最終話 3.14159265359…
意識が少しずつ覚醒する。変な体制で寝たからか少し節々が痛い。ただ、不思議な感覚を味わっている。
ぺたぺたと、つんつんと、頬を触られる感覚がした。
「泉ちゃん……」
ため息交じりで切なげな世界一愛しい人の声で、ぱっと意識が覚醒する。
「おはよう、お姉ちゃん。それでさ……何をしてるの?」
「これは、えと、その」
子どもをあやす母親のような顔をしていたかと思うと、もじもじと、臆病な幼女のように目を逸らす。僕が乗っかかってる足は動かせないからと、白い台の上で上半身をくねらせ、顔ごと逸らそうとする。
悪戯心が湧き上がり、姉が顔を逸らした方向へ、顔を覗き見るように体を動かす。一度目を合わせてみると、あんなに恥ずかしがっていたのに、今度は目を逸らしたら許さない、そんな気迫で見つめてきた。
「変な空気にしちゃって、ごめんね? なんか目覚めて、なんだかすっきりしてて、それでふと膝で寝ている泉ちゃんを見ていたら、ちょっと不思議な気分になっちゃって」
はっとして、お姉ちゃんはさっと両手で顔を隠し、指の隙間からチラチラこちらを伺う。
「寝る時だけあどけなくなる表情とか、少しやせこけた頬とか、ケアが足りなくてちょっぴり傷んだ毛先とか、どうしよう。泉ちゃんが可愛くてたまらないの! 泉ちゃんってこんなんだったっけ? いや元から可愛いけど!」
言葉にならない声をあげているお姉ちゃん。――ああ、可愛いなあ。理性が決壊する音が聞こえる。
「お姉ちゃん、ちゅーしていい?」
思わず強請ると、瞬間、お姉ちゃんは表情を万華鏡のようにコロコロと変化させた。
目が泳いだり、座ったような目をしたり、顔を赤くしたり、青くしたり、僕の姉は忙しい人である。
「ちょっとまって、していい、寧ろしてみたい! けど、心の準備が」
僕はお姉ちゃんの制止を無視して実行する。瞬間、口先の感触だけが、この世界の全てになる。時が止まったかと思った。数秒間しかしていないそれが、永遠に続いてたかのような、そんな感覚が多幸感と共に僕を蝕む。
唇を離して、確認した姉の表情は心ここにあらずというような具合だ。はっと、口付けが終わったことに今気づいたかのような驚きをお姉ちゃんは見せて、柔らかそうな、蕩けそうな笑顔を僕に向けてくれた。
自分は今、年甲斐もなくときめき、心臓は自分でわかる程度に高鳴っているのが解る。
改めて自覚した。池端泉は恋をしていると。僕の双子の姉、池端翠に。
ずっと惹かれていたんだと。姉の様でないけどまさしく姉である、この笑顔に、笑い声に。
「え、へへっ……そっかあ。分かったよ、これが『好き』なんだね。私、ずっと泉ちゃんが好きだったんだ。……こういう意味で」
昔、僕が口付けしようとした時と逆に、お姉ちゃんが僕の頬を両手で包む。
高級な化粧水よりも馴染むその感触に、僕たちはかつて一つの生命体だったんだなあと理解させられた。
「……じゃあ、今まで恋が出来なかったのは当然なんだね。だって私が一番好きな人は、きっと生まれてからずっと泉ちゃんだったから。気付けなかっただけで、家族や友達、姉妹としての好きだけじゃなくて、そういう意味の好きだって、泉ちゃんが全部全部占めてたから」
お姉ちゃんはおでこに3回ほど口付ける。その控えめな感触はまるで恵みの雨の様だった。
「泉ちゃんはもしかして、このためにずっと頑張ってたの?」
瞳孔の奥まで見透かすかのように、じっと見つめるお姉ちゃん。僕はその瞳から逃れられない。
そうなんだ。いつだって姉は、僕を捉えては離さない、離れられない。そしてお姉ちゃんにとっての僕も同じ。きっと生命の設計図からして僕たちは、そんな仕様が設定づけられているんだ。――生まれてから、死ぬまで。
「……うん、そーだよ。本当はここでそんなの違うって言えればカッコいいんだろうけどね。僕には、それが出来ない……そうなれない。だってお姉ちゃんにはねぎらわれたいから。お姉ちゃんに褒められたいから。お姉ちゃんからもらえるもの全部欲しい。お姉ちゃんの気持ち、ぜーんぶ独占したい」
僕の頬に添えられたお姉ちゃんの手に、自分の手を被せた。
「義務感も恩義も使命も名誉も後悔も、全部僕に感じて?」
そして見つめ返す。僕だってお姉ちゃんを逃さないだからね、と。
「……私ってすごく『愛されてる』なあ」
お姉ちゃんははにかむと、急に顔をうつ向かせた。
「こんなに幸せだと不安になっちゃう。私の為だと言ってても、泉ちゃんの努力や献身を、こういう形で受け取ってていいのかって怖くなっちゃう。泉ちゃんは、私と違って皆に必要とされるすごい子なのに」
ぎゅっと僕の袖を掴んだ。
「マリッジブルーってこういう心理なのかなあ」
唐突なたとえ話に虚を突かれ、僕は思わず吹き出してしまった。
