06/Sub:"おでかけ"
まいったなぁ、とユーリが洗面所を後にすると、背後のドアの向こうからシャワーの水音が聞こえだしたところで、彼は小さくため息をついて部屋に歩いていく。ベッドに腰掛けようとして、やめた。代わりに窓際に置いてあるテーブルの隣、木製の椅子に腰かける。ふと、自分の腕の臭いを嗅いでみると、想像通りの臭いがして、小さく顔をしかめた。
窓を開けて空を眺める。外の空気が部屋の中に入ってきて淀んだ空気が一気に澄んでいくように錯覚した。部屋のドアを閉じているためかそこまで勢いよく風が入ってくるというわけではない。だが、外から流れ込んでくる風は確かに心地よく、初夏の空気を運んでくる。
ニュースでも見るか、と珍しく思い立ち、椅子から立ち上がって自分の端末を取る。本棚の中ほどの開いたスペースで、電源に差しっぱなしだった携帯端末を手に取って椅子に戻る。
端末を操作してネットニュースを眺める。国内のニュースの欄を、上からザッピングしていく。『日本人含む第12次火星往還船、火星に到着』『ユニオン、さらなる軍縮か』『増え続ける男女出生比 政府の対策は』『新潟で田植え祭り 各地の妖怪も参加し百鬼“昼”行』『旧東京・グラウンドゼロの立ち入り、いまだ困難か』『長野の農業プラントを宇迦之御魂神CEOが視察』『初 帰化異世界民による参議院議員』『停止中の茨城核融合発電所、再稼働 夏の電力需要に間に合うか』『増えるエルフの土地購入 懸念の声も』……。
興味を引かれる記事は特にない。国際欄に移る。『中連 中共と中民との緊張高まる』『シベリア共和国でまた隕石? デブリか ウェアウルフたちの懸念』『ユーロ連邦 増え続ける難民』『東ユーロで放射能警報 住民の新規疎開も』『アイルランド ハイエルフ王室第三王女外遊へ』『第二次モンロー主義か アメリカの沈黙』『ロサンゼルス上空に非認可ドラゴン 空軍F42スクランブル “迷惑系”か』『アラブ連合に大型リゾート 外貨獲得か ダークエルフの首長の思惑』……。
「あら、珍しい」
ユーリがニュースを斜め読みしていたところで、シャワーから上がったアンジェリカが声をかけてきた。白いバスローブを羽織り、まだ湯気のたつ髪を拭いている。
「たまにはニュース見ないとな、って思って」
「世間を知るのは良いことですわ。何か、惹かれるニュースでもありまして?」
ユーリは、小さく肩をすくめながら端末の表示を切る。
「別に、って感じかな」
「あら、そうですの」
アンジェリカが小さく肩を落としてユーリの向かい側に座る。まるでシーソーでもしているかのように、ユーリが代わりに立ち上がった。
「じゃあ、シャワー浴びてくる」
そう言ってユーリはそのままシャワーに行こうとして、ふと二の腕の、シャツの臭いをかいでみる。そしておもむろに、タンスから新しい白いシャツを一枚、取り出した。それを片手で抱えて洗面所に行く。
洗面所で、ユーリは今着ていたシャツを脱ぎ、洗濯籠に入れた。他の服は軽く畳み、洗濯機の上に新しいシャツと一緒に並べる。
シャワールームはまだ温かく、湿っていた。ほんのりとアンジェリカの香りがする中、ユーリはシャワーヘッドから湯を浴びる。彼の雲のような銀髪が一気に湿り気を帯び、引き締まった彼の身体を湯が膜となって流れていく。温かさに包まれて、彼は小さく息を吐いた。
……あ。天気予報、見とかなきゃ。
ユーリはふと、おもむろにパネルを操作した。シャワー室のガラスの透明な壁が一瞬で黒になり、そうして景色が表示される。いくつか切り替えて、最終的にユーリは『空』を選んだ。四方に表示される空。どこかの山の上で撮影したのか、一面の雲海だった。しかしいかんせん平面に表示されているためか、どこか薄っぺらい。結局、あまり落ち着かずにユーリは手早く髪を洗い、表示を消してシャワーから上がった。タオルで手早く体と髪をぬぐい、タオルをハンガーにかけて洗面所から出る。
「あら、お早いこと。鴉、いえ、竜の行水、と言ったところかしら」
そう、アンジェリカがユーリに話しかけてくる。彼女はテーブルに肩肘をつきつつ、椅子に横向きに座り、ユーリの方を向いて艶めかしく脚を組んでいた。そんな彼女に小さく頬を赤らめつつ、ユーリはアンジェリカの向かいに座った。
「アンナを待たせてるからね。早く行ってあげないと」
携帯端末を起動し、天気予報を開く。今日の天気は晴れのち曇り。明日は曇り時々雨の予想だ。もうすぐ梅雨入りも近いかもしれない。そんなユーリを、向かいでアンジェリカがどこか心配そうな表情で見つめる。
「よし、じゃあ行ってくる」
「ユーリ」
端末をポケットに入れて立ち上がったユーリに、アンジェリカが声をかけた。その声色に、思わずユーリも立ち止まって振り返った。
「ん? どうしたの」
「いえ、その……」彼女は、言葉を何か選ぼうとしている様子で、それでいて少し逡巡したのち、ようやく口を開いた。「とにかく、お気をつけて」
