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2話 プロローグ② 私の、大切な妹

 XX大学の外れ、数年前卒業研究のために通い詰めた小奇麗な校舎の3階の、白くて汚れ一つない引き戸を引く。


(いずみ)ちゃん、お弁当だよっ!」


 そこに、数人の男性に囲まれてる、私の探していた人がいた。こういうとき大学事務に就職して良かったと思う。泉ちゃんと同じ敷地内の職場なら、忘れ物をしてもなんとか届けられるから。


「お姉ちゃん! わざわざ来なくていいって言ったのに!」


 私と似た髪質の短い髪、少しよれた白衣を纏い、私より少し低い声を荒げるその人は、私の双子の妹で大学助手を務めている、泉ちゃんだ。



「泉ちゃんだってここじゃ学食行くにも一苦労でしょ! 前忘れたときお昼抜いたの解ってるんだからね!」


「……そんなことしなくっても、最近、構内でお弁当売るようになったんだよ?」


「え、あ……、本当っ!?」


 おもわず慌てふためく私に泉ちゃんは、目を細めて少し困ってるようないつもの笑顔を向けて。

 そっと抱き止め、耳元で囁いた。


「怒っちゃってごめんね。本当は……僕、すごく嬉しい」


 こんな多人数の前で抱っこされて、こんなこと言われちゃうなんて、顔から火が吹き出そうだ。ただでさえ泉ちゃんはカッコいいから、我が妹ながら毎度ドキドキしてしまうというのに。


「い、泉ちゃん! こんなところで抱き着かないで……」

 

 池端翠(いけはたみどり)。年齢=恋人いない歴。いい年してこんな風にはしゃいでいいのかなとか、同僚が次々に結婚しだしたこととか、そんなことが気になるお年頃の大学事務29歳です。


 泉ちゃんは私をしばらく、大袈裟に抱き締められたままだった。まるで、何かから私を隠すかのように。


 それから、「池端せんせーのお姉ちゃん可愛い! 今度合コンに来……うわ、ちょ、先生の顔怖すぎます冗談ですって」と学生さんに言われたり「久しぶりに見たけど顔良く似てるねー」「さすが一卵性」と昔の同期に話しかけられたり、美味しそうにご飯を食べる泉ちゃんを見届けたりして、そろそろ校舎を出ようとした。


「池端さん! こ、これを受け取ってくださいいいい!」


 すると、後ろから呼び止められ、握り締められたメモ用紙を手渡される。そうして背中を向けて駆け出すのは、天パと黒縁メガネが特徴の泉ちゃんの同期で私の元同級生の男性、黒田さんだ。


