第6話 呉越同舟
俺は、応接室で舞い上がっていた。
目の前の美貌の女性がまぶしくて、まともに顔を見られない。上品に紅茶を口に運ぶ仕草にすらドキドキしてしまう。
脚を組んだスカートの隙間に、色気を感じて、ゴクリと喉を鳴らしてしまった。彼女に気づかれてしまっただろうか。
このまま、いつまでも見ていたい。二人きり、何も話さなくても一緒に過ごす時間はそれだけで尊い。言葉なんて無粋なものはいらない。口にしなくても気持ちは伝わる。愛を育むのに、時間など関係ない。
「ごほんっ!」
……あっ。
突然の咳払いに、この女性の隣にキザ男がいたことを思い出した。
そのキザ男の蔑んだ目つきに、はっと、我にかえる。
魔法が解かれ、頭がクリアになって、警戒警報が鳴り響く。
そうだった。
裁判所で見せたあの妖艶な笑み。昔からの知り合いだという大原いずみが見せたあの動揺。
そして、大原の口をついて出た「満子先輩」という、冷静だったなら人前ではけして口にしないあだ名。
見た目に騙されてはいけない。
そう思うと、この人が放つ輝きも、邪悪なオーラとしか思えない。
そして、大原が突然の生理痛を理由に早退したという事実。
……たぶん、というか、間違いなく嘘。
あいつは、駅伝選手だった頃から逃げるのが得意だった。公式レースで追いつかれたことは一度もないと自慢していた。
それで、俺が一人で事務所の応接室で対応したのに、この有様だ。
長い時間待たせたという負い目がなかったなら、帰ってもらっているところだ。
この二人のセレブな装いに、仕事のお得意様だと勘違いして、応接室に通した受付の広瀬さんのことが今となっては恨めしい。
「山武さん、大原は?」
キザ男、もとい、櫻井洋平が聞いてきたので「所用で不在です」と答えて。
「さて、ご用件を伺ってもよろしいでしょうか? それとも、大原と個人的な話をするためにおいでになったんでしょうか?」と櫻井に聞き直す。
「山武さんは、弁護士なんですか?」
「違います。……名刺にあるとおり事務員です。弁護士との法律相談、あるいは依頼ということでしたら、恐縮ですが、あらためて予約をお願いします。担当弁護士のスケジュールを調整しますので。ちなみに、当事務所では、法律相談は30分5000円、それに消費税となっています。依頼を受ける場合の費用については、内容によって異なりますので、今は申し上げられません。私がお話できるのは以上ですが、何か不明な点はありますか?」
「わかりました。大原に用があったわけではないので、あらためて予約を入れます」
「恐れ入ります」
俺が頭を下げた、その上から、「ちょっと〜」と女性の不満そうな声がした。
「わたしは、いずみちゃんに会いに来たのよぉ。洋平がついてこいって言うから来たのに、どういうこと〜?」
「大原は不在だって今聞いただろ。今日はあきらめろ。それに、やっと弁護士のあてが見つかりそうなんだ。それだけでも収穫はあっただろ?」
「それは、そ〜だけどぉ〜」
「何かお困りのようですね」と、俺は思わず言ってしまった。その瞬間、大原の嫌がる顔が目に浮かんだ。……この口、縫ってしまいたい。
その言葉に「実は、遺産の件で」と櫻井が乗ってきてしまった。
やばい。……しかし、乗りかかった船だ。法律事務所の事務員としてはここで降りるわけにはいかない。
「お亡くなりになったのは、お二人とはどういったご関係の方ですか?」
「問題となっている遺産は、私と、この古川美津子の曽祖父にあたる古川年男のものです。亡くなったのは……私が高校3年の冬休みだったから、平成26年の12月、曽祖父が94歳のときでした」
どうやら、古川年男氏は、自分の死後に二人の子供が遺産争いをしないよう、亡くなる直前に生前贈与で財産を分けていたらしい。
年男氏の生前は、その内容に不満があっても誰も文句など言えなかったが、年男氏が亡くなった途端に親族の一部から不満が出るようになった。
その翌年、年男氏の二男であり、櫻井洋平の祖父でもある古川茂氏が亡くなった。
その葬儀の際、親族の一部が、年男氏が生前贈与した財産に不透明な部分があるから、年男氏の相続までさかのぼって遺産分割協議をするべきだと言い始めたのだ。
生前贈与したものを取り戻して、あらためて遺産分割協議をするなど聞いたことがないが、法律的には、錯誤、詐欺、強迫によって贈与した場合は、その贈与を取り消すことができるとされている。
すでに目的物を渡して贈与が終わっていても受贈者に対して返還を求めることができるのだ。
さらに、その親族が、年男氏の債権者であったなら、詐害行為取消権を行使して、生前贈与された財産を取り戻すことも可能だ。
しかし、錯誤、詐欺、強迫の事実をどうやって証明する? それに、贈与者が亡くなっているのに、そんなことが可能なのか?
