言われればそのとおりだ。


 連合国は、日本軍が日本兵にした行為は日本が裁くべきであって、そもそもが連合国が裁くべき戦争犯罪にはあたらないと考えていたのだから。


 ましてや、連合軍に被害を与えることなく日本兵を飢餓と疫病で大量死させた日本軍の指揮官は、連合軍にとっては英雄に等しい。


 事実、古川が送られた戦場を作り出した司令官は、その後もなんら罰せられることはなく、戦後しばらくの間は無茶な作戦を批判されて反省の色を見せていたものの、昭和40年に、作戦の失敗について戦争当時のイギリス軍将校と情報を交換した結果、「私は間違っていなかったのだ! 何も恥じることはない。私が決心したとおりにやっていたならば勝てたのだ」という肉声を残して、翌年77歳で死んでいる。


 その男の人生において、異国の地で飢餓と疫病にたおれ、街道にしかばねさらさざるを得なかった兵士達の人生は、なんらかえりみるべきものではなかった。


 彼が戦後悩んでいたのは、作戦が不首尾に終わって戦争に負けたことだった。


 それほどまでに兵士との意識がすれ違っていたことに気づくことなく指揮官は最期を迎えた。


 だが、それは、連合国においても同じこと。要は、戦争犯罪法廷とは、自国民が受けたことへの復讐の舞台でしかなかったのだ。


 ❏❏❏❏


 昭和21年6月。


 古川は、やっと、帰国の貨物船に乗ることができた。


 戦争が終わって10か月。アメリカが用意した貨物船でタイのバンコクから日本に向かったのだ。


 およそ3千人が収容されたこの船には、日本から運ばれてきた飲料水があった。


ねんさん、水だぞ」


 俊夫は飯盒はんごうに入れた水を、毛髪の前に置いた。煮沸消毒しないで飲める水がありがたかった。


 それから1か月後、船は横須賀に着いた。


 誰もが無惨な敗者だった。だが、その一方で、故郷に帰れる喜びも確かにあった。


 そして、現地に残してきた仲間のしかばねを思わずにはいられなかった。


 いつか、必ず戻ってきて、ちゃんと弔うから。その日まで待っていてくれと。


 その誓いは、日本が経済大国となった1970年代になって、やっと果たされる。


 かつての敗走の地に、仏塔と慰霊碑を建てることができたのだ。


 そこに刻まれた「古川年男」の文字に触れながら、今は古川年男と名乗る男は、ぽろぽろと涙を流した。


 古川年男の遺体を置いてきた場所を見つけることはついにできなかった。


 三十年も経ったのだ。


 地形が変わったのかもしれないし、ジャングルに飲み込まれてしまったのかもしれない。残した小銃、弾薬、手榴弾は朽ちて錆鉄さびてつになっただろう。


 ほかの遺骨のように、骨のかけらでも見つかったなら、日本に持ち帰りたかった。


 その願いも虚しく、古川俊夫は、古川年男として日本に帰る。


 また来年、この地に、親友の遺骨を探しに訪れることを固く心に誓って。


 ❏❏❏❏


 昭和20年8月15日当時、日本国外にいた軍人、軍属は陸軍が約308万人、海軍が約45万人の合計約353万人。


 これに民間人約300万人を加えた約653万人が海外にいた。


 戦争は終わったのに帰れない。異国の地で強制労働に使役され、たおれた者も大勢いた。


 彼らの多くは望んで戦地に向かったのではない。それなのに、敗戦とともに取り残され、労働力として連れ去られた。


 シベリアの抑留者約60万人は、ソ連によって。


 そして。


 東南アジアの抑留者約120万人は、イギリスの主導によって。


 それは、戦争によって失われた労働力の補填のためだった。


 東南アジアからの復員は、昭和21年6月から始まったが、10月に中断し、再開されたのは、翌年3月になってからのこと。


 その間、復員が中断したのは、イギリスの主張によるものだった。


 日本には、軍人、民間人の合計650万人を帰国させるだけの船舶がない。燃料もない。


 それらをどこから工面するのか、費用はどうなるのか、そういった現実的な事情に加えて、戦場となった国々では捕虜に与える食糧すら不足しているという事実。


 さらには、田畑の再生、道路の建設や排水設備の修理といった復興に向けた公共事業にあてる労働力も不足していること。


 それらの事情により、イギリスは、日本人を一定期間、残留させて役務につかせる政策を積極的に推し進めたのだ。


 ここで問題となったのが、捕虜の権利が赤十字条約で守られているということだった。


 だが。


 イギリス軍は、捕虜となった日本人労働者に賃金など払うつもりはない。


 そこで。


 日本人を、終戦までに捕えられた捕虜と終戦後に降伏した降伏者に分けるという考え方をとった。


 赤十字条約が保護を定めた捕虜に、降伏者は該当しないことにした。


 したがって、日本人降伏者を現地で労役につかせても賃金を払う必要はないと結論づけた。


 連合国と日本人労働者との間に雇用契約は存在しないのだから、仮に労働の対価として払われるべき賃金を負担する義務があるとすれば連合国ではなく、日本国。


 このようなイギリス軍の施策にアメリカ軍が反発した。東南アジア諸国を統治するイギリス軍が日本人を無料の労働力として留めおきたいのに対し、日本本土を統治するアメリカ軍は早期の帰国を求めた。


 これに対し、イギリスは、日本軍による現地での破壊、虐殺、強制労働に対する補償は、現地にいる日本人の労働力であがなうべきだと主張した。


 ポツダムにおいて、米、英、ソによる「戦争捕虜を母国に帰還させる」とした合意は、たちまちのうちに、うち2国によって破られたのだ。


 シベリアでは極寒が、東南アジアでは炎天下と疫病が彼らを襲った。食糧に乏しいのはどちらも同じだった。


 古川俊夫が抑留されなかったのは、終戦当時、タイにいたからだ。


 泰緬たいめん鉄道を使って兵站へいたん病院から患者を後方護送をしたとき、ビルマに戻っていたら抑留され、強制労働をさせられていたかもしれない。


 だが、シベリア抑留の長期に渡る悲惨さの前に、東南アジアでの抑留は歴史の中に埋もれていくことになる。


 その責任を抑留者に押しつけたまま。


参考・引用文献


前掲のほか。


増田弘「南方からの帰還」慶應義塾大学出版会2011年

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