02/Sub:"ブレックファスト"
廊下に出ると、両腕を掴まれて半ば引きずられるようにして食堂へと向かうが、階段手前まで来てさすがにユーリは二人の腕を振りほどき、階段を降りた。残念そうな表情をした二人を横目で見ながら、小さくため息をつく。
「あ、ユーリにぃおはよ」
食堂のドアを開けると、アリアンナがユーリに話しかけてきた。ジーパンに赤いエプロン姿で、食堂のテーブルに朝食を並べている。サラダとベーコンエッグに、味噌汁に白米。軽く焦げたベーコンが香ばしい香りを立ち上らせていた。
「アンナ、おはよ。アリシア姉さんは?」
「まだ起きてこないよ。アンジー姉さんと咲江さんは……」
そこまで言ったところで、二人がほぼ同時に食堂に入ってくる。その様子を見て、アリアンナは小さく苦笑いを浮かべた。
ユーリは台所に入っていくと、並んでいる朝食を手に取って食堂に持っていく。テーブルに並べていると、アリアンナが入れ違いに台所に入っていく。
そこで、ふと振り向いてアリアンナの背中を見て、ユーリは吹き出した。
アリアンナの背中にあるべき布地はなく、肌色の背中が広がっていた。骨の上にしなやかな筋肉が乗り、それを滑らかに皮膚が覆う色白の背中。
「ん? どうしたのユーリにぃ」
「あ、アンナ、その恰好は」
ユーリが頬を赤くしていることに気付くと、アリアンナは一瞬呆けたあと、にんまりと笑みを浮かべてユーリの手を引いて台所に入る。
「へへぇ、ユーリにぃは何を想像しちゃったのかなぁ?」
ユーリを壁に押し付け、ユーリより一回り背の高いアリアンナが手を壁につく。ユーリはアリシアが呼んでいた漫画の中にあった『壁ドン』の姿勢だと、アリアンナを見上げながら思い出した。
「あ、アリアンナ、風邪ひいちゃうよ。何か着ないと」
「へぇ、じゃあユーリにぃに温めてもらおうかな」
そう言いながら蠱惑的な笑みを浮かべるアリアンナが、そっと背中に手を回す。シュルシュルと何かがほどける音。ぱさり、と赤いひもが垂れ、エプロンがずれる。
「あ、あ、アンナ、いけないから、いけな――むぐっ」
ユーリは思わず叫ぼうとするが、アリアンナが壁についていた手をユーリの口に当てて無理やり黙らせる。そうしているうちに、彼女の手がもう片方の紐に伸びた。布のこすれる音。ユーリの眼が限界まで開かれる。だがアリアンナの赤色の瞳からそらすことができない。アリアンナの吐息が頬にかかって、ユーリの心臓の鼓動が跳ね上がった。ぱさり、と小さな音を立てて紐が垂れる。
ゆっくりと彼女の肩から肩掛け紐がずり落ち、赤いエプロンがずり落ちていく。首元が露わになり、そして――。
「はい、ざんねーん」
エプロンがずり落ちたところにあったのは、赤いブラジャー。縁に刺繍の入った、シンプルな形ながら『質がいい』というのが一目でわかるシロモノ。
なんてことはない。エプロンとブラジャーの紐が重なっていて、同じ色だからユーリが見間違えただけだった。悪戯が成功した、と言わんばかりに満面の笑みを浮かべるアリアンナを、ユーリは少し恨めしそうな目で睨みつつドラゴンブレスを放射。頭を冷やす。白い湯気がユーリから床に流れ落ちた。
「勘弁してよ……」
つぶやくユーリを横目に見ながらアリアンナは床に落ちたエプロンを拾って結びなおした。ブラの紐に被せるようにつけるのを見て、わざとだったのかな、とユーリはいぶかしんだ。
「そういえば」アリアンナは皿を持って台所から出ていこうとして、振り向いて尋ねる。「アリシア姉さん、そろそろ起こした方がいいんじゃないかな」
ユーリが、僕が行くよ、と言おうとしたとき、食堂の方から声が上がった。
「いいわ。私が起こしてくるわ」
