3話 3.14① 述懐、あるいは僕の革命決行日
僕はきっと生まれたときからお姉ちゃんのことが好きだった。
言わなくても大体のことはなんでも察せる、顔も体つきもそっくりな不思議な存在。唯一無二の運命の人。
でも、それとは別にお姉ちゃんへの“好き”を強く意識した瞬間はあの時だ。
僕は幼いころ、病的に大人しい、誰にも構われなければ絵本ばかり読んでいる子供だった。
そのなかでも特に、僕は『ラプンツェル』を好んで読んでいた。誰にも会えないよう少女を塔に閉じ込めてしまうおばあさんに憧れてた。僕は小さい頃から、お姉ちゃんを誰にも渡したくなかったから。
劇中何度も挟まれる、おばあさんが外から塔に登る際、窓から垂らされた少女の長い髪をつたいあがっていくシーンも好きだった。このシーンを思い浮かべながらお姉ちゃんの髪を手入れするのは、今でも僕の趣味の一つだ。
最も物語終盤、王子さまに二人だけの世界は壊されるのだが。おばあさんの声マネをして長い髪をつたう王子さま。一目彼を見て予定調和に恋に落ちる少女。この結末が気に食わなくて、ラプンツェルを読むときは終盤を読まないようにしてた。
そんな世間一般的にずれた気性が災いして、僕は周囲から距離を置かれてしまう。それでもお姉ちゃんはそんな僕を見放さず、傍にいてくれた。まるで通じ合っているかのように、僕のちょっとした不調も見抜いてくれもした。
僕らは誰も入れない塔が無くたって、二人で一緒にいることが多かった。
あの頃は姉の話し方やふるまいが、正直今より大人っぽかった。人称も僕と同じで“僕”だった。
それが“僕”と“私”になったのは。今のように分化してしまったのは……。
ある日公園で、遠巻きに他の児童に遠巻きに観察されながら、いつものように二人で遊んでいる。
それが突然僕の手を放し、駆け出して数メートル先、転げる姉。
わらわらと心配そうに集まってくる同年代の子どもたち。
「えへへ、ころんじゃった。泉ちゃん、たすけて?」
横たわりながら首をこちらに向け、いかにもな子供っぽい口調でとろんと僕に笑いかける姉。僕は瞬時に、お姉ちゃんの意図を理解した。
「……いまいくよ、まってて!」
きっとあれは僕の第二の産声だった。
僕の殻という母胎から、世間という外界に生まれるための。
そのあとも姉は何度もドジを踏み、僕がそのたびに助け、周囲には「おまえもたいへんだな」とか「しっかりしててえらいね」とか言われるようになった。
こうして気の抜けた姉を支えるしっかり者の妹という、社会における自分を会得した。
お姉ちゃんはこのことを忘れているかもしれない。それにシンメトリーという形容が似合うくらいの、一卵性のみにこそ到達し得る、僕らがかつて持っていた同一性も名残惜しい。
けど僕はお姉ちゃんの選択とそれにこめられた僕への愛情を、尊いものだと今でも思っている。そしてその美しい精神性はずっとずっと、この29年間、損なわれたことなんて無い。
『お姉ちゃんとは結婚なんて出来無いんだよ?』
『家族で恋愛なんてありえない』
世間の声とやらは、そんなことを言うけれど。
――そんなの、ただの嫉妬でしょ?
心の底から愛する人と、性も、産道も、子宮も、胎盤も、誕生日も、一緒に母体にいる時間も、生まれてからずっとの時間も、共有できなかった人たちの嫉妬でしょ?
産まれた瞬間から好きな人と同じ姓を、戸籍上のつながりを、社会的な保障を、持てなかった人たちのやっかみでしょ?
