34/Sub:"マイティ・ウィングス"
ユーリは自分のロッカーの前にまで歩くと、フライトスーツのハーネスを緩める。首元を緩めると、むわっと湿った生暖かい空気がスーツの内側から沸き上がってきた。首元から降ろす様にして脱ぐと、一リットル近い汗を吸ってズシリと重くなったフライトスーツをベンチに置く。ロッカーを開いて着替えを取り出すと、まだ湿り気の残る肌の上に着ていく。そこで、スーツ内の空調機能について設計班に意見を上げてみようかな、と思いついて、ズボンを履いた。
着替えが終わると、荷物の入った黒いスポーツバッグを右肩に担いで、フライトスーツを小脇に抱えて更衣室の外に出る。基地の廊下を歩いていき、曲がり角を曲がってその先の小部屋へ。
そこは会議室にいろいろ機材を運び込んだ部屋で、作業服を着た技術者が十人ほど、パソコンにかじりついている。ユーリが声をかけると、技術者の一人が立ち上がってユーリのフライトスーツを受け取る。挨拶をして、ユーリは部屋を出た。
データは取れたのだろうか。生憎そちらの方にはあまり詳しくないし、あくまでユーリは外部協力員止まりであるので非公開のデータだってある。ただ、こうして試験のたびに着るプロトタイプのフライトスーツの性能が上がっている、と言うのは実感できた。
いや、性能が上がっているというよりは、ユーリについてこれるようになってきたというべきか。
「あら、待たせちゃった?」
会議室の前で待っていると、動きやすそうな、清潔感を感じさせる白いワイシャツにネクタイ、黒いパンツに肩章――よく見ればユニオンの軍制服だ――咲江が歩いてきて声をかけられた。いつもの姿で、角と尻尾を生やしていた。
「いいえ。そこまで待ちませんでしたよ」
「そう。さぁ、アンジェリカちゃんを迎えに行きましょうか」
そう言って歩き出す咲江に、少し遅れてユーリがついていく。その足はどこかぎこちない。階段を上がって、上の階の応接室へ。
「アンジー」
部屋に入ると、窓際に立っていた、紅いワンピースの上にグレーのジャケットを羽織っていたアンジェリカがゆっくりとこちらに振り向いてきた。
「ただいま。アンジー」
「……えぇ、お帰りなさい、ですわ」
表情を変えないようにしているのだろうが、見て分かる程度に喜んでいるような、そんな雰囲気が抑えきれていない。こないだの一件からずっとこうだった。
「お待たせ、アンジェリカ。今日の試験はこれで終わりよ」
「ええ。わかりましたわ」
平静を装っているようだが、声が完全に平坦ではない。ユーリはそのことに気付きつつも黙っていると、咲江がじゃあ行きましょうか、と言って部屋から出ていくので、二人も後に続いた。
駐車場までの間、会話は一切なかった。咲江の車に乗り込んでもそれは変わらずで、ユーリは何となく気まずくて助手席に乗り込んだ。乗る前に後部座席のドアを開けてアンジェリカをエスコートするも、小さくありがとうと言われただけだった。
基地を出る。家までは三時間近くかかるため、どこか帰りのサービスエリアで夕飯を食べていくことになるだろう。
車は住宅街の道路を軽快に走る。あっという間に高速道路に乗るが、車内は無言のままだ。咲江がカーラジオを付けると、DJのトークが小さく続いたのち、疾走感のあるギターのイントロの後にボーカルが始まる。
「わ、この曲、懐かしい」
思わずユーリが漏らすと、運転席の咲江が話に食いついてくる。
「ケニー・ロギンスの”デンジャー・ゾーン“ね。いい曲だわ」そう、懐かしむように言う咲江。「ユーリ君が知ってるなんて珍しいわね。もう百年近く前の曲なのに」
「昔、映画を両親に見せてもらったことがあって。その時以来ずっと耳に残ってて」
「なるほどね。私も、あの映画見たわ。映画館で」