咲江の声。そうして静かに椅子が引かれる音と、食堂のドアが開く音。どこか子気味のよい、階段を登る音が小さく食堂に響く。ユーリが残りの食器を持って食堂に行くと、アンジェリカが頬をついてどこかむくれたような表情を浮かべていた。
ユーリがライム水の入ったピッチャーを取り、アンジェリカのグラスに注ごうとして、止める。
「あ、ちょっとアップルミント採ってくるね」
「お願いしますわ」
ユーリは食堂を出て、玄関に。サンダルに履き替えて玄関を出る。玄関の両脇に、道を縁取るように並べて置かれたプランターに植えられた、香りを放つハーブの数々。レモングラス、ローズマリー、ラベンダー、タイム……その中から、ユーリはアップルミントを見つけると、片手いっぱいに摘み取る。ミントのさわやかで、どこか甘い香りが周囲に漂った。先日植えたばかりだというのにあっという間に茂っている。すっかりシロツメクサの茂っている庭だが、ミントの種が紛れ込まないように気を付けないといけないな、とユーリは思った。ドラゴンブレスで土壌を『リセット』するのは骨が折れる作業だ。
片手いっぱいのアップルミントをこぼさないように軽く握って、ユーリは屋内に戻る。少しドアを開けただけで、玄関ホールにはハーブの香りが薄く漂っていた。
「あら、いい香り」
ふと、上から声がかけられ、そちらの方をユーリが向くと、そこにはアリシアを抱えた咲江がいた。まるで幼児が抱っこされる様に持ち上げられたアリシアは、力なく咲江に身体をもたれかけさせていた。咲江はゆっくりと階段を降りてくる。
「ハーブが育ちましたよ。流石に育ちが早いですね」
「いい香りでいっぱいよ。朝に嗅ぐハーブの香りは最高だわ。緩やかにスロットルが入るみたい」
変わった表現だな、と思いつつもどこか納得できる例えにユーリは思わず苦笑いを浮かべた。
「で、その」聞くべきか悩んだが、さすがに触れないわけにはいかないだろう。「アリシア姉さんは、それはどういう状況なんです?」
ユーリがそう尋ねると、咲江はあくまでも優しく微笑んでアリシアの頭を撫で、アリシアの身体が小さくびくりと震えた。
「いや、アリシアちゃんが全然起きなかったから、優しく起こしてあげただけよ」
「優しく、ねえ……」
よしよしとあやされるアリシアを見ていると、どうも優しいの方向性は彼女にとってある意味暴力的だったのだろう、とユーリは信仰も何もないが心の中でそっと十字を切った。
「うーん押しつぶされる……」
よーしよし、と咲江がアリシアをあやしながら食堂に消えていくのを、ユーリは小さく肩をすくめながら見送り、後に続いた。
「あらいい香り」
食堂に入った瞬間にアンジェリカがそう呟く。ユーリはミントを握った手を小さく上げて見せると、アンジェリカは小さく鼻を鳴らし、ほほ笑んだ。視界の端でアリシアが降ろされ、椅子に座らされている。ユーリは台所に入るとボウルを出し、ミントをその中に入れて流水で軽く洗う。冷たい水が葉の表面で水滴となって煌めく。ユーリがふと自分の手を嗅いでみると、甘いミントの香り。
ミントを取り出してよく水を切った後にボウルをひっくり返し、ミントを持ったまま食堂へ向かった。ミントを、氷とライムと水の入ったピッチャーの中に押し込み、ピッチャーをかるくゆすって攪拌した。うん、これくらいでよいだろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございますわ」
アンジェリカのコップに水を灌ぐと、水流が日の光を浴びて煌めいた。カラカラとピッチャーの氷が音を立てる。そうして、ユーリは全員分のコップに水を注いだ。
「アリシア姉さん、大丈夫?」
「うう……心が折れそう……」
