30/Sub:"ステラ1"
足音を消し、まるで肉食獣が獲物に近づくように、アリアンナはユーリの元に足を進める。音もなくユーリの隣にかがむと、幼児退行したユーリが何かに気付いたかのように怯え始めた。そんなユーリに、まるで覆いかぶさるようにしてのぞき込むアリアンナ。
「ふふふ、ユーリ兄さん、可愛いね」
そう言いながらユーリの頬を、まるで舐めるようにして撫でる。ふぇぇ、とユーリの瞳に涙が浮かぶが、それを見つめるアリアンナの表情は妖艶に歪んだままだ。
「ほぉら大丈夫大丈夫。安心して、ね?」
怯えるユーリをそっと抱きしめると、ぐっとユーリの身体がこわばった。甘い香りがユーリの鼻に漂ってくるが、安心できない。
「さぁ何しよっか? ご飯にする? お風呂にする? それとも」
アリアンナは自身の胸元を緩め始める。抱かれているユーリの震えが増え始める。逃れようと身体を不器用に動かしてもがくが、抱えるアリアンナの腕はまるで機械のそれの様にがっちりと固定して放さない。彼女の眼が、いっそう妖しく赤に輝いていく。
「ボクのおっ――」
ずん、と重圧が空間に満ちる。アリアンナがゆっくりと後ろを振り向くと、そこには全身から赤い霊力を立ち上らせたアンジェリカがアリアンナを睨みつけていた。
ばしん、と言う衝撃。咲江の視界が暗転し、真っ暗な視界がやがて像を結んでくる。
「さて、さて」
つぶやきながら周囲を見回す。咄嗟にアンジェリカを自分の夢の中に引きずり込み、何とか物理的な制圧はできた。しかしユーリの時とは違って無理矢理引きずり込んだせいか、周囲の様子がおかしい。本来であれば咲江の夢の、空軍基地の景色になるはずだった。
「これは……あの子の、かしら」
周囲に広がっている光景は空軍基地のそれとはかけ離れている、古びた西洋風の屋敷。長く続く廊下。木製の、暗い茶色の床の建材が、咲江が歩くたびにキシキシと小さな音を立てる。窓の外には黒い森と月のない夜空が広がっていて、植生から何となく東ヨーロッパの方かしら、と咲江は思った。
ふと、小さく声が聞こえてくる。思わず身構える。彼女の服と姿が一瞬で変わり、霊服から、ダークブルーの軍制服姿になっていた。その手にPDWが握られ、声の方向に反射的に、一瞬で構える。その声がアンジェリカの声だと気付いた時に、ゆっくりと銃を下ろした。
とりあえず声の方向に向かおう。そう思って歩き出した瞬間――。
「――っ!」
閃光。頬に感じる熱。弾かれたように横に飛びのいて光から逃れ、窓側の壁際の、柱で少し太くなっている所の壁に身を押し付けるようにして床に伏せ、両腕で頭を守る。静寂の中硬く閉じた瞳の、隙間から漏れてくる光に身をこわばらせながら、その瞬間を待つ。五秒、一〇秒、一五秒。どれだけ時間が経っただろうか。だけど『その時』が来るまで咲江は廊下の隅に身を縮こまらせて動かない。小さく、地鳴りのような音。床が小さくカタカタと揺れ始めた。
そして、その時がやってくる。
轟音。廊下のガラスが一斉に砕け散る。滝のように降ってくるガラス片から身を守りながら、砕け散った窓ガラスからなだれ込んできた爆風を耐えた。
津波の様になだれ込んできた爆風は、やがてゆっくりとその勢いを失い、廊下に静けさが戻ってくる。咲江がゆっくりと身体のこわばりを解いて立ち上がると、パラパラとガラスの破片が彼女の上から床に零れ落ちた。
窓の外が明るい。目を細めながら外を見る。
「……くそったれね」
思わず、咲江は悪態を漏らした。
なんてことはない。三〇年前見飽きた光景。夜空がまるで燃え盛る夕焼けの様に、不自然に赤く染まっている。夜明けにはまだ早い夜空には、もう一つの太陽。
