26/Sub:"訓練項目"
若いっていう特権は、そういうことよ。どこかうらやまし気な雰囲気をにじませつつ、咲江は言う。咲江がユーリの頭を撫でると、さらさらとした銀色の髪が指の間を流れた。
「さぁ、リトライしましょうか」
「はい、教官」
そうユーリが答えた直後、唐突に咲江がぱちりと指を鳴らす。視界が一気に裏返り、気が付くとユーリは空中にいた。
「っ!」
飛行術式を起動。一瞬で彼が竜人の姿になり、翼が青白い光を纏って大気に触れる。ふわり、と背中から自由落下が始まり、倒れるように頭上が大地を向く。自由落下により増す対気速度。翼が気流を掴んで、揚力が彼の翼に宿っていく。
飛行術式の高音が響く。噴射光が膨れ上がり、翼が完全に重力の鎖を解いた。機首を持ち上げて水平飛行に。意図せずしてハンマーヘッドターンの様なマニューバを行った。
加速しながら周囲を見回す。限界まで広げていた翼が、対気速度が増していくのと同時にゆっくりすぼめられ、鋭いシルエットを形作っていった。咲江のブラックオウルはどこだ? 目を皿のようにして周囲を見渡すが、ブラックオウルの黒いシルエットは見えない。
『はい、時間切れよ』
脳内に響いてくる声。視界の端に映った黒い影。正面、ヘッドオン。一瞬でその大きさを増した暗灰色の影が横倒しになりながら、ユーリのすぐ左隣をすれ違った。轟音。ソニックブームがユーリの身体を大きく揺さぶり、飛行姿勢が崩れる。
ユーリは一気に推力を増して安定を回復しようとする。咲江のブラックオウルはそのまま九〇度ロールして姿勢が水平に戻った後推力を切ってピッチアップ。機首が空の中心に向くと、くるりと一回転ロールして少し上昇し、そのまま慣性で空中に静止した。ぐらり、と一瞬の安定から崩れ、機首がピッチアップ方向に倒れ、すぐに地面を向く。ハンマーヘッドターン。一八〇度ロールし、ピッチアップして水平に戻り推力最大。ユーリに六時方向から襲い掛かった。
「くっ!」
安定から回復したユーリは咲江に六時方向を差し出していることに即座に気付いた。一八〇度ロールし、天地が逆を向いてピッチアップ。翼が白い減圧雲のヴェールを纏い、凄まじいGがユーリを空に押し付ける。スプリットS。水平に戻ると同時に頭上をブラックオウルが飛びぬけた。
咲江は操縦桿に力を込める。フライトスティックの圧力センサーは即座に反応。機体の動翼と推力偏向ノズルが動く。同時に右のスラストレバーを引き戻し、機体は弾かれるように右にロールすると同時に右ヨー方向にスライド。内側に傾いた逆V字の垂直尾翼の、ラダーが左右に小刻みに揺れる。安定と不安定の境界を反復横跳びするような機動から、咲江のブラックオウルがユーリの後方に滑らかに滑り込む。目の前で目まぐるしく動く水平指示器の中の機銃の照準線が、ユーリに重なった。
『はい、キル』
「――くそっ!」
幻の砲火がユーリを貫いた。視界がひっくり返り、再び二人はブリーフィングルームに戻ってくる。ユーリをどこか楽しそうな表情で後ろから抱きかかえる咲江。ユーリの表情は、どこか不満げだった・
息をついたら、すぐに次に移る。
『はい、キル』
「しまった……!」
『キルいただき』
「……キル了解」
『安定からの回復を意識しなさい。はい、キル』
「くそっ!」
次々と重なるキルに、ユーリの息があがってくる。幾度とかわからない空戦トレーニングの後、ブリーフィングルームに戻ってきたユーリは彼にしては珍しく、肩で息をしていた。ぜぇぜぇという荒い息が誰もいないブリーフィングルームに響き渡る。一方、彼を後ろから抱く咲江は、額に一筋の汗を垂らしているものの、息こそ上がっていなかった。
「今日は、このくらいにしておきましょうか」