どこか自慢げに咲江が言う。それに対してユーリは、純粋にうらやましい、と思った。近所の商店街にある古い映画館があるが、それが昔の映画をたびたび上映している。やらないかなぁ、とぼんやりと思いつつ、やっていたらアンジーと一緒に見に行きたいな、とも思った。
ふと、後ろから重圧を感じる。窓の外を見るふりをして後部座席をちらりと横目で見て、小さく息をのんだ。あからさまに不機嫌そうなアンジェリカ。どうやら咲江とユーリが盛り上がっていたのが気に食わないらしい。睨みつける、という言葉が似合いそうな勢いで運転席の方を凝視していた。
デンジャー・ゾーンねぇ。
ユーリは苦笑いを浮かべると、窓の外に目を向ける。
並ぶ、壁の様な山並みはすっかり夏のそれに足を踏み入れ始めているが、山の山頂の方はところどころ白い雪化粧をかぶったままだ。
景色は後ろにどんどん流れていき、途中で数回の休憩を挟んで、見慣れた風景が戻ってくる。見慣れた景色、見慣れた街並み。外は夕暮れからすっかり夜の闇になり、ユーリ達の暮らす屋敷の前に車が滑り込む。
「お疲れ様、ユーリ君」
「咲江教官も、ありがとうございました」
「ふふ、そうでもないわ。楽しかったわ」
そう言って車から降りるユーリ。ふと、その背中に咲江が声をかけてきた。
「そうだ、ユーリ君」
思わず立ち止まったユーリに、咲江が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もうすぐ、ちょっとしたサプライズがあるかもしれないわ」
「え?」
それだけよ、と咲江は楽しそうに話を切った。視界の端で、アンジェリカの肩が小さくピクリとはねた。
「じゃあ、おやすみなさい。ユーリ君――交戦を許可するわ」
「はい、咲江先生も――エンゲージ」
車から降りて挨拶を交わす。少し怪訝な表情をするアンジェリカを尻目に、屋敷の前、アンジェリカとユーリ。二人で咲江の車が見えなくなるまで見送ると、静けさが住宅街に戻ってきた。
「アンジー、入ろっか」
「……ええ」
そう言って二人で屋敷の中に入る。アリシアとアリアンナは用事があって、今日は実家に戻っている。今日は屋敷に二人きりだ。どこか気まずそうにしているアンジェリカ。彼女の手をそっと取ると、自然と指を絡ませてくる。
屋敷の中は静かだ。階段を静かにきしませながら二階に上がると、二人の部屋が目の前に広がる。
「アンジーが先にシャワー浴びる?」
「そうさせてもらいますわ」
そう言って洗面所に入るアンジェリカ。シャワーの音が聞こえ始めた時点で、ユーリは自分の服が入っているタンスの棚をそっと開いた。
タンスの服に隠されるようにして入っていた、群青色の箱。白い、シンプルなリボンの巻かれたそれをユーリはそっと枕元に差し込むと、自分の寝間着を取り出す。
「上がりましたわ」
アンジェリカがシャワーから出てくる。ユーリは枕元のそれをできるだけ気にしないようにしながら、入れ違いでシャワールームに入った。
熱い湯を浴びながら、ユーリは深呼吸を繰り返した。すでに“デンジャー・ゾーン”だ。やることをやれ。飛び続けろ。そう自分に言い聞かせ続ける。
いつもより念入りに身体を洗って、いつもより念入りに歯を磨く。鏡に映る自分の顔を睨みつけると、鏡に映った自分もユーリを睨みつけてくる。そうしてそれがなんだかおかしくて、小さく笑うと鏡の中の自分も小さく微笑んだ。
シャワールームを出る。ベッドの上には、寝間着姿のアンジェリカがユーリに背を向ける形で横たわっていた。ユーリはベッドに上がると、アンジェリカの肩をそっと撫でる。
「アンジー」ユーリが言うと、そっとアンジェリカがユーリの方を向いた。「渡したいものがあるんだ」
そっと、アンジェリカが上体を起こす。彼女の身体のラインが窓から差し込む月光で浮かび上がり、煽情的なような、神秘的な雰囲気を醸し出す。