知ってる? 信仰は社会に先行するんじゃない。社会が、信仰を作り出す――人類文化史の界隈でそんな説が流行ったことを。宗教なんて、倫理なんて、集団を律するために作られたシステムでしかない、そういわれていたのだと。元々はセシャット――人類進化史ビッグデータを解析した研究が流布元で、現在解析不十分だということでその論文は取り下げられてしまった。
でも僕は信じてる、それは一面の真実を指していると。
近親愛の禁止。同性愛の禁止。神様の命令なんかじゃない。ぜーんぶ、誰かがが作った、社会を都合よく動かす為の、神様の名前を借りたおためごかし。そう仮定すると、しっくりくる事象が沢山ある。
僕はずっとずっと赦せなかったんだ。嘘つきは良くないという癖に、僕の噓偽りのない愛情はかき消そうとする、世間が、社会が、この世界が。
その憎悪がはっきりと形作られたのはきっと、お姉ちゃんに口付けしようとしたあの日。
あれはおふざけだったんだよ、そんなにむきにならないで、といいながら僕を庇うお姉ちゃん。奇声をあげながら耳を貸さず、手を出し足も出し、ついには道具で殴りかかる母。その姿はオカルト特集で取り上げられた悪魔憑きによく似ていた。
当時の母は離婚直後で、必死に私たちがあぶれ者にならないよう、なるべく“普通”に扱われるよう心を砕いていた。それがこんな、“普通”と一般に見なされないことを、よりにもよって僕たち自身がやろうとしていた。それは母にとてもとても許せなかったのだろう。この人はこの人なりに可哀想な人だったのだろう。
でもそのせいで、お姉ちゃんに芽生えかけていた恋の萌芽は、心のずっとずっと奥深く、トラウマによって押し込められてしまった。
僕はこの時から母に、真に心を開くことを止めてしまった。そして幼い時からうすぼんやりと存在していた世間とか世界に対する憎悪がこの時、明確な輪郭を持った。
泣き叫ぶお姉ちゃん。怒鳴り散らすお母さん。あの日の惨状が目に、何よりも耳に、こびり付いては離れない。
そんな僕が今の研究分野に興味を持ち、理系に進もうと決心したのは中学生の時、家族でトリックアート展に入ったあの日からだ。夏季限定の市のイベント会場でそれは開かれていた。
大きなサメの絵に食われた僕を見てはしゃいで写真を撮るお姉ちゃん。大興奮で私もそっち行く! とお姉ちゃんが僕の所へ来て肩を組みに来て、お母さんが苦笑いしながらシャッターを切る。その時の、サメが肩を組む僕たちの間を引き裂こうと虚空に食いつく間抜けな写真は、今も手元に残っている。僕たちの仲は、何人たりとも裂けやしないのに。突然場内放送が響く。講演会の連絡だった。
「もうすぐ脳科学の分野で有名な■■先生が講演を開くんですって」
お母さんに勧められ、しぶしぶと僕たちは講演の席に着いた。■■先生はトリックアートと錯視に絡めた、脳のしくみについて語る。その時の衝撃は忘れられない。内容そのものも勿論、そのときに聞いたこのフレーズが何よりも心に響いた。
「世界は認識するものではありません。私たちが、世界を作り上げるのです。錯視はいわば、
視覚から世界を作り出す脳の動きが都合悪く反映された、ただそれだけにすぎません」
当時の僕にとってそれは福音だった。
じゃあそれをどうにかできれば、望む世界は作れるの?
