29/Sub:"オペレーション:ウェザー・ワーニング"
だらだらと脂汗が浮かぶ中、咲江に膝枕されたユーリは桃色の光をぼんやりと纏いながら、あんあ、あんあ、と赤ん坊の様な声を上げた。
「落ち着きなさい、落ち着くのよサロメ・アルベール。これは一時的な精神汚染のはず。だったら彼の体内の霊力をゆっくり排出させればきっと治るはず」
自分に言い聞かせるようにつぶやく咲江。あやす様にユーリを横から抱きかかえ、額を撫でながら彼の状態のスキャンを行った。ぼんやりと桃色に光る瞳。ユーリのセオルスフィアにアクセスし、状況を把握する。
実際、ユーリがこうなっているのはある意味『狐に憑かれた』現象と似たようなものである。違う点と言えば、憑依先の相手に入り込んで完全に制御下に置いている存在がいないことと、精神の指向性を操作している霊力はそのうち消えるということか。
放っておいてもそのうち元には戻るだろうが、さすがに今日中に戻るかどうかと言われると可能性はほぼゼロ。放射される霊力の強度から鑑みるに、何もしなければ三日はこのままだろう。
「とにかく、霊力を取り除かないと」
その後のことはそれから考えよう。そう思ってユーリのセオルスフィアに接続し、霊力を吸いだそうとした、その時だった。
チャイムの音。
「あら、こんな時に……」
来客の予定はなかったはず。一瞬の思考ののち、咲江は居留守を決め込むことを決断。気を取り直してユーリのセオルスフィアに接続しようとする。
激しい打撃音。びくり、と肩を小さく震わせると外から叫び声が聞こえてくる。
「いるのは、わかって、いますわ!」
どんどんどんどん、とまるでドラムでも叩くようにドアを叩き続ける。様子がどうもおかしい。そっとユーリを床に寝かせると、咲江は恐る恐る一階に降りていく。
「ユーリイを、早く、返すのですわっ!」
「ちょ、ちょっとアンジー、何してんの……」
ユーリの名前が出た瞬間、ドアを開けようとした咲江の手が止まる。そのただならぬ雰囲気。これは引き渡していいのだろうか、と良識が呼びかける。
親に連絡するべきか。そう思ってそっとドアのチェーンをかけ、二階に上がろうとしたときのことだった。
ミシリ、と音が鳴る。それと同時に響く、金属がきしむ音。
恐る恐る振り向く。目に飛び込んできたのは、歪んだドア。噓でしょ金属製よ、と思う間もなく、歪んだドアの隙間に黒い手が滑り込んできた。手はドアの端を握りしめる。みしり、と握られた箇所の周囲が歪んだ。
ゆっくりとドアが開いていく。いや、開いていくというよりは、こじ開けられていると言った方が正しい。黒い手だと思っていたのは、濃い赤色の、黒い刺繍の入った手袋だった。
ドアが完全にこじ開けられる。チェーンが一瞬で張り、すぐにはじけ飛んだ。開いたドアの向こうにいるのは、紅いドレスに身を包んだ少女。霊服だ、と咲江が気づいた次の瞬間、うつむいていた少女が顔を上げ、その紅く光る瞳に睨まれると思わず咲江は一瞬で戦闘態勢に入った。彼女の服が一瞬で黒いウェディングドレス、霊服に変化する。
「ごめん、あそばせ?」
にぃ、と少女――アンジェリカが嗤った。
「あら、淑女にしては随分な訪問の仕方じゃない?」
不敵に咲江が笑うが、頬には一筋の汗が流れた。一瞬の沈黙、アンジェリカの赤い瞳と咲江の桜色の瞳、それぞれの視線が空中でぶつかっていると、アンジェリカの後ろにいた小柄なツインテールの少女、アリシアが間に割って入るように立つ。
「す、すみません吾妻先生! なんとか止めようとはしたんですけど――」
「おとなしく、ユーリを、だすの、ですわ」
アリシアが言うのに被せるように、一つ一つ区切って言うアンジェリカ。アリシアの顔がどんどん青くなるのと対照的に、アンジェリカの眼は煌々と紅く輝きを増していく。
「待って、ゲルラホフスカさんと穂高君がそれなりの関係って言うのは知ってるけれど、それが貴方に穂高君を引き渡す理由になってないわ」
咲江はアンジェリカをあくまで理性的に説き伏せようとする。何となく、この状態のアンジェリカにユーリを引き渡すのは危険な気がする。彼女のファイターパイロットとしての勘が、そう警鐘を鳴らしていた。
何より、『あの状態』のユーリを引き渡すのは、非常にまずい。彼女の教師としての勘が、そう警鐘を鳴らしていた。
「わたくしはユーリの婚約者ですわ! それで十分ですわ!」
土間から土足のヒールで上がってくるアンジェリカ。歩を進めるたびに足元から赤い火花が散った。
ずんずんと歩みを進めるアンジェリカに、咲江は両手を腰に当てて迎え撃つ体勢に。両者の間にはアリシアが両者を必死に止めようと腕を伸ばして静止しているが、アンジェリカは止まる気配はなく、咲江も退く気配はない。
「うべぁ」
咲江の胸、アンジェリカの胸。それがまるで大型船が接岸するときのクッションの様にぶつかって潰れる。そして二人の間にいたアリシアの頭部は、その両者の双球の間に、咲江の方を向いて挟まれたのだった。
頭一つ分はあろうかと言う身長差で、両者が向かい合う。両者の間ではアリシアがもがいているが、やがて、力が抜けたかの様に静かになった。睨むアンジェリカと、それを平静とした目で迎え撃つ咲江。両者の均衡は永遠に続くかの様に思われたその時、上の階から声が響いてきた。