 くしゃくしゃのそれを広げる。メモ用紙に書いてあったのは『僕とお付き合いください』の一言と通話アプリのIDだった。


***


「ってことがあったの!」


「ふーん。で、お姉ちゃんはどうしたいの?」


 あれから二人のアパートに帰宅して、お風呂から上がって今、妹に髪を梳かしてもらっている。私の髪のお手入れをするのは小さい頃から泉ちゃんの日課だ。


「んー。返事は保留?」


「ふーん……」


 気のせいだろうか、泉ちゃんの髪をとかす手つきが少し雑になってしまった。なにか面白くないことがあったのだろうか。

 髪をとかし終わった直後、私のスマホが鳴った。


「この着信音……またお母さん? お姉ちゃん、でなくていいんじゃない? また変なこと言うだけじゃん」


 私はのそのそと立ち上がる。


「そうとはいかないよ……」 


 妹はなぜか、大層不機嫌そうだった。






「風が気持ちいい……」


 ベランダに出ると、風が頬を撫でる。枯れ葉が飛んでく音がして、季節の変わり目を感じる。そんな自然のくれる優しい静寂を、鳴り続ける無骨な着信音が乱し続けていた。

 一息ついて、通話ボタンを押す。電話越しに聞き馴染んだ声が耳に飛び込んできた。


「あんた、いい人見つけたの?」


 また始まった。


「もー、お母さんっ! そう簡単に出会えないんだってば!」


 これは、お母さんお得意の『いい人見つけたの?』攻撃。私はその度にムキになって反論する。


「出会い系? とかは心配だけど結婚相談所とか行ってみなさいよ。お母さんそれくらいなら援助できるわよ?」


 電話越しなのにこんなに声を荒げて恥ずかしい、とか考える余裕はなくて。


「いらない!」


 思わず叫ぶと、電話越しに重たいため息が聞こえた。


「……あのさ、あんたは29歳なのよ、もう」


 数秒、沈黙が流れる


「あんたは泉と違って、“普通”が霞むようなキャリアを積めるわけじゃないのよ?」


 電話のノイズがやけに大きく感じた。


「あたしは片親であんたのことを院進させれないで、しかも結果的に泉の学費や生活を負担させるような真似させて悪かったって思ってる。でも親として言わなきゃならない。あんたもあんたで、翠としての人生を歩むべきだって」


 いつも以上に深刻そうな、その口調。


「意味わかんないよ、お母さん……」

 

 私が歳を重ねる度に、その攻撃は年々激化している。まるでその行いが、正しいものだというように振舞う。お母さんの昔からある悪癖だ。


 ……確かに自分も進学してみたかったけど、私じゃなくて泉ちゃんを進めたことに、後悔なんてあるわけない。

 そもそも私には泉ちゃんのような、学びたいという強い意志はなかった。それに母には片親ながらも大学までは進学させてもらえて十分満足している。見当違いにもほどがある。

 私の人生? 私は、私以外の人生なんて歩んでないよ?


「翠……あんたはいつまで泉の姉でいるつもりなの? 翠。確かに泉は凄く優秀で、だからあんたには一種の諦めを覚えさせていたかもしれない。でもお母さん信じてるから。翠はあんたなりに人生を歩める、そんな力があることを」


 諦めって、何?

 貴方が何を知ってるというの。


「お母さん……私は、泉ちゃんが美味しそうにごはんを食べたり、今日の成果やあったことを聞けたりするのって、すっごく幸せだよ?」


 電話の向こうから、はあ、とため息が聞こえた。


「……翠、泉も大概だけどあんたもかなりのシスコンよ。方向性はかなり違うけどね。でも、そんな泉だって、自分の人生を歩み始めてる。泉がいつまでもあんたに守られる存在でいてくれると思うの? 今はまだいいかもしれない。でも……」


 思わずゴクリと唾を飲んだ。


「私は怖いのよ、その時が来ることが……」


 電話を切り、食卓に戻ると泉ちゃんが私に駆け寄って来る。


 今ではキビキビしてカッコいい私の妹。私に何か非常事態があるとすぐに駆け付けてくれる妹。

 

 でも幼い頃はもっと静かで、私の後ろに隠れてビクビクしてるような子供だった。泉ちゃんは心配げにこちらを見つめている。こんなときだけ、昔の泉ちゃんの名残が見え隠れする。


「お姉ちゃん。大丈夫だった?」


 なんとなく正座した後、私は泉ちゃんに微笑みかける。ちゃんと笑えてるって、信じたい。


「うん。大丈夫だよ」


 ふと、壁に飾られたコルクボードを見やる。私と泉ちゃんのツーショットで埋め尽くされている中端っこに一つだけ様子が違った写真がある。


 それは――泉ちゃんが博士課程の頃に撮った写真。数人の同期に囲まれ、中央で賞状を持ちながら笑顔で笑っている泉ちゃんの写真。そして、その隣にセロテープで適当に張り付けられた表彰ニュースのコピー。確かこの時の発表タイトルは「特定周波数の音の組み合わせによる記憶の想起とそのメカニズム」



 思い出す小学生の頃。100点のテストばかり取る泉ちゃんにしては珍しくそのテストの点数は半分を切っていた。


『授業で習った数字を使ってね』


 先生は優しく泉ちゃんに教え諭した。

 小学校の算数、円の面積を出す時、通常私たちは円周率を3.14とみなして計算する。本当のそれはもっと桁数が大きいと頭の片隅に置きながら。


 ただ、泉ちゃんは3桁よりも、もっと長いそれを覚えていて、勿論覚えている通りの円周率を使い回答した。でも回答欄には×が付けられている。泉ちゃんに点数をあげてと先生に抗議したがダメだった。