「う、うん?」
その只ならぬ様子に、ユーリはとりあえず頷くことしかできない。彼女の視線を感じつつ、ユーリは部屋から出た。
部屋を出て、屋根裏へ向かう階段を登る。部屋と部屋の間に挟まる様にある階段を、小さくきしませながら登っていくと、階段中ほどで唐突に屋根裏部屋のドアが開いた。
「ユーリにぃ、待ってたよ!」
部屋の入口からアリアンナが顔を出してきた。彼女は過ごしやすい、赤いワンピースの様な部屋着を着ていた。
「ごめんアンナ、おまたせ」
アリアンナに挨拶をしつつもユーリはアリアンナが、彼が階段を登った音で彼の存在に気付いたのだと、昇ってくるのがユーリだと断定していたという事実からは小さく目を背けた。
「ささ、入って入って」
どこか急かす様に行ってくるアリアンナに言われるがままにユーリは部屋の中に入る。アリアンナはユーリが入ると、不自然にならない程度の勢いでドアを閉め、そして音もなく鍵をかけた。
アリアンナの部屋は、引っ越した時からあまり変化していなかった。強いて言うなら窓際に花が生けられていること、制服がハンガーラックにかけられっぱなしなことぐらいだろうか。ユーリは部屋の真ん中まで来ると、アリアンナに腰に手を当てられた。小さく、だが確実に押してくる。
「じゃあ、ユーリにぃはベッドの上に座って」
そう言うアリアンナの瞳は、うっすらと赤く光を宿しているが、ユーリは気づかず、ただ困ったように小さく肩をすくめた。
「あー、アンナ。ごめん。ズボン、外行きのズボンのままなんだ。ベッドが汚れちゃう。床でいいよ」
そう言ってユーリは床に正座で座りこむ。アリアンナはそんな彼を、ただ静かに流し目で見つめていた。
「あ、じゃあユーリにぃ、飲み物取ってくるね。少し待ってて」
「あー、大丈夫。あんまり喉乾いてないし、それにこの後少し用事があるから、いらないよ」
「……へぇ」
心なし、細まったアリアンナの目に正体不明の寒気のようなものを感じつつ、彼女はユーリの隣にどこか寄り添うように腰を下ろした。彼女の体温が伝わってきてユーリの心拍数が小さく上がる。
「で、この後の用事って?」
アリアンナの声色がどこか不機嫌だ。まぁ約束を半分すっぽかされたようなものだし当然か、とユーリは自省しつつ、正直に答えることにする。
「夕飯の買い物、買い忘れちゃったものがあって、それを買いに」ユーリはそこまで喋ったところで、妙案を思いついた。紳士たるもの、反省し、挽回するべし。「だからさ、ついでに、一緒に外に遊びに出かけない?」
ぱぁっ、と小さく曇っていたアリアンナの表情が明るくなる。ユーリに横から強く抱き着いてきて、彼女の豊かな胸部が片腕を挟み込んだ。ユーリの顔に血が上る。
「えへへ、ユーリにぃとデートだ! やった!」
「デートって――いや、デートだね。アンナとデートだ」
心の中で小さくアンジェリカに謝りつつ、ユーリは言い直す。こういうところは妹らしいんだから、と思って、思わずユーリも小さく笑みを浮かべた。
「じゃあおめかしするから、ちょっと待っててね」
そうして次の瞬間、そう言って立ち上がったアリアンナがおもむろに来ていたワンピースを脱ぎ捨てた、ユーリは思わずひっくり返ったのだった。
「あああ、アンナ!?」
「へへへ、ユーリにぃとデートかぁ……何着てこうかな」
タンスとクローゼットを盛大に開け放つ下着姿のアリアンナに、起き上がったユーリが思わず声を投げつける。そんな彼に意も介さず、クローゼットで自分の服に迷うアリアンナ。黒いレースで縁取られた赤い上下の下着。随分色っぽいの付けてるんだな、と頭の中でユーリは勢いよく目をそらしつつ冷静に思った。
「ねえユーリにぃ、これはどう?」
恐る恐る振り向いてみると、下着姿のままのアリアンナが自分の身体に服をあてがっていた。慌ててユーリは再び目をそらす。
「あー、うん、アンナがこれだ、って思うのでいいと思うよ――あ、だけど動きやすい恰好の方がいいかも……」
結局当たり障りない意見を言いつつ、とりあえず買い物にも行くということを再度伝える。着ていく服を選ぶのに夢中なアリアンナに伝わっているかどうかは怪しい。
どれだけ時間が経っただろうか。おまたせ、と声がかかった方を向いてみると、アリアンナが外行きの服に着替え終わっていた。赤いノースリーブのポロシャツに、深い緋色のデニム地のショートパンツ。黒い薄手のジャケットを羽織り、うっすら赤みがかった黒い長手袋と、サイハイソックスに、黒く細いガーターベルトを肌艶のいい白い太ももに見せている。くるりとユーリの前でアリアンナは一周回ると、ハンガーラックにかけられていた黒いつば広の帽子をかぶり、キザに斜めにずらした。
想像したよりしっかり動きやすい恰好に、ユーリは小さく安堵の息をつきつつ、意外に思った。
「お待たせ!」




