03/Sub:"仕事"
「まぁ、そこまで荷物が多いわけではないから、三人もいればすぐに終わりそうね」
咲江はそう言うとベーコンエッグを口に運ぶ。香ばしいベーコンの香りが口いっぱいに広がり、脳を脊髄から刺激してくる。いい腕だ。
「美味しいわ、アリアンナちゃん」
そう咲江がほほ笑みながらアリアンナに向けて言うと、彼女は小さく瞳を丸くして、それからどういたしまして、と小さく張り付けたような笑みを浮かべた。
四人で食事をとる。食堂の外から聞こえる鳥のさえずりと、風が揺らす木の葉の音だけが食器の音以外にある音だった。
そうして静かな食事を四人がとっていたとき、ふと、ユーリの耳がその場に似つかわしくない音を捉えた。
「あ、電話鳴ってる」
失礼、と言ってユーリが離席し、小走りで食堂を出ていく。階段を軽快に登っていく音が小さく響き、部屋のドアを急いで開ける音が小さく響いた。間に合ったのだろうか、とアンジェリカは炊き立ての米を口に運びながら思った。そうこうしているうちに階段を降りてくる足音が聞こえてくる。
「はい……はい」
部屋のドアを開けてユーリが入ってきたとき、彼は携帯端末を持って通話をした状態だった。指向性スピーカーをオンにしているためか、耳にあてた端末から彼がどこと、何の会話をしているのかは窺い知ることはできない。
「はい……ええ今から? ……はい、大丈夫です、では後程」
ユーリが通話を切る。しばらく端末の画面を見つめていた後、ユーリはアンジェリカの方を向いて、小さく肩をすくめた。
「ごめん、片づけはまた今度になりそうだ」
「どちらからですの?」
アンジェリカがユーリに尋ねると、彼は苦笑いを浮かべるが、どこか楽しそうであった。
「大学の研究室から。なんでも、急な話だとか」
あらら。そう咲江が呟き、アンジェリカはピクリと眉を動かす。
「内容は?」
「研究室で説明するって。午前中に来てくれ、だとさ」
ユーリは自分の席に戻ると、急いで朝食を食べ始める。みるみるうちに皿の上の物が無くなっていき、すぐに空の皿がテーブルの上に並んだ。
「ごめんアンナ、お皿、シンクに置いておくから」
「……あぁ、いいよ。ユーリにぃ」
ユーリが自分の皿をシンクに持っていく。重ねた皿に水を貼ろうとすると、声をかけられた。
「ユーリ君、私のもお願い」
「咲江先生」
あの短時間で食べ終わったのか、と思ったが思えば彼女は軍人だ。早食いなどお手の物だろう。ユーリは彼女から食器を受け取ると、シンクに重ねて置き、水を張る。
「先生はどうして? 急いで食べるような質でしたっけ?」
「大学まで行くんでしょう? 送ってくわ」
「そんな、いいですよ。飛んでいきます」
「気にしないで。それにこの時間帯の空域は混んでるわ。迂回して飛ばなきゃいけないし、着陸地点だって上手く見つからないかもしれないわよ? それなら車の方が早いわ」
なるほど、とユーリは咲江の弁に納得する。確かに、前の様に河川敷に着陸して研究室まで歩くとなればそれなりに時間もかかるだろう。そう考えると車で送ってもらった方が、確かに総合的に見れば早いかもしれない。
「わかりました、じゃあ急いで着替えて――」
そこまで言った時、わざとらしく足音を鳴らして入ってくる影。思わずそちらを向くと、そこにはまだ咀嚼中のアンジェリカが皿を重ねてユーリの方に突き出していた。
「わはくひもいひまふわ」
しばしの沈黙。ごくりとアンジェリカが口の中の物を飲み込む音が周囲に小さく響く。
「わたくしも行きますわ」
「……まあいいか」
ユーリは、黙ってアンジェリカの皿を受け取った。
皿をシンクに置き去りにした後、三人は急いでそれぞれの部屋に戻り、身支度を整える。ユーリは念のためにフライトスーツをスポーツバッグの中に詰め込み、リュックに電子航空免許と財布を放り込んで背負った。結局、支度が終わるまでには十分もかからなかった。
ユーリとアンジェリカが部屋の外に出ると、そこには支度を終えた咲江が待っていた。
「早かったですね、咲江先生」
