08/Sub:"嵐の中へ"
ユーリはコーヒーを口に運ぶ。熱さに気を付けながらゆっくりと啜ると、香ばしい香りが口いっぱいに広まる。ミルクを含んだ柔らかい舌触りと、ほろ苦さの中に混じる優しい甘み。それが熱を伴って胃袋に落ちて行く。
ふと、アリアンナが静かなことに気付く。ユーリが視線を開けると、彼女はまるで餌を待つひな鳥の様に口をユーリに向かって開けていた。ユーリの視線が、自分に向けて差し出されているフォークに落ちる。
「……」
黙ってユーリに口を開き続けるアリアンナ。手入れを欠かしていないのか、白く綺麗な歯並びに、鋭く尖った犬歯。
ユーリは小さく肩をすくめて、もう一切れタルトを切り、フォークに刺して差し出す。
「はい、あーん」
吸い付くようにタルトを口に入れるアリアンナ。嬉しそうな表情に、思わずユーリも口元が緩む。小鳥と言うには大きすぎるが、大型の猛禽に餌を与えているような、そんな気分。そうして面白がっているうちに、アリアンナがそっとフォークをユーリの手から取る。満足したのかな、と彼が思っていると、おもむろに彼女はタルトを一切れ、彼がそうしていたようにユーリに向かって差し出してきた。
「はい、あーん」
アリアンナが言う。ユーリの視線がフォークの先端と、アリアンナの顔を行ったり来たりする。彼にはどこか、スプーンがしっとりと濡れて煌めいているようにも見えた。
ほら、と顔に押し付けるようにタルトを差し出してくるアリアンナ。ユーリはしばしの逡巡ののち、観念したようにタルトを口に入れた。甘い。
ユーリが微妙な表情でタルトを咀嚼する様子を、アリアンナがにんまりとした笑みを浮かべて眺めていた。彼女はタルトを一切れ、フォークで丁寧に切り分け、自分の口に運ぶ。そうして、どこか満足げな表情を浮かべた。
「そろそろ行こうか」
すっかりタルトも食べ終わり、カップも空いた頃、ユーリが時計を見て言う。あまり遅くなると夕飯の支度に関わる。そろそろ大人しく買い物に行くべきだろう。ユーリが席を立つと、アリアンナも追って席を立つ。
「僕が払うよ」
ユーリが席を立つと、アリアンナはいいよ、と手を振る。
「さすがにボクも払うよ。悪いし」
「いいや、こういうのはお兄ちゃんに任せておきな、って」
そうわざとらしくユーリは言い、てきぱきと会計を済ませる。ごちそうさまでした、と店員に挨拶をして店を出た。
「ごめん。ありがとうユーリにぃ」
「大丈夫だよ、別に。バイト代も入ったし」
そう言ってひらひらと手を振るユーリに、アリアンナは複雑そうだが、少しうれしそうな表情を浮かべる。商店街を、再び手を繋いで歩き出す。その横顔を見て、アリアンナはねぇ、とつぶやいた。
「ユーリ兄さんはさ」
アリアンナが呟く。彼女はユーリの、自分より一回り小さい顔を見下ろす様な形で横に振り向く。
「ボクを兄さんに乗せて欲しいな、って言ったら、乗せてくれる?」
「――うん」
ユーリは振り向かずに、ただ小さく頷いた。
「現在ウェイポイント『アンナ』に到達。高度54,000、速度650ノット。飛行方位1―1―0に向かって、ウェイポイント『ビル』に向けて飛行中。『ビル』を通過後、左旋回。方位0―9―0でウェイポイント『クラウデッテ』に向かいますわ」
霊服姿のアンジェリカが無線の向こうに向かって語りかける。
視界は白と群青のツートーンだ。眼下には台風から広がった積乱雲の頂上の白色が、まるで荒れ狂う海の様に淡い縞模様を描きながら波打って、どこまでも広がっている。暗い群青の空に浮かぶ、ギラギラと無機質な輝きを振りまく太陽がその雲海を照らし、まるで雪原の様に下からも網膜を焼いてくる。
高度54,000フィートの空を、マッハ1でユーリはとびぬける。マッハ6での巡航から減速し、高度を100,000フィートから下げてきて、対流圏界面の傍にまで降りてきた。
アンジェリカが跨るユーリのサドルユニットは、いつものそれとは違って民間用の物をレンタルして使っている。教授曰く、これでも通常の飛行機のチャーターに比べたらはるかに安いらしい。基本的な操作は変わらなかったらしいが、アンジェリカが飛行前に習熟を行っていた。
ウェイポイント『ビル』を通過。ユーリは推力を落としつつ、翼を小さく広げる。空気抵抗が増し、同時に広げた翼が薄い大気を掴んで揚力を生みだす。540ノットまで減速。亜音速。
左にロール。ゆっくりとピッチアップし、左旋回。高度を保ちつつ方位を真東に合わせ、ウェイポイント『クラウデッテ』を目指す。空は静かだ。
「こないだのデート」鞍上のアンジェリカがユーリに尋ねてくる。「楽しかったですの?」
『こないだのって?』
「アンナとのですわ。彼女、随分と楽しそうにしていたものですから」
あー、とユーリはその時を思い返す。何だかんだ言って帰ってくるのが少し遅くなってしまったのもあるかもしれない。
「大丈夫。しっかりエスコートしたよ」
アンジーにいろいろ教わったからね。そう言って返すと、彼女が少々不機嫌になったような雰囲気になるのを機敏に感じ取る。
「……まぁ、いいですわ」