もう一つ。
遺留分侵害額請求という方法がある。
これは、本来の相続人の権利が生前贈与で侵害された場合に、最低限度の相続分、つまり本来なら受け取れる相続分の2分の1だけは相続権を守ろうというもの。
年男氏が死んだときの相続人は長男誠氏と二男茂氏の二人。本来であれば、年男氏の遺産を半分ずつに分けるのだが、この二人以外の者に生前贈与をしているときは、相続で受け取れる財産の2の1、つまり、全体の4分1ずつは保護される。
それが遺留分というものだ。
だから、誠氏と茂氏がそれぞれ4分の1以上の財産を相続していれば遺留分を主張することはできない。
しかも、時効がある上、まずは家庭裁判所に遺留分侵害額請求調停を起こし、そこで調停が成立しない場合に、地方裁判所か簡易裁判所に対して遺留分侵害額請求訴訟を提起するものとされている。
だがこれは。
「古商物産には顧問の弁護士や税理士がいらっしゃるでしょう。そちらには相談されなかったんでしょうか?」
生前贈与を取り消して、取り戻したいのは、おそらくは櫻井洋平の祖母の名義になっている古商物産の株式だ。
ならば、そちらの弁護士が対応すべき案件だ。顧問弁護士でもないのに、会社の経営権を争うお家騒動なんて、うかつに手を出していいものじゃない。
それなのに。
「うちの顧問弁護士は、関わりたくないようです。創業者一族のゴタゴタに首を突っ込んでどちらか一方と敵対するのは、会社のためによくないとか。だけど、別の弁護士を紹介することもしてくれなくて」
おい、ふざけるなよ。だったら書類だけ作って裁判所に行かせろよ。
……って、そうしたから裁判所にいたのか。俺が名刺を渡さなかったら巻き込まれずに済んだのか?
困ったな。ボスになんて言おう。
「わかりました。お引き受けできるかどうかは、弁護士が判断しますが、今日のところは、法律相談の予約と、相談のためにご持参いただく書類についてご案内させていただきます。それでよろしいでしょうか」
「それでお願いします。美津子さんも、それでいいよな」
「あ〜ん? 好きにすればぁ〜」
そうか。年男氏の生前贈与に不満があるのは、この人につながる人達だったな。
つまりは、古商物産の現在の会長、社長という年男氏の長男の派閥。
したがって、ここにいる古川美津子が返せと言っている側で、櫻井洋平が返す必要はないと言っている側。
ということは。
俺は敵同士を事務所に引き入れてしまったってことか。
大原の怒る顔が目に浮かぶ。『だから、言ったのに』と。
あと、ボスの小言も。『せめて、どちらか一人だけを連れてこいよ。両方連れてきてどうするんだ。ここは裁判所じゃないんだぞ』と。
そんな俺のどんよりした気持ちを見透かしたかのように、古川美津子の口元が嗤っていた。
「この紅茶、おいしいわね〜。もう一杯いただけるかしら〜」
こいつ、やっぱ、魔女だ。
しかも、性悪のっ!