急に景色が切り替わった。どうやら強制的に引きずり込んだせいで、映しているビジョンはアンジェリカの記憶になってしまったらしい。周囲に広がる景色は、黒い森の中を一本、真っすぐに伸びる道路。その道路を走る車の助手席に、いつの間にか咲江は座っていた。外の景色はいつしか日が昇っていたようだが、外は明るい。ただ空は、どんよりと暗い曇天に覆われて、青空は見えない。
身に着けているものの感覚フィードバックに違和感を覚えた。思わず手元を見ると、深緑色の防護服だった。着たこともある、NBC防護服。思わず助手席から後ろを見ると、白い防護服を着た人物が並んでぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれた車内。その端に、不安そうに小さな窓の外を眺める姿。
ぱたり、と小さな音がボンネットから響く。その数は徐々に多くなっていき、フロントガラスにもぽつぽつと水滴がつき始める。
水滴は、黒い色をしていた。
どんどん黒い雨水がフロントガラスを覆いだす。運転席の人物がワイパーのスイッチを入れるが、まるで塗りつぶされているかのようにフロントガラスが黒くなっていく。最後の外の景色の欠片が塗りつぶされて、車内は完全に真っ暗になった。
景色が変わる。灰色の空。圧倒的曇天。雨が地面を叩いている。咲江の姿はいつものレディーススーツ姿になっていて、透明なビニール傘をさしていた。空を侵食する建物に、電柱に、電線。雨の降る中を、灰色の人ごみに紛れながら、小さな赤い傘を差した、小学生ほどのアンジェリカが歩いてくる。周囲の人ごみが口々に漏らす言葉は、まるで暗号か何かの様に支離滅裂だった。アンジェリカは咲江の横を通り過ぎると、人ごみの中へと消えていった。
視界が切り替わった。一面の草原。空は病的なまでに透き通った青色で、吸いこまれそうな、無機質な青色。唐突に頬を撫でた無臭の風が、霊服に姿が変わっていた咲江の黒いヴェールをなびかせた。
笑い声。音の方を向くと、そこには赤いドレスを着たアンジェリカが楽しそうに空を見上げていた。空を見上げると、青く一色に染まった空の真ん中に浮かぶ、銀色の輝き。
轟音を上げてユーリが彼女たちの頭上をフライパスした。翼が減圧雲の白いヴェールを纏い、翼端から白い飛行機雲を引いて空に滑らかな曲線を描いていく。急上昇し、ループを描き、螺旋を描き、そのたびに空に消えない白い模様が刻まれていく。模様が刻まれていくたびに、アンジェリカが楽しそうな声を上げた。咲江が彼女の方を見ると、空を見上げる彼女の紅い瞳には、暗いダークブルーが映っていた。
そうして咲江は、気が付くとブラックオウルのコクピットに座っていた。ヘルメットのディスプレイに表示される擬似全天周モニターに、自分が今フライトスーツ姿であることに気付く。身体にぴっちり張り付くインナーの感触の上に、霊力による各種術式制御を行う導霊性回路がプリントされて淡く桜色から紫にグラデーションを変化させて光っている。そしてその上に身体を強烈なGから守る加圧システムと、身体の状態をモニタリングするウェアラブルコンピューターのセンサーが一体となって、最早簡単な宇宙服のようなパイロットスーツ。
咲江が、散々着慣れたパイロットスーツであった。
周囲の視界は白い。HMDに表示された、水平指示器の緑色の定規の目盛りの様な表示を見るに、機体は水平ではあるようだ。右手のフライトスティックに軽く力を入れて上昇してみると、それに合わせて機首の表示と水平指示器、機体ベクトルが追従して動く。対気速度が落ち始めたので、スロットルレバーを軽く押し込んで推力を増す。機体はぐん、と咲江の意思にすぐさま反応して加速。緩やかなGが彼女をシートに押し付けた。すぐに対気速度が回復し始めるが、高度計が9,500フィートのまま変化がない。故障と判断。有視界を得るために上昇を継続。
