33/Sub:"テスト・フライト"
轟音。
すれ違いざまに身体を打つソニックブーム。ユーリは右に九〇度ロール。急旋回。全身にかかる強烈なG。水平線が縦になって、蒼と青の境界を白い雲がなぞっている。
青空の中に、そこだけ切り抜いたような黒い影。左垂直尾翼だけが赤く塗られたそれは、青空の中で地面に向けて急降下。ユーリもさらにロールし、追従する。翼が白い減圧雲を纏い、翼端から白い糸のような飛行機雲が伸びた。黒い影がない。
後ろか、そう思って確認する前にユーリは急旋回。凄まじいGが身体を大空に押し付けた。
耳障りな電子音が断続的に聞こえる。レーダー照射警報。シザーズに移行。一気に反対方向に急旋回し、相手を前に押し出そうとする。旋回するたびに、シザーズに同じように入った相手の姿が視界の隅に映り続ける。推力を増し、旋回で失われる速度を補いつつ、相手にオーバーシュートを許さない。視界に映った水平指示器が右へ、左へ、振り子の様に揺れ動く。
大空に波模様が描かれる。DNAの螺旋の様に交わり、完全な軌跡を群青の空に刻んでいく。ユーリは相手の位置を目視で確認し続け、その瞬間をひたすら待ち続ける。
相手と交差する。ギリギリの位置で潜り抜けるようにして相手の下を飛び抜けて交差した。ユーリは水平に戻り、そして一気にピッチアップ。翼の後端から霊力の噴射光が輝く。速度と高度が入れ替わっていく。相手の姿が視界の外へと滑り出していった。反転、一八〇度ロールし、天と地がひっくりえった。全身にかかるG。そこにいるであろう相手へと、上空から突っ込んでいく。
姿が、ない。
しまった。そう思った瞬間、彼を照らしていた成層圏の太陽が、一瞬陰った。
翼に白い減圧雲を纏い、ユーリの上方向から重なるようにして襲い掛かってくる、黒い影。F/A―M28ブラックオウル。
ブラックオウルは、ユーリが急上昇からのハイ・ヨー・ヨーで後方を取ろうとするのを察知した瞬間、急激に時計周りのバレルロールに移行していた。一周目は小さく、そして二周目で推力を増しながら大きく旋回。ユーリが下降してくるタイミングと、バレルロールの二周目のタイミングを一致させる。ユーリの視界から大きく外れ、いると相手が思っている位置から、まるで闇夜の梟の様に音もなく移動し、外れていた。下降し、その下に居ると思ってそちらを向いているユーリと、その無防備な後方。
ユーリの耳に耳障りな電子音が流れる。キルされた。そう理解し、通信機に向かってキルされたことをつぶやく。
「キル了解」
ユーリが大人しく水平飛行に戻ると、ユーリの右前方にブラックオウルが滑り込んできた。暗灰色の、どこか遠近感が無くなるような質感。スリット状のセンサーが煌めく、装甲に覆われた機首。流れるように続く胴体の後方、内側に向いて傾いて生える台形の垂直尾翼。そこにはグレーのステルス塗料で描かれた、星空に羽ばたくフクロウのエンブレム。
通信機が繋がる。脳内へ念話に変換されて直接響く声の先は、隣のブラックオウルに載った咲江だった。彼女は、小さく息があがっているものの、呼吸をさほど乱さずに話しかけてくる。
『ステラ1からステラ2へ。今回も私の勝ちね』
「これでブランクありですか。自信なくしますよ」
『私も、もう少し鍛え直さないとな、って実感できたわ――ステラ1からAWACSサインメーカーへ。ミッション終了。RTB』
「ステラ2、RTB」
咲江に続いてユーリが通信機に言うと、通信の向こうから了解、とAWACSからの返答が帰ってきた。これで今日の試験は終了だ。無事にデータが取れているといいが、それを気にするのはユーリの仕事ではなく、ユニオンの技術開発部の仕事だろう。ユーリは逸れ異常考えないことにした。
咲江の乗ったブラックオウルが、その質量を感じさせないほどに軽やかに右にエルロンロール。そして旋回。翼端から白い雲の糸を引き、空に滑らかな曲線を描いた。ユーリもそれに続く。方位を2―9―0に取り、陸地へ向かう。
旋回を終え、水平飛行に。陸地まではまだ距離がある。だがこの速度なら、陸地まで二〇分もかからないだろう。群青の空のど真ん中を、一機の戦闘機と一人の竜が、綺麗な編隊を組んで飛び抜けていく。
『ユーリ君』ステラ1が、咲江が通信機の向こうから話しかけてきた。『アンジェリカちゃん達とは、上手くやれたの?』
「いいえ、まだしっかり話もできてないです」
咲江の問いかけに端的に返す。