「渡したい、もの?」
「うん、ほら、アンジー。誕生日でしょ」
あっ、と自分で驚いたような表情を浮かべるアンジェリカ。正確には誕生日はもう少し先なのだが、ユーリは『これ』を渡すなら今しかない、という確信に満ちていた。
「あっ……」
どこか呆然としているアンジェリカの前で、ユーリは枕元からそれを取り出す。群青色の箱。アンジェリカの顔が驚愕に染まる中、ユーリはそれをそっと彼女の掌の上に載せた。
「開けていいよ」
ユーリが言うと、小さく震える手でアンジェリカが白いリボンを解く。恐る恐る蓋を開いて、彼女の瞳は驚愕に丸く開かれた。
「――これ」
細い声でアンジェリカが呟いた。そっと、彼女が手袋を外し、素手でそれを手に取る。まるでその存在を直接感じたいかのように、その存在を確かめるかのように、しっかりと指で握って持ち上げる。
箱の中に入っていたのは銀色のチェーンと、チェーンの通された二つの指輪からなる、シンプルなネックレス。窓から差し込む月光を浴びて、小さく煌めく。
「技術部の人と、父さん母さんに頼んで、作ったんだ。太陽系外から飛んできた隕石の金属の、サンプルを分けてもらって、僕の霊力で結晶化させて」
指輪にはうっすらと、ウィドマンシュテッテン構造が浮かび上がっている。指輪の裏にはそれぞれ、『Angelica』と『Yurii』の文字が刻まれていた。
そっと、小さく震えるアンジェリカの手からネックレスを取り、彼女の首にかける。飾り気のないデザインにしたせいもあって、彼女の見た目を邪魔しない。
「あ、あ、あ」
「うん、似合ってるよ、アンジー」
言葉にならない、といった表情を浮かべるアンジェリカに、ユーリはどこか気恥ずかしさを覚えつつも声をかける。静寂が二人を包む中、限界を迎えたようにアンジェリカが口を開いた。
「ゆーり、だって、わたくしは」
震えるアンジェリカの手を、ユーリがそっと包み込む。
「生徒会長にだって、なれなくて。あなたの背に乗っていいかだって、わからないのに」
アンジェリカが立候補した生徒会選挙。あれは結局、僅かな差で落選した。ただ絵理沙とアンジェリカで票が分かれ、当選したのは第三者だった。その記憶は、まだ真新しい。
だけど、それは問題ではない。重要なのは、もっと違う。
「ううん、違うよ」
震える声で紡がれるアンジェリカの不安を、流星の様に撃ち抜く。
「僕はね、アンジェリカと一緒にいるにふさわしい存在かどうか、悩んでたんだ。ストラトポーズを超えられない、変わることが怖い。そんな臆病な翼で」
違う。そう言いそうになるアンジェリカ。しかしユーリはそんな彼女の不安を見透かすかのように、ユーリは言葉を続ける。
「でも、結局それは自惚れだった。世界は、空はずっと広かった。自分の得意だったはずのものがはがされて、そこに最後に残ったのは紛れもない自分自身だった」
ユーリは、彼の金色の瞳でアンジェリカの赤い、どこか不安そうに揺れる紅い瞳を見据える。揺れ動いていた視線が、彼の瞳に釘付けになった。
まるで、闇夜に、道を照らす満月の様だった。
「僕は、アンジェリカを載せたいんだ。ふさわしいかどうかじゃない。アンジーがいいんだ」そうしてゆっくり、アンジェリカの頬に触れる。「君と、一緒にいたいんだ」
その瞬間、感極まった、と言わんばかりの表情でアンジェリカがユーリを押し倒す。吸血鬼の力すら出ているのでは、と言わんばかりの力でユーリをかき抱く彼女を、ユーリは優しく抱きしめ返す。
「いいんですの? わたくし、だって、貴方の導きになれるかどうかだって、分からないのに」
「いいんだよ。僕は君に頼りっきりになりたいわけじゃないんだ。僕だって誰よりも上手く空を飛べるわけじゃない。君に完全にふさわしい翼じゃないかもしれない。そんな不完全な存在なんだろう。だけど、それでいいんだ。不完全同士、それを補っていくのが――相棒、だと思うから」
