05/Sub:"ステーキ"
「で、ユーリはどう思いますの?」
どうって? ユーリがアンジェリカに聞き返す。
あの後、ユーリ達はアンジェリカが勧める店に彼女の案内でたどりついた。どこかシックな内装のステーキハウス。バーカウンターもあり、夜は飲み屋としても機能するようだ。アメリカチックなボックスシートに三人で座る。席の奥に向かい合ってユーリとアンジェリカ。ユーリの隣には咲江が座った。
アンジェリカが答えようとすると、店員が注文を聞きに来る。各々食べるものは決まっていた。
「ヒレを二〇〇グラム、ミディアムレアでお願いしますわ」
「ロースを二五〇グラム、ミディアムで」
「僕はハラミ、二ポンド、レアがいい」
注文を取った店員が厨房に消えていくのを視界の端で見送りつつ、ユーリはアンジェリカに向き直った。
「で、話の続きは?」
「ああそうですわ。今回のフライトについて、ですわ」
アンジェリカがコップの氷水を飲み、一息ついてから話し出す。
「台風の上空を通過して飛行、ですけれど何か懸念してることなどはありまして?」
「そうだなぁ」
ユーリは教授から説明された熱帯低気圧の構造について思い返してみる。ウォームコアの上空、対流圏界面が目の『吸い込み』により大きく下がっている台風の中央付近。
「基本フライトは成層圏だし、圏界面とのマージンも取ってあるし、あまり乱気流の考慮はしなくていいかもな」
「だけどなにか気にあることがある、って表情ですわね」
ビンゴ、とユーリは小さくつぶやき、水を一口飲んだ。
「台風の目の上空だけど、目の下降気流のせいで圏界面が下がっているでしょ。あそこで乱気流があるかもしれない。そして」ユーリは軽く目を細めて、一瞬隣の咲江を見やる。「あわよくば、台風の目の中に入れるかもしれない」
「本気?」
咲江がユーリに聞いてくる。ユーリは静かに頷いた。
「もちろん、条件としては台風の目が十分に成長していることが条件だ。不明瞭な目だったりした場合には飛び込めない」
ユーリはコップに右手の人差し指を漬けると、水滴が滴る指でテーブルに円を描く。
「やるなら台風の目の上空通過時、衛星によるIR観測で目の形成状況を判断し、目の中に降下。目の壁付近を流れる強烈な上昇流に触れないように気を付けながら目の中を飛行。上昇して成層圏まで再上昇、その後ルートを帰還、って感じかな」
「なるほど。でも目の壁に接触しないようにするのはどうする気ですの? 場所は海上だから地上の気象レーダーは使えないですわよ?」
「だから、基本はVFRでの飛行になる。逆に、十分な視界が確保できていない、と少しでも判断される要素があれば目に突入するのはナシだ。高度制限も設けるつもりだ。10,000フィート以下には降りない」
「なるほど……あと気を付けるべきなのは、目の壁でしょうか」
台風の目に存在する下降気流。その下降気流は目の壁付近では向きを変え、目の壁を取り巻く強風に向けて吹きすさんでいる。それに飲み込まれれば暴風の中へ投げ出されることになる。それは避けなければいけない事象だった。
すると、今まで静かに二人の話を聞いていた咲江が口を開いた。
「熱帯低気圧は真っすぐ進まないわ。回転の作用もあってふらふらと、倒れかけの独楽みたいに迷走するわ。飛行するときは、ある程度の余裕を持っていないと、いつの間にか目の前が目の壁、なんてこともありうるわ」
「なるほど……って、先生は飛行経験があるんです?」
ユーリがそう尋ねると、咲江は小さく苦笑いを浮かべながら、肩をすくめた。
「昔、敵機と交戦中に、相手の目をくらますために、ね」