『大丈夫だよお姉ちゃん』


 張り付いたような笑顔で妹は私の袖を引っ張る。

 帰宅後も泉ちゃんはやっぱり気落ちしている気がして、だから――元気付けたい、その一心でランドセルから彼女の答案を机の上に引っ張り出した。


『他の誰かが解ってあげられなくても、私は泉ちゃんがすごいってこと、ちゃんと知ってるからね』


 幼い私はそれが名案だと信じて疑わないままに、先生が使ったものと明らかに違う色合いの赤ペンで、問一つ分、バツ印を花丸で上書きする。「お花が咲いてるみたい」泉ちゃんのその言葉に調子を良くして私は水性ペンのケースをもってきた。次々と問ごとに別のペンで書かれた花丸が紙面に増えていく。『これじゃあ花畑だよ』少し恥ずかしがりながら、瞳に喜びを控えめに称える妹が可愛かった。


 今は私がそんなことをしなくても、泉ちゃんは同じくらい学を修めた同僚が、歴を積み重ねた先生が、権威が、泉ちゃんは凄いって認めている。私の何の意味も無さない称賛なんかと違って、社会的な立ち位置だとか、ゆくゆくはお給料だとか、そういうものを保証してくれる、そういう明確な価値づけをしてくれる存在が、泉ちゃんを後押ししてくれてる。


 そんな妹の足元に、姉というだけで、いつまでも隣に居れてると勘違いした私――。



「私、黒田さんとデートしてみる」


***


 メッセージアプリで決めた集合場所。黒田さんはそこにいる。

 緊張して、震えているのが分かる。白シャツの上に薄手のコート、鮮やかな藍のジーンズ生地のスキニー。

 きっと一生懸命選んだんだろうな。

 でもやっぱり脳裏によぎってしまう。同じ格好でも泉ちゃんなら、もっとカッコよく着こなすのになあ、って感想が。

 

 デート中、黒田さんと何かする度、ぽつぽつ小さな不満が浮かび上がる――泉ちゃんなら、足の疲れへの気遣いも、食の好みも、何もかも満たしてくれるのにって。


 ……泉ちゃん。


 いつものように、隣にいて談笑して欲しい。楽しかったね、美味しかったね、どんな些細なことも共有したい。映画館ですごく怖い映画を見て、上映終了後も震えが止まらない私の手を、手汗がコンプレックスな私に配慮して手の甲をそっと握ってくれる、少し荒れてるけど私とよく似たあの手が恋しい。


 でも、そうとは言ってられないんだ。


 自立して離れなきゃ。

 誇らしい泉ちゃんの、誇らしい姉として。


 もう見届けたでしょう。将来妹の重荷になる姉なんて、必要あるわけないでしょう? あの子はいつか、私では手が届かないような存在になる。姉だからこそ、そう確信してる。


 だから私の運命の人、いるなら私をはやく見つけて。もうこれ以上、あの子に依存しないように。


 ずっと昔から思っていた。私はいつになったら、泉ちゃん以上に好きになれる誰かを見つけられるのだろう? って。


 これを言うと信じられないとか、嘘つきだとか言われるけど、生まれてから現在に至るまで、恋をしたことが一度もない。泉ちゃん以上に心を許したいと思える存在に、出会ったことが今までない。


***


「いただきます」


 夜は食事をせず別れた。今日も泉ちゃんと向き合ってご飯を食べる。今日のメニューは、あらかじめ作っておいたロールキャベツ、ささっと作ったインゲンの入ったサラダ、泉ちゃんがおいしそうだったからと衝動買いした牛肉のステーキ。


「お姉ちゃん、楽しかった?」


私は、んー、と一息おいて。


「楽しくなくはなかった、けど……」


「けど?」


「泉ちゃんといる方が、楽しい」


 そう言うと急に咳き込む泉ちゃん。食器を置いて肘をつき、頭を手で押さえる。


「……そういうところ、気を付けたほうがいいよ」


「なにが?」


「お姉ちゃんは可愛いってこと!」


「泉ちゃん、ほめ過ぎ」



 食べ終わって、片づけて。今日は私が洗い物当番だと皿をスポンジでゴシゴシしていると背中からぎゅーっと泉ちゃんが抱き着いてきた。わたしの背中におでこをぐりぐりと押し付け、はー、と息をつく。この体勢じゃ泉ちゃんの顔が見えない。私と二人っきりでいる時の泉ちゃんは小さな子供みたいで、とても可愛いのだ。


