第4話 逃走の果てに
魔女の出現。
動揺した大原いずみが、そんな態度を見せている。
「こっちだ」
小声でそうささやくと、俺は大原の手を握ったままきびすを返した。
小走りになって、さっき別れたばかりの櫻井さんの横をすり抜け、角を曲がる。そのすぐ先の左側のドアを開け、するりと中に忍び込んだ。
大原は、東京家裁の12階は遺産分割部の専用フロアだと思っているらしいが、事実は違う。
たった2部屋だけど、遺産分割部に関係のない部屋がある。
しかも、原則非公開とされている家庭裁判所の手続きにあって、法律上、たとえ部外者であっても勝手に立ち入ることが許されている特別な部屋が。
俺達が隠れたのは、そのうちの一つ、第121号法廷。
東京家裁にある四つの人訴法廷の一つだ。もっとも、そのうちの一つは法壇がない円卓の法廷だから、実質的には三つの法廷の一つというのが正しいか。
そして、この東京家裁の第121号法廷。管轄に人口900万人を超える東京23区を抱える東京家裁に三つしかない人訴法廷でありながら、傍聴席は16席と極めて少ない。
つまり、俺達が入り込んだ121号法廷の傍聴席は、当事者と弁護士の全員がイスに座ることもできず、立って自分の裁判が始まる順番を待っているような場所。
ドアを開けて人を探し回れるような部屋ではない。
しばらくここに潜んでいれば、あの魔女のような雰囲気を醸し出す女をやり過ごすこともできるはず。
法壇に座る裁判官はこちらを見ることもなく、当事者席から立ち上がった弁護士と議論をしているし、その前に座る裁判所書記官もこちらを一瞥しただけ。
そして、傍聴席の後ろの壁際に並ぶ十数人は、まるで、サッカーのゴール前でフリーキックを防ぐ壁のように突っ立ってくれている。
中には、自分の仕事が始まるまでの時間つぶしにスマホを開いてウェブニュースを読んでいる弁護士もいるけれど。
法廷内はスマホ禁止のはずだが、それを咎める者はいない。裁判所の職員が裁判官と裁判所書記官の二人しかいないこの状況ではやむを得ないことだ。
スマホでこの法廷の会話が録音、録画されている可能性はあるが、そもそもが公開の法廷だから、録画されて困ることなどない。困ることがあるとすれば、録画したものを、たとえばネットに流した者が、法廷の秩序維持を乱したとして責任を追及されることくらいだろう。
だけど。
最近は情報の時代だ。東京地裁の和解室で、裁判官が当事者の一方から和解の条件を聞き出すために、対立する当事者を部屋から退出させたときに、弁護士が録音状態にしたスマホを忍ばせたカバンを置いたまま和解室から出ていったというのは、わりと有名な話だ。
俺のボスの田中弁護士は、それを恐れて日々ネットで、隠しマイク、隠しカメラ、一見してカメラとか録音器に見えないメガネとか、ペンとか、そういったものの情報収集に余念がない。
……でも、隠しカメラ? 隠しマイクはわかるんだけど。
とにかく。
人事訴訟は、地裁で行われている通常の民事訴訟とほぼ同じだ。まったく同じではないけれど、通常の民事事件のように、訴訟記録は誰でも読むことができるし、裁判は公開された法廷で行われる。
個人情報の塊ゆえに手続きが原則非公開で、当事者と利害関係者のみが事件記録を読んだりコピーできる家庭裁判所の中では、逆に異質の存在なのだ。
一般に、家事事件では、話し合いで解決する調停成立と、裁判所が解決案を示す審判で終わることが多く、審判の内容が気に入らなければ期間内に異議申立てをして無効にすることができる。
まあ、話し合いがまとまらなくても絶対に解決しなければならない、子の親権者の指定とか遺産分割の審判に対しては、不服があれば、高裁に即時抗告をしなければならないんだけど。
それに対して、人事訴訟では、通常の民事訴訟のように判決が出る。不服なら高裁に控訴、さらに最高裁に上告できるという点も地裁の民事裁判と同じ。
そして、何と言っても、人事訴訟のほとんどを占めるのは、離婚事件。
地裁の民事事件と違って、イロイロと刺激的なのだ。
不倫とか浮気とかネトラレとか。それは全部同じか。つまり、訴訟記録を読んでいなくても、法廷の証言台と弁護士のやりとりから、慣れ親しんだ言葉と知識が、諍いの内容を脳内で再現してくれる。
傍聴するなら家裁の人事裁判か地裁の刑事裁判だ。ストーリーを追いやすいという点でも、眠くなりにくいという点でも。
そうやって、時間をつぶすこと30分。
もうそろそろいい頃だろうと、俺達は法廷を出た。
念のために階段で一つ下のフロアに降りて、そこからエレベーターに乗る。1階ではなく、B1階で降りて、地下通路を通って地裁側の建物から桜田通りに出た。
正面には総務省や国交省、警察庁が入る合同庁舎2号館、その右には警視庁が建ち並ぶ。
裁判所の構外に出たすぐのところには、地下鉄霞が関駅の出入口がある。
ここまでくればもう大丈夫だろう。
俺は、安田法律事務所のある虎ノ門に向かいながら、大原に問いただした。
「どういうことか、説明してくれるか?」
「さっき、廊下で立ちふさがってた女性は古川美津子さん。わたしの高校時代の先輩で、今は劇団の主宰をしている。実は、わたし、その劇団に誘われてたんだ。断ってるのになかなか諦めてくれなくて……ついこの間も」
「それだけか?」
「あと、櫻井先輩のお母様と古川美津子さんのお父様がいとこ同士。つまり、二人は、はとこ同士という関係」
「ほかには?」
「古川美津子さんのおじい様は、古商物産の会長で、お父様は社長。……だけど、古商物産の株式は全部、櫻井先輩のおばあ様の名前になってる」
「詳しいな」
「わたしが、高校2年のときに生徒会長をしていたことは知ってるよね。……わたしがいた学校の生徒会って、生徒の身上、特に親の財産とか年収を把握できる仕組みになっているんだ。……その年は運動部が大活躍をして、予算が足りなくなって、それで、寄付をお願いしに行ったんだ。……当時、古商物産の会長をしていた、うちの高校の理事長の古川年男さんのところに……」
「違うっ! そんなことじゃない。まだ、言ってないことがあるだろっ?」
「ないよ」
「いや、あるっ! 古川美津子さん? あの人のことを、君はなんて呼んだんだっけ?」
「……満子先輩?」
小声でささやくように告げてくる。
「聞こえないっ!」
「……満子先輩」
「もっと、大きな声ではっきりとっ!」
「ま、満子、せんぱい」
「よ〜し、いいぞ〜。今度は、先輩を取って言ってみようかぁっ!」
次の瞬間。
俺の腹に大原いずみの拳がめり込んだ。
ぐふぅっ……調子に乗りすぎた。
こうして。
何はともあれ、俺達は無事に安田法律事務所にたどり着くことができた。
受付の広瀬さんが、にっこりと笑って俺達を温かく迎えてくれる。
「遅かったですね。さっきからお客様がお待ちですよ」
「俺に客? ボスの間違いじゃないの? 心当たりがないんだけど」
「でも、山武さんの名刺をお持ちでしたよ。身なりのいい男性と」
それから、声を潜めるように。
「……女優さんのようにきれいな方」
その瞬間、俺は、俺達の逃走が徒労に終わったことを悟った。