第5話 戦争が終わった日
古川俊夫が、この兵站病院を目指したのは、古川年男の死亡を病院と軍に報告するためだった。
本来ならここで療養できたはずの男は、もうこの世にいない。
死体を埋めてやることもできなかった。
こうなるとわかっていて野戦病院から出されたのかと思うと、怒りがわいてくる。
だが、野戦病院にいても治療はされなかったはずだ。ならば、多少でも設備が整っている兵站病院へ向かわせたのは、もしかしたら、軍医の厚意だったのかもしれない。
それも今となっては、もうどうでもいいことだと、古川俊夫は死亡報告をした後、目を閉じた。
これでやっと、古川年男の戦争を終わらせてやれたのだから。
戦死の通知を家族がどう受け止めるかはわからないが、生死不明よりはずっといい。
肩にかけた雑嚢には、年男の毛髪が入っている。
これを届けるころには、家族に心の準備ができていることを祈った。
兵站病院は、物資を賄う兵站地に開設され、赤十字条約により交戦国間で尊重されて保護を受けている。
赤十字国際委員会が提唱した「戦争時の捕虜に対する人道的な扱い」を元に、1864年、スイスのジュネーヴで「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」が締結された。
日本が赤十字条約に加入したのは、1886年(明治19年)のこと。
つまり、年男が生きてここまでたどり着けていれば、敵機からの銃撃に怯えることもなく、兵站地で治療を受けられたかもしれないのだ。
たとえ、それが、救療後に原隊に復帰させるのが目的だったとしても。
そして。
野戦病院を勝手に離れた古川俊夫が逃亡罪に問われることはなかった。
そもそも、原隊が存在していない。だから、明確な指揮命令に背いたわけではなかった。
古川俊夫が野戦病院に向かったのは、原隊復帰のため。そこに原隊がいないのなら、別の場所へ向かう。最終的には、こうして兵站病院にたどり着いているのだから、逃亡ではない。
だが、ここにも上官は現れない。時間は過ぎていく。
やがて。
古川は、安全な兵站病院で雑用をしながら、ぬくぬくと飯を食らっていると、少なくともまわりの人間からはそう見られるようになっていった。
物資の乏しい日本軍において、働かざる者食うべからずは、連合軍の捕虜にすら適用される当然の理であった。
病院内で、できもしないのに仕事を求めて右往左往する古川は邪魔者でしかない。
そんな古川に軍医が命じたのは、患者の後方護送だった。
軍医の指揮のもと、別の兵站病院に、二百数十名の患者を連れて行くのだ。
重症患者は牛車に分乗させ、立てる者は歩かせて駅まで連れて行った。
夕方になって、軍医が訓示をした。
「汽車は夜中の1時に到着する予定である。敵機に見つからないよう明かりはつけない。停車時間は1分間。乗り遅れた者はそのまま残ることになる」
乗り遅れたらどうなるのか。決まっている。自力で兵站病院に戻るか、ここで死ぬのを待つだけだ。
やがて、汽車が到着し、古川は、重症患者を貨物車に運び入れた。すぐに、軽症の患者達も乗り込んできて、汽車はのろのろと動き始めた。
この線路は、物資貨物を運搬するために作られたものだから、列車に客席などない。ましてや、患者が一杯に積み込まれた貨車に、座れる場所などあろうはずがなかった。
古川は、やむなく、立ったまま夜を過ごすことにした。汽車は、敵機の攻撃を避けるために夜間しか運行しない。夜明け前に駅に着くから、そこで横になればいいだけのこと。
それぞれの駅には、ジャングルの中に汽車を隠すための引込線が設けられている。停車した辺りで寝ていれば、出発時刻に間に合わずに乗り遅れるということはないだろう。
そう自分に言い聞かせて古川は木漏れ日の下で横になった。出発までの時間はたっぷりある。
この泰緬鉄道は、昭和18年に完成したばかりのタイとビルマを結ぶ唯一の連絡路だ。
日本軍が、ビルマからインドに向けて侵攻する作戦において、その補給線を支えるために建設したのがこの鉄道だった。
それ故、この一本の鉄道は、何度も爆撃機による空爆で破壊され、その度に復旧するということが繰り返されてきた。
しかし。
全長415キロメートルに及ぶ鉄道を完成させるのに要した期間は、わずか1年5か月。重機のない時代に、それは、作業員の多大な犠牲の元に行われたことの証しにほかならない。