だから、とユーリは続ける。アンジェリカの声に小さく嗚咽が混じり始めた。
「僕と、同じ空を飛んでほしい。アンジェリカ」
次の瞬間、アンジェリカが自分の口でユーリの口を塞いだ。求めるように、触れあう様に、貪るようなキス。ユーリはそれを優しく受け入れる。
そっと口が離れる。目の前には、潤んだ瞳でユーリを見つめるアンジェリカ。その表情は様々な表情が入り混じっていて、収拾がつかない、といった表情であったが、ユーリにはその表情が不思議と、とても美しく思えた。
「ええ。ユーリィ。わたくしも、貴方と同じ空を飛びたい。同じ景色を見たい。同じ未来に行きたい」
月光が差し込む部屋の中、ユーリは静かにアンジェリカを受け入れ、アンジェリカはユーリを受け入れた。
青空の下、車の音が響く。
屋敷の前には腕を組んで仁王立ちするアンジェリカと、その横で苦笑いを浮かべるユーリ。どこか眠そうなアリシアと張り付けたような笑みを浮かべるアリアンナが並んでいた。
車から人物が降りてくる。桃色の大気を纏いながら彼女は仁王立ちするアンジェリカの前につかつかと歩いてきた。
「いい顔になったじゃない、アンジェリカ」
咲江が言う。それに対してアンジェリカはどこまでも不敵に嗤う。彼女の首に下がるネックレスが、日の光を浴びて煌めく。
「ええ。わたくしには」アンジェリカは、小さく、感情を込めるようにして言葉を紡ぐ。「立派な翼がついている、と思い知らせてくれた方がいまして」
ユーリが苦笑いを浮かべると、咲江は視界の隅でそれを捉える。だが彼女は不敵な笑みを浮かべると、アンジェリカに真っすぐ向かい合った。ヘッドオン。
「ふふ、じゃあ貴方の翼と、私の翼。どっちが高く飛べるか、勝負するところね」
「――望むところですわ!」
車の音がすると、トラックが屋敷の前に止まった。作業服を着た作業員が降りてきて、三人の横を通って、荷物がどんどん部屋に運び込まれていく。アリシアとアリアンナの二人は業者の案内をしながら屋敷の中に消えていった。その様子をユーリは不思議そうな表情で見つめた。
「あれ? なんで荷物が?」
ユーリが思わずつぶやくと、アンジェリカが胸を張りながら言った。
「咲江がうちに引っ越してきましたわ!」
「ああなるほど……って、ええっ!?」
驚愕の表情を浮かべた咲江の方を思わず見やると、彼女はどこか不敵に、そしてどこか嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、吾妻咲江大尉、ユーリ君の家に着任します」咲江は、ユーリの横を通りすぎざまに耳元に顔を近づける。「これからよろしくね、ステラ2」
小さく頬にキスをしていく咲江。甘い香りがユーリの鼻腔をくすぐり、彼の顔が赤くなる。アンジェリカがそれをキッ、と睨みつけると、咲江は手をひらひらと振りながら屋敷の中に消えていった。
「アンジー、あれ、どういうことで」
「……けじめのつけ方、ですわ」
咲江の家で大暴れした結果、彼女の家はとてもじゃないが住めた状態ではなくなってしまった。もちろん弁償はしたのだが、そこで咲江が提案したのがユーリ達の屋敷への引っ越しだった。
生憎、空き部屋はあった。
「咲江教官が家に……」
ユーリがキスされた頬を撫でる。どこか呆けたような表情の彼を見て、アンジェリカは一瞬眉をひそめると、まるで上書きでもするかのように、反対側の頬にキスをする。
「アンジー!?」
「さあユーリ! 今日は飛行日和ですわ! 着替えたら早く飛びますわよ!」
そう言ってアンジェリカはユーリの手を引っ張りながら屋敷の中に消えていく。
誰もいなくなった玄関前を、春の青い風が吹き抜けていった。
灼熱の季節が、すぐそこまで来ている。