「お姉ちゃん、またなんか無理してるでしょ?」


 でもふいうちでかけられた、その小さい声を聞いて、私はなんだかキュッとなった。私のちょっとした不安ごとも見抜いて、優しくしてくれる振る舞いに、心の芯が熱くなる。

 今にも涙声をあげそうな喉を必死に抑えた。


「無理、してるのは……泉ちゃんでしょ。また瘦せた? 最近帰り遅いとき多くて、凄く心配してるんだよ。わたしだって……」


「…僕はお姉ちゃんが大切。ただそれだけだから」


 泉ちゃんが、少しやつれたその体が離れていく。足音が遠ざかる。泉ちゃんのくれた熱が、大気に溶けていく。名残惜しさに切なくなる。


 もっと抱きしめていて、とは言えなかった。だってそんなことしたら、泉ちゃんのTシャツを汚してしまいそうだったから。


 次のデートは休日、場所はなんとあの泉ちゃんも通っている研究用の校舎だった。学部生の頃はいつも通ってたし、懐かしいし、いい機会かもと思ってOKを出してしまった。泉ちゃんが、何かあったらすぐ電話かけて、電話アプリを開きっぱなしにしといて、というからはいはいと答えた。


 ぞんざいな返事をしながらも、ポケットのスマホは妹の電話番号をでかでかと表示していた。




「お姉ちゃんの隣は……僕だけの物なのに」

 

***


 約束通り、そこはかつて通った校舎だった。こんなの、オープンキャンパスに来た高校生が受ける、研究室紹介と変わんないよ、とは思いながらも楽しんだ。ここ、私が学部生の頃は歩いたことないな。泉ちゃんは歩いていたことあるのかな。泉ちゃんがここで過ごす毎日に、私は思いを馳せる。


 私は就職したことを後悔はしてない。でも、あの子ともっと一緒に居たくて、院進した他の同期が羨ましくて、そんな気持ちになることがたまにある。


 ふいに、黒田さんは関係者以外立ち入り禁止、と張り紙がある部屋の前に止まる。ここが黒田さんや泉ちゃんが現在、主に利用している実験室らしい。黒田さんは名簿に自分の名前だけ書く。どうせみんなやってるから入ってと笑って、私を招き入れた。


『お姉ちゃん、それはダメだよ』


 学部生では入れなかったその施設に入ってみたくて冗談交じりにお願いしたとき、泉ちゃんはこう言ってた。


 泉ちゃんだったらこんな悪いことしないのに。……ああいけない、また泉ちゃんと比べちゃってる。黒田さんといると罪悪感に駆られてばっかりだ。


 清潔そうに保たれた空間の中に一つ、すごく気になる機材がある。白い座椅子と、美容室のパーマ機に似た機械と、心拍数測定器みたいなパネルが融合した機械。


 黒田さん曰くこれはrTMSというらしい。パーマ機みたいな頭に装着させる部分から、磁波を浴びせることで、うつ病などの治療などに使えるらしい。


 泉ちゃんも現在の課題がある程度まとまったら使いたいと、人が使っていないときたまにいじっているという。泉ちゃんは今、私の居ないところで、こんなことしてるんだ……そんな感慨を抱いていると、黒田さんが背後から抱きしめてきた。


「翠さん、好きです……」


 その時走ったのは悪寒。あげそうになったのは悲鳴。全身を蝕むのは異物感。


 泉ちゃん、助けて。


 気が付くと私は、お守りの様にずっと手と一緒にポケット突っ込みぱなしだったスマホの画面を指で滑らしていた。近く、扉越しから聞きなれた着信音がする。すぐさま勢いよく扉が開けられ、私の一番見知った人がこっちに走ってくる。


 黒田さんはぎょっとすると間もなく泉ちゃんに突撃される。私に回されていた腕が緩み、崩れるように地面へ伸びていった。泉ちゃんの手元にはスタンガンが握られている。


 やりすぎだよと窘めるべきなのに、溢れてきたのは安心感だった。

 

