04/Sub:"低気圧"
「ええと、アンジェリカさん、だっけ?」
「ええ。穂高ユーリィのパイロット、アンジェリカ・マルグレーテ・イグナツ・ツァハ・ゲルラホフスカですわ。ユーリがIFRを行う際は、わたくしがパイロットを務めさせてもらいますわ」
にこやかに、だが譲らない、と言った空気を醸し出しつつ挨拶をするアンジェリカ。彼女を横目で見ながら、ユーリは教授に対して、ということです、と話しの続きを促した。
「ああ。なら竜用のサドルユニットはこちらで用意しよう。あとでサイズを教えてくれ」
「わかりました。セッティングはそちらにお任せします」
「人型ではなく、竜と言うのなら、いろいろと追加で装備を付けられるかもしれない。まぁ、いずれにしろフライトは変わらない。それで――」
唐突に、研究室のドアがノックされた。ユーリとアンジェリカが思わずそちらの方を振り向き、咲江は体勢を一切動かさず目線だけを動かしてそちらを見やる。
「ああ、ちょうどいいタイミングだ」教授が、ドアの向こうにいるであろう人物に向けて声をかける。「乗鞍君、入ってきてくれ」
「はい、失礼します」
研究室のドアを開けて入ってきた人物。ユーリはその雰囲気に思わず注意を向けてしまった。人に対して形容するには奇妙だが、なぜだかユーリはその人物に対して渓流のような雰囲気を感じ取っていた。
入ってきたのは、白いカーディガンを羽織ったレディーススーツ姿の女性だった。背はアリアンナほどだろうか。だがアリアンナに比べると、だいぶだらしない体つきをしているように見える。体幹もブレているし、押したら倒れてしまいそうだ。だがその容貌は、そんな印象とは正反対だった。
「の、乗鞍百合香です、よろしくお願いします……」
自信なさげに挨拶をする彼女の容貌は、まるで磨かれた水晶の様な、透き通った美しさを秘めていて、流れるような白髪はうっすらと青みがかっていて、赤い組紐のようなものでポニーテールにされている。清潔感を感じさせる丁寧に中央で左右に分けられた前髪からは、白い卵のような肌と、自信なさげに目じりが下がっているが、切れ長の真っ赤な紅玉の様な瞳。黒縁の安っぽい眼鏡をかけていて、それがどうにも目元を見づらくしているような、そんな雰囲気を感じた。
認識阻害?
ユーリがその違和感に気付いた時、同時に彼女を注視してしまっている自分に気付いて慌てて意識を逸らした。気付くと、隣のアンジェリカも同じように意識を逸らして、どこかばつの悪そうな表情でユーリを横目に見ている。
「乗鞍研究員が、今回のフライトの引率をしてくれる。よろしく頼む」
「よ、よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げる乗鞍研究員に向かって、ユーリもアンジェリカも頭を下げた。
「フライトプランを説明するよ。まずは、出発地点は沖縄、伊江島空港からの離陸になる。那覇空港と違って小さい、ビジネスジェット用の空港だ。滑走路は1,500メートル。ILSもカテゴリー3に対応している」
「伊江島は米軍滑走路跡地が返還されて以降、高級リゾートの開発が盛んになっていますわ。滑走路もそれに合わせて拡張していると聞きましたが、ILSカテゴリー3とは……」
アンジェリカが小さくつぶやくのに対して、ユーリは手を挙げて教授に質問を投げかける。
「就航路線は? そんな賑わってるなら、滑走路も空域も混雑しているんじゃ?」
「大丈夫。なんたって台風が来るんだからね。就航路線はスカスカさ。飛んでるのは空域から『逃げ出す』便と」
教授がスクリーン上の図を動かす。沖縄周辺の空域が映し出され、沖縄本島からいくつもの青い線が、洋上の台風に向かって伸びていた。そのうち一本は鮮やかな緑色に光っている。
「ぼくらのような、ストームハンターだけだよ」
不敵に笑う教授に、ユーリもどこか凶悪な笑みを返した。
フライトプランは伊江島空港から始まり、進路を南に取って高度55,000フィートをマッハ3で飛行。対流圏界面寄り上空を飛行することにより、台風の乱気流の影響を受けずに台風上空に到達。そこで450ノットにまで減速し、同時に高度を42,000フィートまで落としたところで観測開始。ドロップゾンデを放りつつ、台風の目の直上を通過し、そのまま台風を通りすぎて高度55,000フィートまで再上昇。マッハ3まで再加速し、大きく旋回して空港を目指す、とのことだった。総飛行距離は4,300キロ。この間の日食飛行と大差はない。
「以上、何か質問は?」
教授が言うが、生憎フライト上必要な質問は先程し終えていたので、それ以外の気になった点をユーリは質問する。
「すみません、フライトが平日になりそうなんですけれど、学校への申請はお願いできますか?」
「もちろん! それがぼくらの義務だ。その点に関しては、君たちは何も心配をしなくていい」教授は、ちらりとアンジェリカを見やる。「もちろん、君のパイロットも含めて」
それなら良かった。ユーリは礼を言って手を下ろした。入れ替わるようにしてアンジェリカが手を挙げる。
「宿泊場所は、そちらで確保するということでよろしいですの?」