その労力は、連合軍の捕虜と賃金による一般労働者が担ったといわれている。
工事現場は暑さと飢えと疫病に襲われた。コレラや赤痢が蔓延し、ろくな食べ物がなかった。
一説によれば、三十万人が動員され、四万人余りが死んだともいわれており、その工事の過酷さは、こう例えられた。
「枕木一本、死者一人」と。
線路の枕木を1本敷設するのに、人が一人死んでいるという意味だ。
その線路の上を古川を乗せた汽車は進む。
そうして、何日かして着いた駅で、古川は患者達とともに降ろされた。
闇夜の中、駅前に患者達を整列させ、迎えに来た兵站病院の衛生兵の誘導に従って夜道を歩く。真っ暗で何も見えないが、前の患者に付いて行けばなんとかなるだろう。
患者達を迎えに来た兵站病院は河の向こう側にあるらしい。向こうの病院の軍医が、埠頭で待っていた船に乗る患者の引継を始めていた。
やがて、患者の引継を終えた軍医が古川に聞いてきた。
「我々はここから汽車で戻るが、お前はどうする?」
「戻ったら仕事はありますか」
「ない。今回、患者を後方護送したのは、部隊の再編成に兵が足りなくなっているからだと思われる。そうすると、やがては、自分がいる兵站地も後方に転進することになるだろう。古川はどうする?」
「……自分は、ここに残ることにします」
そう言うしかなかった。ついて来るなと言われたのだ。兵站病院に居場所はないから、自分でなんとかしろと。
「そうか」
「お世話になりましたっ!」
こうして、古川俊夫は、兵站病院の軍医に別れを告げ、タイの地で鉄道運輸隊の下働きをして糊口をしのぐことにした。
もはや、完全な脱走兵である。
線路の補修を担当する部隊長は、それでも、古川に食事を与え、部隊内に雑用の仕事を見つけてくれた。
部隊長の部屋から不用になった帳簿と書類を運ぶように言われ、指示されるまま、駅舎の庭でまとめて火をつけた。燃えカスが残らないよう木の枝でつついて燃える端から跡形もなく紙片を崩していった。
立ち上がる炎と煙を前に、年男の遺体もこうして荼毘に付してやればよかったと思いながら、じっと燃え尽きるのを最後まで眺めていた。
古川には、すでに戦って死ぬ気持ちなどなくなっていた。
そして、軍編成のために古川をどうこうしようとする者はここにはいなかった。
いつの間にか、軍部の指揮系統の規律が緩み始めていた。平和になったからではなく、規律を守ることに疲れ始めたからだろう。
誰も口には出さないが、この戦争の行く末に薄々気づき始めていたのだ。
鉄道を使って補給する物資が減る一方で、戻ってくる大量の傷病兵がまとった服に付いた泥と血、そして大便の臭いは、悲惨な戦場を思い起こさせる。
化膿した傷口から這い出るうじは、ろくな看護や手当てが行われることがない過酷な現実を容赦なく突きつけてくる。
兵站を担う者は、戦局の変化に軍部が対応する術を知らないことを最初に理解できた者でもあった。
ある日、駅を統括する部隊長が駅員を含む兵を集めて言った。
「戦が終わった今、部隊はイギリス軍の収容所に収容されることになる。イギリス軍の命により、持っている日章旗は提出することになった。持っている者は始末するように。兵器は没収されることになった。現地人にはいかなることがあっても抵抗しないように」と。
どうやら、戦争はいつの間にか終わっていたらしい。
兵は、大切なことはいつでも後から知らされる。
だが、これでもう死ぬことはない。そう思った。あとは、内地に帰るだけだと。
妻との手紙のやりとりは、とうに途絶えている。復帰する部隊が見つからず、脱走兵になったのだから当たり前だ。もしかしたら死んだと思っているかもしれない。生きて帰ったなら驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。
そもそも、無事でいてくれただろうか。
そう思うと居ても立ってもいられない。
だが、もうすぐ帰れるはずだ。
日本に。懐かしい故郷に。大切な家族の元に。
昭和20年夏。
これから、日本軍がこの鉄道建設で犯した戦争犯罪が暴かれ、裁かれようとしていることも知らず、古川俊夫の心は喜びに満ち溢れていた。
参考・引用文献
前掲のほか。
吉川利治「泰緬鉄道」雄山閣2011年
十菱駿武、菊池実「しらべる戦争遺跡の事典」317頁(池田一郎「泰緬鉄道」)柏書房2002年