XX大学への進学を決めたのは高校の頃だ。高校の頃調べ学習の一環で、XX大学は脳科学の分野で成果をあげていることが分かった。ここの理学部生物学科。その中でも音と脳の関連性についてをメインテーマに掲げていた○○先生に興味を強く持った。だって、音と僕の人生は切っても切り離せない関係だったから。あの日の産声、あの日の耳をつんざく怒声と悲鳴、耳に響いた■■先生の福音。
そんな思考を巡らせ大学のパンフレットを見ていると「私、生物一番好き! 学校のテストも一番得意! 泉ちゃんはここ行きたいの? だったら私も行きたい!」とはしゃいでいた。その横顔を「ああ、僕の姉は可愛いなあ」なんてのんきに見守っていた。
XX大学は世間一般的にはかなりの難関大学だが、僕もお姉ちゃんも無事受かった。お姉ちゃんはその言動から馬鹿にされがちだけど、僕の双子の姉なんだ。頭が悪いわけがない。分からないと言ってたところも僕が懇切丁寧に説明すれば身に付くし、僕自身がときたまお姉ちゃんに教わることもあった。
そして教えてあげる度に姉の言ってくれる「ありがとう」はどんな糖分よりも脳に栄養を与え、どんなカフェイン飲料よりも脳を活性化させた。「泉ちゃんのおかげで受かったんだよ」って言ってたけど、きっと僕のほうがお姉ちゃんの存在にずっとずっと助けられている。
大学生の頃……大学生活では念願の二人暮らしを始めれてそれなりに充実していた。でも少し困ったことがあった。姉がモテるにモテたことだ。
勿論、お姉ちゃんはとても可愛らしく、ガーリッシュな服装も良く似合い、そうなるのは必然だった。でも持ち前の鈍感力やあまりの脈の無さに大体の人はすぐ諦めた。
それでもたまに起こる呼び出しに僕が気付けば、お姉ちゃんに変装し、勝手に断っていた。お姉ちゃんが気付いてしまった時は、あらかじめ僕が「断ってこようか」と伺いを立てる。大抵お姉ちゃんは「でも、それは失礼だし……」と言うので、「お姉ちゃんは、料理とか家事とかいろいろやってくれるから、これは役割分担!」と言い返していたものだ。そしていざ僕が現場に向かい告白をされたときに、正体を見破れなかった彼らの愚かさを思い切り嘲笑すると、みんな心を折ってしまうのだ。
でも黒田くんは騙されなかった。そして学生時代には出来なかったそれを長年拗らせ、つい最近には告白をしとげた。もっとも生まれてからお姉ちゃんに恋してる僕に、拗らせているなんて言われたくないだろうが。計算外だったのが、お姉ちゃんがデートに応えてしまったことだ。
僕は、お姉ちゃんの初めての、恋愛関係を前提にしたデートを奪った黒田くんのこと、絶対絶対許さない。
例のデート前日、ついこんな話を彼に漏らしてしまった。
「黒田くんは、誰かに殺されかけたことはある? 僕は、あるよ」
「はあ、そりゃまた壮絶な体験だな。で、これ続き聞いていい話なのか?」
「えへへー。実は生まれる時、お姉ちゃんのへその緒が僕の首にかかってて……。小学生くらいの時かなあ。お姉ちゃん、そのこと知って、ごめんねごめんねって泣きついてきたんだよ」
こんなこと君が共有できると思う? お姉ちゃんの運命の人は、僕なんだよ。
毛糸よりも鮮やかで鮮血よりもどす黒い、二重らせんで強固に絡み合った僕らの赤い糸は、誰にも切れない、ほどけない。
***
「助手って、腐っても教職なんだな。こんなしたっぱでも、機材に権限持てるから」
お姉ちゃんにヘッドホンを嵌め僕が調整した音を浴びせると、苦しげにうめいていた。「おかあさんやめて」といううわ言。ごめんね、あと少しだから耐えててね。そしてrTMSと共に稼働させていた機材から何かが出力される。その機材――がん検査等でおなじみのMRIは、お姉ちゃんに電磁波を浴びせ、人の肉眼には直接映らない反応を画像に変換した。そうして脳の動きをとらえた動画が出来上がった。
お姉ちゃんに聞かせた音は、僕の研究の一環として作り出した一部マウス個体に嫌な記憶を想起させる周波数の組み合わせ、それを何度も改良したものである。試験体は主に僕。自分でも、中々狂っていると思う。想起させる記憶は僕と姉の恋路を裂かれた、忌々しいあの日の記憶。同じ音を聞かせたからと言って、同じ記憶を想起するとは限らない。でも僕は上手くいくと確信していた。だって僕たちは運命だから。
リアルタイムにお姉ちゃんの脳を映したその画面は、自分で被検した時の映像とても似た動きをしていた。――泉ちゃんといっしょだね。幼い頃の姉の声が頭の中に響き渡る。得も言われぬ幸福で僕の心が満たされていくのが、解る。
『ラプンツェルや。その御髪を下ろしておくれ』少女が塔から降りることを望む誰かの声が、脳内で響いた。
ラプンツェル。そんなことする必要はないよ。だって貴女は、僕とずっと一緒に居るのでしょう?