今のところは。そう続きそうな言い切り方をする彼女に疑問を抱いていると、あっという間にウェイポイント『クラウデッテ』を通過。次のウェイポイント『ダニー』に向けて飛行。
「ウェイポイント『クラウデッテ』を通過しましたわ。現在高度54,000、速度520ノット」
『こちらでも確認できた。よし、そのままウェイポイント『ダニー』を目指してくれ。『ダニー』を通過後、ウェイポイント『エルサ』に向かい、そこでゾンデの投下を開始してくれ。タイミングは各ウェイポイントを通過時』
「ウェイポイント『エルサ』でゾンデの投下了解。『ダニー』通過後、『エルサ』通過前に再度連絡しますわ」
『ああ。わかった』
アンジェリカが通信を終える。眼下の雲の海原はいつしか途切れることのない、のっぺりとした一面の白になっていて、じっと見ているとじわじわと生き物の様に波打っているのがわかる。後ろに流れていく景色にどこか見惚れつつ、ウェイポイント『ダニー』を通過。次のウェイポイントを目指して飛行する。
『アンジー、ウェイポイント『エルサ』まであと50ノーティカルマイル』
「了解ですわ。こちらステラ2。ウェイポイント『エルサ』まで50ノーティカルマイル」
『わかった。ドロップゾンデの投下を開始する』
アンジェリカの跨るサドルユニット。その下にびっしりと爆弾の様に並べて取り付けられたドロップゾンデ。これはサドルユニットの操作により機械的にドロップされる。アンジェリカがARグラスの表示を操作し、ドロップゾンデの投下システムを立ち上げる。目の前に浮かぶ拡張現実の表示に、15本のドロップゾンデが7本、8本ずつに分けられて縦に並ぶ表示は、まるでウェポンベイに並べて搭載されているミサイルの表示のそれの様であった。それぞれに分離の順番が数字で表示されていて、その下に『投下』のコマンドスイッチが浮かんでいる。
ウェイポイント『エルサ』まで、残り30秒。
『アンジー。ウェイポイント『エルサ』通過。オンマイマーク』
「オンユアマーク、レディー」
『……5、4、3、2、1、マーク』
アンジェリカがバーチャルなスイッチに触れる。ポン、という子気味の良い音と共にドロップゾンデが空に放り出され、真後ろにすっ飛んでいくのをアンジェリカは振り向きながら目視した。ゾンデの、アンテナのリフレクタを兼ねる白いパラシュートが青空に花開いていた。
「投下を確認しましたわ。ウェイポイント『フレッド』へ」
『ウェイポイント『フレッド』通過まで30秒……10、9、8』
ユーリがカウントダウンをしながら、チェックポイント通過と同時にアンジェリカがゾンデをドロップしていく。『フレッド』『グレース』『ヘンリー』『アイダ』を通過しながら、同じことを続けていく。
ウェイポイント『アイダ』を通過した時、目の前で唐突に雲の海が途切れた。一面に続いていた雲の海に、そこだけぽっかりと、垂直に切れ落ちた穴。鞍上のアンジェリカが思わず息を呑む。
「これは……」
熱帯低気圧のコア。台風の、目だ。
目の直径は、高度と視野角の広がりから言っておおよそ150キロほど。切れ落ちた台風の目の壁に囲まれた、スタジアムの様な空間の中には、積雲が渦巻きながら複雑な構造をいくつも作り出している。メソ擾乱かもしれない、と思ってみていると、雲がない場所からは光が差し込み、暗い海面に日が差し込んでいる。きっとあそこにいたら、まるで晴れている様に感じることだろう。
『……おっと、アンジー、『ジュリアン』を通過。5、4、3、2、1、マーク』
慌ててアンジェリカが投下のスイッチを押す。子気味いい音と共にゾンデが白いパラシュートの花を咲かせて落ちて行く。
前方を見ていたユーリの視界が、空気の歪みを捉える。ウィンドシア、と鞍上のアンジェリカに向けてつぶやいた少し後、ぐらりと下降気流に煽られて小さく飛行姿勢が崩れるが、すぐに安定を取り戻す。
『やっぱり圏界面が引きずられてるみたいだ』
「ですわね。警告がなかったら驚いてたところですわ」
軽口を叩きながら台風の目の上空を通過していく。ウェイポイント『ケイト』『ラリー』を通過。最後に目の壁に向けてドロップゾンデを投下する。『マインディ』を通過。視界は再び白い雲の海に戻っていく。
ウェイポイント『ニコラス』『オデッテ』『ピーター』『ローズ』『サム』『テレサ』を通過。何事もなくドロップゾンデの投下が済んだ。
「こちらステラ2、ドロップゾンデの全投下、完了しましたわ」
『投下完了を確認した。うん、大丈夫だ。データは君たちを中継してしっかり入ってきている』
アンジェリカはサドルユニットの後部に取り付けられた、料理で使うボウルほどの白いレドームを見やる。このほかにサドルユニットの下の反対側にもつけられているアンテナは、ドロップゾンデの信号を中継して衛星経由で大学に送信している。ドロップゾンデは台風の暴風の中に落とされても、その機能を損なわずに自らの仕事を果たしているようだ。アンジェリカが投下システムを操作して各ゾンデとの通信強度を確かめる。すべてのゾンデの通信は確立されていた。通信強度も『強』だ。
『さぁ、もう一仕事と行こうか』