揃ってアンジェリカと、ユーリは苦笑いを浮かべた。アンジェリカが苦笑いを浮かべながら咲江に尋ねる。
「それで、その敵機はどうなりましたの?」
すると、咲江はユーリが水で描いた円の内側にそっと触れると、そのまま外に向かって素早くずらした。
「こっちがフェイントをかけたら、目の壁に吸いこまれて、そのまま。見えたのは一瞬黒く濁った目の壁と、分厚い雲で濁った閃光だけ」
思わずアンジェリカとユーリは目を合わせた。彼は小さくため息をつくと、椅子に深く腰掛ける。
「まぁ、それの二の舞にはならないように気を付けますよ」
「ええ。スピードが乗っている状態で急に横から暴風に煽られてバランスを崩したら、戦闘機でもひとたまりないもの」
「ドラゴンでも、ですよね。わかりますよ、流石に」
ユーリはじっと、睨みつけるような鋭い目でテーブルの上の水の円を見つめる。咲江が指でなぞったせいでいびつな形になった円は、店内の灯りを受けてどこか不気味に煌めいていた。
「では、そのようにフライトプランの変更……というよりは、追加ですわね、これは。連絡を送っておきますわ」
「うん。お願い」
そう言って仕事の話を終えると、ちょうどいいタイミングでステーキが、ワゴンに乗せられてそれぞれ鉄板に載って運ばれてくる。熱せられたそれに乗せられたステーキはじゅうじゅうと音を立てて肉汁を弾けさせていた。ことり、ことりと静かに店員が注文を確認しながらアンジェリカと咲江の前にステーキを置き、最後にユーリの顔をちらりと不思議そうな、困惑したような表情で見ると2ポンドのステーキを重そうにユーリの前に置いた。
「……本当に食べれるの?」
咲江がユーリの眼の前に置かれた肉塊に対して、戸惑いの声を上げる。肉塊とはいっても、太い短冊状に切り分けられたハラミ肉が大きな木のプレートの上に――さすがにこれを置ける鉄板はなかったようだ――並べられ、焦げ茶色に焼き目のついた表面と、赤く肉汁が滴る断面を露わにしていた。
「あら? 咲江は初めてですのね」
「初めて、って?」
アンジェリカが紙ナプキンを膝の上に置き、備え付けの紙エプロンを首からかけながら言う。ユーリはそれに目もくれずにステーキナイフとフォークを構えた。
「ユーリ、こう見えてかなり食べるほうでしてよ――いただきます」
「「いただきます」」
「この体のどこにあれが入ってるのかしら……」
昼過ぎ。屋敷に返ってきた咲江は、ユーリを横目で見ながら困惑を隠せない、と言った表情でつぶやいた。ユーリは夕飯の材料が入った大きな紙袋を抱えている。紙袋に収まりきらなかったネギが、まるでアンテナの様に紙袋の口から生えていた。
ユーリが頼んだ2ポンドステーキはみるみるうちにユーリの口に消えていき、付け合わせも含めて気が付くと目の前には何もなくなったプレートが残っていた。ついていたパンで皿をぬぐう余裕すらある、という始末だ。
「そうですか? 久々にしっかり食べれたんで、満足です」
「……ユーリ君のバイタリティは、あの食事量が支えているのね」
「当然ですわ!」
なぜか誇らしげに叫ぶアンジェリカ。それにどこか諦めたような目を向けつつ、咲江は玄関の扉を開く。
「「「ただいま」」」
三人の声が重なる。静かな玄関ホールに響き渡る声に、アンジェリカとユーリはそのまま台所を目指そうとして、立ち止まっている咲江に気付いた。
「あら、どうしましたの?」
すると、咲江はどこかしんみりと、じっくりとかみしめるように言葉を紡ぐ。
「いえ、なんというか、帰ってくる場所があるんだなぁ、って……」