あの咲江の家での騒動の後、目を覚ましたユーリが見たのは幼児退行したアンジェリカとアリアンナの姿。そして彼女たちを懸命にあやす咲江の姿と、虚ろな目で膝を抱えるアリシアの姿だった。脳が理解を拒んだが、咲江の救援要請と、見るにも耐えないアンジェリカの姿の前に、ユーリは状況に飛び込むことになった。
アンジェリカをユーリがお姫様抱っこし、アリアンナを咲江が抱きかかえる。亡者のようにのろのろとユーリの後をついてきたアリシアを気にかけながら、ユーリ達が屋敷についた頃には夕方になっていた。
だが、そこからが本当の地獄だった。ベッドの上で、ばぶばぶとユーリに甘えてくるアンジェリカとアリアンナ。
「知らなくてもいい世界を、知った気がします」
悟ったような声でユーリが言う。無線の向こうの咲江は、酸素マスクとディスプレイ付きヘルメットの下で困惑したような表情を浮かべた。
『ああ、うん、大人になったのね』
苦笑いを浮かべながら咲江はユーリに返す。酸素マスクから供給されるぬるい酸素が口元を撫でた。
一機と一人は高度50,000フィートを450ノットで飛行する。亜音速のジェット旅客機よりも少し高い高度、少し速い速度。ジェット気流の上を飛ぶからか、向かい風の影響も少ない。成層圏の真っただ中、対流圏に比べて薄い大気、薄い抵抗の中を遷音速の翼で切り裂いていく。ちらり、と横を飛ぶブラックオウルを見やると、機首の根元あたりから薄く、空が小さく『ずれていた』。機体表面で、部分的に気流が音速を超えているためにおこる現象。まるで超音速の世界に入るための、音の壁に突き立って、それを今まさに突き破ろうとしている瞬間の様にも見える光景。
自分もああいう風に見えているのだろうか。何となくそう思うが、それを自分で確認する手段はない。
視界の下にある雲が後ろに流れていく。頭上にあるのは群青の、ダークブルーの空。雲一つなく、底の抜けた青色に、ギラギラと無機質な輝きを放つ太陽が浮かんでいる。成層圏の空。希薄な大気を翼が切り裂いていく。
雲の隙間から見えていた海を、海岸線と、その先に続く陸が塗りつぶしていった頃、通信機から声が飛び込んできた。
『岐阜タワーよりステラ1、2へ。空域はクリア。15,000まで降下後、ウェイポイント『アルファ』まで進んだのち、左旋回し、方位0―9―0、高度9,000まで降下。アプローチに入れ』
『了解。こちらステラ1、15,000まで降下、ウェイポイント『アルファ』まで飛行後、左旋回、0―9―0へ。高度9,000まで降下』
咲江が返答する。彼女に続いてユーリも通信に答えると、咲江がユーリに呼びかけてくる。
『ステラ1からステラ2へ。15,000まで降下するわ』
「ステラ2了解」
咲江の操縦するブラックオウルのノズルが小さく開く。それと同時に、内側に傾いた垂直尾翼のラダーが同時に外側に向かって動き、同時に機体の人工筋肉製の可変翼がゆっくり開く。ユーリもそれに合わせて推力を落とし、翼を広げて抵抗を増やす。幻術を応用したHMD。視界に直接表示される、高度、対気速度、方位、水平指示器、飛行ベクトル、ウェイポイントと、そこまでの距離と高度差など、様々な情報が表示される中、高度と速度がゆっくりと落ちて行く。水平指示器が緩やかに上に動き、飛行ベクトルが下を向いた。
滑らかに成層圏から対流圏まで降りてきた。向かい風がやや強くなってきていたので、速度計の数値と、ブラックオウルとの距離を頻繁に見つつ、空力を制御する。
成層圏の乾いた空気から、対流圏の湿った空気へと周囲が変わってきた。高度15,000に到達。雲は下層から中層まで広がっているようで、羊の群れの様に雲が群がるそのすぐ上で、一旦下降を停止する。ウェイポイント『アルファ』までの距離がどんどん小さくなってくる。
ウェイポイントを通り過ぎた。咲江が左旋回の合図を言ってくるので、ユーリは合図に合わせて左旋回を開始する。同時に推力を絞り、高度と速度を落としていく。方位0―9―0に合わせるころには、高度も9,000まで降りてきていた。
『岐阜タワーからステラ1、2へ。ILSアプローチを許可。視程は三〇キロ。クラウドカバースキャッタード、ランウェイはクリア。着陸を許可する』
『了解。こちらステラ1。着陸進入』
ユーリはモードをランディングアプローチに。フライトスーツに繋がる術式を操作し、フライトスーツの機関部のフライトコンピューターを直接操作した。視界に広がるILSの表示。ユーリの右前を飛んでいたブラックオウルが翼をより大きく広げ、アプローチに入る。速度は135ノット。