まあ軍人、特に空軍ならそうだろうな、と心のどこかで思いつつユーリが言うと、咲江は小さく肩をすくめる。
「お化粧とかの身だしなみが最低限でいいってのは、悪魔で良かったと思える点ね」
彼女はユーリの肩越しにその後ろのアンジェリカを見やる。彼女も髪型や眉、まつげを整え、薄いリップを付けている他に化粧をしている様子などは見られないが、『人外然とした美しさ』という言葉が似合いそうな見た目をしている。
「あ、先生」
玄関に向かう途中、ユーリが口を開いた。なぁに? と咲江が返事をしてからユーリは彼女に尋ねた。
「研究室に行ったあとでいいんですが、夕飯の買い物をしたいなと思って」
「あら、それならいいわよ。ついでに、お昼にもしちゃいましょうか」
二人の後ろで、アンジェリカはムッとした表情を浮かべるが、すぐに二人の間に割り込むと、ユーリの手を取る。
「あら、でしたらいいお店を知っていてよ?」
「ならそこに行きましょうか。アンジェリカちゃんのおすすめ、ぜひ味わってみたいもの」
二人の間の空気が重くなった気配に背筋に鳥肌が走るような感覚を覚えつつ、ユーリは一階に降りて玄関に向かう。
「ユーリにぃ」
ユーリが靴を履いていると、彼の背中からアリアンナが話しかけてきた。
「アンナ、どうしたの?」
「いや、今晩ユーリにぃ、時間空いてるかなって」
どこか尻込みするような、いつものアリアンナとは違う雰囲気にどこか違和感を覚えながらも、ユーリは平然と彼女に対して答える。
「特に予定はないよ? 何かあった?」
「いや、別に……たまには、一緒に遊びたいなって」
フムン、と小さくつぶやくユーリ。一瞬の沈黙の後、ユーリは頷いた。
「いいよ。明日学校だから、あまり遅くまでは、だけど」
「ホント!? やったぁ」
そう言って喜ぶアリアンナに、そんな大げさな、と少し微笑ましい感情を抱きつつ、ユーリはバックを持って外に出た。アリアンナは胸の高さまで手を上げると、小さく振る。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい、ユーリにぃ」
ドアが閉まる。玄関に静寂が戻ってきた。胸元で振っていたアリアンナの手がゆっくり止まり、そして力なく降ろされる。そのまましばし、閉まったドアを見つめ続けて、そしておもむろに食堂の方に歩き出した。食堂にアリアンナが入ると、ようやく脳が半覚醒の状態から抜け出したらしいアリシアが、アリアンナの姿を見て小さく驚いたように話しかけてきた。
「あれ? もう行ったの?」
「うん、支度早いね。流石」
そう言ってアリアンナは台所に向かう。その背中を見ていたアリシアは、ふと気になったことをアリアンナに向けて尋ねる。
「ねぇ」
「ん? 何?」
台所に入ろうとしていたアリアンナが足を止めてアリシアの方を向く。その表情を見て、アリシアはやっぱり、と確信に近い何かを得た。
「なんかいいこと、あったの?」
アリアンナは、黙って台所に入っていった。
「まずは、これを見てくれ」
そう言って教授が研究室のスクリーンに映した映像を、ユーリは黙って眺める。彼の左右にはパイプ椅子やオフィスチェアに腰掛けた研究生が並び、研究室の隅ではアンジェリカが腰に手を当ててその様子を見ていた。隣には静かに咲江が腕を組んで立っていた。映像には地球の画像が表示されているが、その一部が拡大され、そこに映っているものが鮮明に表示される。場所としてはパプアニューギニアの北、ほぼ赤道直下といったあたり。
「画像は、七十二時間前のものだ」
そう言って教授が手元のタブレットを操作すると、画像の右上に表示されていた時間の『T-72:00:00』の表示が減っていく。IRと表示された白黒の画像。一面黒い画面に時々白い塊が湧いては消えていく中、突然白い塊が同時にいくつも湧き、次々と合体して膨れ上がっていく。黒い画面が白で覆いつくされたところで、自動でズームアウトされ、緯度と経度を表す緑の線が縦横に格子状に並び、中心でどんどん白い塊が膨れ上がっていく。そうして白い塊はやがてゆっくりと反時計回りに回転を始めた。そこで動画が終わる。表示は『T-00:00:00』だった。その様子を見ていたユーリは、思わず漏らす様につぶやいた。
