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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
02/Chapter:"母性の人"
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27/Sub:"ミッシング・イン・アクション"

「歯磨きはこれを使って」


 そう言って咲江が洗面台の下のドアを開いて、そこに入った籠に乱雑に差されていた内の一本を取って差し出してくる。ビニールの袋に包装された使い捨て歯ブラシ。よく見ると右下に航空会社のロゴが入っていた。ヨーロッパ連邦の、大手の航空会社の物だった。日本で見ることも珍しくない。


「少し前に旅行に行ったときに機内でもらったけど、使わずに持って帰ってきちゃったの」

「あー、わかります」


 特に飛行機での移動自体を旅の一要素として捉えているようなら、なおさらだろう。


「でもいいんですか? 思い出の品だったりしません?」

「大丈夫よ、いっぱいあるし」


 捨てられなくて、と咲江が呟きながら籠を引っ張り出して見せてくる。そこにぎっしりと、化粧品などのボトルの隙間を埋めるように差し込まれているのは同じような歯ブラシやヘアブラシといったアメニティの数々。どれも違う航空会社の物だった。ユーリには、彼女が捨てられない理由も、何となくわかった。

 ふあぁ、とユーリがおおきく欠伸をかいた。どうやら疲れている所に温まったことで眠気が湧いてきたらしい。顔に熱が上がる感覚。そんなユーリを微笑まし気に咲江は見つめていた。

 無造作にビニールの包装を破こうとして、航空会社のロゴを避けるようにして千切り、中の歯ブラシを取り出す。なんてことはない、使用感よりも生産性を重視した量産品で、生分解性プラスチック製の長期間の使用を想定していない、消耗品の白い歯ブラシ。ユーリは同梱されていた一回分の歯磨き粉の、ケチャップのパックの様なビニールパックの封を切ると、絞り出してブラシに載せ、口にくわえた。口いっぱいに広がる、人工的なミントの香りと刺激。小さく眉をしかめつつ、歯を磨きだす。

 しゃこしゃことユーリが歯を磨いている中、横で同じように咲江も歯を磨きだした。ピンク色の歯ブラシ。彼女が手慣れた様子で歯を磨いている一方、ユーリは歯磨きに苦戦していた。普段使っているそれよりも硬く、小さいブラシ部分。そこまで丁寧に磨くことは想定していないのだろうが、いかんせん磨き残しがあると口の中が気持ち悪い。頑張って粗悪な造りの使い慣れていない歯ブラシで口の中を磨こうとする。

 そんな風にユーリが悪戦苦闘していると、一足先に歯磨きを終えた咲江が口をゆすいだ。そしてユーリのそんな光景を見て言う。


「あらあら、ほら、お口開けて」


 その言葉にユーリは『ごくごく自然に』従い、口を開ける。咲江は彼の手から歯ブラシを取ると片手でユーリの顎を優しくつかみ、開いた口の中に歯ブラシを差し込む。


「はいはい、ここを、こうして……」


 しゃこしゃこと子気味の良い音が洗面所に響く。ユーリはなされるがままに口の中を磨かれていく。自分では上手く磨けなかったところに歯ブラシが蛇の様に入り込み、汚れをこそぎ落としていくのはなかなか気持ちがよかった。


「……、はい、お口ゆすいでいいわよ」


 蛇口の水を手ですくって口をゆすぐ。ゆすぎ終わると、咲江がこっちよ、と言いながらユーリの手を優しく引く。そうして階段を降りて一階へ。玄関の横、着いたところは寝室だった。白いベッドが部屋の真ん中に置かれ、クローゼットにはジャケットが駆けられているだけの、あまりもののない部屋。ユーリをそっとベッドに寝かしつけると、咲江はユーリの額を撫でる。


「ほら、良い子良い子……」


 そうしていくうちにどんどん眠気が降りてくる。ユーリの思考はぼんやりと濁り、ベッドのシーツの、甘い匂いに脳がどんどん麻痺してきて何も考えられなくなってくる。

 あれ? さっきなんかとんでもないことされたような……。

 そんなふと、浮かんだ違和感。だがその違和感に気付く前に、甘く、蕩けるような眠りの中にユーリは沈んでいった。

 すぅすぅと寝息を立て始めるユーリ。そんな彼を優し気に眺めながら咲江は静かに部屋を出る。起こしたらいけない。自分もシャワーを浴びねば。彼女にもどっと疲れが湧き出ていた。