……まったくこの人は、人の好意にはとことん鈍いんだから。
その鈍感さが他人に向けられる分には嬉しくてたまらなかった。けど実際他ならぬ自分にぶつけられると、つい苛立ちを覚えてしまう。初めて今までお姉ちゃんに横恋慕してきた人たちに同情した。きっとこの人にははっきり言わなきゃ伝わらない。そしてそう判断してそれができるのは、この世にただ一人、僕しかいないんだ。
絵本のお姫様にとっての王子さまが、たった一人しかいない様に。
「……なんか勘違いしてるっぽいからこの際はっきり言うね。お姉ちゃんが邪魔になるなんて、絶対ない。離れるなんてもう思わないでね。あのね、お姉ちゃんが金銭的に支えてくれたからこそ今僕はこうして居られるんだ。今勤めてる大学助手なんて、学歴の割に簿給でしょう? それ以前に、お姉ちゃんが精神的に僕を支えてくれたからこそ僕は挫けずに済んでいる。僕を一番支えてくれるのは、賞でも、世間でもない、間違いなくお姉ちゃんなんだよ。僕はそれを見捨てるような薄情な人間じゃない! でもね、支えてくれただとかくれなかったとかはそんなに重要じゃない。僕はお姉ちゃんが大好きだから、大好きな人との未来が欲しいから、だからこそ僕はここまで頑張ったんだってば。……一卵性双生児が産まれる確率0.4%、僕もしくはお姉ちゃんがそれをつかんで僕たちが出会えたこと、そしてそれが大好きな人だったこと、そうやって奇跡的につなぎ止めれた縁をずっと繋ぎ止めていたい……だから僕は頑張るんだよ。これまでも、これからも」
「……うーんなるほど」
お姉ちゃんは片方の手のひらに、もう片方の握り固めた拳をポンと置くしぐさをして。
「多分私ね今、泉ちゃんが『愛しい』」
僕の決死の大告白に対し、お姉ちゃんは淡々と、恥ずかしい感想をサラッと言ってのけた。こういう時、敵わないなあと思う。同時にずるいなあとも思う。そういうことをしてもお姉ちゃんがやると、とても様になってしまうから。
お姉ちゃんは瞳を潤ませて一滴の雫をこぼした。
「私って、こんなに幸せで楽しいことに気づけていなかったんだ」
僕の手を握り、少し恥じ入るような表情から一転して、花開いたようなとびきりの笑顔を見せた。
「……泉ちゃん、私の枷をとってくれてありがとう。私の恋心を取り戻してくれてありがとう。泉ちゃんがここまでしてくれたことが、こんなに想ってくれてた事実が、私、すっごく嬉しい! 貴女は、私の自慢の妹だよ。花丸満点な、妹だよ!」
「お姉ちゃん……」
今僕はどんな表情をしているのだろう。思わず自分の頬を抑えてしまった。でもどんな表情だろうと人には見せられないような顔をしていると思う。
本当に、僕って単純だなあ。その言葉で、お姉ちゃんの言葉一つで、僕の心は簡単に、鮮やかに彩られてしまうのだから。
思い出した。かつてお姉ちゃんが小学生の頃、僕の×だらけの答案を色とりどりの花丸で埋めつくしてくれたことを。あれは幸福な思い出の一つだ。
もし言葉が絵具になるならば、心にキャンパスがあるのなら、あの無秩序な配色の花丸で僕の心を埋め尽くしてほしい。
「泉ちゃんごめん、立たせてくれる? 流石に腰が痛くて」
お姉ちゃんが促すから、僕は立ってその腕を引っ張る。まるで溺れている人を救助しているようで可笑しい、と思った。
引っ張った勢いのまま、世界で一番かわいい人が僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
僕を包む柔らかい体。頬にかかる、僕とよく似た髪質の、丁寧にアイロンがけられたふわふわでくるくるの髪の毛。昔は嫌いだった、お姉ちゃんの匂いを包み隠してしまうコロンの香り。お姉ちゃんを構成する何もかもが愛おしい。
「泉ちゃん。大好き」
この時、改めて僕は悟る。
お姉ちゃんを手放したくないと。
その顔に手を伸ばして口づけれたなら、二度と水底から浮かび上がられなくてもいいなんて、やっぱり嘘だったと。
僕たちが掴むのは、掴むべきは。
知らず知らずどぶ沼に足を沈ませる民衆を傍目に、寄り添うように二輪の白い毒花をキレイに咲かす、そんなハッピーエンドだ。
参考文献
慶応義塾大学
社会の複雑性の進化によって「神」が生まれた?-ビッグデータ解析により世界の宗教の歴史的起源を科学的に解明-
https://www.keio.ac.jp/ja/press-releases/2019/3/22/28-51954/
David DiSalvo
「思い出したくない記憶を脳から消す」科学、実証実験段階に
https://forbesjapan.com/articles/detail/36872/1/1/1
本編はここで終了となります
次からは後日談となります