「これは……台風?」
「正解」
教授はどこか嬉しそうにユーリに言う。教授が手元のタブレットを操作すると、大きくズームアウトされ、白黒の地球が表示される。
「つい先ほど、熱帯低気圧の発生が確認された。各国モデルの予測では、等しくおおよそ四十八時間後に台風にまで発達すると出ている。そして」
教授が再びタブレットを操作すると、白黒だった地球が毒々しい虹色に変化する。熱帯低気圧のある場所は真っ赤に染まっており、右上の時間表示が大きくなっていく。はじめはふんわりとしたまとまりだった赤色は、次第に回転速度を増していき、『腕』がいくつか見え始めたところで、赤色の真ん中にぽっかりと暗い青色の穴が開いた。右上に表示されているのは、『T+48:00:00』の表示。
「予測では、四十八時間後の最低中心気圧は910ヘクトパスカル。しかも、だ」
教授が手元のタブレットを操作すると、画像が一転して陸地が緑色の線で描かれた図に変化し、海の所がカラフルに色分けされる。それに先程の熱帯低気圧の進路予想がオーバーレイされる。
箒の様に束ねられた予測進路は、どれも海の上の白い領域を通っていた。場所としては、おおむねグアム沖。
「どの進路予想も、この暖流のエリアを台風が通過すると予測している。そうなった場合、予測される台風の発達は、ちと不味いことになる」
表示が変わり、表示されるのは真上、斜め、そして横向きの断面から見た台風。赤から青へと変わるグラデーションに色分けされたそれが、時間経過とともに大きく広がっていく。
「ぼくらのモデルでの計算結果だと、この暖流からの熱と水蒸気を受けて、台風はさらに発達する。予測では最低中心気圧は890ヘクトパスカル。最大風速は60メートルを超える」
「60メートル……120ノットくらいですか。ヘヴィーですね」
「そこで、だ」
そう言って教授は足元から空き缶ほどの大きさの白い円筒形の物体を取り出した。のっぺりとした表面には小さく文字が彫られ、そして何よりも片側から伸びた紐が存在感を放っていた。
「教授。それは……」
ユーリが小さく尋ねると、教授は待って居ましたと言わんばかりに円筒を上に向け、紐を一気に引っ張った。
破裂音。ユーリの竜の瞳には蓋が小さな炎とともに外れて飛び出す様子がまじまじと見ることができた。蓋に引っ張られて飛び出てきたのは、銀色の長いリボンの様なものが二本と、赤白で色分けされた四角いパラシュート。
「クラッカーみたいなものだよ」教授がパラシュートを掴んで、白い円筒を揺らしながら言う。「これはドロップゾンデだ。君には、これを台風の上空を通過しながら、次々と落としてもらいたい」
ほぅ、とユーリが小さく前のめりになる。その様子を見てアンジェリカの眉がピクリと動いた。教授が画面を操作すると、台風のCG映像の上に青い矢印が描かれる。台風の北西から進入し、青い線の軌跡が描かれながら赤い点が次々に描かれていく。台風を真っすぐ横切る様に飛びぬけ、そして大きく弧を描きながら反転し、同じコースを反対向きに帰っていく。
「ドロップゾンデの数は計15個。投下のタイミングはこちらで指示を出すから、それに従って投下をしてほしい。何か質問は――」
そこまで喋ったところで、ユーリは手を挙げた。教授がユーリを指名すると、ユーリは横目でちらりとアンジェリカを視界の隅に捉えて喋り出す。
「飛行する空域は公海上だ。飛行するなら計器飛行方式になる。パイロットを指名して載せないと、飛行はできないです」
「あー……なるほど。だとすると航法ができる人を――」
「いいえ、パイロットはいます」ユーリは後ろを見やる。アンジェリカが小さく目を見開いた後、静かに不敵な笑みを浮かべた後、ユーリの隣まで歩いてくる。「彼女が、僕のパイロットです。計器飛行資格は所得済み、飛行経験もあります」
ほぅ、と感心したような目で教授が声を漏らした。