「……あら?」


 何か、さっきとんでもないことをしたような……。

 そんな違和感は、一瞬で疲労の泡の中に沈んで、消えていった。

 夜は静かに更けていく。




「疲れましたわ……」


 昼過ぎ。SUVの車内で、後部座席に座ったアンジェリカが車内でぼやく。インターを降りて、下道を走ること三〇分ほど。ようやく見慣れた街並みが窓の外に映ってくる。疲労困憊と言った様子でぼやく彼女を見て、苦笑いを浮かべながら隣のアリアンナが見つめる。本人もやれやれと言った口調でぼやいた。


「いやあ、予定より一日早く終わってよかったねえ」

「本当ですわ……」


 検査自体は内容が変わらなかったものの、検査所などが前回よりも増えており、結果的に人の流れが良くなっていた。おかげで当初の見立てよりも早く検査と資格更新を終えることができたのだった。その結果、こうして予定より一日早く帰ることができた。帰り道に寄ったところで蕎麦を食べて、今こうして家に向かっている。

 アリシアも疲労困憊、と言った雰囲気でSUVの助手席の座席をリクライニングにしてうつらうつらと車の振動を子守歌替わりにしながらまどろんでいた。隣の運転席でハンドルを握るユーリの母親はそんな様子を、どこかほほえまし気な笑みを浮かべて聞いていた。

 まどろみながらアリシアはアンジェリカの声に耳を傾ける。疲れているには疲れているのだろうが、どこか高揚しているような、そんな雰囲気の声色が混ざっている。その理由はぼんやりとした思考の中でも想像がついた。ユーリに会えるのだ。

 アリシアは考える。正直なところ、どこか不安定な様子になっていた最近のアンジェリカにとって、ユーリから離れてこうして過ごすというのはそれだけでなかなか大きなストレスでもあった。おまけに不安定な状態になっていたと思っていたユーリがいつの間にか本来の調子を取り戻した挙句、あずかり知らぬ所で何かをしているようだった。それもあってどこか置いて行かれたような不安感を常に抱いていたアンジェリカであり、正直いつ『ユーリニウムが足りませんわ』なんて言い出すか、と思ったものだ、とアリシアはまどろみながら小さく笑みを浮かべる。車が曲がり、日差しがアリシアの瞼を刺した。おかげで素直に寝れやしない。

 大人しく、帰ってから寝よう、アリシアは大人しく目を開いた。視界に飛び込んでくるのは、見慣れた街中の景色。午前中の青空が広がる。こんなのを飛行日和、って言うのかしらとぼんやりと思った。

 車が住宅街の中へ滑り込む。閑静な住宅街。とてもじゃないがほんの前に怨霊騒ぎがあって機動装甲車が並び、アサルトライフルや霊装で武装したユニオンの機動部隊が押し寄せていたとは思えない。そうして車が止まると、窓の外に見えたのは見慣れた、アンジェリカ達が暮らし始めた元幽霊屋敷だった。


「お疲れ様でした。ユーリイをよろしくお願いしますね」


 運転席のユーリの母親が、ほほ笑みを浮かべながらどこかブルガリア語をにじませながら言う。アリシアは小さく笑みを浮かべ、親指を立ててそれに返すと、ドアを開けて車から降りた。同じようにぞろぞろと車から降りるアンジェリカとアリアンナ。姉妹が門の前に並ぶと、SUVが静かに走り去っていった。


「いやぁ、帰ってきたわねぇ」


 アリシアが疲れたように言う。アンジェリカは本当に、と返す。


「疲れましたわ。ユーリも寂しがっていることでしょうし」

「そうだねえ、ユーリにぃも寂しがってるかもねえ」


 アリアンナがふざけたように言うが、その声色に何やら只ならぬものが混ざっていることに、アリシアは聞いて聞かないふりをする。


「と、ともかく入りましょ、とっととシャワー浴びて横になりたいわ」


 アリシアが地面に置かれたバッグを担ぎ、先頭を切って歩き出す。その後にアンジェリカとアリアンナが続いた。


「ユーリぃ、帰ったわよぉ」


 インターホンのボタンを押し、軽快な電子音のチャイムが鳴った後、どこか間の抜けたような声で玄関横のインターホンに呼びかけるアリシア。しかし返事はない。もう一度押してみるが返事はない。