「んあー」
その声に、アンジェリカは反射的に均衡を崩し、咲江はまずい、といった表情を浮かべた。アンジェリカはユーリの名を叫ぶと、階段を駆け上がっていく。咲江もすぐにその後に続く。
「……」
圧迫から解放されたアリシア。後ろからとことことアリアンナが歩いてきて、彼女の顔を覗き込んでうわぁ、とおどけた声を上げた。
アリシアの表情は、まるで能面のそれのようだった。一切の感情という感情が抜け落ちた、フラットラインな表情。
「姉さん」
「ごめんねアンナ。お姉ちゃん、今ちょっと心が折れそう。凄いのねあの人。お姉ちゃん、胸にスイカがくっ付いてる人って、初めて見たかも」
だろうね。アリアンナがそう言おうとしたところで、上から悲鳴が聞こえてきた。パッと二人は顔を見合わせると、アリシアは今更思い出したかのように靴を脱ぎ、二階へと続く階段を駆け上がっていく。アリアンナは土足でその後に続いた。
「どうしたのっ!?」
階段を登ったところにある、開け放たれたリビングへ続くドア。飛び込むと、そこに広がっていた光景が目に飛び込んでくる。
「あぁ、ユーリ、ユーリ。こんなになって、とてもそそる――ではなく、可哀想に」
「今そそるって言った?」
アンジェリカが床に座り込み、親指をしゃぶっている幼児退行したユーリを抱きかかえている。そんな様子を、咲江はばつが悪そうな表情で見つめる。
「……ごめんなさいね、ついさっき、事故でたまたまこうなっちゃって」
もう隠していてもしょうがない。事態を明らかにして、大人しく状況を公にしよう。そう言って咲江が言うがアンジェリカは聞いている様子ではない。幼児退行したユーリを前に時折淑女がしてはいけない表情をして混乱している。
何これ。そうアリシアがカオスと呼ぶにふさわしい状況を前にげんなりしていると、混乱に陥っていたアンジェリカがスッと静かに、無言で立ち上がった。
「……この泥棒猫ぉぉぉっ!」
「えぇぇぇっ!?」
そして、その勢いのまま、彼女は咲江につかみかかった。吸血鬼の、目にもとまらぬ速さでとびかかるアンジェリカ。しかし咲江は即座に反応し、両手を掴んで組合い、押しとどめる。
「よくもユーリをこんなことに! ナニをしたのです!?」
「何もしてないわよっ!」
「嘘おっしゃい! どうせ欲望の赴くまま、あんなことやこんなことをしたのでしょう!? なんて羨ましい!」
「隠さなくなったわね!?」
完全に錯乱しているアンジェリカ。バチバチと彼女の赤色の霊力と、咲江の桃色の霊力が干渉しあって紫電が舞う。不味い、と思ってアリシアは目を赤く輝かせながら二人を止めにかかった。
「待ちなさい、待ちなさいってば! あぁ咲江先生、これには訳が――」
間に入ろうとしたアリシア。何とかもみ合う二人を止めようと近づいた、その時だった。
重く、鈍い音が響いた。
状況は混沌としていた。そうなってしまったのは単純に不幸だったのだろう。アンジェリカの力学的ベクトルを真正面から受け続けるのは不味いと、咲江が判断して受け流す方向に持っていったタイミングと、アリシアが二人の間に割って入ろうとしたタイミングは、偶然にも一致してしまった。
「あっ」
その光景をリビングの入り口から見ていたアリアンナが思わず声を漏らす。
度重なる不幸の結果、上体を急激に捻った咲江の、その暴力的とも呼べる大きさの母性の象徴は、十分な角速度モーメントを得て、アリシアの頬を打ったのだった。
俗に言う、乳ビンタである。
「……」
運動量保存の法則に従い、十分な運動エネルギーを受け取ってしまったアリシアはバランスを崩し、床に倒れ込む。そうして『信じられない』と言った表情で、打たれた頬に恐る恐る触れる。その様子は、昼間にやっているドラマで、暴力的な夫に打たれた頬を庇う人妻の様であった。
理解が追いつかない、そんな表情で頬を、その存在を確かめるように撫でていたアリシア。だが、それも理解が現実に追いついたころ、ぷつりと、糸が切れた人形の様に床に崩れ落ちた。
「……よくもお姉さまを!」
崩れ落ちるアリシアの姿を見て、義憤に駆られたように咲江に再度つかみかかるアンジェリカ。えぇ、と謂れのない責めを受ける咲江は、思わずどこか呆れたような声を漏らした。
「あぁ、もう、仕方ないっ!」
咲江の瞳が、どこか妖し気な桃色に輝く。その瞳がアンジェリカの深紅の瞳を真っすぐ見据えた。不味い、そうアンジェリカが判断した次の瞬間、彼女はふっ、と、糸が切れたように力が抜け、崩れ落ちる。そんな彼女を咲江は優しく抱きとめると、アンジェリカと同じように力なく床にへたり込んだ。
急に意識を失ったアンジェリカと咲江に、さすがに異様なものを感じたアリアンナは二人のそばに近寄る。触れようとして、二人の輪郭から桃色の霊力が染み出す様に出ているのを見て手を止める。
「……寝てる?」
すぅ、すぅ、と、深く、長い息を繰り返している二人。どうやら、アリアンナには原理はわからないが、咲江はアンジェリカを眠らせたらしい。
一人、アリアンナは取り残される。眠る咲江とアンジェリカに、心が折れ、床に横たわるアリシア。
「……へぇ」
そして、幼児退行した、ユーリ。
アリアンナの瞳が、妖しく、紅い光をぼんやりと纏った。