アリシアの紅い瞳はどんよりと濁り、目の前の物を映していない。隣に座った咲江が大丈夫? と尋ねているが、あまり調子はよさそうではなかった。原因が咲江にある、ということは、彼女自身は気づいていないらしい。
「早く食べないと冷めちゃうよ、姉さん」
アリアンナがそう言いながら自分の席に座る。流石にエプロンはつけたままだった。ユーリはそれに小さく安堵しつつ、自分の席につく。
「いただきます」
五人の声が重なる。以前より一人多くなった食卓。どこか賑やかさが増したように感じる雰囲気に、ユーリはどこか居心地よさの様なものを感じていた。グラスに注がれた水を口に含むと、鼻を抜けるミントの冷たい香りと、舌を撫でるライムの酸味と苦みが喉を通って胃袋に落ちて行く。冷たさが睡眠の荒熱を奪い去っていく。
「あ、ユーリにぃ、お醤油頂戴」
アリアンナが言うのに、ユーリはすぐに反応。テーブルの端にある醤油の瓶を取って彼女に差しだす。アリアンナはありがとうと例を言って、醤油瓶の空気穴を指で塞いで醤油を数滴、ベーコンエッグに垂らした。
「アリアンナ、次はわたくしにくださいまし」
「はーい」
そう言ってアリアンナの手からアンジェリカの手に醤油が渡り、アリシアの手に渡り、そしてユーリの手に回ってくる。ユーリはベーコンエッグの割った黄身の中に数滴、醤油を垂らした。
「咲江先生はどうします?」
「えっ。あー……」
咲江は思わず周囲を見渡した。日本人離れした美しい容貌の、金髪紅眼の三姉妹がベーコンエッグの目玉焼きに手慣れた様子で醤油を垂らして食べている。銀髪の、どこか人間離れした美少年とも言えるユーリに至ってはわざわざ黄身の所に垂らしている始末だ。明らかに『通』の食べ方に、咲江の表情に小さな困惑が浮かんだ。
「えーと……ウスターソースで」
そう言って咲江は、手の届く距離にあったウスターソースのボトルを取った。ベーコンエッグの上にそっとソースを垂らして、黄身を裂く。皿の上でソースの黒と黄身の黄色がまだら模様を描いた。
「そういえば、今日は日曜日ですけれど、何か予定がありますの?」
アンジェリカが味噌汁を上品に啜りながら尋ねる。誰か一人、と言うわけではなくこの場の全員に向かって、と言った風であった。
「えーと、僕は特にないかな。強いて言うなら午後は空に上がろうかな、くらいだ」
ユーリが言う。朝、咲江と夢の中で学んだことを早速試してみたい、と言う気持ちがあった。アンジェリカを付き合わせる必要はないし、買い物ついでにやればいい。
「ボクはちょっとお昼ごろから用事があるなぁ。バスケのヘルプ、頼まれてて」
「私はゲームでクラメンと会議があるかも」
アリアンナにアリシアがそれぞれ言う。先程のママショックから回復したアリシアは、白米の上にベーコンエッグを載せて食べている。
「私は」咲江が何か言いかけて、一瞬空中に視線を泳がせた。「そう言えば、荷ほどきの続きをしなきゃ」
「引っ越しの始末がまだでしたわね、そういえば」
アンジェリカが小さく息をつきながら言う。実際、咲江が引っ越してきてから二週間も経っていない。咲江も学校の退職や、ユニオンの現場復帰などで必要なものを解いただけと言うのが現状だった。腰を下ろして根を張るには、荷を解いて『住む場所』にしなくてはならない。
「じゃあ、僕が手伝います」
ユーリが言うと、咲江は小さく目を丸くしたあと、柔らかそうな微笑みを浮かべた。
「ありがとう。ユーリ君。じゃあお言葉に甘えて、お願いするわね」
「わたくしも手伝いますわ」
アンジェリカが言う。ユーリが何か言う前に、彼女は言葉を続ける。
「新しく入ってきた居住人をもてなし、受け入れるのは家主の義務ですわ」
そう言って咲江を見る彼女の瞳は、好敵手を睨んでいるようではあるものの、どこか優しい瞳であった。