「りょ、了解、です……!」
息も絶え絶えにユーリが言うと、咲江は苦笑いを浮かべた。
「最初から大分ハードに振り回しすぎちゃったかしら。ごめんなさいね」
「い、いえ。丁度いいですよ」
咲江の抱擁からそっとユーリが抜け出ると、彼は近くの椅子にへたり込むようにして腰を下ろす。真っ白な、質感の薄い、仮想空間のブリーフィングルームの椅子。どこまでが床で、どこからが椅子なのかよくわからない。座ったときの感覚も、夢の中のそれの様にふわふわとしている。
「とりあえず今日はここらで一旦上がりましょうか。あまり飛ばし過ぎてもよくないわ」
「了解です」
肩で息をしながらもユーリが答える。次の瞬間、ブリーフィングルームの壁が崩れ、質感が完全に消えうせ、どんどんと折りたたまれていくように消えていく。そうして意識が真っ暗な空間に投げ出され、そこでようやく自分が瞼を閉じていることを思い出した。
「……ん」
うめき声の様な、小さな声を思わず漏らしてゆっくりと瞼を開けると、瞼を開けたのに視界が真っ暗なことに気付いた。寝ぼけた様に上手く動かない思考を置いてけぼりにして、視界がどんどん暗闇に慣れてくる。浮かび上がってきたのは、真っ暗な部屋と、自分を膝枕している状態の咲江。
「ん……ん?」
ゆっくりと咲江が目を開くと、淡く桃色に輝く瞳が困惑したように右へ、左へと揺れる。そこで彼女が首を動かして周囲を見渡して、ようやく現在の状況に気が付いた。
「え、なんで真っ暗……って、一時!?」
咲江が驚いた様に見つめる先には、簡素なデジタル時計。その表示は一時一五分を表示していた。驚いた。もうそんなに時間が経っていたのか、とユーリが怪訝な表情を浮かべていると、咲江はどこか困ったような苦笑いを浮かべた。
「夢の中だから時間感覚は完全に主観のそれになっちゃうのよ。よっぽど、楽しかったのかしら」
「……そうですね」
ゆっくりとユーリは上体を起こした。そこで何の気なしに上体を起こそうとして、ぼふん、と咲江の豊満な胸部に下からぶつかった。
「きゃっ」
咲江が小さく漏らす。寝ぼけたような思考のままユーリは邪魔だなぁ、なんて呑気な感想を抱いたが、脳内がゆっくり覚醒状態になっていくにつれて思考が現実に追いついてくる。そうして、今何をしたのかが理解し始められたころ、ユーリの顔はだんだん青くなっていった。
弾かれるように膝枕から飛びのき、両手と額を床にこすりつける。綺麗な土下座の体勢だった。
「「ごごごご、ごめんさい!」」
咲江とユーリ、二人の声が重なった。はっとしてユーリが顔を上げてそちらの方を見ると、目の前で同じように咲江が土下座していた。一瞬何のことか内心首をひねっていると、恐る恐る咲江の方も顔を上げる。
「ご、ごめんね、気が付かなくて」
「いえ、僕の方こそ、すみません」
暗く、外の灯りだけが薄く差し込む部屋の中で、お互いぺこぺこと頭を下げる。この奇妙なこう着状態はしばらく続いた後、すっと我に返ったように止まった。
「……とりあえず、家まで送るわ」
「にしては、遅すぎではないですかね……」
時計を見やる。暗い室内。ドラゴンと悪魔の視力でなければ見えないような暗闇の中ぼんやりと光るデジタル表示を見やる。日付を過ぎた、丑三つ時に差し掛かろうという時刻は、車を出すのも億劫な時間だ。手を煩わせるのも申し訳なかったが、さすがにこの時間に外を歩いて帰ろうとも思えない。飛行術式の轟音を響かせながら飛んで帰るなんてもっての他だろう。それは目の前にいる咲江も同じ考えだったようで、考えあぐねている様子で目の前でもじもじしている。
そうしてしばらくの沈黙ののち、ユーリが口を開いた。
「すみません、毛布か何か貸してください。ソファーで横になって朝まで過ごします」
