32/Sub:"決着"
いつしか立っていたのは、ユニオン時代に見慣れた防爆ハンガー。灯りはついておらず、薄暗い。咲江の服装は再び黒いドレスの霊服に変化していた。スポットライトが当たるように目の前の一部分が明るくなる。
床に力なく座り込んで、うつむいているのは赤いドレスの霊服をまとった、アンジェリカの姿だった。咲江が黙って彼女を見下ろしていると、ぽつりとアンジェリカが口を開く。
「……見たでしょう?」
「えぇ、そして撃墜したわ」
ほぅ、と漏れ出たような、言葉とも息ともつかないものがアンジェリカの口から溢れ出る。それはまるで自嘲の笑いの様にも聞こえた。
「結局、わたくしはユーリが怖いのです。いつか、私を置いて、あの蒼穹の空の彼方に飛んで行ってしまうであろう、彼が」
アンジェリカは言葉を紡ぎ続ける。咲江は、相槌もせずにそれに黙って聞き入った。
「だから、わたくしは醜いエゴで彼の翼を縛り付けた。だって、そうしないと、いつか――」
そこで、とうとう限界がきたのか、彼女の両肩が小さく震え始めた。輝く雫が、ぽたぽたと彼女の膝に落ちる。
「お願い、置いて行かないで。貴方がいないと、私、あなたの色を、失いたくない」
そうまで言うと、彼女は嗚咽を漏らしながらぽろぽろと涙を落とし始めた。そんな彼女の様子を眺めていた咲江は、小さくため息を漏らすと、つぶやいた。
「ええそうね、貴女はきっと置いて行かれるでしょうね」
弱弱しくアンジェリカが顔を上げると、そこには格納庫のライトの逆光の中にたたずむ、一人のエースパイロット。そしてその背後に存在感を示す、黒い戦闘機。ひゅっ、と小さく息が詰まるが、涙で濁った視界の中、その光景は強烈に彼女の網膜に焼き付く。
そんな彼女の前に咲江は膝をついて、彼女の両頬をがっしりと両手で挟み込んだ。そうしてその深紅の瞳を、赤紫の、群青を映した瞳で見据える。
「本物のユーリ君はもっと鋭く、もっと速く、もっと高く空を舞ったわ。あんなあなたの恐怖と思い込みと、不安が生み出した影みたいなものじゃない。本物の翼で」
目をそらそうとする気概すら与えない迫力に、アンジェリカの視線は咲江に釘付けになった。
「しっかりしなさい! あの子のパイロットなんでしょ!?」
その言葉に、アンジェリカはガツンと頭を殴られたかのような衝撃を覚えた。
「どうして、そのことを」
「あら、ユーリ君から直接聞いたわよ? 『僕のパイロットになってください』って子がいるんだって」
そっと、アンジェリカを咲江は抱きしめる。その柔らかい母性の象徴が、アンジェリカを優しく包み込んだ。
「ユーリ君、貴女のために飛ぶんだって、熱心に言ってたわよ?」
「でも、だって、わたくしは」
そう言うアンジェリカの頭を優しく撫でながら、諭す。
「だったら、こんな悪夢に囚われてちゃ猶更駄目よ。だって、空は広がってるのだから。あなたも、私も、ユーリ君も、きっと受け入れてくれる」
目を、覚ましましょう。
そう咲江が言うと、重い駆動音がハンガーに響く。防爆ハンガーの分厚い扉が開いていき、外の光が差し込んでくる。その先に広がるのは、どこまでも広がる青い空。
視界が白に染まる。
アンジェリカはゆっくりと瞳を開けた。目の前が真っ暗だ。視界がすぐに闇に慣れると、自分が咲江に抱きしめられているのに気づく。
恥ずかしい所、見せてしまいましたわね。
そう思いながら小さく苦笑いを浮かべる。先程までのドロドロとした感情はスッキリと消え去っていて、ただユーリと話がしたい、と純粋な欲だけが彼女の中に静かに凪いでいた。
外界の音が入ってくる。そういえば、アリアンナはどうして――。
「さぁ何しよっか? ご飯にする? お風呂にする? それとも」
待て、何をしていますの? 途端にふつふつと煮えたぎるような感情がアンジェリカの身体に満ちてくる。身体の感覚が急速に戻っていき、じわり、と彼女の身体に赤い霊力がしみわたっていく。
「ボクのおっ――」
アンジェリカが立ち上がる。一瞬で周囲に霊力が満ち、空間の重圧が増す。
「アーリーアーンーナぁぁー?」