ミルクの中の様な外の景色が徐々に明るくなってきた。雲頂が近いのか、と咲江が頭上を睨む中、唐突に機体は雲を抜けた。
異様な、光景だった。
一面の雲海。しかしそこに一切の凹凸はなく、真っ白な平原が果てしなく続いている。そこにぽつぽつと、黒いものが見える。異様な、だけどどこか腑に落ちる光景に咲江は当初の目的を忘れず、周囲への警戒を怠らない。はじめはいびつなオブジェのように見えていたそれは、咲江の進路上にある。彼女は緩やかに旋回し、その横を飛びぬけて――小さく、息を吐いた。
まるで墓標のように雲海の中から突き出していたのは、紅い星が描かれた、Su60戦闘機の右半分だった。
咲江が、ブラックオウルが飛行していくうちに、それは次々と流れてくる。散弾を食らったかのようにずたずたに引き裂かれた翼であったり、撃ち抜かれたようにボロボロに砕けた機首であったり。星が描かれていたり、トリコロールが描かれていたり、星条旗が描かれていたり。テーパー翼だったり、デルタ翼だったり、後退翼だったり、前進翼だったり、可変翼だったり。緑だったり、青だったり、グレーだったり、黒だったり。
翼の残骸が、まるで墓標のようにつきだした雲海。その光景を、咲江は黙って睨み続ける。それらは物言わぬ物体として、後ろへと流れていく。
頭上にあったのは、病的にギラギラと輝く太陽。ただ周囲だけが、不自然に暗いように感じる。光の半分も反射していないような、そんな暗さ。そしてそんな太陽が浮かぶのは、どこまでも落ちていきそうな色の空。どこまでも透き通った、ダークブルー。
雲海に咆哮が響き渡った。輝く翼を広げ、空の高みへと昇っていく、一人の銀色の竜。
『ユーリ! 待って!』
無線機がどこからともなく声を拾い、ヘルメットのインカムから漏れ出る。それは一人の少女の、悲痛な、心からの不安であり、望みであり、恐怖であった。
『ユーリ、お願い! 置いて行かないでくださいまし! ユーリ!』
咲江は、ほぼ無意識に行動していた。各種兵装オンライン。武装は機関砲が650発、短距離AAMが2発、そして『アスカロン』に対空HE弾が3発。複合センサーによる画像認識モードをアクティブ。ファイアコントロールにレーダー、可視光、赤外線、紫外線でもってターゲットの情報を叩きこむと、全天周の視界の中に、ターゲットが緑色の四角の表示で囲まれた。すぐに目標までの距離が算出され、目標をすっぽりと囲む四角の右下に表示される。その値はどんどんと大きくなっている。
姿がどんどん小さくなり、速度を増していく銀龍。しかし、緑色の四角は、まるでそれを閉じ込める檻の様に、ぴったりとその姿を納め続ける。
「言ったでしょ、私。『帰ってくる場所がない人は、空を飛んではいけない』って」
咲江がフライトスティックとスロットルレバーを握る手に力が籠っていく。それがまるで浸透するかのように、ブラックオウルの機体に『戦意』が宿っていく。
「あなたには、こんなにも帰りを待ってくれる人がいるんじゃない。そんな女の子を放っておいて飛ぶのに夢中なんて、『先生』として、『教官』として、『一人の女』として、とてもじゃないけどいただけないわ」
だからこそ、引きずり降ろしてやろう。こんな、悪夢と不安と、恐怖で出来た空っぽの、蒼穹の銀龍の翼を引きちぎり、地に縫い付けて見せよう。
マスターアーム、オン。
「ステラ1、エンゲージ」