ユーリとアンジェリカが小さく言葉に詰まっていると、階上から声がかかる。
「あー、ユーリにアンジーに咲江さんじゃない。おかえりなさい」
そう言ってジャージ姿のアリシアがとてとてと階段を降りてくる。彼女はユーリの所まで歩いてくると、ユーリが抱えている紙袋の中を覗こうとしてくる。
「ネギにしらたきに豆腐にマイタケにお肉に……って、すき焼き?」
「正解ですわ」
アンジェリカが言うと、アリシアはぐっと親指を立てた。
「夕飯楽しみにしてるわね!」
そう言って階段を上がって自分の部屋に戻っていくアリシア。玄関でユーリとアンジェリカ、咲江は顔を見合わせて小さく笑った。
「お帰りなさい、咲江」
「お帰りなさい、咲江先生」
「……ええ。ただいま」
咲江は、ユーリとアンジェリカに続いた。
食堂を通り過ぎ、台所に入ってシンクで手洗いを済ませる。調理台の上に買ってきたものを並べ、常温でいいものと冷蔵庫に入れなくてはいけない物を分け、必要とあらば冷蔵庫に放り込んでいく。ユーリは買い忘れがないかどうか、一つ一つ声に出しながら具材を確認していく。何かあれば『ひとっ飛び』して買いに行くつもりだった。
「えーと、ネギ、三つ葉、にんじん、お麩、お肉、舞茸、お豆腐……あっ」
ユーリが小さく声を上げる。隣で仕分け作業を手伝っていたアンジェリカが顔を上げてユーリの方に振り向いた。
「どうしました?」
「いいや、すき焼きのタレ、買い忘れちゃったなって。お醤油とかで作るのも面倒だし、あとで買いに行ってくる」
念のため調味料の入っている棚を漁ってみるが、やはりすき焼きのタレはなかった。小さく肩を落として黙々と作業を進める。
「他に買ってくるものある? 一緒に買ってくるけど」
「わたくしは……特に思い当たりませんわね」
「私もないわ」
残念ながら、すき焼きのタレだけ買いに出かけることになるらしい。まあ飛べるならいいか、と無理矢理自分を納得させて食品の整理を終わらせた。
三人で二階に上がり、各々の部屋に戻る。アンジェリカとユーリは洗面台でうがいを済ませると、部屋に戻ろうとして、そこでふと、アンジェリカが、ユーリの腕をつかんだ。
「アンジー?」
「ユーリ、そのままじっとしててくださいまし……」
そう言うとアンジェリカがユーリの胸元に顔を近づけて、小さく鼻を鳴らしてくる。続いて首元、そしてぐるりとユーリを半回転させて、後頭部の髪の毛。
「肉臭いですわ」
「あー……ステーキの」
思えばそうだろう。鉄板で飛び散り、気化した揮発性物質。それが染み付いて臭いを発するのはごく当たり前のことだ。
「うーん。この後出かけるけど、一旦シャワー浴びるかぁ」
「あら?」
アンジェリカが怪訝な表情を浮かべる。ユーリはそれに実はね、と続けた。
「アンナが、部屋で一緒に遊ぼうって言ってきて。久々に、ね」
「ほぅ……?」
心なしか鋭さを増すアンジェリカの眼光。だがユーリはそれに気づかず、自分の二の腕に顔を近づけて鼻を鳴らす。言われてみれば臭うような、そんな気がした。人間の感覚で麻痺するのが最も早いのは嗅覚、と言うのをどこかで聞いたな、と何となく思い出す。
「僕が先にシャワー浴びるよ。アンナを待たせられないし……って、ええ!?」
ユーリの眼の前で勢いよく服を脱ぎだすアンジェリカ。自分がシャワーを浴びようとしていた矢先の出来事に、思わず驚愕の声を上げる。
「レディーファーストですわ!」
勢いよく服を脱ぎながらも、しっかりと軽く畳んで選択籠に入れていくアンジェリカ。あっという間に一糸まとわぬ姿になり、思わずユーリは逃げるようにして洗面所から飛び出た。