「……やっべ」
怒髪天を突く、と言わんばかりの勢いでアリアンナを睨みつけるアンジェリカ。彼女の真っ赤な瞳が煌々と紅く輝き、全身から赤い霊力が靄の様に立ち上っている。彼女の頭上には、紅いホロウ・ニンバスが輝き、背景の空間が歪んでいるようにも錯覚する。
「やぁ姉さん、随分殺気だっているじゃないか」
「えぇ、愚妹の愚行を止めるのは姉の役割ですから」
ぎぎぎ、と重い金属が軋むような音が響く。アリアンナから漏れ出た霊力がアンジェリカのそれとぶつかり、背後の景色が歪んだ。
両者相対し、睨み合う。
「……わたくし、一回貴女と真剣にお話する必要があると思っていましたの」
「……奇遇だね、ボクも一回姉さんと真剣に話す必要があると思っていたよ」
ふと、両者の霊力が収まる。一瞬の静寂。荒れ狂っていた両者の霊力が収まり、沈黙が空気を包む。
次の瞬間、アンジェリカとアリアンナの拳が正面からぶつかり合った。部屋に衝撃波が響き渡り、床がへこみ、窓ガラスが一斉にはじけ飛ぶ。
「よくもわたくしの前であんなことを! それも前後不覚のユーリを前にして!」
「いいじゃんアンジェリカ姉さんは! ユーリ兄さんといっつもくっついてさぁ!」
二人の吸血鬼による至近距離でのラッシュ。拳が交わされるたびに、轟音が鳴り響き衝撃波が家の中を傷つけていく。そんな轟音の嵐の中、アンジェリカより一足遅れて咲江が目を覚ます。鼓膜を打つ、衝撃音の数々。
「う、ううん……って、ええっ!?」
顔を上げて辺りを見回すと、そこはすっかり変わり果てた我が家のリビング。嵐の中心では、アンジェリカとアリアンナが目にもとまらぬ速さでラッシュの応酬を繰り広げていた。吸血鬼の膂力で行われる至近距離戦闘。その暴の嵐の中に、さすがの咲江とて飛び込む勇気も、無謀さもなかった。
「あ、ああ、私の家が……」
思わずつぶやくが、どうすることもできずに呆然と破壊の竜巻を眺めているしかない。赤い霊力が渦巻き、いつしか周囲は暗く、赤黒い闇夜へと姿を変えていた。吸血鬼の力である、ある種の結界。自分に有利な環境へと周囲を塗りつぶす能力。
ローン、返し終わっていてよかったなぁ。そんなことを咲江が思い始めたころ、彼女のそばでもぞり、と何かが動いた。そちらの方向に反射的に顔を向ける。
アリシアが、床をはいずり出していた。
「ひぇっ」
思わず咲江の口からひきつった声が漏れ出るが、まるで冒涜的な怪物の様に、ずる、ずる、と床をアリシアがはいずっていく。破壊の嵐の下を這いずり抜けて、ユーリの上に覆いかぶさっていく。それはまるで軟体動物の捕食風景を咲江に連想させた。
アリシアが、その牙を煌めかせた。
ユーリの首筋に牙が、まるでアイスクリームにスプーンを差し込むかのように滑らかに差し込まれた。んく、んく、と喉を鳴らしてアリシアは血を啜る。そのたびに、彼女の身体から立ち上る赤い霊力に桃色の輝きが混じっていく。あっ、とそれに気づいた咲江が呟いた瞬間、アリシアの姿が掻き消えた。
「あら?」
「え?」
そうして次の瞬間、アリシアはアンジェリカ、アリアンナの両首に手を当てた状態で『出現』していた。
閃光が走った。
桃色の火花が飛び散る。アリシアの両手がうすぼんやりと桃色に輝き、すぐに輝きを失った。アンジェリカ、アリアンナ共に桃色の火花を散らせながら、大きく後ろにのけぞり、床に倒れ込む。咲江に嫌な予感が走った。
「……ばぶぅ」
「……あーい」
床に倒れ込んだアンジェリカとアリアンナ。お互いがキラキラした目で舌ったらずの言葉を口にする。その瞳は、うっすらと桃色に輝いていた。
二人の中間。二人の首筋に触れていた姿勢のまま立っていたアリシアが、膝から崩れ落ちる。
「私よりおっぱいデカいくせに、暴れてんじゃないわよ……」
そう言うと、床に崩れ落ちる。その表情はどこか満足げだった。
咲江の目の前に広がる惨状。吸血のせいで首元が盛大にはだけられた男子、幼児退行していよいよ妖しいことになってきた女子が二人に、なぜか満足げな表情で意識を失った女子が一人。
彼女は、黙って電話を手に取った。