「泉ちゃん……っ!」


 正面で向き合う形で抱きしめあう。泉ちゃんは首に手を回すように私を抱きしめる。

 その時バチっと体に何かが走った。


「泉ちゃん、どうして」


 最後に見たのは「ごめんね」と歪められた世界一見慣れた口元だった。





ピー。ピー。

 

 気味の悪い音が耳をつんざいた後、意識が沈みゆき、走馬灯のようにめ思い出がめぐった。

 それは小学生の頃。クラスのみんなが恋バナに花を咲かせるお年頃。

 好きな人はだーれ、と聞かれ真っ先に思い浮かんだその人の名前を言うと。


「いずみちゃんがすき!? それ家族の『すき』じゃん!」


「いない!? 絶対うそでしょ!」


「おしえたくないだけでしょー? わたしのすきな男の子はおしえたのにー。ずるーい!」


「みどりちゃんのうそつき!」


 そうクラスの子たちに言われたあの日。なんとか冗談っぽく受け流したけど、私は内心傷ついてた。寧ろクラスの男子に好きな人がいるなんて冗談にもほどがあると思っていた。


 だって、クラスの男子は子供っぽい嫌がらせをしてくる。それに比べ泉ちゃんは大人びていて面白い。頭もいい。家の中でしか見せない少し気の弱いところも可愛い。見た目でも男子なんかより泉ちゃんはショートカットがずっと似合っている。


 私は本気で疑問に思っていた。――どうやったらあんな子たちを好きになれるの? と。


 放課後は小学校の小さな図書室に行った。まるで逃げ込むかのように。


 ぼーっと室内を歩き目にとどまったのは、シリーズ物の絵本コーナー。なんとなく手に取ったそれはギリシャ神話の絵本。私はその表紙の、男の子が覗き込むように水面を見つめている絵になぜか惹かれた。


 この時、いい年して絵本を読むなんて恥ずかしいと、小学生ながらに思ってて、だからこそこそ隠れるように借本手続きをして、盗品を抱えるみたいに絵本を持って帰った。


 自宅に着くと、早速部屋にあがり、本をひらく。その本で語られるのは、他者の恋情を顧みなかった少年ナルキッソスが罰を与えられる物語だった。


 他者を愛せなかった代わりに池に映った自分の姿に恋するように仕向けられたナルキッソスは、語り掛けても返事をくれない、近づき触れれば波紋にかき消されてしまう、そんな届かぬ恋に溺れ、池に溺れ、ついには苦しみながら死んで。最後に池のほとりには彼の存在を証明するかのようにナルキッソス(白い毒花)が咲いていた……ざっとまとめると、こんな話だった。


 それを、当時の私はこう解釈した。


「レンアイが出来ないことって、罪なんだ」


 ――正しく恋愛感情を育めない愚かな青年が、身を滅ぼしてしまう物語、と。


 涙が止まらなかった。


 玄関から泉ちゃんの足音が聞こえてくる。泣いてる私に気付いて、どうしたの? とそっとハンカチを目にあててくれた。泉ちゃんに、私は言葉を詰まらせながら今の気持ちについて伝えると、安心させるようにふにゃっと優しく笑いかけてくれた。


 そういえばこの笑顔を見る度、私は少しだけ誇らしい気持ちになっていた。こんな風に笑うのは家の中だけ、それも私が傍に居る時だけだから。


「お姉ちゃん」


「……なあに?」


「おとぎ話で悲しいとき、ピンチのとき、何するか知ってる?」


 唐突に質問を投げられて、んー、と回らない頭を一生懸命回していると、泉ちゃんは悪戯っ子みたいな顔で私の顔を手で包んだ。そして私とよく似てるけど、私より少しだけ大人びたその顔を、私へ近づけ。


「こうするんだよ」

 

 泉ちゃんの少しがさついた、けど柔らかそうな唇が、私の唇に接近する。あ、リップクリームのスースーしたにおい。第一に思ったことはそれだった。それと同時に私は見てしまう。


 泉ちゃんの後ろに居る、母の顔をした鬼を。

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