 アンジェリカが鍵を開け、玄関の扉を開くとシンと静まり返った屋敷が広がる。その空気はどこか淀んでいて、誰かの気配を感じない。


「ユーリぃ、帰りましたわよー!」


 アンジェリカがそう屋敷の中に呼びかけるも、待ち望んだ『お帰り』の声は聞こえてこない。


「買い物かしら。それか外に食べに行ってるのかしら」


 アンジェリカの表情が剣呑なものに変わったことを横目で確認してしまったアリシアが、どこかとぼけるように言った。アンジェリカは靴を履き替え、黙って早歩きで階段を登っていくと自分とユーリの部屋のドアを乱暴に開けた。

 誰もいない。アンジェリカはくんくんと鼻を鳴らして空気中の匂いを嗅ぐが、そこに漂うのはごくわずかなユーリの残り香だけ。


「この匂いの薄さ、出かけたのは四、五時間前……?」


 どうしよう、妹が気持ち悪い。アリシアは青ざめた表情でアンジェリカを見るが、いいや、これは残存霊力か何かを感じ取っているのだと自分で納得する。決して自分の妹が想い人の残り香で行動を把握できるような存在ではないと信じていたかった。


「お姉さま、アンナ。ユーリは午前中いっぱい帰ってきていませんわ」

「い、いや、アルバイトとか、どっかに出かけてるとか、それこそ飛びに行ってるとか――」

「――あ、姉さん、ユーリにぃ飛行免許置いてってる。それにユーリにぃ、どっかに出かける趣味なんてなかったし」


 酷い言われような気もするが、それはそうなので言い返せなかった。どんどん剣呑な雰囲気になってくる空気に、アリシアは冷や汗を頬に伝わせながら事態の収拾を図るが、状況は芳しくない。


「と、とりあえず待ってましょうよ、夕方になれば帰ってくるわよ、きっと!」

「……そうですわね」


 結局選んだのは、問題の先延ばし。きっと帰ってくるだろう、多分、おそらく。そういう気持ちで逃げるようにして部屋を出、自分の部屋に駆け込む。


「……はぁー」


 ようやく一人になったところで、アリシアは深いため息をついた。なんか妹達のユーリに対する執着が強くなっている気がする。アンジェリカは前からとはいえ、特にアリアンナ。何かあったのかしら、と思うが、心当たりがありすぎる。自分も執着してはいないとは聞かれるとそれなりに執着しているとは思うが、さすがにあそこまでではない。


「まぁ、そのうち帰ってくるでしょ……」


 今はとにかく疲れた。検査も、妹も、ユーリのことも。シャワーを浴びるのもなんだか億劫になって、アリシアは床のカーペットに、クッションを枕替わりにして身を投げ出した。安心する、『自分の場所だ』とはっきりわかる匂い。疲労がとたんに湧き上がってきて、アリシアを一気に眠りの世界に引きずり込んでくる。


「……ま! ……さま!」


 どんどん、と硬い音が耳に入ってくる。うるさいわね、眠いのよこっちは、と音を無視しようとするも、断続的に響いてくるその音にどんどん眠りから引き揚げられてくる。完全に意識が表側に引っ張り出されて、眠い眼をこすって目を開くと、橙色の薄暗い光景が目に飛び込んでくる。眠かった脳が思わず一気に覚醒状態になり、ガバっと上半身を起こした。


「お姉さま! お姉さま大変ですわ!」


 跳び上がるように慌てて部屋の入口まで駆け出そうとして、手足に力が入らずに思わず転んだ。ぐえっと変な声がでた。

 何とか這い上がるように立ち上がり、壁に手をつきながら入口まで歩いていくと、部屋のドアを開ける。


「どうしたの――ってなにその恰好は」


 ドアを開けた先。そこにいたのは赤いドレスの、霊服姿のアンジェリカ。その眼は赤く煌々と光っているが、どこか妖しい雰囲気を漂わせている。そんな彼女はわなわなと震える唇で、漏らすようにつぶやく。


「ユーリが、帰ってきませんわ」


 どうやら、事態は思ったより面倒な方向に転がっているらしい。


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