4話 3.14② 私の可愛い妹がこんなにおかしい訳がない
泉ちゃんの研究テーマは確か『特定周波数の音の組み合わせによる記憶の想起とそのメカニズム』だっけ。
不快な音が脳に反響するのに耐えていると、ぷすっと、針が刺さる感覚で目覚めた。そこにはなにかを掲げながら私に微笑む泉ちゃんがいた。
「お姉ちゃん、見て。懐かしいでしょう」
見覚えがある絵本。私があのまどろみの中でしか、もう二度と会えないと思ってた絵本。そしてそれにまとわりつくあの思い出の数々。
『おかあさんを困らせたいの? どうして私がこんな目に。あああ、あああああああああ!! やめなさいやめなさいやめなさい!!!』
おかあさん、おこらないで。いたいよ。おなかはやめて。ちがでてるよ。ちをはいてるよ。くるしい。たすけてだれか。
「やめて……」
幼き日の私の慟哭が鳴りやまない。
震えが止まらない。
ナルキッソスが溺れ苦しんだ様に、私は恐怖の濁流に呑まれていく。
「懐かしいよね。あの日、あの時邪魔が入らなかったらどうなってたんだろうね?」
「やめて」
絵本を取りあげようとしても、だんだん力が入らなくなっていく私の体。
「お姉ちゃん、安心して」
「できるわけないでしょ……!」
ぷすっと、再び針が腕に刺さった。体の力が急速に抜けていく。
泉ちゃんの目元は影が差し、表情はよく分からない。
「お姉ちゃん、怖がらないで。僕はただ、僕らがあるべき姿を取り戻そうとしてるってだけだから」
耳に馴染む、怖い位に優しい声色。
「……あのねお姉ちゃん。世間や常識ってやつは、3桁しかない円周率みたいな、簡単なペーパーテストの世界だけで許される簡略化を、現実にも当てはめようとしちゃう。身に覚えがあるでしょう? そして彼らは、自分たちに都合の悪い存在を、何の罪悪感も無く押しつぶそうとする。本当の円周率は、紙一枚じゃ足りないくらい長いのに。僕たちの恋愛感情は、確かにここにあるのに。――だから、ね? 僕はただ3.14より長い長い円周率を懇切丁寧に記述しているだけ。あるべき世界を取り戻してるだけ。アダムとイブ――違う、イブとイブが、蛇にもかどわかされず、男の鋤骨から作られた存在と蔑まれることも無く、二人で満ち足りた永遠と続く楽園を取り戻そうとしてる、ただそれだけなんだ」
一気に捲し上げて一息つく。泉ちゃんの顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「分かった? お姉ちゃん」
見慣れた表情そのままなのに、私の妹が、受精卵から人生を共にした妹が、何を言ってるのかだけが全く分からない。
意識がぼやけていく。後を追うように機械の駆動音と泉ちゃんの声が聞こえた。
「……ねえ、お姉ちゃん。僕はあのときその顔に手を伸ばして口づけれたなら、絵本のナルキッソスみたいになっても……二度と水底から浮かび上がれなくっても、別にいいって思っていたよ。今でも、そう思っているよ」