09/Sub:"渦中"
ユーリが呟くのに、アンジェリカはええ、と力強く返し、上体を落としてサドルユニットに深く跨った。ユーリは90度近く左ロールし、ピッチアップ。これまでとは違う、鋭い旋回。翼が減圧雲を纏い、翼端から白い糸のような飛行機雲を空に引いていく。180度旋回し、目を目指して空を突き進んでいく。
速度が増す。ユーリの翼の後端で輝く飛行術式の噴射光が膨れ上がり、一度は引いた音の壁を再び突き破った。成層圏を、台風の雲海を雷鳴の様なソニックブームが揺らした。
雲海が途切れる。穴の様に開いた台風の目の上空に、二人は再び戻ってきた。
「さぁユーリ、コロッセオの中に飛び込みますわよ!」
『了解――行くよ!』
ウェイポイント『ヴィクター』を通過。
ぐるん、と180度ユーリは左ロール。天地がひっくり返り、空が足元、海面が頭上に。翼が減圧雲を纏った。地面に向かって落ちるように急降下。アンジェリカが一瞬で高Gから無重力に放り出され、思わず歓声を上げた。緩やかに左にロールしながら機首を引き起こしていく。壁との距離感に気を付けながら、飛行機雲を雲の渦の中に滑らかに引いていく。
「最高ですわ!」
アンジェリカが叫ぶ。ユーリも高揚を抑えられなかった。渦巻く雲で形作られた巨大なスタジアムの様な中を飛ぶというのは普段早々体験できるものではない。渦巻く雲の合間を抜けながら、目の壁に沿って緩やかに弧を描いて飛びぬける。
ロックンロールのコンサートの様な高揚感の中、アンジェリカはどこか冷静にARを操作。サドルユニットの左右に取り付けられた赤外線カメラを起動。同時にARグラスのつるについているカメラをオンにし、撮影を開始する。ARで小さく動画のプレビューのウィンドウが表示され、データはARグラスのつるから伸びるケーブルを通じて彼女が背負っているバックパックの中の端末に保存されていく。同時に、ゾンデの通信のモニタを続ける。
ユーリは緩やかに螺旋を描きながら高度を落としていく。緩やかだがしっかりとしたGがアンジェリカをサドルユニットに押し付ける中、アンジェリカは首を動かして周囲の景色を見やる。
台風の目の壁は暴風が一方向に流れ、波打つようにうねっている。眼下の雲は、ゆっくりと、しかし着実に形を変えながら泡立つように生成と消滅を繰り返している。まさに混沌とした空模様が広がる台風の目の底に、アンジェリカはどこか背筋の冷える想いを抱いた。
「すごい、ですわね」
『……うん、これは凄い』
二人して思わずその光景に見とれる。直径千数百キロの巨大な雲の渦の、中心ともいえる空域。
「全ドロップゾンデとの交信は良好。このままドロップゾンデが墜ちるまで飛びますわよ。記録は継続」
『了解。目の壁との距離を維持』
ユーリは目の中を緩やかなカーブを描いて飛行。台風の目の中を反時計周りに回りながら壁と一定の距離を保ちながら飛び続ける。
台風の進路は真っすぐ進むわけではない。台風自体の回転、重心の偏りのようなものもあって、実際は倒れかけの独楽の様にふらふらと、迷走を続けながら周囲の気圧傾度力とコリオリ力に流されて動く。当然目の壁もそれに合わせてふらふらと近づいたり離れたりを繰り返すので、ユーリは目の壁にうっかり飛び込んでしまわぬように注意を払いながら目の中の飛行を続けた。アンジェリカも、周囲の景色を見つつも記録とゾンデのモニタリング、そして何より衛星データと飛行位置を突き合わせてユーリに壁との位置関係を実況するのを忘れない。
「ユーリ、台風の位置が変化。北に0.2。西に0.53」
『了解。北に0.2、西に0.53』
巨大な雲の渦の中を、鬼を載せた銀色の竜が飛びぬける。150キロほどの直径があるとはいえ、500ノット近い速度で飛行していれば一周するのに30分とかからない。一周がもうすぐ終わろうというとき、アンジェリカの端末から子気味の良い電子音が響いた。
「ドロップゾンデ1のロストを確認しましたわ」
『意外と時間がかかったね。風で流されてたからかな?』
「ですわね――ドロップゾンデ2、ロスト」
そうしているうちに、次々とドロップゾンデがロストしていく。特製のでんぷん質フレームと基盤は、海に溶けていくのだろう。まるで泡みたいだな、とユーリは妙な比喩を思いつき、すぐに忘れた。