雲に突っ込んだ。視界が一気にホワイトアウトするが、姿勢指示器、進路ベクトル、高度計、ILS表示に従って降下をつづけた。雲を抜けると、ILSの回廊の先にある滑走路。高度3,000フィート。
『ギアダウン……スリーグリーン、ロック』
そう無線機から聞こえてきて、隣を見ると咲江のブラックオウルが車輪を下ろしていた。
しかし、反重力で飛んでいると言われても違和感を覚えないような見た目の戦闘機でも、こうして着陸態勢に入って空力を受け止め、車輪を下ろしている状態を見るとちゃんと『飛行機』なんだなと思えるものである。着陸に集中する思考の片隅で、ユーリはそんなことを思った。
PAPIの表示は白が二つに赤が二つ。進入角度適正。高度100フィート。機首上げ。ユーリはゆっくりと、咲江の乗るブラックオウルの上方に移動する。後方乱気流に巻き込まれないように、位置を微調整。
50、40、30、20、10。ブラックオウルの主脚が滑走路のアスファルトを擦り、白煙を巻き上げた。主脚が滑走路面に触れ、ラダーを銘一杯開き、翼の迎え角を最大まで広げてエアブレーキ。その真上10フィートの所を、ユーリはぴったりと位置を合わせて飛行する。80ノット、60ノット、40ノット。みるみるうちに落ちて行く速度が十分に落ちると、揚力がユーリの身体を支えきれずにじわじわと重力の鎖が身体にまとわりついてくる。ゆっくりと、優しく触れるように、滑走中のブラックオウルの上、胴体のど真ん中に『着陸』した。
『お見事』
咲江が通信機で言ってくる。どこか楽しそうなその声色に、ユーリも小さく笑みを浮かべた。
ブラックオウルが滑走路から誘導路に出て、ハンガーに向かって地上滑走を始めた。咲江がグラウンドコントロールと通信する中、ユーリは片膝をついてブラックオウルの上でシステムをシャットダウンしていく。術式を落としていくと、視界の表示がシャットダウンの表示と共に消えた。機関部、オフライン。
ブラックオウルが駐機場まで戻ってきた。駐機スペースに戻ると、静かに駐機したブラックオウルのエンジン音が小さくなり、小さな唸り声の様になって、消えた。群がるようにしてタラップや牽引車、電源車などが集まってきて機体に接続されていく。装甲に覆われたキャノピーが二枚貝の様に持ちあがると、グレーの、どこか一般的に空軍で用いられているのに比べてスリムなフライトスーツを着た咲江がコクピットから出てタラップを降りていった。ユーリもそれに続いて胴体から飛び降りた。
咲江がヘルメットを脱ぐ。彼女の桃色の髪は後ろにまとめられていて、前髪も直線に切ったアシンメトリーだ。ヘルメットの中で押さえつけられていても、彼女の髪は流れるような滑らかさを失っていなかった。
歩き出す咲江は、いつもよりも若干若い、二〇歳ほどに見える身長一八〇センチほどの姿で、悪魔の角も生えていない。体形も――それでもフライトスーツ越しにわかる程度にはグラマラスであったが――いつもよりもスリムだ。離陸前に聞いた所、コクピットやヘルメットなどの関係もあって『人間形態』に変身しているようだった。そう言う意味では咲江もユーリと同じであった。
「でも、びっくりしましたよ。咲江教官がこっちに――技術開発部のテストパイロットに、なるなんて」
「ふふふ。若い子が頑張ってるのを見て、私も負けてられないな、ってなっただけよ」
隣を歩くユーリが咲江にそう問いかけると、咲江は楽しそうな表情で返す。
「でも私も驚いたわ。まさかユーリ君がユニオン軍技術開発部の、外部協力員だったなんて」
「言ってしまえば、空を飛ぶのに必要だったのと、両親のコネ、ですかね」
「目的のために手段を択ばない、か。嫌いじゃないわ」
「潔癖症のつもりはありませんよ。ただ、余計なものを背負わないようにしてるだけです」
そう言うと、咲江はどこか見透かしたような目で、歩きながらユーリの方を見てきた。
「『でも、一番大事なペイロードは棄ててはいけない』、でしょ?」
「……おっしゃる通りで」
ユーリがばつの悪そうに前を向くと、基地の建物が目に入る。その窓の一つに見える、強烈な赤色。それを視界の隅に入れつつも、中央にもっていかないようにしていると、ハンガーまでたどり着く。航空燃料の臭い。咲江について行ってハンガー内、横の耐爆扉を通って、基地内へ。更衣室の前まで来ると、咲江が振り向く。
「じゃあ、また後で」
その表情は、とても楽しそうであった。ユーリは苦笑いを浮かべて、隣の男性更衣室の中に入った。




