第2話 繁栄の先に
「大原? 大原いずみ、だよな」
突然の声に、俺は、思わず振り返った。
呼び止められたのは俺じゃない。隣を歩く大原いずみのことだということはわかっている。
それでも、張りのある男の声が俺の彼女を呼び捨てにする。その馴れ馴れしさに鋭い視線を向けずにはいられない。
それは、ここが裁判所の廊下だからだ。
法律事務所の職員にとっては、裁判所は仕事相手だ。1日1回は担当部署なり事件受付に書類を提出しに行くし、ボスに付き添って法廷の傍聴席に座ることもある。
だが、一般の人が裁判所に出向くことはまずない。
あるとすれば、法律関係でトラブルを抱えている人。
それは、法律事務所にとってはクライアントになる可能性があるものの、個人的な知り合いならばトラブルのタネでしかない。
しかも、大原のフルネームを知っている。前の会社の同僚だろうか。
もっとも、こいつの場合は、1年前まで駅伝選手として走る姿が年に数回テレビに映されていたことから、その容姿に魅せられたファンがいる。
ポニーテールを揺らしながら前の走者を追いかけ、追いつき、追い抜いていく。
長い脚で踏み出す確かな一歩が、前傾姿勢に変わる瞬間、それまで穏やかだったレースが新たな展開を迎える。
その一瞬に心を奪われ、画面に釘付けになる。
そうやってファンになったやつがいる。俺もその一人だ。しかも、それが小学校の同級生であるとわかったなら、そのとき限りのにわかファンではいられない。
いつしか、俺は、大原いずみのレースをネットで追いかけるようになっていた。名古屋の大学時代、東京の実業団に入ってからも。
だから。
昨年4月に実業団を退社したばかりのこいつに偶然再会したとき、俺が見間違えることはなかった。……こいつは俺のことを覚えていなかったけれど。
もしかしたら、この男も?
そう思うと、対抗心がメラメラと立ち上がってくる。
大原いずみはもう俺の彼女だ。すでに一緒に暮らしているし、こいつの弟の結婚式ではご両親に挨拶もした。……プロポーズはまだだけど。
それでも。
目の前に立つ若い男の、高級生地のスリーピースの胸ポケットからチーフをのぞかせるおしゃれ感に気後れしてしまう。
つま先が尖った革靴はピカピカに磨き上げられ、どこから見てもエグゼクティブ。
対する俺は、チノパンにブルゾン。足元は安物のスニーカーだ。
しかも、この男、俺には一切目もくれず、大原だけを見ている。
その親しげな態度にコンプレックスが刺激される。
誰? と、大原を見るが、こいつは、体にフィットした上下のスポーツウェア姿で首を傾げたままだ。
「おい。……まさか、忘れたのか? 高校のときの……」と男が慌てたように言うけれど。
「あっ、山崎? 久しぶりだね」
「違うっ! 1年上の櫻井だ。櫻井洋平」
「えっ? ……もちろん、覚えてましたよ。櫻井先輩。お元気そうで何よりです。十年ぶりでしょうか」
「……完全に忘れてたんだな。あと、俺が高校を卒業して以来だから7年半ぶりだ。しかも、山崎と間違えるとか、俺に対してだけじゃなく、山崎にも失礼だからな」
「……失礼しました。しばらく会わないうちに立派になられたようですね。高級スーツがよくお似合いですよ」
「そんなことより、なんでこんなところにいるんだ? 実業団で駅伝をやってたんじゃないのか?」
「駅伝選手は引退しました。今は法律事務所で事務員をしています」
「どこの法律事務所?」
「……」
大原は困ったように俺を見上げる。しかたないので俺が口をはさむことにした。
「安田法律事務所です。こちらは私の名刺になります。御用がありましたらお電話ください」
「ご丁寧にありがとうございます。……山武さん?」
「山武です。山武太一」
「失礼しました。私は大原の高校時代の1年先輩にあたり、櫻井洋平と申します。古商物産で国際事業部の部長をしています」
そう言って名刺を渡してくる。
古商物産株式会社は、関東地方でスーパーマーケット「フルショウ」を展開している小売企業だ。
創業から六十年以上の歴史を持っている業界中堅の会社だ。
それだけの歴史がありながら業界トップになれないのは、経営陣に問題があるからだといわれている。
同族経営と社長の長期留任は、優秀な大学生の入社を遠ざけている。頑張っても血縁者でなければ重役になれない一方で、創業者一族の社員は成果もないのに出世していく。
実際、正社員の募集枠は少なく、店舗は多くの非正規雇用が支えている。正社員の多くも、アルバイトから登用された者で占めると聞く。
そのアルバイトの時給も法令で定められた最低賃金でしか契約しない。
だから、優秀な正社員はスキルを磨いたらすぐに転職するらしい。それでも、社員の離職率が高くないのは、正社員の能力とモチベーションの低さを表している。
この会社の根元はすでに腐り始めているのだ。
だがこれは。
非正規雇用の大量化を進めた政策と、働き方改革と言いながら休暇を与えることで賃金抑制を促す仕組みが後押しした結果だ。社会構造がこういった会社を支えている。
この櫻井という男も創業者一族の一人に違いない。
大原の一つ上ということは、今、26歳。大学を出て4年目で部長とか、普通の会社ではありえないことだ。
何人もの年上の部下達から煙たがられながら、親が築いた城で優雅に実業家ごっこをする裸の王様なのだ。
そんな男がどうして裁判所に? 裁判ざたなど弁護士に任せておけばいいのに。
「櫻井先輩、積もる話もありますが、わたし達は仕事中なので、これで失礼します」
大原がそう言って、俺の袖を引っ張る。
「申し訳なかった。相談したいこともあるから2、3日のうちに連絡するよ」
「……もしかしたら、勘違いされてるかもしれませんが、わたしは弁護士じゃありませんよ。法律相談なら弁護士にされるといいと思います。ほら、餅は餅屋と言いますし」
「つれないな。旧交を温めたいだけだよ。そうだ。連絡先を交換しないか?」
「……櫻井先輩。ここにいる山武は、わたしの彼氏なんです。ナンパは遠慮してもらえますか」
「そ、そうか。申し訳ない」
「じゃ、また、ご縁がありましたら」
そう言って俺の手を握り、先輩に背を向けて足早に立ち去ろうとする。
「お、おい」と引っ張られながらも、俺は櫻井さんに「失礼します」と声をかける。
櫻井さんのほうけたような顔が、なんとなく哀れだった。
「なんだよ。失礼だろ? 社会人として。それに、古商物産が事務所のクライアントになるかもしれないチャンスを棒に振ったんだぞ。わかってるのか?」
「何も知らないのに余計なこと言わないで」
「どういうことだ?」
「あんた、バカなの? ここは東京家裁の12階。入っているのは家事5部だけ。通称、遺産分割部の専用フロアなのよ。家族の問題に……とにかく、関わっちゃいけない人が……」と言いかけて。
「見ぃつけた」
廊下の先に、豪華なドレスを着た美貌の女性が立っていた。
妖艶な笑みを浮かべて。
「……満子先輩……」
こいつがこんなに動揺しているのを見るのは初めてのこと。
だが。
……今、なんつった? 聞き間違えたのか? 女性性器のように聞こえたんだけど。