「――駄目よ! お客さんを、生徒をそんなふうにできないわ!」
どこか顔を赤らめながら言う咲江。じゃあどうしろと、と言わんばかりの怪訝な表情でユーリが咲江を見つめると、彼女はおほん、とわざとらしく咳をしながら言う。
「ユーリ君は私のベッドを使ってくださいな。私がソファーで寝るわ」
「悪いですよ。そんな」
「いいのよ、家主の責任です。シャワー浴びる?」
咲江が立ち上がり、部屋の電気をつけた。暗かった室内が一瞬で白くホワイトアウトし、目がすぐに慣れて視界が戻ってくる。
「じゃあ、シャワー借ります」
「私は親御さんに連絡入れとくわね――この時間に出るかしら」
その言葉を聞くと、ユーリはあー、と思い出すように言う。
「今、両親ともに出張行ってるんです」
「あら? 他に連絡取れる人は?」
「……まぁ、いなくはないですけれど」
思い出すのは父の使い魔の玉江の姿。あのぐうたらな化け狐にどこまで伝言を託していいものか、とも思ったが背に腹は代えられない、とユーリは端末をバッグから取り出し、メールを打つ。内容は単純。
――勉強で先生の家にお邪魔していたら夜遅くになりました。泊まってから帰ります。
これでいいか、なんて思いながらメッセージを送信する。端末をバッグに放り込むと、ユーリは咲江に尋ねる。
「ベッド借りるなら、着替えは着っぱなしってのも悪いですね」
「わかったわ……ってちょっと待って」咲江は少し何かを考えるかの様に上を見ると、困ったような表情を浮かべた。「どうしましょう、サイズが合うの、持ってないかも」
咲江の身長は一九〇近い。一方ユーリの身長は一六五程と、彼女に比べるとはるかに小さい。
「シャワー浴びてて、ちょっと探してくるわ」
そう言って咲江はユーリにシャワーの位置を言うと、とっとっとっと軽やかに足音を響かせながら階段を降りていった。大人しくユーリはシャワールームに向かう。スライド式のドアを開けて洗面所に入ると、置いてあるものの少ない洗面所。ドラム式の洗濯乾燥機に、飾り気のないカラーボックスと、そこに並べられたバスタオル。ユーリは着ているものを脱いで丁寧に畳むと、シャワールームに入った。シャワールームの中はなんということはない。まるでカタログに出てくるような、何の特徴もない一般的なシャワールームで、並べられているシャンプーやコンディショナー、ボディーソープもどれも大手の会社が作っている安い物だった。特にこだわりはなく、ただ安い物を選んだ、そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。
アンジーが見たら怒るだろうな。そんなことを思いながらユーリは頭からにわか雨の様に降り注ぐ湯を浴びた。
かいた寝汗を流し、シャワーを出ようとしたところでシャワールームの曇り窓がノックされた。声で答えると、咲江の声がシャワールーム内のユーリに向けてかけられる。
「ユーリ君、なんとかあったからコレ着て頂戴」
「わかりました」
そうユーリが返事をすると、ガラガラとスライド式のドアを開けて洗面所を出ていく音。シャワールームのドアを開けると、むわりと湯気が洗面所にこぼれてあふれ出す。天井を湯気が這っていく。バスタオルを取って身体の水気を拭いて、着替えを取って気付いた。
「これって」
置いてあったのはジャージで、よく見ると学校指定の教師の紺色ジャージだった。胸元に『S.A』のイニシャルが縫ってある。着てみると、確かにブカブカだが、着れないことはない。バスタオルでぐしゃぐしゃと髪をぬぐって、シャワールームの外に出る。
「あら、着れて良かった」
「少しブカブカですけれどね」
ユーリが言うと、咲江はどこか楽しそうに微笑んだ。