「ドロップゾンデ15、ロスト。これで仕事終了ですわ」
帰りましょうか。記録を終了しながらそう言うアンジェリカの声は、どこか惜しいような響きをにじませていた。ユーリももう少しこの幻想的な光景の中を飛んでいたかったが、安全が最優先だ。海上で霊力切れを起こすなんて、アビエイターとして恥だ。ユーリは了解、と小さく返し、左にロール。旋回を開始した。
「もうすこし、ユーリと飛んでいたかったですわ」
アンジェリカがそう、呼びかける。ユーリは、ただ小さく苦笑いで返す。
台風の目を突っ切る様にして飛行。十分な空域を確保できたとみて、ユーリは滑らかにピッチアップ。加速しながら飛行機雲を翼端から引き、白い雲の渦からダークブルーの空へと飛びだしていく。
「こちらステラ2。最後のドロップゾンデのロストを確認」
『お疲れ様。データもちゃんと取れた。君たちのおかげだ』
「お財布握りしめて待って居てくださいませ? ミッション終了、RTB」
『うん、気を付けてね』
通信を終えたアンジェリカはゆっくりと背後を見やる。一瞬ベイパーコーンが飛行術式で制御された境界層の外側に瞬いて、消える。輝きを増し、ダイヤモンドコーンを数珠つなぎに伸びる霊力の噴射光の向こうに、ぐんぐんと小さくなっていく雲の渦。吸いこまれそうな錯覚に陥りそうなそれから、音を置き去りにして銀竜が飛び上がっていく。小さくユーリがウィンドシアに揺さぶられた。圏界面を超えたらしい。すっかり白く続く雲の平原は眼下で、空は深い群青に染まっている。
『ウェイポイント『ワンダ』を通過。このまま100,000フィートまで上昇』
「100,000フィートまで上昇、了解ですわ」
毎分15,000フィート近い上昇で、まるでロケットの様に上昇を続けるユーリ。高度80,000フィートを超えたあたりで、緩やかに上昇率を落とし、同時に対気速度を上げていく。マッハ2、マッハ3、マッハ4。水平線が直線から緩やかに弧を描きはじめ、群青の空が徐々に暗黒に近づいてくる。
『高度100,000、マッハ6。このまま水平飛行』
「水平飛行、了解ですわ。ふふ、随分とダイナミックな遠乗りでしたわ」
『遠乗り、かぁ。僕は馬役かな?』
「安心しなさい。成層圏を極超音速で飛べる馬なんて、死んでも手放すつもりはありませんわ」
『吸血鬼ジョークってやつ?』
「吸血鬼ジョークですわ」
極超音速で、静寂の成層圏の薄い大気をソニックブームで揺るがせながら、二人でクスクス笑い合う。空力加熱で淡く白いイオンの衣を境界層の外に纏いながら、大洋上の空を切り裂いていくと、一時間もしないうちに遠くに陸地が見え出す。アンジェリカの通信機が鳴った。
『こちら東京コントロール。マツシロ38、レーダーで捕捉しました。フライトプランでの飛行を許可。FL350へ降下後、ウェイポイント『サザナミ』へ左旋回。ウェイポイント『ノワキ』通過後、FL210まで降下。その後は松本アプローチと交信。チャンネルはリンク9、クリムゾン』
「こちらマツシロ38、東京コントロール。復唱。FL350へ降下後、ウェイポイント『サザナミ』へ左旋回。ウェイポイント『ノワキ』を通過したのち、FL210まで降下。その後は松本アプローチと交信。チャンネルはリンク9、クリムゾン」
『復唱を確認。東京コントロール、アウト』
「マツシロ38、アウト」
アンジェリカが東京コントロールとの通信を終える。ユーリはハイパークルーズの世界から降りる準備を始める。推力を絞り、ゆっくりと機首を下げていく。
「ユーリ。FL350へ降下したのち、ウェイポイント『サザナミ』へ左旋回しますわ」
『了解。降下後、左旋回』
サドルユニットの超音波式対気姿勢・速度計、気圧高度計、GPS高度計や方位計、水平指示計の表示が幻術で視界に投影され、目まぐるしく数値が変わるのを一つずつ追いながら、視界の水平指示器と飛行ベクトルと睨み合う。緩やかに左旋回しながら、高度35,000フィートに到達。対気速度450ノット。ウェイポイント『サザナミ』を通過。陸地の上に。四月のフライトの時にはまだ白い雪化粧をかぶっていた日本アルプスの山並みは、すっかり雪が融けて岩肌を露わにしており、時折谷間に輝く白い残雪が上空からも見て取れた。