「ああうん。実を言うと、もう取ってあるんだ。まあ台風が来るっていうから、どこもスカスカだったよ。伊江島のビジネスホテルを予約してある。フライト前日に沖縄に現地入りしてもらうことになるだろう。少しタイトなスケジュールだけど、その代わりに報酬は弾んでおくよ」
「航空券の予約は?」
アンジェリカが小さく眉を顰めながら問いかける。
「それに関しては、申し訳ないが『今やってる』と言うのが正直なコメントだ。何分、熱帯低気圧の発生と発達の見通しが立ったのが、つい一昨日なんだ」
万一航空券が取れなかったら、この計画は無し、と言うことになる。そう言って教授は申し訳なさそうな顔をする。それに対してユーリが何かを言いかけた時、アンジェリカが先に口を開いた。
「なら、フライトプランの変更を申し出ますわ」
む? と教授が怪訝な表情を浮かべるのに対して、アンジェリカは言葉を続ける。
「離陸するのは新松本空港。そこからユーリはマッハ5で高度100,000フィートを飛行。台風の目の中心手前1,000キロ地点で緩やかに降下しながら予定の高度まで降下、ドロップゾンデを放出しつつ、台風の南端でUターン、台風の目の上空を通過しつつ、速度と高度を上げ、往路と同じ高度を同じ速度で巡航、帰投しますわ」
「しかし……それでは飛行距離は6,000キロ近くなる。それにマッハ5だなんて」
そこまで教授が言ったところで、アンジェリカがユーリに小さく目配せする。ユーリは小さく肩をすくめつつ、しっかりと言い放った。
「大丈夫です。できますよ」
「わたくしたちには、それだけの力がある。それがパイロットと、ユーリの判断ですわ」
そう、確固たる説得力を持って言い放つ二人を前に、しばし逡巡していた教授だが、静かに深い息をつくと、『参った』とでも言いたげな笑みを浮かべて二人に微笑んだ。
「わかった。そのプランで行こう。ホテルの予約はキャンセルしておくよ。詳細はまたメールする。今日は急に呼びつけてすまなかったね」
「いいえ。よろしくお願いします」
「お手数をおかけしますわ。では、幸運を」
アンジェリカが優雅にカーテシーで一礼。ユーリも背筋をピシリと正して一礼する。二人の後ろでは、会釈程度ではあったが、咲江がしっかりとした背筋で礼を行っていた。そんな彼らの様子を見ると、自分の背筋にも針金が入ったようで教授やその場にいた研究生、乗鞍研究員も背筋をピンと伸ばして礼をする。
「では、失礼します」
ユーリ達が出ていくと、研究室内にどこか緩やかな空気が戻ってくる。まるで重圧から解放されたかのように息をする研究生は、先程まで背筋に入っていた物が抜けたかのように椅子にへたり込んだ。
「いやー、教授。あの子たちヤバいっすね。なんつうかユーリくん。別世界の住人、っていうか。あの年で立派な航空士っすよ、アレ」
「アンジェリカさん、一挙一動が気品に満ちてるんだよなぁ……貴族って、ああいう人なんだろうな」
「それに後ろにいたあの人、あれ絶対一般人じゃないですよ。見ましたあの背筋。私、航空祭で自衛官の人たちがあんな感じでピシッと立ってるの見ましたもん」
研究生が思い思いの感想を口にする中、教授も苦笑いを浮かべながら額にしたたり落ちた汗を、ポケットから取り出した手ぬぐいで拭う。
「いやホント、そうだねぇ……」
普通と呼ぶにはあまりにもオーバースペックな少年に、どう見ても普通じゃない人とのつながり。ひょっとしてトンデモないものに片足を突っ込んでしまっているのでは、と思ったが、ふと隣の乗鞍研究員を見上げて、今更か、と笑う。
乗鞍、百合香が眼鏡を外す。眼鏡にかかっていた認識阻害の術式が効力を失い、隠れていた物が露わになった。
彼女の真っ赤な、紅玉の瞳。それは蛇の様に――いや、蛟の瞳、そのものだった。
「あ、乗鞍君、当日は彼らの引率よろしくね?」
「えっ」
そんな彼女に対してさも当然の様に教授が言うと、百合香は目をギョッと見開いて教授を見つめ返す。そんな蛇に睨まれたカエルみたいな目しなくても、と教授は心の端で思った。
「いや、だって当日はデータの入電のチェックとかする要員が必要だし、それに車運転できるの君だけでしょ」
言われてみればそうか、とも、それでも、とでも言いたげな複雑な表情を浮かべる百合香。昼を告げるチャイムが天井のスピーカーから流れ、それを聞き、ぞろぞろと教授と研究生は研究室を後にする。
後には、ポツンと一人、百合香だけが残される。
「……ユーリ君、かぁ」
どこか同族のような、妙な気配を感じた少年。隣についていた吸血鬼と、後ろで静かにたたずんでいた悪魔が恐ろしかったが、興味がないと言えば嘘になる。実際、彼の金色の瞳、あの瞳にしばし、見入ってしまったのが事実だった。
だが、同時にあの横にぴったりと寄り添っていた吸血鬼の、他者を寄せ付けまいとする圧倒的な気配は、百合香を怯えさせるには十分だった。
――あれ? 引率するってことは、車であの二人と三人ッきりなの……?
どうしようもない現実に気付いた百合香は、とりあえず目先のことを考えようと思って、研究室を静かに後にした。