ウェイポイント『ノワキ』を通過し、アンジェリカが松本アプローチから指示を受ける。その間、ユーリはさらに減速しつつ21,000フィートまで降下。ウェイポイント『ノワキ』を通過して降下を続ける。松本アプローチの指示を受けつつ、交信を松本タワーにバトンタッチして降下していると、雲の合間に新松本空港の滑走路が見えてきた。
『松本タワーよりマツシロ38へ。ランウェイ18Lへの進入を継続してください』
「松本タワーへ、こちらマツシロ38。ランウェイ18Lへの進入を継続」
松本タワーとアンジェリカが交信する。速度は200ノットまで落ちている。高度は10,000フィート。もう周囲の山々と同じくらいの高度だ。山がたなびかせる山岳波に注意しつつ、速度を落としつつゆっくりと翼を広げ、揚力を増していく。
「ユーリ、アプローチチェックリスト。ローカライザー」
『オン』
「飛行術式」
『クリア』
「対気速度」
『200ノット』
「ランディングライト」
『オフ』
ILSの表示がユーリの視界に表示され、その立体的な進入回廊に沿って降下をつづけた。
『松本タワーからマツシロ38へ。ランウェイ18Lへの着陸を許可します。風は25から5ノット』
「マツシロ38。ランウェイ18Lへの着陸許可、了解です。ユーリ、対気速度」
『150ノット。減速中』
「グリップ準備」
『レディ』
「着陸速度」
『40ノット』
ユーリの眼の前に滑走路がみるみるうちに広がっていく。PAPIの表示は白二つに赤二つで、適正進入回廊のど真ん中を飛び抜けた。翼を大きく広げ、境界層を制御し、翼から離れていこうとする気流にしがみついて揚力を生み続ける。
「50、40、30、20、10」
『コンタクト』
対地速度40ノットで、足が地面に触れた。どすどすと足を鳴らしながら翼の迎え角を大きくして広げ、空気抵抗で一気にブレーキをかける。滑走路の、五分の一ほどの距離での着陸は、絵に描いたようなソフトランディングだった。
アンジェリカが松本グラウンドと交信し、誘導を受けながらユーリはのそのそと滑走路を出て誘導路に向かう。飛行術式の甲高い音を小さく響かせながら誘導路を進んで、エプロンに。『02』と描かれたオレンジの円の真ん中で足を止める。
「シャットダウンチェックリスト。グリップ」
『セット』
「スロットル」
『アイドル』
「生命維持術式、シャットダウン。航空灯」
『オフ』
「フライトディレクター、オフ」
「アビオニクス表示」
『オフ、確認』
「術式霊力流量」
『オフ』
ユーリの翼から光が消え、銀色の竜の翼を彼はばさりとひとはばたきさせると、小さくすぼめる。
「お疲れ様ですわ、ユーリ」
『アンジーもお疲れ』
念話リンクを維持しながらアンジェリカがサドルユニットから降りる。作業着を着た作業員がわらわらと集まってきて、ユーリからサドルユニットを取り外した。アンジェリカは作業員から黒いスポーツバッグを受け取ると、中からサンダルと畳んだ毛布を取り出した。サドルユニットを取り外した作業員がわらわらとオレンジの円の外から出、大声でアンジェリカに合図を促す。アンジェリカはユーリに見えるように、右腕を掲げて頭の上で回す。
銀色の竜が青白い光に包まれた。シルエットが急激にしぼんでいき、光が収まるとそこにいたのは竜人状になったユーリだった。翼で身体を隠しているが、彼の恰好は全裸だ。アンジェリカは毛布とサンダルを手に駆け寄ると、ユーリに被せる。ユーリはそれをバスタオルの様に胸元で巻き、サンダルをつっかけた。
「はぁ、疲れたぁ」
「一っ風呂浴びてから帰ります? 駅近くなら日帰り温泉も多いはずですわ」
「いいや。乗鞍さんに悪い。早く帰って、家で浴びよう」
エプロンから、空港の建物へと歩いていく。金属の重いドアを開け、白いリノリウムの通路を歩く。男女の更衣室の前で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、またあとで」
「ええ、またあとで」
二人は、男女の更衣室にそれぞれ入っていった。




